1
この世界はおびただしい悪意に満ちていて、一方には拮抗する善意のおおきな広がりがある。
他人の悪意などは、たいしたことはない。
はねつけてしまえばよいからです。
わざわざ仕返しをするほどのこともない。
だが国家が自分に対して悪意を向けてきたときには、そうはいかない。
国家の本質は国民の誰もが抵抗しえない絶対暴力で、国民に対して国家がなしえないダメージはなにもない。
その国家がきみを戦場へ連れ出そうとする意志を表明したばあい、きみはどうすればよいのか。
その国家がきみを自己の部分としてはめ込もうとしているとき、きみはどうすればよいのか。
国家が、まさにきみの魂に両手をかけて引き裂こうとしているとき、きみには、どんな行動が残されているだろう。
2
国をでてゆく、という方法がある。
日本の外で、何人もの「日本では人間として扱われないので仕方がなかったのです」と述べる、能力のおおきさがよくのみこめないほど優秀な日本人の女の人たちに会った。
いま50代の日本の女の人達には、たとえば民間企業にはいって女でまともに扱われるわけはないので公務員になった、公務員になってすら25歳あたりで本省の課長代理になったあたりから明瞭な差別を感じてアメリカに渡ってきました、というような経歴の人が何人もいる。
公務員の生活はきびしかった、とその女の人は笑っていう。
朝は8時に起きて、忙しい部課ならば帰ってくるのは朝の4時だった。
でもわたしはアメリカに行きたかった。
日本は女にとっては、どこまでも牢獄に似ていたの。
だから仕事のあいまをぬって英語を勉強して留学試験を受けました。
ビジネススクールを出ると、国は帰ってこい、帰らないのなら訴えることも考えると言ったけど、わたしは絶対に帰りたくなかった。
結局、大学が教員として雇うことにしてくれて、日本政府と交渉してくれました。
そこから、初めてわたしは人間として生きられるようになった。
アメリカという国は、あんまり趣味じゃないけど、ここでは、わたしは女ではなくて人間なんです。
わたしには、それだけで十分なのだと思う。
3
Sさんは、日本に「IBM互換機」がはいってきた頃、コンピュータの世界にいた。
当時の「国民機」をつくっていた会社の激しい嫌がらせに遭った。
初めてでかける台湾に行ってある通信機器の互換機をつくってもらおうとした。
今度は役所の嫌がらせにあっった。
「適合マーク」を出すには2年かかります、と言われた。
ええ、個々の機種に対して申請をお願いします。
そうでなければ違法ということになりますね。
Sさんはアメリカに会社をつくった。
日本の役所が何に弱いか見抜いていたからだった。
今度は日本側の会社に大手の卸売会社から明瞭な脅迫の電話がかかってくるようになった。
「それで、どうしたんですか?」と聞くと、
アメリカの既存の会社を買ったのさ、とニヤッと笑ってSさんは言った。
そうしておいて日本語ができる社員を雇った。
「日本の会社が争って注文してきたよ。ぼくの会社をつぶすための仕入れにね」
でもSさんは、もう日本にうんざりしていた。
遊びにでかけた秋葉原でオウム真理教の店を見て、「日本は、だいたいこの辺で破滅に向かいそうだ」と思った。
理由を聞くと「現実がなくなってしまった若い人がたくさんいたからだよ。現実を喪失した社会は、だんだん架空な社会になってゆくしかないのさ」という、
Sさんはアメリカに行くことにした、
そんなバカな、これから儲かるところなんだから、もったいないではないか、と怒る銀行を置き去りにして、Sさんはさっさとアメリカへ旅立ってしまった。
4
Kさんは福島第一事故のあとでも日本にいた。
関西の人です。
奥さんによると「このくらいの放射能でうろたえることはない」という科学者たちを見て鼻で笑っていたそうです。
わざわざ娘さんたちをテレビの前に呼んで、「こいつらのバカづらをよく見ておくといい」と述べた。
「こういう顔をした男と結婚すると後悔するのだぞ」と述べて、そういうくだならい用事で自分たちを呼ばないでくれと娘さん達にすごく怒られていたそうである。
しばらくなりゆきを見ていて、「こりゃ、ダメだな」と考えた。
政府が不正直を押し通すのを見て「放射能より、もっと致命的だろうさ」と奥さんに言った。
困ったことになった。
国民の大多数が政府側に立って、放射能の危険を訴えるひとたちを政府や「科学者」たちと一緒に攻撃しだしたことのほうは別に驚かなかったそうで、
「日本というのは、むかしからそういう社会なんだよ」という。
「みんなで声をあわせて合唱してるうちに、バカみたいなことをほんとうだと信じこんでしまうアホな国民性なのさ」
フクシマ、などとはひとことも述べずに、娘さんたちを言葉たくみに海外の学校へ追いだしてしまった。
本人と奥さんは、「英語を話して暮らすのはめんどくさいし、第一、きみ、そう言ってはわるいが、きみらはでかくて毛深すぎて、おれの趣味にあわん」とチョー差別的なことを言って笑っている。
5
そうして、きみは静かな影のように東京にいる。
「こわくないの?」と聞くと、「考えないといけないんでしょうけど、考えて、これはまずいということになると、フランスに戻らないとならなくなってしまうんで、考えないことにしているんです」という。
日本のハンバーグが好きなんですよね。
ナポリタンも。
週末になると下北沢の一杯飲み屋に行ってエリと一緒に日本酒を飲む。
ガメさんが教えてくれた、富山の立山て酒、おいしいですね。
そう言えば、エリがこのあいだガメさんに教えてもらった大多屋のます寿司とったらおいしかったって。
このあいだ、ふたりで軽井沢のガメさんの別荘があったところの近くにある室生犀星の家に行ってきました。
塩沢湖の野上弥生子の別荘もよかった。
地元の人に聞いたら、この辺も放射性物質がすごくて、地元の人はきのこを食べなくなったのだと言っていました。
ほら、安倍って、ヘンな人がいるじゃないですか?
