著者は近現代のドイツ語史を専攻とする言語学よりの人で、帯には「25年間150万語の演説データから扇動政治家の実像に迫る」との文句。
ヒトラーの代表的な演説をとり上げてそのレトリックに迫るような本かと思いましたが、演説家、そして政治家としてのヒトラーを時代ごとに追う内容で、思ったよりも伝記的な色彩の強い本でした。
ですから、ヒトラーのことをある程度知っている人には少しまだるっこしい部分もあるかもしれません。ただ、最後まで読むとヒトラーの演説の一番のキーポイントが浮かび上がるちょっと凝った構成になっています。
目次は以下の通りです。
このようにこの本では第一次世界大戦でのドイツ敗戦からヒトラーの政治家としての活動と演説を追っていきます。
ヒトラーに演説に関する天賦の才能があったのは事実のようで、帰還兵に愛国・反共産主義教育を行う「啓発教育部隊」にいた時からその弁舌は目立っていたようです。
また、「もし〜ならば」という「仮定表現」や、「AではなくB」という「対比法」といった、この後のヒトラーの演説に頻出するテクニックもこのころから使っていました。さらに俗語の使用やスローガンの巧みさなども演説を盛り上げました。
このあとヒトラーは1923年にミュンヘン一揆に失敗し、しばらく獄中生活を送ることになるのですが、その間にヒトラーの演説に対する理論はほぼ完成していたようで、政治活動を再開する1925年にはほぼ完成された演説を行っています。
この時期に口述筆記された『わが闘争』にはヒトラーの演説理論が書かれています。
この本では、「書かれたことばよりも語られたことば」、「論理よりも感情」、「ポイントを絞り、繰り返す」、「聴衆の反応から演説内容を絶えず修正」、「演説をするなら朝よりも晩」、「大げさで刺激的な言い回し」など、ヒトラーの演説に対する考えのポイントがまとめられています。
さらにこの本の第2章の78ー95pにかけて、ヒトラーの1925年12月のディンゴルフィングにおけるナチ党集会での演説が詳細に分析されています。
「敵と味方の対比」、「繰り返し」、「平行法と交差法」、「生物学的メタファー」、「誇張法」、「法助動詞」など、言語学的な観点も交えて分析してあるので、ヒトラーの演説の技術(弁論術)が、かなりの域に達していることがわかるでしょう。
しかし、このようにヒトラーの演説は冴えていたものの1928年5月の選挙では得票率2.6%で第9党にとどまるなど、ナチ党の党勢は退潮気味でした。
ヒトラーの演説がドイツ国民の心をつかむには、1929年から始める世界恐慌を待たなければならなかったのです。
世界恐慌によってドイツ経済が大きな打撃を受けると再びナチ党の勢いは復活します。1930年には「全国宣伝指導者」にゲッベルスが就任。ラウドスピーカーや飛行機を使ったヒトラーの遊説活動によって、19320年7月の選挙でナチ党はついに第1党となります。
150万語の演説データの分析によると、この時期の演説では「ユダヤ人」という言葉の登場回数が顕著に減っています。これはヒトラーが広く国民に受け入れられるために反ユダヤ主義を控えたためです。
また、1932年の4月から11月にかけてヒトラーはオペラ歌手のデヴリエントによって発声法や感情の込め方、ジェスチャーなどについての訓練を受けています。これによってヒトラーのパフォーマンスは完成するのです。
このヒトラーのジェスチャーに関しては141ー150pにかけて写真を使って詳細な分析がしてあり、著者は「まさにジェスチャーについてヒトラーは巧みであると言うほかない」と評価しています。
しかし、一方でヒトラーが最初苦戦したのはラジオを使った演説でした。当時、新しく登場したメディアであったラジオについて、ナチ党はそれを最大限に利用したという評価がありますが、最初の施政方針演説でヒトラーは失敗しています。
つねに聴衆の反応から演説をつくり上げるヒトラーにとって聴衆のいないラジオは自らの能力を発揮できないものだったのです。
