Soka Spirit

断簡11 猜疑の根茎

創価女子学園への寄付金の財源

昭和四十八年、この年の六月に先の告発事件が起き、八月には細井日達管長は出家が世間のことに疎いとし、在家に任せなければならないなどと話していた。ところが、十月に入って起きたあるできごとを境に、細井管長は百八十度、考えを変える。細井管長は以前、創価女子学園(現・関西創価学園)へ大石寺より二億円の寄付をすることを、池田会長に約束していた。ところが、細井管長はこの二億円について、十月十三日、総監・早瀬日慈を通し、

「この二億円は正本堂会計から出した」(記録文書より)

と、大石寺一般会計からの拠出をしなかったことを事後に創価学会へ伝えた。要するに、細井管長は大石寺から学園に二億円を寄付するのが嫌だったのだ。

だが、この処置はまずかったと考えたようで、細井管長は翌十四日早朝、やはり大石寺の会計より出すので大石寺会計より正本堂会計に二億円を補填すると創価学会に伝えた。細井管長は池田会長との約束を違え、二億円の支払いを正本堂会計からおこない、創価学会側の反応を見て、「これではまずい」と判断し、あわてて「訂正」を伝えてきたのである。

この日、正本堂東側車寄せにおいて、池田会長は細井管長に直言する。

「とにかく二人で話し合ったことが壊されるようでは信用できません。これからはみなの前で正々堂々とやります。末端のいる前で……」(同)

「学会を目的としてください。手段とせず、利用しないでください。本当にみなが欲しいのは慈悲です」(同)

この直言について細井管長は、のちのちにおいてまで、

「みんなの前で小僧扱いされた」

と出家、寺族らに話す。この細井管長の言葉を聞いた出家、寺族らは、同管長が池田会長との約束を違えたという事の次第を知らず、池田会長が細井管長にお金を強請したと勘違いする。

だが、この二億円の対応のまずさから、日蓮正宗側は創価学会に誠意を見せる必要を感じ、正本堂建立並びに「創価学会の多年に亘る広布創業の労に対し、宗門は満腔からの謝意を表し」、十億円を贈ることにした。さらに正本堂基金の残高、三億七千六十万円についても、「創価学会に於て自由に使用して頂きたい」旨を「覚書」(昭和四十八年十月十七日付)で表明した。しかし、十億円を贈ることは「満腔からの謝意」ではなく、二億円を「正本堂会計」から出そうとした姑息さを糊塗するものであったようだ。細井管長がこのことを根に持っていたことは、のちにわかる。

昭和四十八年十二月十二日、財団法人日蓮正宗世界センター(のち同国際センター)の設立について、細井管長は同意の意思を伝え、その上で、

「海外に法華講を作らない件は、けっこうでございます」(記録文書より)

と、海外広布を創価学会に委ねる旨、明解な回答を同会に与えている。日蓮正宗中枢は、日本国の法律すらも理解できず、違法に農地を取得したり、道路を簒奪したりしている。その実力からすれば、海外に出て、無知ゆえにどのような事故を起こし、信徒を巻き添えにするか、考えただけでも空恐ろしいものがある。組織力の点からも、人材の層の厚さからしても、世界広布への道筋をつけることなど、創価学会にしかできはしなかった。これはまったくもって客観的な事実である。

細井管長の娘が坊主と駆け落ち

しかし、この世界広布の要となる財団法人日蓮正宗国際センターについても、細井管長は、先の「断簡十」に記した、創価学会側による宗教法人大石寺の会計整備と合わせ考え、創価学会の日蓮正宗、大石寺支配の一環と考えるようになる。

実は、この頃よりさかのぼることおよそ一年前、細井管長の身内に、深刻な事態が起きていた。細井管長の娘の一人は、当時、大石寺に一人しかいなかった理事・早瀬義孔の妻であった。早瀬義孔は総監・早瀬日慈の甥にあたる。細井管長のこの四十近い娘が、東京・中野の歓喜寮で住職を務めていた二十四歳の山田容済と駆け落ちをしてしまったのだ。山田は、住職を辞め還俗するとまで言い張った。

この早瀬夫婦の不仲は、夫・早瀬義孔の乱脈な女性関係に一因があったと言われている。だがこの一件は、単なる痴情のもつれというわけにはいかなかった。細井管長と総監・早瀬の同盟関係、勢力的には妙観会(細井系)と法器会(早瀬系)の結束すらもぶち壊しにするものだった。妙観会の中心人物の一人で、細井管長の娘婿である菅野慈雲は、それまで大石寺に登山するたびに、同じく細井管長の娘婿である早瀬義孔が住職をする本住坊に泊まっていたが、早瀬の離婚後は立ち寄ることさえしなくなり、それにともない妙観会の者たちも早瀬のもとに出入りしなくなった。

