事実、日本の裁判所も慰安婦動員の強制性を認めている。元慰安婦たちが起こした3件の訴訟で、日本の裁判所はすべて「本人の意思に反して慰安婦になった」と認めている。ただし、時効が過ぎたなどの理由で賠償請求が棄却されているだけだ。
それでも日本政府は、路上で女性や子どもを連れ去った「強制連行」の文書がないことに執着している。しかし、そうした公文書の存在が困難なのは、少し考えて見れば分かるだろう。帝国主義という暗黒時代の日本にも法があったからだ。
当時の日本の刑法には「海外移送の目的で略取・誘拐すれば2年以上の懲役に処する」(第226条)という条項があった。慰安婦の強制募集はこれに触れる違法行為だった。どんなに無慈悲な帝国主義の日本でも、厳然たる犯罪行為を公文書に書いて指示することはできなかっただろう。
仮にそのような記録があったとしても、敗戦直後にすべて廃棄された可能性が高い。大量の公文書が焼却されていた事実は日本側の証言でも確認されている。1965年に発刊された『大東亜戦争全史』には次の通り記されている。
「(ポツダム宣言を受諾する)終戦の聖断直後、参謀本部総務課長及び陸軍省高級副官から、前陸軍部隊に対し、機密書類償却の依命通牒が発せられ、(陸軍中央施設が入っている)市ヶ谷台上における焚書の黒煙は8月14日から16日まで続いた」
また、敗戦時に内務省の文書担当官だった大山正氏も以下の通り回想している。
「内務省の文書を 全部焼くようにという命令がでまして、後になってどういう人にどういう迷惑がかかるか判らないから選択なしに全部燃やせということで、内務省の裏庭で三日三晩、えんえんと夜空を焦がして燃やしました」(『続内務省外史』1987年)
その結果、数々の戦争犯罪と人権じゅうりんの事実が煙の中に消えた。中国側が発掘して世に知られることとなった「731部隊」の悪名高い生体実験も、日本の公文書にはほとんど出てこない。慰安婦強制動員の記録も同様だろう。自分たちがすべて廃棄しておきながら、「文書がない」と繰り返すとは、日本政府に良心はあるのだろうか。