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狭山事件の脅迫状は本当に石川一雄の筆跡とは違うのか?

狭山事件は本当に冤罪なのでしょうか? いつまで経っても再審無罪が勝ち取れないのは、本当に裁判官の差別意識のせいなのでしょうか? 支援団体による「脅迫状とまったく筆跡が違います。」という意見広告の疑わしさを探ります。

更新日: 2013年06月23日

wpauliさん

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狭山事件から50年目の2013年、「石川一雄さんを支援する会」が新聞に意見広告を出しました。

確かにこれだけを見れば筆跡は違うように見える

右上がりで縦長の癖字。終筆をやたら右上に跳ね上げる癖がある。行書ふうの崩した書き方。

石川が罪を認めていたころの供述によると、この脅迫状は吉展ちゃん事件の脅し文句を参考にして、あらかじめ雑誌「りぼん」から振り仮名つきの漢字を拾い出して書き写し、それを見ながら書き損じを繰り返すこと3回。4回目にやっと書き上げたもの、という。

四角ばった楷書。やや右上がりだが、脅迫状の字のように運筆を威勢よく跳ね上げていない。

逮捕の2日前、警官2名から自宅に訪問を受け、事件当日のアリバイを訊かれ、警官2名と兄と父に見守られながら10分~20分かけて書き上げたもの。この上申書を出したとき、石川は犯行を否認していた。

なお、この上申書は「事件当日は朝から夕方まで兄と一緒に近所で仕事をしていた」というアリバイを申し立てる内容だが、家族と口裏を合わせた上でのデタラメであることが後に判明した。

まだ嘘のアリバイを主張していた頃に書いたもの。

【21日の上申書との相違点】
・21日には正しく書いていた「川」の字を不正確に「はね」で書いている。
・21日には正しく書いていた「日」の字を、3行目と6行目でも正しく書いているのに10行目ではなぜか平仮名で表記。
・21日にはアラビア数字の十進記数法で二十一を「21」と正しく書いていたのに、二十三を「203」と誤って表記。
・21日には「けいさツしよちようどの」と正しい発音で書いていたのに、「けエさツしちよんどの」と誤って表記。

【脅迫状との類似点】
・「二九08」「五月1日」「五月203にち」など漢数字とアラビア数字を混ぜて表記。

しかし、石川一雄による別の手紙の筆跡を見ると…

テンプレートは他人の筆跡ですが、早退の理由「ずツ」(頭痛)と時刻と日付と氏名は石川一雄の自筆ですね。

脅迫状の「このかみにツツんでこい」と同様、ひらがなで「つ」と書くべきところをカタカナで「ツ」と書いています。

さらに、脅迫状の「五月2日」と同様、漢数字とアラビア数字を混ぜて「五月1日」と書いています。これが本当に単なる偶然の符合?

浦和拘置所で書いたもの。行書ふうの崩した書き方。この手紙を出したときは既にウソのアリバイが崩れ、無罪の主張をあきらめ、犯行を認める自供をおこない、被害者の遺族に詫び状を送っている。

字も文章も5月21日の上申書とは別人のように上達しているが、この間、108日間しか経っていない。

石川当人は「差別と貧困のため、自分はまともに学校で学べなかったから脅迫状を書く力はない」「字は獄中で覚えた」と称していた。しかし実際には逮捕前から勤務先に早退届を書いたり、顧客の名前を漢字で書いたりしていた。また、新聞の競輪欄を読んだり交通法規の本を読んだりしていたとの証言があり、裁判では文盲と認定されていない。

「昭和42年ごろから、私は文字の読み書きを拘置所の中で、独力ではじめたのです。控訴審になってから、外部の人に無罪を訴えるためには、もはや自分自身の手に頼るしかないと思い、猛勉強をしたのです」(石川一雄)

出典部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部編『無実の獄25年 狭山事件写真集』p.87(解放出版社、1988年)

昭和42年ということは1967年。あれっ、おかしくないですか。まだ控訴審が始まるよりずっと前、1963年9月6日の段階であんなに立派な手紙を書きこなして俳句まで作っていたのに?