細井管長は身内の不祥事に心を痛め、さらには宗内基盤の安定を欠くことによる不安にさいなまれることになる。

この不安が投影されたせいか、細井管長は、それまでの鷹揚な風格を徐々に失い、発言のブレが目立つようになった。〝法主〟の不安定な感情と発言のブレは、宗内に大きな混乱を生む。法器会を束ねる総監・早瀬が東京・池袋の法道院に居住し、創価学会側との窓口となっていたことも災いした。細井管長は総監・早瀬が創価学会と親密になりすぎていると考え始めたようで、創価学会側の真心を尽くした言葉も、細井管長の耳にまともに入らなくなる。その細井管長の心の隙に、創価学会批判の妖言が入り込んでいく。

昭和四十九年三月二十七日、大石寺でおこなわれた在勤式において、細井管長は次のように語った。

「今、我々はたいへんに馬鹿にされておる、坊主、坊主と言って、馬鹿にされておる。馬鹿にしている人が正しいのか、馬鹿にされておる我々が正しいのか、それは一概には言えないでしょう。馬鹿にする人は、いくら馬鹿にしてもよろしい、それを忍ぶということが、僧道である、忍辱の道である」(『蓮華』昭和四十九年四月号)

続いて細井管長は、昭和四十九年三月三十一日の大講堂で開催された妙観会(細井管長の直弟子と譲り弟子の集まり)において、

「自分の智慧を以て大きく法門を展開することは恐ろしい」(『蓮華』昭和四十九年五月号)

と、暗に池田会長を非難。

同年四月二十五日、細井管長は大客殿で開催された法華講登山において、

「この末法万年は、大聖人様以外に、御本仏はないのであります」(同)

と前置きし、次のように説法した。

「それが我々の、日蓮正宗の教義であります。

最近ある所では、新しい本仏が出来たようなことを宣伝しておるということを薄々聞きました。大変に間違ったことであります。もしそうならば正宗の信仰ではありません。正宗の信徒とは言えません。そういう間違った教義をする人があるならば、法華講の人は身を以てくい止めて頂きたい。これが法華講の使命と心得て頂きたい。法華講は実に日蓮正宗を護る所の人々である。日蓮正宗を心から信ずる所の人々であります。

大聖人様以外に本仏があるなどと言ったらば、これは大変なことである。

どうかそういうことを耳にしたならば、どうぞ『それは間違っておる』ということを言って頂きたい。どうか皆さんは、この信仰の根本を間違わないで、信心に励んで頂きたい。広宣流布はしなければならん、けれども教義の間違った広宣流布をしたら大変であります。

法華講はどこまでも、法華講の道を保ち、本山並びに自分の寺院と運命を共にする信心を堅くもって頂きたいことを、今日はこの席からお願いする次第でございます」(同)

これは、ありもしない「池田会長本仏論」を意識しての発言だった。創価学会の弘教拡大に大きく遅れをとり、旧来の信者でありながら日陰者扱いされてきた法華講が、この細井管長の言葉をいかなる心境で聞いたかは、想像にかたくない。

日蓮正宗国際センター設立の趣旨を誤解

細井管長は、世界広布をにらんでの日蓮正宗国際センターの設立・運営についても、同センターをテコに創価学会が日蓮正宗を支配するのではないかと疑い、創価学会側の説明すらまっとうに聞けなかった。

五月九日、北条浩副会長と山崎正友(当時、副理事長かつ顧問弁護士)が細井管長に「目通り」し話し合ったが、そのときも、話はまったく噛み合わなかった。加えて細井管長は、恐るべき発言をする。

「国際センターを作ることは結構だが、学会で作りなさい。日蓮正宗は別個にしてくれ。関係なしにしてくれ。海外では、寺院はいらぬ、坊主は帰される。日蓮正宗はいらないのでしょう。創価学会が増えるけれど、日蓮正宗には関係ない。日蓮大聖人はお喜びかもしれぬが、私には関係ない」(記録文書より)

これに対して北条副会長は、

「そうではありません。日蓮正宗を包括するなどということは絶対にありません」(同)

と述べ、国際センターについて説明したが、まったく理解するふうがなかった。さらに細井管長は、

「だいたい会長さんは、十月に、公衆の面前で私を罵倒した。あのときのことは知っているでしょう。あれでは管長の権威は丸つぶれだ。よその管長だったらあんなふうには、されないでしょう。私が我慢した。ああ言われる覚えはない」(同)

