2014年07月06日

「ハロー・キティ」という絶望〜あのすさまじい内戦への無関心に寄せて

7月3日、Twitter上の日本語圏をある写真が席巻した。迷彩服のいかついおじさんが大勢の戦闘員と思しき人々を前にテントで話をしているのだが、そのいかついおじさんの机に、サンリオの「ハロー・キティ」のノートが置かれている。

その画像が大ブームみたいになって、普段はこの「いかついおじさん」が戦っている地でのことなどまったくなんら関心も示そうとしないTwitterアカウントががんがんRT(手動RT含め)している。

しばらくは笑ってみていたのだが、やがてうんざりしてしまった。そして(「せっかく持たれた関心」を持続させることなく)場をしらけさせることを承知で、次のようにツイートした。









いや、わかっている。感心してRTしていたというより、おもしろがって広めていた人々の大半は、彼がシリアのイスラム勢力(であって、なおかつISISやJaNではない勢力)のリーダーだ、などということは、まったく気にかけていないか、そもそも知らない。ごく少数の、「これは禁止されている偶像ではないのか」といった疑問の声や、もっと少数の正確な情報出しを除いては、《(誰だか知らないけど)「軍事」っぽい雰囲気を濃厚に漂わせた中年男性と、キティちゃんのノート》というギャップがおもしろくて、あるいは衝撃的で、場合によっては「日本すげぇ」で、それだけで回覧しているのだ。場合によっては、「気の利いた一言」を添えて。「倒れるくらい笑った」人もいるらしい。

この写真について最初に日本語にしたのはジャーナリストの常岡浩介さんだ。常岡さんはもちろん、写真の中の彼がどういう人なのか、誰に対しどういう戦いをしているかはよくご存知である。私なんかよりずっとよく知っていらっしゃる。







一方で、この「いかついおじさん」が当事者として戦っている内戦による流血は昨日も今日も続いているし、明日もまた続くだろう。

そのことへの関心?

かけらも、見当たらないよ。いつも話題にしている人たちを除いては。いつも関心を払っている人を除いては。

そこには「ハロー・キティのノート」はないからね。

同じことを、米誌Foreign Policyの中東エディター、デイヴィッド・ケナーさんも言っていた。FP誌はよく参照しているし、ケナーさんのことはレスペクトしているが、これまでこんな「連帯感」を抱いたことはなかった(笑)。



ケナーさんの「IFのコマンダーとキティちゃんのノート」のツイートは、ものすごい数のRTを得ている。




このRT数がどのくらいすさまじいかは、ケナーさんがずっと見ている(そして情報をリレーしている)シリア国内カフランベルの非武装の民主化要求運動(毎日、アラビア語と英語でメッセージを掲げて人々が並んで立つというサイバーデモをずっと行っている)のツイートのリレー投稿のRT数と比較すれば、すぐにわかるだろう。







……で、本稿はこの「カフランベルからアメリカへ、7月4日のメッセージ」に指摘されている問題について、そのアメリカが独立戦争を戦った相手の英国から出てきた驚愕の(←と言っておくけど、ま、そうでもないよね、情勢見てきた人には)事実について書いているものの前置きのつもりだったのだが、そっちが書きあがるのを待っているとお盆になりかねないのでこれだけ、とりあえず、アップしておく。

ま、こんなエントリでも書いたほうが、書かないより、シリア内戦でさえ「キティ最強wwwww クールジャパンwwwwww」とかいう「おれたちの国はすごい」というナショナリズムに消費されて終わることに対する抵抗という点ではましでしょ。

あと、余談だけど、こういうの↓あるからね。




最後に、「キティちゃんのノート」があればどこの内戦だろうが何だろうがRTしておもしろがっちゃうぞ(「キティちゃんのノート」がなければ「いやだぁ、テロでしょぉぉ」と言って眉をひそめてえんがちょしてるけど!)という無神経な人々にささげるお歌。(ちなみに日ごろから言ってるとおり、私はこのリリー・アレンという人は大嫌いである。好きで聞きはしないがあんたにささげるためなら聞くさ。)

posted by nofrills at 04:30 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war
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おひとりおひとりに感謝申し上げます。


【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む

EXPOSING WAR CRIMES IS NOT A CRIME!


詳細はてなダイアリでも少し。