自己内対話―3冊のノートから
朝日新聞のような「戦後民主主義」の元祖が丸山眞男だが、彼の学問的著作には「平和憲法を守れ」とか「非武装中立」のような言葉はまったく出てこない。もちろん彼が全面講和や安保反対の運動に協力したことは事実だが、それは彼も弁明するように、運動体の側の都合でリーダーにまつり上げられたのであり、彼自身は直接行動にはほとんど参加していない。

むしろ丸山に若いころから一貫していたのは、左翼への警戒感だった。その原因は、戦前に彼を攻撃した右翼と戦後の左翼に共通の「気味悪さ」を見たためだ。この晩年のノートの半分近くを占める全共闘運動へのコメントにも、そういうトーンが一貫している。いま思えば彼らの「戦後民主主義批判」なるものは無内容な極左冒険主義だったが、丸山はそれを真剣に受け止め、彼らにみられる「党派の論理」を批判した。
ある特殊のグループへから喝采を博しようという心秘かな願望、"言葉"による自慰への衝動――そうしたものへの屈服が、いかにしばしば「党派性」という便利なスローガンでごまかされ、隠蔽されていることか。[…]真実であっても、それを言わないで伏せておく方が「誰か」にとって都合がいいという配慮――これをわれわれの生活から完全に駆逐できないことは、厳粛な悲劇だ。(p.36、強調は原文)
今ではピンと来ないだろうが、丸山のような「進歩派」と全共闘などの左翼をわけた最大の分岐点は、党派性だった。学問的真理を追究するだけでは、実践につながらない。哲学者たちは世界を様々に解釈してきたが、肝心なのはそれを変革することであり、学問も根源的には党派性(イデオロギー)をまぬがれない――このマルクスのテーゼに、丸山も原理的には同意する。

しかし人々を党派に動員するものは学問的真理ではなく、ファナティックな熱狂である。戦後の知識人のうち先鋭的な人々は、党派に身を投じた。その代表が丸山を執拗に批判した吉本隆明だが、今となっては吉本の文章に読むべきものは何もない。そこに見られるのは、時代に流されて時代に迎合する、悪い意味でのジャーナリズムだけだ。

だから丸山が安保闘争で先頭に立ったが、運動に「挫折」して書斎に引きこもったという俗説は正しくない。近代化によっても変わらなかった日本の「原型」あるいは「古層」への関心は、1950年代の講義から一貫しており、彼は近代化=西洋化だとは信じていなかった。

彼が日本の歴史の中で高く評価するのは、貞永式目にみられる自己武装集団としての武士の倫理である。晩年になるほどその評価は高まり、国家(律令制度)に頼らないで自衛する武装集団としての武士に「市民自治」の萌芽を見出している。丸山自身は書斎を出ることはなかったが、それが政治的には無力であることも知っていた。
学問的真理の「無力」さは、北極星の「無力」さと似ている。北極星は個別的に道に迷った旅人に手をさしのべて、導いてはくれない。それを北極星に期待するのは、期待過剰というものである。しかし北極星はいかなる旅人にも、つねに基本的方角を示すしるしとなる(p.115)。
平和は目的であって手段ではない。平和を実現するために武装することを近代国家の原理と考えた丸山が半世紀前に乗り超えた問題のはるか手前で、街頭デモで問題が解決するかのような幻想をもつ人々や、それを煽動するマスコミをみると、実践とは隔絶した学問にも意味はあるのだと思う。