「浦和にいたときの私は字の読み書きは全く出来ませんでしたので、私共の担当看守の森脇さんという人に、書いてもらっていたので、」(石川一雄)

出典朝田善之助あての手紙(1970年9月24日)。狭山事件弁護団・部落解放同盟中央本部『石川一雄 獄中日記』p.248(三一書房、1977年)より。

石川一雄が浦和拘置所から東京拘置所に移されたのは1964年4月30日。あなたが浦和拘置所で書いていた立派な手紙の数々は何なんですか、石川さん。

石川は、私の家に居るとき、読んでいたものは歌の本とか週刊明星が主でしたが、私が野球が好きで報知新聞をとっていると、この新聞の競輪予想欄を見ては、しるしをつけていたし、私の家でとっている読売新聞も読んでおりました。また、去年の12月ごろ、石川が自動車の免許証を取りたいと言っていたとき、私が免許証をとるとき使った交通法規の本と自動車構造の本を石川に貸してやったら、それを少し読んでいるのは見ました。

石川が養豚場にいたのは1962年の末から1963年3月ごろ。あれっ、石川一雄さんって「差別のせいで文字を奪われた」かわいそうな人じゃなかったの? 週刊誌も新聞も交通法規の本も読めるのに、どこが文盲なの?

申立人(石川)は,起訴からほどない時期において,関あて手紙を始めとして自らの意思,感情を的確に表現する文書を作成し得ているのである。したがって,所論がいうように,本件当時の申立人の国語能力が小学校低学年程度の低位の水準にあったなどとは到底認められない。

本来の筆跡を隠そうとすると、どうしても金釘流の直線的な書体になるようです。

関源三への手紙の筆跡と脅迫状を比べてみる

関源三は石川家の近所に住む巡査で、事件前から石川家と付き合いがあった。はじめ犯行を否認していた石川一雄を自供に導いた中心人物のひとり。

「ら」を拡大してみる

第一筆と第二筆を極端に離して書いている。スナメリの横顔のようにも見える特徴的な「ら」。

「な」を拡大してみる

細長く傾いた「な」。終筆を右上に大きく跳ね上げている。終筆は脅迫状の「子」と書き方が同じである。

「た」を拡大してみる

第一筆を右上に跳ね上げ、第三筆と第四筆をつなげた「た」。

「れ」を拡大してみる

非常に変わった書き方の「れ」。「を」「た」「ん」のようにも見える。

「ま」を拡大してみる

縦長で右上がりでイタリック体のように傾いた「ま」。終筆を右上に跳ね上げている。

「そ」を拡大してみる

非常に縦長で下半分が伸びた「そ」。

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このまとめへのコメント11

  • 水風者さん|2013.07.11

    wpauliさんのまとめ「狭山事件の脅迫状は本当に石川一雄の筆跡とは違うのか?」
    最終更新日: 2013年06月23日 では

    ・・・冤罪論の立場からは「石川さんは正真正銘の文盲だったが、逮捕されてから脅迫状を手本にして字が書けるようになった。だから逮捕されてしばらくすると脅迫状の字と似てきたのだ」と説明されることもあります</b>。ところが石川は逮捕直後に警察から「お前の字は脅迫状にそっくりじゃないか」と言われて「同じ日本語だから似ているのが当たり前だ」と開き直った、と報じられています(『毎日新聞』1963年5月24日夕刊)。・・・

    とありますが
    「冤罪論の立場からは」の部分は、正しくは「故戸谷富之鑑定人の鑑定書では」となります。

    「狭山差別裁判 第5集」 第二四回公判の補記
    (部落解放同盟中央本部編/部落解放同盟中央出版局/1974発行 )より

    ご訂正お願いします。

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