先日アップした「[仏教対話] スマナサーラ長老に「子どもに将来の夢を持たせるべきか」を聞いてみた」に続き、長老との対談から面白かった箇所をピックアップ。うーん、さすが。
「自分探し」って何ですか?
「自分探し」をする若者は多いです。この言葉、面白い言葉だと思うんですよね。自分はすでにそこにいるのに、その上で自分の何を探すのか。曖昧模糊としていて、考察するのが楽しい言葉です。そんなわけで、スマナサーラ長老に「自分探しって何ですか?」と聞いてみました。
スマナサーラ長老:「自分を探す」という言葉は流行っている表現ですね。お釈迦様も「自分を探検しなさい」とおっしゃっています。
仏教の観点から、至って簡単な答えがあります。自分を探すというのは、ペガサスを探すことなんです。だから動けなくなってしまうんですね。
それよりも…私は大学生の人々が外国に行かなきゃいけないんです、だから必死にバイトしています!と語るのを聞くと、気持ちいい気分になるんですよ。「夏休みはどこにいってみたい」とかも。
彼らは、自分を探しているんじゃなくて、「今しかできないこと」をやっているんですよ。若い人うちにはちゃめちゃ遊んでいる人もいますが、それは今しかできないんです。
「自分探し」という言葉自体が曖昧で、それで滑ってしまうんですね。いろんなことを経験してみる、仕事に行ったらできなくなることをやってみる、その年に相応しいことをやってみましょう。
ペガサスを探すことはないんです。心が刺激を受けて、ワクワクと活発になることをすればいいんです。必要なのは、心がワクワクすることなんですね。自分探しではないんです。
その意味では、「自分」とは「心が生き生きしている状態である」と定義しておけばいいんです。仏教が一般的な社会と違う点は、そこにあるんです。私たちは曖昧な状態で言葉を使いません。
今しかできない、心がワクワクすることをする。自分探しなんかよりも、その方がずっと大切だ、というお話だと思います。「自分」とは「心が生き生きしている状態である」と定義する、というのは実にロックな考え方です。本当にそうですよねぇ。
ふと気付くと、「今しかできない、心がワクワクすることをする」というのは、ぼくの人生のモットーでもあります。将来のために何か我慢するのとか、アホらしいと思っちゃうんですよねぇ。どうせ人間すぐ死ぬんだから、今しかできないことをやらないと、後悔することになります。
先日「仏教は宗教ではない」という対談本を出版しましたが、仏教というのは本来的には、文字通り「お釈迦様の教え」なので、宗教性はありません。「キリスト教」や「イスラム教」ではなく、「論語」や「松下幸之助の名言」に近いものだと理解しましょう。ビジネスや生き方において、普通に参考になる話がてんこもりなので触れたことがない方はぜひ。