「友達がいない、かわいそうな人」という意味の若者言葉「ぼっち」。この連載では、若者世代で急速に自称「ぼっち」が増えていることを紹介してきた。こうした現象の背景や今の若者の人間関係について、2人の専門家に解説してもらった。(原田朱美)

■「ソロ充」に踏み出せず 元横浜市立大教授・中西新太郎さん

 他人に「ぼっち」と言われる前に自分から認める予防線的な自称「ぼっち」は、この世代ならではの態度だと思う。「コミュ障」(コミュニケーション力が低いこと)も同じ使われ方をする。十分に社会性のある子が「私はコミュ障」と言うのをよく見かける。

 「ぼっち」は、元々は友達がいない人という意味だが、これだけ広く使われるようになったので、ぼっちが一種のキャラとして、集団の中で存在を認められるかもしれない。

 「ぼっち学生」に対して、上の世代は「若い時には孤独は必要だ」といった助言をしがちだが、それは、ずれている。彼らはひとりでいられないのではない。「ぼっち=社会性がない人」とレッテルを貼られるのを怖がっているのだ。

 同じひとりで行動する人でも、痛々しく過ごしていれば「ぼっち」で、有意義に楽しく過ごしていればそれは「ソロ充」と言われる。その差は「何を言われても気にしない」と、考えられるかどうか。でも、友人関係を特に重視する今の若者たちに、それはとても難しいこと。みんな、「気にしなければ楽だ」と頭で理解していても、なかなか踏み出せずにいる。

■「友達いる」実感ほしい 東京学芸大教授・浅野智彦さん

 「ぼっち」という言葉が急速に若者に普及した背景には、彼らの人間関係に対する敏感さがある。

 彼らにとって人間関係は二重の意味で重要だ。まず、「身近な人との人間関係があってこその私」という考え方が根本にある。人間関係がなくなると、自分の居場所が無くなってしまう。彼らは濃密な関係を築き、常に関係を確かめあっているのだ。

 かといって、自分と友人との間で関係を確認しあうだけでは足りない。「私には友達がいる」ということを第三者にも認めてもらわないと、「私には友達がいる」ことを真に実感できない。だから、大学の外でひとりで外食するのは平気だが、学食でひとりで食べるのはつらい。

 こうした人間関係のとらえ方は、バブル崩壊後の1990年代初頭から始まった。ただ、「いまの若者たちは人間関係に疲れ切っている」とみるのは違うだろう。彼らにとってはそれが普通のことだからだ。

 「ぼっち」という言葉は気軽に使われるようになっているので、「便所飯」のように深刻な不安や恐怖を感じている学生は、大人が騒ぐほど多くないのではないか。

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