と述べた。これに対して北条副会長は、

「全然、違います。『これだけ身命がけで戦っている学会員を大事にしてください。猊下に欲しいのは慈悲です』と言ったのです。二人きりの話をひっくりかえすから、皆の前で言ったのです。猊下は会長の身命を賭して本山を守り戦ってきたことを、どう考えるのですか」(同)

と反論した。これに対して細井管長は、

「ご祈念はちゃんとしています。これは私の務めですから」(同)

とのみ答えた。細井管長は本山の会計に言及し、

「土地の問題の処理をしてくれているグループは感謝しているが、会計のほうは十億あるかどうかを調べに来ているんでしょう」(同)

と語った。細井管長は前年の十月十七日付で出した「覚書」の中に盛られた創価学会への寄付十億円などを、創価学会側が探しに来ていると邪推していたのだ。それについても北条副会長が、

「とんでもありません。第一、猊下がやってくれと言われてやっていることです。それも本山に万一のことがあったら大変で、去年の廃道問題に引き続き農地のことが狙われているので、本山を守るためにやっていることです」(同)

と反論した。しかし、細井管長の耳に、この道理は入らなかった。

本山外護の大義により会計を整備するため、日夜奮闘している創価学会側の派遣した会計士、弁護士の動きについて細井管長は、道路問題にかこつけ大石寺の余剰金を調べに来ていると考えていたのだ。その猜疑の心中を細井管長は、直接、北条副会長にぶちまけた。これでは、本来、大石寺がやるべき基本財産の台帳の整備までしている創価学会側の誠意は、まったく通じていなかったことになる。なにしろ、大石寺の土地台帳と登記簿謄本をつき合わせると、それが合わず、ために会計士、弁護士らはそれを一つひとつつき合わせ、基本財産の台帳作成を一からやり直していたのだ。大石寺の宗教法人として取りそろえておくべき諸表の不整備は、目に余るものがあった。農地法に違反して取得した土地が五十万坪あり、一部はどうしても処置ができず、大石寺より信用のできる者たちに金を貸し付け、大石寺より違法な土地を買わせて所有権を移転し、そこで耕作をおこなわせ、その利益で土地所有に関わる税金を支払わせることまで面倒を見なければならないありさまであった。

昭和四十八年六月の告発事件以来、懸命に事件への対処をし、おまけに大石寺が本来やるべき、宗教法人として作成を義務づけられている書類の作成までおこなっている——、その創価学会の外護の真心を、細井管長はまったく別次元で見ていたのだった。正本堂を「本門事の戒壇」と信じ供養をし、挙句、その断定は未来に持ち越され、果ては「本門事の戒壇」の下に市道があるとして告発された。創価学会にとってみれば、それだけでも充分、憤怒するに値するところを、僧俗一致のため忍辱の鎧を着、本山外護のために懸命に奉仕していた。だが、細井管長には創価学会の真心はまったく通じていなかったのである。その上、国際センターについて、その設立が創価学会のためだけと認識し、

「創価学会が増えるけれど、日蓮正宗には関係ない。日蓮大聖人はお喜びかもしれぬが、私には関係ない」(記録文書より)

とまで言い放った。この発言を実直な北条副会長は決して許容できなかった。

「創価山立正寺」のはずが、あてつけに「無生山法忍寺」に

この北条副会長と山崎が細井管長と「目通り」したことを受けての報告書が、後年「北条報告書 本山の件」として山崎自身の手によって暴露され、宗内の反創価学会勢力の暴走に弾みをつけることとなる。日蓮正宗の僧らはそのときの状況を知らず、報告書の片言隻句に激怒したのだった。この「北条報告書 本山の件」には、

「九日の本山 お目通りの際、猊下の話は大へんひどいものでした。之が猊下かと疑うほど、また信心そのものを疑いたくなるほど ひどいものでした」(昭和四十九年五月十日付)

「先生が前々から見抜いておられた本質がさらけ出されたように思いますが、あまりにひどいので、かえすがえすも残念です。

広宣流布など全く考えていない、自分たちの私財がふえることと信徒を見下してえばって暮らせれば満足というふうにしか考えられません。

学会が生きぬいてゆくためには、相手に信心がないのなら、うまく使ってゆくか、徹底的に戦って学会の旗を守って死んでゆくか、いずれにせよ先生の最大のご苦心にふれる思いで、決意をかためました」(同)

「土地問題の処理はせざるを得ませんが、会計のことは、処方箋をかいて提出し、引揚げたいと思います。

こんなことになって本とうに申訳ありません。ご指示をうけて斗って参ります」(同)

などと書かれている。

これに対し五月十二日、池田会長は「北条報告書 本山の件」の過激な報告内容にもかかわらず、細井管長に礼を失せぬように、総監・早瀬、教学部長・阿部信雄、庶務部長・藤本栄道と面談し、