あれで気がくさくさしてくると、フランスのFM局のオンライン放送やガメさんが教えてくれるスペイン語圏のポップスを聴きながら画集をみるんです。
それで気が晴れたりはしないけど、日本人に生まれついてしまえば、一生なんてこんなもんだろう、という気がする。
フランスの生活のよいところは、11年いればだいたいわかったけど、いまさらフランス人に化けるわけにもいかない。
日本が特別に好きだ、というわけでもない。
でもなんだか、あきらめちゃうほうが気持いいのって、日本人の本質なんじゃないでしょうか?
もう、どうでもいいや、と思ってしまうんですよね。
6
ぼくは自分自身を救いに行かなくては、と、きみと同じ20代のMはemailのなかで述べている。
そんな気がするんです。
ぼくはきっと大学の入る前くらいのどこかで自分を置き去りにしてきていて、過去のどこかで、ベンチに腰掛けて、ぼくをずっと待っていてくれているような気がする。
ぼくがぼく自身なら、こんなに息苦しいわけはない。
こんなに胸が痛むはずはない。
この息ができない感じ、自分がいつもいつも間違っているような感じは、きっと自分自身をいままでの一生のどこかで見殺しにしたからに違いないんです。
ぼくは、どうしても、自分自身を救い出しに行かなくては。
なんでこんなことをガメさんに書いているのかわからないけど、ぼくは必死で、しかもなぜ必死な気持になっているのかもわからない滑稽さで、自分でも笑ってしまうけれど。
ぼくが兵隊にとられたら、兵営に会いに来てくれますか?
会いに来て、だから逃げなきゃダメだと言ったじゃないか、と叱ってくれますか?
ぼくはおおげさに言えば、それだけでも世界と関わってよかったと思える気がする。
ガメさんと話す、という意味ではなくて、自分が向き合える誰かに直接自分に届く言葉でなにかを言ってほしい、という意味です。
ぼくは、正直に言って、いつも建設的であろうとするガメさんの向日性が好きじゃない。
滅びたっていいじゃないか、と思うんです。
ぼくは、いままでの一生で、ほんとうには何も好きになれなかった。
自分自身もふくめて、関心がもてなかった。
だから、
自分自身を救いにいかなくては、と思う。
そうすればガメさんの向日性も受けいれられるかもしれない。
そんな気がします。
7
きみの手紙やMのemailには、いいそこない、意味がとりにくいところがいっぱいあるけど、それが言葉よりももっと言いたいことを伝えてくる。
ぼくも自分自身を救いだしに行かなくては。
たとえ、そんなことは出来るはずがないことだと判っているにしても。
どこかのベンチで私を待っている自分は日本にいるのかと思っていましたが、帰ってきたら日本のどこにも私が居るはずのベンチがあるはずの場所はなくて。懐かしかった故郷というのは過去の私の思いの中にしか存在しないのかもしれないと愕然としました。日本はどうなるのだろう、日本人はどこへ行くのだろうと思い。諦めたくないと思った。官邸前に行くと他にも諦めたくない人達がいて、皆自分の言葉(声をあげていなくても)を持っていたので自分の心がどこにあるか知っている人達がまだ日本にいる事がわかりました。少し安心しました。でももっと悲しくなった。心があるのに心を捨てよと言われるのはどういう事か。心のある普通の人である彼らの存在で、出て行こうとする私には罪悪感が湧き上がるのだけど、やはり私達は残れないでしょう。
どうして今日本にいるのか、どうして今日本に戻ってきたのかと自問しています。