社会

集団的自衛権を考える(20)【記者の視点】「戦争ができる国」の響き=報道部・石橋学

 中学3年の娘の期末テストが近づいていた。社会科で新聞記事から穴埋め問題が出るという。

 父の出番である。

 「集団的自衛権、これ必ず出るから」

 一応、説明しておく。

 「日本が戦争のできる国になるんだよ」

 ヤマは的中。娘は解答用紙に「戦争」と書き込んだ。

 答えはバツであった。正解は「武力行使」。確かに記事は、こう書かれていた。

 〈集団的自衛権は武力で他国を守る権利で、自衛隊は海外での武力行使が可能になる〉

 「戦争」とは書かずに「武力行使」と書く新聞-。これは何を意味しているのか。

 ■隠される本質

 できなかったものが、できるようになる。他国の戦争に参加する可能性が「ゼロ」から「有」に変わる。いくら行使は限定的だと強調しても、戦後日本の歴史的な大転換に違いはない。

 解釈改憲という手法、立憲主義の破壊という問題点も指摘される。

 だが、それ以前に言わねばならないはずだ。

 戦争は人を殺傷することを正当化し、合法化する。それは人間の否定である、と。

 ここまで書き、スクラップブックに貼られた自分の記事に愕然(がくぜん)とする。

 反対運動を続ける県内の市民グループを取り上げた6月の記事で、集団的自衛権とはあくまで他国を守るためのものだと説明し、こう続けた。

 〈直接侵略を受けた場合、個別的自衛権で対処できると憲法で認められている〉

 安倍政権により集団的自衛権が必要な事例とされた多くが、個別的自衛権の発動で対処でき、従って新たに集団的自衛権を認める必要はないと説明する趣旨だった。

 記事に登場いただいた女性から届いたメールには、こうあった。

 〈憲法は自衛権を認めていましたか。それこそ歴代内閣が勝手に解釈改憲で拡大して決めてしまっていたのではないですか〉

 確かに9条2項は戦争放棄をうたい、国の交戦権は認めないと明記する。一方、政府見解は自衛権のための措置、個別的自衛権の発動は認められているとする。あくまで必要最小限度の範囲であり、「戦争」ではなく「武力行使」なのだというロジックによって、だ。

 その理屈を自明とし、乗っかり、「戦争」「人殺し」とは書かずに「対処」と書いた私-。

 戦争の2文字を使うことを避け、結果、本質は隠される。わが胸にも薄れゆく嫌悪を映し出していた。

 メールの女性は生後間もなく、父を出征先で亡くしていた。落差を思う。反戦・平和運動の難しさに直面する市民グループの戸惑いをまとめた記事は、こう締めくくられていた。

 〈戦後69年、不安をあおられ、吹けば飛ぶような平和であったのかもしれないと思い至り、立ち尽くす〉

 それは私のことだった。

 ■不幸誘う暴力

 戦争ができる国になる-。

 この一文はいま、どう響くだろう。

 人を刺したことがある、という男性に話を聞いたことがある。

 「瞬間、手応えはブスっと硬い。それも最初の一皮だけで、ナイフはそのあと、ズブズブーっと体の中に入っていった」

 18歳の夏。若者グループに因縁をつけ、持ち歩いていたナイフで左胸を突いた。警察署に出頭すると「5センチずれていたら死んでいた」と言われた。

 母子家庭だった。虐待を受けていた。世はバブルを謳歌(おうか)していたが、貧しかった。母は言った。「起きているからおなかが減る。ずっと寝てなさい」。被害者意識が染みついていた。暴行、傷害で逮捕を重ねるたび、何も感じなくなっていった。

 困窮は犯罪に結びつく、と言いたいのではない。

 息をのんだのは、次のような言葉だった。

 「ある人に言われた。『自分が幸せじゃないと、人のことも平気で不幸にできる』と。自分の頭では言葉に表せられなかったが、その通りだった。親から暴力を振るわれていたから、同じ事を人にしても構わないと思っていた」

 それから10年余、いまは外回りの仕事に就く男性は続けた。

 「度合いは違えど、身の回りにもいるはずだ。何かにイラついて、言動が攻撃的な人が。私も仕事先でしょっちゅう怒鳴られる。犯罪は極端な結果だが、日常的に問題を抱えている人は少なくない」

 気持ちが分かるからこそ映り込むこの国の心象風景。人を傷つけることへのためらいが薄らげば、暴力への誘(いざな)いに抗(あらが)う力も失われゆく。

 そこではジャーナリズムが唱える「平和」の2文字も空虚に響くばかりだ。

 ■堂々巡り続け

 午後5時20分、閣議決定をニュース速報が伝え、ほどなく安倍晋三首相が記者会見に立った。

 「日本が再び戦争をする国になるというようなことは断じてあり得ない」

 こうも言った。

 「平和国家としての日本の歩みは、これからも決して変わることはない」

 やはり問い続けなければならない。

 個別的であろうと、集団的であろうと、自国を守るためなら銃口を向けてよいのか。すべての戦争は「自衛」の名の下に始まり、拡大していったと歴史は教えてくれている。

 最小限度ならよいのか。1人の犠牲でも、残された人にとってはすべてだ。

 戦後日本は大転換を迎えた、と書いた。ならば、報じる側も変わらねば、無力のままだ。

 何があっても人を傷つけてはいけないよ、いじめはいけないよ、と子どもたちに教えるように、人を殺す側になってはいけないと書いてはいけないのか。

 たやすくは変われまい。私も、そうだ。だから歴史の反復は繰り返し、いまここに繰り返しの一歩を踏み出した。

 だが、少なくとも自覚しておきたいと思う。前例踏襲という思考停止、忙殺という名の惰性、冷笑という諦め、そして怠惰な自分を。そうであるからこそ、パソコンに向かい、キーボードをたたき続けなければならないという堂々巡りを回り続けるしかない。

【神奈川新聞】