そこでゲッベルスは演説会場から中継を行うこととし、さらに安価な「国民受信機」を作らせてヒトラーの演説を流すこととしました。しかし、「ラジオで演説ばかり流すと、国民が演説に飽きてしまうことが判明し、遅くとも1935年以降、ラジオ放送では娯楽番組が多く流されるようになった」(154p)そうです。
このラジオというのは実は諸刃の剣であって、ヒトラーの演説を国民に幅広く伝えると同時に、戦争が始まると国民は海外からのラジオ放送を聞くことで本当の戦況を知ろうとします。そのため、ナチス政府は海外放送の聴取を禁止し、「海外放送の聴取は犯罪である」というステッカーをラジオに貼るキャンペーンまで行うことになります(236p)。
戦局が悪化するにつれ、ヒトラーの演説会数は少なくなり、ほぼラジオを通してのもののみになっていきます。
しかし、ラジオを通じた演説というのは過去にヒトラーが失敗したものであり、聴衆からの信頼感と聴衆との一体感を失った演説にもはや国民を鼓舞する力はありませんでした。
そして、ヒトラーの演説とは、実は聴衆があってこそのものなのです。このことについて、著者は最後に次のようにまとめています。
演説は演説であり魔法ではありません。確かにヒトラーの演説はナチ党を押し上げましたが、いくらラジオなどのメディアを総動員しても、国民全体を洗脳することはできませんでした。
この本は、ヒトラーの演説に隠されたテクニックを分析することでプロパガンダの手口を教えてくれると同時に、その限界も教えてくれる本です。
ヒトラー演説 - 熱狂の真実 (中公新書)
高田 博行

ヒトラーの代表的な演説をとり上げてそのレトリックに迫るような本かと思いましたが、演説家、そして政治家としてのヒトラーを時代ごとに追う内容で、思ったよりも伝記的な色彩の強い本でした。
ですから、ヒトラーのことをある程度知っている人には少しまだるっこしい部分もあるかもしれません。ただ、最後まで読むとヒトラーの演説の一番のキーポイントが浮かび上がるちょっと凝った構成になっています。
目次は以下の通りです。
序章 遅れた国家統一
第1章 ビアホールに響く演説―一九一九~二四
第2章 待機する演説―一九二五~二八
第3章 集票する演説―一九二八~三二
第4章 国民を管理する演説―一九三三~三四
第5章 外交する演説―一九三五~三九
第6章 聴衆を失った演説―一九三九~四五
このようにこの本では第一次世界大戦でのドイツ敗戦からヒトラーの政治家としての活動と演説を追っていきます。
ヒトラーに演説に関する天賦の才能があったのは事実のようで、帰還兵に愛国・反共産主義教育を行う「啓発教育部隊」にいた時からその弁舌は目立っていたようです。
また、「もし〜ならば」という「仮定表現」や、「AではなくB」という「対比法」といった、この後のヒトラーの演説に頻出するテクニックもこのころから使っていました。さらに俗語の使用やスローガンの巧みさなども演説を盛り上げました。
このあとヒトラーは1923年にミュンヘン一揆に失敗し、しばらく獄中生活を送ることになるのですが、その間にヒトラーの演説に対する理論はほぼ完成していたようで、政治活動を再開する1925年にはほぼ完成された演説を行っています。
この時期に口述筆記された『わが闘争』にはヒトラーの演説理論が書かれています。
この本では、「書かれたことばよりも語られたことば」、「論理よりも感情」、「ポイントを絞り、繰り返す」、「聴衆の反応から演説内容を絶えず修正」、「演説をするなら朝よりも晩」、「大げさで刺激的な言い回し」など、ヒトラーの演説に対する考えのポイントがまとめられています。
さらにこの本の第2章の78ー95pにかけて、ヒトラーの1925年12月のディンゴルフィングにおけるナチ党集会での演説が詳細に分析されています。