「一昨日の話、北条から承った。猊下がお怒りになったことについて、お詫び申し上げてください」(記録文書より)

「会計・土地の件は、正本堂関係ですから続けさせてください。お山の会計を探る魂胆ではないが、鉄桶の構えをしないとあとで苦しむといけないので」(同)

「国際センターの委嘱状は取り下げます。世界広布のことは一昨年の十月十二日に猊下から一切、一任されている」(同)

などと語った。翌十三日、細井管長は総監・早瀬らの報告を受け、

「世界広布を委任すると言ってあるのだから、仕方ない。少しぐらいは」(同)

と話した。だが、池田会長の真心を尽くしての話も、細井管長の猜疑の芽を根本から摘むことにはならなかったようだ。

五月二十一日、東京・八王子の創価大学近くに建立する寺院について、細井管長より「無生山法忍寺」との命名があった。

創価学会側はこの寺の名を「創価山立正寺」とすることで細井管長の許可を得ていたが、細井管長はそのことを忘れ、「創価山立正寺」が創価学会側の増長により勝手に命名したものだと判断し、あてつけにこのような名前をつけたのであった。創価学会側は、細井管長の命名に異を唱えることはしなかった。ところが、細井管長の直弟子の者たち、反創価学会の感情を抱く出家らは、「無生山法忍寺」との細井管長の命名は、創価学会の増長を砕くものであったと、小気味よく噂しあった。それにしても、信徒が寄進した寺に「無生」の名を冠するとは、いかなることであろうか。

細井管長は、五月三十日におこなわれた寺族同心会では、次のように話している。

「最近我々は僧侶というよりも、もっと仏道修行しておる信者が本当の僧伽である、すなわち僧団である。和合僧であると、盛んにいわれております。それはそれでいいんだ、信心するものが和合僧であるのは当り前である。しかし僧侶は出家である。家を出て寺を守り、大聖人の法をお守りしていく時に僧侶は僧侶としての、出家としての本分があるのであります。

それらの言葉に紛動されずに、我々は常に我が道を行くつもりで、大いに信心を強盛にし、できるならば寺へくる人、或はそでふる人、全ての人を教化して、一人でも自分の力をもって折伏し、教化していく、折伏というよりも教化して、一人でも多くこの大聖人の仏法に入らしめるというこころざしを持っていただきたいと思います」(『蓮華』昭和四十九年六月号より一部抜粋)

袈裟を着ているだけで信者より偉いは誤り

翌三十一日におこなわれた寺族同心会大会においても、

「富士宮のこれは信者ではないけれども、ある有名な人は大石寺は前々から言う通りに、軒を貸して母屋を取られる様な事があるならば、大石寺の恥だけではない、富士宮の恥だという事を放言していたという事です。私はそれを聞いて、非常に残念であると同時にまだく我々は僧侶として考えがあまいのではないかと思いました。どうか皆さん、自主的に日蓮正宗の僧侶は例え飯が食べられなくとも、必ず大聖人は袈裟の功徳がある。その功徳甚大である、という事を出家功徳抄にでておるでしょう」(同)

と述べている。なお、ここで細井管長が引いた「出家功徳抄」は偽書である。「出家功徳抄」には次のように書かれている。

「されば其の身は無智無行にもあれかみをそり袈裟をかくる形には天魔も恐をなすと見えたり」

「身は無智無行にもあれ形出家にてあらば里にも喜び某も祝著たるべし」

大聖人の教えのなかに、このようなバカげた論理はない。出家は在家以上に戦うべきである。ただ、ボケっと袈裟・衣を着けているだけで、信者より偉いというのは仏法に反する考えである。

日蓮大聖人が御書(「松野殿御返事」)に曰く。

「受けがたき人身を得て適ま出家せる者も・仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり、法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども法師となる義は一つもなし・法師と云う名字をぬすめる盗人なり、恥づべし恐るべし」(筆者註 同趣旨の御書は多数ある)

【現代語訳】

〈受けがたい人身を得て、たまたま出家した者でも、仏法を学び謗法の者を責めないで、いたずらに遊び戯れて雑談のみに明かし暮らす者は、法師の皮を着た畜生である。法師という名を借りて世を渡り、身を養っていても、法師としての意義は何ひとつない。法師という名字を盗んだ盗人である。恥ずべきことであり、恐るべきことである〉

