32号・撫順戦犯管理所にて。戦犯たち。(1956年8月)
前回に引き続き、有罪となった戦犯たちの管理所での表情を見る。前回は撫順戦犯管理所の中庭でくつろぐ戦犯たちであったが、今回は太原戦犯管理所の戦犯たちである。
写真の持ち主であった永富博道さんはすでに亡く、時期や場所を特定するのは難しいが、写真に太原組の人々(左から二人目が城野宏)が写っていることや背後にある扉(上部に格子目のある扉)が太原戦犯管理所にあった扉であることなどから場所は太原管理所の中庭であると察せられる。
季節は戦犯たちの着ている服装からして夏であろう。また、中央でハーモニカを吹いている戦犯の足元に年端もいかないオカッパの少女がいることから、時期は日本から太原に家族が面会に訪れた1956年7月下旬だと推測できる。
この少女は恐らく戦犯として太原の軍事法廷で有期刑を受けた菊地修一(元陸軍大尉)の娘さんで、リエちゃんという名の女の子である。菊地の妻のシサキさんが病床にあったため、たった一人で面会のための訪中団に福岡から参加した。太原組の人々の多くは1950年前後まで家族と暮らしていたので小さい子どもがいる場合があるのだ。
中国との国交もない時代、一人で戦犯の父親を訪れたリエちゃんのことは当時も大きく報道された。1956年7月15日の朝日新聞に次の記事が写真つきで出ている。
「リエちゃん、羽田へ/中共戦犯の父へ会いに/(略)シサキさんが病気でゆけないので、リエちゃんがお母さんに代わって面会にゆくこととなった。この話をきいた日本航空のスチュワーデス佐々木喜久子さん(二六)らが『せめて福岡―東京間を気持のよい空の旅で…』と同社スチュワーデス百人に呼びかけ運賃を負担、この日朝、板付飛行場から付添ってきたのだが、リエちゃんははじめての空の旅に泣きべそ。『まだ着かんと』と最初はしきりにぐずった」
7月25日の父娘の再会には新聞記者もカメラをかまえていただろうが、彼らの期待したような光景は見られなかった。朝日新聞から引用しよう。
「リエちゃん父を抱かず/(略)リエちゃんは中国服の女通訳に手をひかれ接待室に入ったが『写真で見た父ちゃんじゃない』とダダをこねた。菊地さんはとまどいのなかにも、生まれて二日目に太原で別れたきりのわが子にうえるような視線を注ぎ続けた。菊地さんは妻から送られたリエちゃんの最初の写真をとり出して『リエちゃん、この子はだぁれ、父ちゃんの子供だよ』としきりにあやすが、それでもリエちゃんは近寄らない。気をもむ管理処側が菊地さんにアメ玉を渡し『リエちゃんおいで』と誘わせたが、それも空しく、この日父と娘はついに相抱かず、さびしい面会だった」
永富さんの著書『白狼の爪跡』を見ると次のようにある。
「(裁判から)何日か過ぎたある日、判決を受けた九名の家族だけが日本から面会に来た。(略)家族達が滞在中に太原に収容された日本人全員が撫順の戦犯管理所に移動することになった。太原での収容所生活最後の日にお別れ演芸会が中庭で催された」
管理所時代の菊地修一
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してみると、今回の表紙写真はその時の演芸会の模様であろう。ハーモニカを吹いているのは眉の形と細い肩幅から菊地修一と見受けられる。ついにリエちゃんから父親として認められたのだろう。彼の奏でたハーモニカの音色はどのようなものだったろうか。
(編集部:熊谷伸一郎)
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