「敵と味方の対比」、「繰り返し」、「平行法と交差法」、「生物学的メタファー」、「誇張法」、「法助動詞」など、言語学的な観点も交えて分析してあるので、ヒトラーの演説の技術(弁論術)が、かなりの域に達していることがわかるでしょう。
しかし、このようにヒトラーの演説は冴えていたものの1928年5月の選挙では得票率2.6%で第9党にとどまるなど、ナチ党の党勢は退潮気味でした。
ヒトラーの演説がドイツ国民の心をつかむには、1929年から始める世界恐慌を待たなければならなかったのです。
世界恐慌によってドイツ経済が大きな打撃を受けると再びナチ党の勢いは復活します。1930年には「全国宣伝指導者」にゲッベルスが就任。ラウドスピーカーや飛行機を使ったヒトラーの遊説活動によって、19320年7月の選挙でナチ党はついに第1党となります。
150万語の演説データの分析によると、この時期の演説では「ユダヤ人」という言葉の登場回数が顕著に減っています。これはヒトラーが広く国民に受け入れられるために反ユダヤ主義を控えたためです。
また、1932年の4月から11月にかけてヒトラーはオペラ歌手のデヴリエントによって発声法や感情の込め方、ジェスチャーなどについての訓練を受けています。これによってヒトラーのパフォーマンスは完成するのです。
このヒトラーのジェスチャーに関しては141ー150pにかけて写真を使って詳細な分析がしてあり、著者は「まさにジェスチャーについてヒトラーは巧みであると言うほかない」と評価しています。
しかし、一方でヒトラーが最初苦戦したのはラジオを使った演説でした。当時、新しく登場したメディアであったラジオについて、ナチ党はそれを最大限に利用したという評価がありますが、最初の施政方針演説でヒトラーは失敗しています。
つねに聴衆の反応から演説をつくり上げるヒトラーにとって聴衆のいないラジオは自らの能力を発揮できないものだったのです。
そこでゲッベルスは演説会場から中継を行うこととし、さらに安価な「国民受信機」を作らせてヒトラーの演説を流すこととしました。しかし、「ラジオで演説ばかり流すと、国民が演説に飽きてしまうことが判明し、遅くとも1935年以降、ラジオ放送では娯楽番組が多く流されるようになった」(154p)そうです。
このラジオというのは実は諸刃の剣であって、ヒトラーの演説を国民に幅広く伝えると同時に、戦争が始まると国民は海外からのラジオ放送を聞くことで本当の戦況を知ろうとします。そのため、ナチス政府は海外放送の聴取を禁止し、「海外放送の聴取は犯罪である」というステッカーをラジオに貼るキャンペーンまで行うことになります(236p)。
戦局が悪化するにつれ、ヒトラーの演説会数は少なくなり、ほぼラジオを通してのもののみになっていきます。
しかし、ラジオを通じた演説というのは過去にヒトラーが失敗したものであり、聴衆からの信頼感と聴衆との一体感を失った演説にもはや国民を鼓舞する力はありませんでした。
そして、ヒトラーの演説とは、実は聴衆があってこそのものなのです。このことについて、著者は最後に次のようにまとめています。
演説の構成と表現法に受け手の心を動かす潜在力がいくらあっても、またその演説の声とジェスチャーを多くの受け手に伝播させるメディアがあっても、受け手側に聞きたいという強い気持ちがなければ、その潜在力は顕在化しえず、受け手を熱くできなかった。政権掌握後にラジオを通じて強制的に聞かされた「総統演説」は、本来持っていたはずの波及力を失い、魅力を急激に落とし、開戦後はヒトラーがいかに巧みな表現をしたとしても、修辞学は現実の悲惨さを隠しきれなかった。(262p)
演説は演説であり魔法ではありません。確かにヒトラーの演説はナチ党を押し上げましたが、いくらラジオなどのメディアを総動員しても、国民全体を洗脳することはできませんでした。
この本は、ヒトラーの演説に隠されたテクニックを分析することでプロパガンダの手口を教えてくれると同時に、その限界も教えてくれる本です。
ヒトラー演説 - 熱狂の真実 (中公新書)
高田 博行