大聖人の御書に照らせば、「出家功徳抄」が偽書であることは、明々白々である。

細井管長が創価学会に不信感を抱いた挙句、自分の直弟子や譲り弟子の集まりである妙観会、旧来の信者の集まりである法華講、血縁の集まりである寺族に対し、一宗を統率する者としての節度を持たず、感情的な発言をしたことは、宗内に創価学会攻撃の火種を宿すことになった。ことに妙観会の若手たちは、事の前後、経緯をわきまえず、細井管長の無念の思いを晴らすことが大事、とまで考え始める。

しかし、それは本末転倒した話である。もとはといえば、前年の昭和四十八年六月に本山側の土地取得にまつわる違法のため、道路法違反、不動産侵奪罪で細井管長と池田会長が告発された。さらにその上で、農地法違反で告発される情報を得たため、早急に大石寺の会計および諸書類全般を点検整備する必要があったのだ。大石寺の所有する土地台帳と登記簿は一致しない。基本財産すら明確にされておらず、経理帳簿もずさん極まりない。創価学会側は農地法違反で大石寺が家宅捜索を受けることを予想して、大石寺が整えるべき書類を必死で整えていたのである。

一宗の管長でありながら、それも自分が農地法違反という逃れられない罪で告発される危機に瀕しているのに、それすら理解できず、ただ他人が自分の懐に手を入れてきたと邪推し、子ども(妙観会)や家族(寺族)に感情的言辞を吐いたのだった。これがのちに、破和合僧を惹起する一つの要因となる。

細井管長のおかしな言動に宗内が動揺

昭和四十九年六月十三日、創価学会登山部長の平野恵万が、大石寺近くの妙蓮寺(南条家の居宅跡地との伝承あり)住職・漆畑日広と懇談した。この時、住職の漆畑は平野に次のように話している。

「妙観会の連中がだんだん勢力を強めてきている。派閥ができるようになるので心配である」(記録文書より)

「総監はああいう人だから、なんの私心もなく真っ正直にやっているが、妙観会の連中は徐々に総監の系統を追い出そうとしているらしい。誠に嘆かわしいことだ」(同)

「要領のよい者がどんどん出世して、本当に真面目にものを言う者が、なおざりにされているのは悲しいことだ。とにかく今の役員は猊下を恐れて言いたいことも言えないようだ。保身でしょうな」(同)

「妙蓮寺の客殿にしても本堂にしても、池田先生がいらっしゃらなかったら、どうなっていたか。本山では見てくれないし、私個人ではとてもできないし。まったくこのように立派になったのも、先生のお蔭と感謝しております」(同)(筆者註 同寺の客殿、本堂は創価学会の寄進)

六月十八日には、「北条報告書 宗門の件」が書かれた。

この報告書は、海外広布のため、香港・中国への訪問を終えて帰国した池田会長に宛てて書かれたもの。報告書冒頭には、

「広布の前途を大きく開いて帰国された先生に、このような報告を申し上げることは洵に残念なことであり、且つ申し訳ない限りでありますが……」

とあり、

「自分からこんなことを云ったことは黙っていてほしい。ただでさえ、にらまれているのだからと、念を押しながら話してくれたことです」

として、東京墨田区・本行寺住職の高野永済(日海)の注目すべき発言が記録されている。

「法華講の登山会のあと、講頭たちが来て、猊下から大変な話をきいたと云ってきた。『会長本仏論』というような話だった。『とんでもない。そんなことあるわけない。そんな話に紛動されてはいけない。うちはいままでどおりやっていく』と云ったら、講頭たちもすっかり安心した。 ①総監も困っていた。『大日蓮』には載せないといっていた。『大白法』も不穏当なところは削らせた。『蓮華』は猊下がやっているので、手が出せない。頭をかかえていた。 ②猊下は、前は先生が直接いろいろ話をされたが、最近は総監に話をされている。猊下を辞めさせて、総監を猊下にしようと思っているのではないかと、疑っているんじゃないか。 ③妙観会が勢力をもって来ている。そうでない人は、心に不満を持っているが、口には出さない。このやり方も大へん不公平だ。私もいろいろ云ったが、何にもならず、今度は宗会に出るのもやめた。 ④日蓮正宗世界センター(インターナショナル)が出来、その会長に先生がなられるときいた時、猊下は、私がその下になるのかといった。なぜそんな事を考えるのだろう。先生が猊下をないがしろにする筈がない。それに俗のことは坊さんは何もわからないんだから。 ⑤五月三〇日の寺族同心会の時も、猊下はキリキリしていたらしい。何のはなしだったか、皆、見当がつかないようだ。学会と斗えというのかと思ったら、寺を守ってしっかりやれとも云ったし、一体、何のことを云ったのか、と出席者の話だ。

かつて蓮華寺や大乗寺を切り、学会を守った同じ人が、全然今度は逆のことを云うので困ってしまう。

中外日報でさえ、会長先生をあれだけほめているのに、身内でこんなことじゃあ、しようがない」(「北条報告書 宗門の件」より一部抜粋)。

細井管長と総監・早瀬に亀裂が

高野から得たこうした情報の結論として、北条副会長は次のように分析する。

「猊下の心理は、一時的なものではない。今、こんな発言をしたら宗門がメチャメチャになってしまうことも考えないのではないか。困るのは学会だと思っているのだろう。宗門は完全な派閥で、猊下と総監とは主導権争いになっているのではないか。長期的に見ればうまくわかれる以外にないと思う」(同)

「戦術的には、すぐ決裂状態となることは避けて、早瀬理事とのパイプ(山友、八尋が話し易い関係にあります)を太くするとか当面猊下の異常心理をしずめ新しい進路を開きたいと考えます。

ただし、やるときがきたら徹底的に戦いたいと思います」(同)

この「北条報告書 宗門の件」(昭和四十九年六月十八日付)を、後年、反学会活動家僧らが問題視する。だが、この報告書の元となった情報源は本行寺住職の高野である。高野が細井管長の尋常ならざる発言を伝えたことにより、この報告書は書かれた。しかも、この話が入ってくる直前、細井管長は北条副会長に、

「創価学会が増えるけれど、日蓮正宗には関係ない。日蓮大聖人はお喜びかもしれぬが、私には関係ない」(記録文書より)

とまで話していたのだ。このような情勢分析になってもやむを得ないと思われる。北条副会長は、

「猊下と総監とは主導権争いになっているのではないか」

と見ている。

ところで、細井管長と総監・早瀬との間がぎくしゃくし始めたのには、先述した「駆け落ち事件」をきっかけとした、細井管長の娘と早瀬義孔との離婚が大きく影響していたと思われる。細井管長は、娘の不始末を客観視しようとせず、総監・早瀬の甥・義孔との離婚により、総監・早瀬に対してすら憎悪の念を抱いていたのではあるまいか。細井管長は結果、総監・早瀬が率いる法器会に対しても不信を抱く。創価学会側が思いもよらぬ、どろどろした人間模様が宗門の底流にあったのだ。

六月二十一日、東京・向島の常泉寺で客殿新築落慶式がおこなわれた。細井管長は次のように説法した。

「法華経は無一不成仏の経であって、信ずる人は平等に成仏することを忘れては何もならない。一人として、これをいらないとか、坊さんはいらないとか、という偏頗な考えを持つとすれば、それはもはや日蓮正宗の信徒ではない、ということを申し上げて本日のお祝いの言葉といたします」(記録文書より)

同月二十七日、総監・早瀬は、大願寺において山崎に次のように話した。

「猊下の本心はわからない」(同)

「五月十二日も先生のお話はよく伝えた。そのとき、明るい表情で聞いてくれた。ところが、他の人と会ったり、場面がかわると、全くちがった態度になる。この二重性はずーっとです」(同)

「私は総監をやめようと思った」(同)

「私の弟子は早くやめろという。理事からもそう云われた。皆心配している」(同)

「猊下は感情家だが、今度はそればかりではないように思う」(同)

これに対して山崎は、

「我々は純粋にお山を守ってきた。猊下は仏様と思ってきた」(同)

と述べたが、総監・早瀬は、

「山崎さん、それは間違いですよ」(同)

と明言した。山崎には、前年の昭和四十八年、創対連の稲垣を調略して立正佼成会分断作戦を独断で実行に移し、池田会長に厳しく指導された経緯があった。その山崎が細井管長を「仏様」と思うなどということはまったくあり得ず、このような会話をする中で、総監・早瀬の心が細井管長からすっかり離れていることを、冷静に確認したにすぎない。山崎は、日蓮正宗首脳たちの間に大きな大きな亀裂が生じているのを、まざまざと感じたことだろう。

一時は創価学会敵視も収まったかに見えたが

翌二十八日、総監・早瀬は山崎に対し、細井管長の意向を伝えた。

「学会は学会として、独立の宗教法人として独自にやっていただきたい。本山は本山として独自の道を行きます」(記録文書より)

「但し、本山並に各寺院に参詣する人は、学会員も、信者として扱います」(同)

この細井管長の心の揺れを察知し、妙信講がこの頃、「法主の真意は妙信講にあり」として創価学会攻撃を過激化させていったことは、「断簡八」において既述した。

池田会長は事態の収拾に向けて動き出した。先の「北条報告書」などの悲観的報告にもかかわらず、細井管長に自ら胸襟を開くことによって事態の解決を図ろうとしたのだった。七月六日、池田会長は細井管長と面談し、

「私はありのままです。猊下はよく忘れる。そしてすぐ怒る」(同)

と直言した。変におもねらず、誠実に胸の内を語る池田会長の話を聞き、細井管長の疑念も氷解した。

七月十七日、東京・八王子の法忍寺入仏式の際、池田会長は細井管長と会った。この時、細井管長は池田会長に自ら握手を求め、

「水に流しましょう」

と語った。

これで僧俗一致が成ったと思ったが、細井管長は七月二十七日に本山でおこなわれた行学講習会開講式において、妙信講問題について、

「なにも総本山が動揺しているわけではないけれども、いろいろ信徒の間で論争をおこし、又、それを本山に及ぼしてくるというおもいがけない状態になっております」(『蓮華』昭和四十九年八月号)

と、「断簡八」で紹介した発言をし、続けて、

「我々は広宣流布の為に今身を小さくするかもしれない。それでもいいんだ。

唯、大きくなってフヤフヤにふやけてしまったならば、それはもう教義というものは無くなってしまう。又、世間に流布して、世間と共にただ世間世間といっていくならば、正宗というものはどこかへ行ってしまう」(同)

と述べた。行学講習会は所化を対象にもたれたものである。それを考えれば、細井管長のこの発言が宗門の未来に大きな影響を与えることは、容易に予想されるところであった。

もはや修復不可能な関係に……

さらに同日、本山大講堂大講義室で「宗門の現況と指導会」がおこなわれた。この時細井管長は、日蓮正宗国際センターについて話したが、まったくの誤解に基づくもので、自らが昭和四十八年十二月十二日に裁可し、創価学会に許諾の意思を伝えたことを、すっかり忘失したものであった。なお「裁可」以来、国際センターの「名誉総裁」は細井管長が就任することで一貫していた。

「去年おととしの秋くらいから去年を通じ今年の春にかけて、何と云いますか、学会が宗門に対する態度と申しますか、いろいろ僧侶に対する批判的であり、また教義的にも我々から見て逸脱していることが多々ある様に思われます」(反学会活動家僧作成文書より、以下同じ)

「私は北条副会長並びに山崎弁護士が来られまして、その時に私は申し上げました。その時、国際センターをつくると、日蓮正宗国際センターを作るに当って、創価学会と日蓮正宗との真ん中にもう一つ上に日蓮正宗国際センターと云うものをつくると云う趣旨で来られました。私ははっきり断りました」

「日蓮正宗は大聖人の教義を守って、譬え小さくても宜しいからいきます。また今、皆様方のお蔭で大きく成って居るけれども、もっともっと小さくなっても、どなたかまた大きく手伝いしてくれる人があるかもしれない。だから私はどこまでも大聖人の仏法を護ると云ってはっきりと日蓮正宗の上につく日蓮正宗国際センターと云うものを私は否定と云いますか、お断りしたわけでございます」(筆者註 国際センターのあり方については、北条副会長が説明したが細井管長は理解できなかった)

「その時に北条さんが云うには、若し調べさせねば手を分つ、おさらばするとはっきり云ったです」(筆者註 創価学会側のいずれの記録にも、この発言はない)

「また会計を、大石寺の会計も調べる。その会計を調べると云う」

「学会の会計主任の方が来て、三・四人家来を連れてきて調べました。だけど結局、調べたけれども金が有るわけじゃない。正宗に隠した金が有るわけじゃない」

「もっとも何も見るものは無かったんでしょう」

「そしたらば今月六日にまた会長が会いたいと云って来ました。会長に直接、互に会いました」

「それで黙っちゃいましたけれども」

「創価大学の下に出来たお寺の時にも会長が会いたいと云うから部屋で二人で会いました」

「そして共にやっていこうと思って居ります」

「一応、会長との話し合いがついて私の方も一所懸命、各寺院の住職も真面目にやらせよう、間違った事が有ったらばどんどん注意してやって下さい。そしてこっちも一所懸命やらせますからと云う話し合いで握手しました。それで共にやっていこうとなっているんです」

「総代はそれは住職の委任に依ってやる。住職が是の人を総代にして下さいと云って出すからして総代になる。それを逆に今度は総代の方が住職の任免権を持っているという様なとんでもない事になりますね。そういうふうに段々、変になっていった」

「実際、皆様の五月の寺族同心会にて、一人でも御山を守りたい、もうどんどん手を切ってもいいから、百姓してもいいからやろうと、皆お山の連中にもそう云っているんです」

教師たちに対する細井管長のこの発言は、決定的ともいえるものだった。創価学会との関係は、もはや修復不可能に見えた。

池田会長の広布への情熱をどこまで理解していたのか

八月四日、局面打開をめざし池田会長は真意を伝えるために登山する。まさしく忍辱の鎧を着るとはこのことである。細井管長に直接、国際センターのことを懇切丁寧に話して聞かせた。細井管長はようやく国際センターについて理解し、

「よくわかりました。グァム島の世界会議にも招待されればまいります。国際センターの名誉総裁のことも承知しました」(記録文書より)

と快諾するに至った。

八月六日、大石寺理事の早瀬義孔は、以下のように創価学会側に伝えてきた。

「四日のお目通りの後、猊下に会いましたが、すっかりムードが変わり、『これで安心した。肩の荷を降ろした』という感じでした」(同)

「この半年間、板ばさみになって、本当に苦労しました。私達の力では、どうにもならなかったのです。総監さんも力尽きてたおれました。

今、猊下を動かせるのは、先生だけです。もうだめだと観念しかかったとき、先生が乗り出してくださったので、大きく変わりました」(同)

「阿部さんは、今、苦労してみて、『総監さんの苦労がよくわかった』といっています」(同)

ところが、五月、六月の細井管長の発言を聞いた者、その後の教師指導会に参加し細井管長の話を聞いた者たちが、全国的に横の連携を取り始めていた。反創価学会の動きが、宗内において徐々にうねりを増しつつあったのである。

あわてたのは細井管長その人である。同月二十日、細井管長は全国支院長会を前にして、以下のように指示をする。

「五〜六月頃の発言を深刻に受け取りすぎた若い連中や、妙信講の影響を受けた者が暴走しては大変なことになるので、しっかり固めなくてはならない」(記録文書より)

このような時、妙なことが起こった。去る八月四日に福岡県久留米市において創価学会員が御輿をかついだという噂が、細井管長の耳に入ったのである。これについて創価学会に問い合わせがあり、創価学会は同地の組織に照会をした。これは「祭」と名前がついているが、神社とはまったく関係がなく、市民祭であった。創価学会から婦人部が出て踊り、鼓笛隊も参加し、市からは感謝状が贈られた。御輿と勘違いされたのは、学会員がかついだ「地球民族主義」をイメージした出し物であった。このことは教学部長・阿部により、細井管長に報告されたが、

「お祭りのような着物を着ていたそうだ」(同)

と言って細井管長は納得しなかった。

また、細井管長は、この年の夏期講習会で、海外からの登山者を喜ばせるために、一部の者が七夕の飾り付けをしたことについて憤慨していた。謗法だというのである。こういう発言をする時、管長のみならず出家たちの頭には、毎年、大石寺でおこなわれる「節分会」の「豆まき」がどのように整理されているのだろうか。「福は内、福は内」と言って豆をまき、本山には鬼がいないから「鬼は外」と言わないのだともっともらしい理屈をつけるのだが、福運を授かるには御本尊に題目をあげる以外にないはず。一般社会の習俗にかかわる信者の行為を「謗法」だなどと言う時には、出家の心に在家に対する異質な思いが宿り始めていると見るべきである。

九月二日、大石寺雪山坊において、学会と宗門の連絡会議がおこなわれ、創価学会本部に安置されている御本尊を謹刻する件につき、細井管長の許可がおりた。このことは翌三日、宗門側より創価学会側に報告された。しかし、この件ものちに、「学会が勝手に御本尊を模刻した」「池田会長は大謗法を犯した」として問題となった。このため、創価学会員の中で脱会する者が少なからず出た。

同様に、創価学会が勝手におこなっているとして、のちに問題にされた「ペンダント型お守り御本尊」についても、同年十一月二日、教学部長・阿部を通して、創価学会側に細井管長認可の伝達がなされている。

翌昭和五十年一月二十六日、グァム島において「第一回世界平和会議」がおこなわれた。そこには、池田会長の世界広布への熱情に触れた、五十一カ国・百五十八名の純真な信者たちの代表が集まっていた。細井管長は次のように話した。

「仏法流布は〝時〟によると大聖人は仰せであります。しかし、その時はただ待っていれば来るものではありません。

このような、世界的な仏法興隆の時をつくられたのは、まさしく池田先生であります。池田先生のご努力こそ、最も御本仏のご賛嘆深かるべきものと確信するものであります」(昭和五十年一月二十七日付『聖教新聞』)

「この地球に世界平和の潮流を巻き起こさんと、池田先生は率先して働かれております。どうか、今日よりは、池田先生を中心に、ますます異体同心に団結せられ、世界平和の実現を目指してください」(同)

細井管長はこのように祝辞を述べたが、世界広布を現実のものにしようと死闘を繰り広げる池田会長の熱情をどれほど理解していたかは疑問である。