策を持つ男
開けていた窓から差し込んできた朝日を顔に受けて、ハンスは目を覚ました。
周りに農村が多いせいか、この街の朝はとても早い。
日が昇るころには皆起き出し、仕事を始めているのだ。
ハンスはベッドから起き上がると、ゆっくりとストレッチを始めた。
寝ている間に固まった体の各部位を、入念に伸ばしていく。
ベッドとテーブルがあるだけの狭い部屋ではあるが、そのぐらいの運動が出来る程度の広さは有るのだ。
昨日は夜中に凄まじい気配を感じて一度起きてしまったが、それ以降はぐっすりと眠る事ができた。
そのおかげか、体調は非常にいい。
ハンスは寝巻きから動きやすい略式軍服へと着替えると、ベッドに立てかけてあった剣を腰に差した。
ほかはすべて地方役人用の既製品である中で、剣だけはハンスが特別に作らせたものである。
身支度を整えると、ベッドの上に寝巻きや洗濯するものを乗せて置く。
これを回収して洗濯に出すのが、従者、つまりミツバの朝一番の仕事なのだ。
ハンスは部屋のドアを開けると、まっすぐに隣の部屋へと向かった。
小さくため息をつくと、ハンスは扉を勢いよく開く。
部屋の中に入ると、あられもない姿をした女が一人ベッドの上に転がっていた。
さも大切だと言わんばかりに何かを抱きかかえ、幸せそうに寝息を立てている。
ハンスはおもむろに拳を握り締めると、すばやく女の頭に振り下ろした。
「いってぇえええええっす!」
実際はそんなに痛くないのだろうが、突然の衝撃に女、ミツバはベッドの上でじったんばったんと大暴れする。
もう慣れっこなのか、ハンスは至極冷静な表情を保っている。
「何をやってるんだ一体。いつも言っているだろう、従者というのは騎士よりも早く起きておくものだ。それに、今日は各村に走れと言ってあっただろうが。
自衛隊の面子が集まる前に準備しろ」
「うーっす」
ミツバは殴られたところを撫でながらそういうと、のっそりと起き上がった。
ちなみに彼女の服装は、短パンとTシャツだ。
それでも殆ど色気を感じさせないのが、すごいところだろう。
のそのそと立ち上がったミツバを確認すると、ハンスはさっさと部屋を出る。
本来朝起こしに来るのは従者であるミツバの仕事であるはずなのだが、その仕事が遂行された事は未だかつて一度も無かった。
ミツバはほうっておくと昼まで寝倒すためである。
ほかの皆と同じく日が沈むと同時に寝ているはずなのだが、延々寝ているのだ。
寝る子は育つと言うが、いくらなんでも寝すぎだろう。
ミツバの部屋を出てドアを閉めると、丁度ハンスの部屋をはさんだ反対側のドアからレインが出てくる所であった。
既に略式軍服で身を包み、腰にはハンス同様剣を下げている。
「おはよう。よく眠れたか?」
「おはようございます。 いえ、それがその、あまり寝付けませんでした」
言葉通りあまり寝ていないのか、レインは若干やつれた様子だった。
いつものように引き締められた表情をしているのでわかりにくいが、いくらか目の下にクマが出来ているようにも見受けられる。
それも無理からぬ事だろう、と、ハンスは思っていた。
何せレインは、強化魔法を使いずっと走り通して来たと言うのだ。
ロックハンマー侯爵の城からここまでは、馬を走らせても三日はかかる。
レインはそれを、たった二日で走破してきたのだ。
尋常の疲れではないだろう。
魔力の消費も考えれば、数日は休養が必要なはずである。
「そうか。ロックハンマー侯爵殿の城から走り通しだといっていたもんな。今日はゆっくり休んでくれ」
「キョウジ殿に回復して頂きましたから、疲れは大方取れました。そちらの疲労は残っていません」
だから、仕事をさせてくれ。
そう言いたげなレインを見て、ハンスは苦笑をもらす。
「ガキの時分から変わらないな、お前は。疲労は抜けても、気疲れなんかは残っているもんだ。そんな顔で横に立たれたら、心配で俺が仕事にならん。あまり無茶をしないでくれ」
そういいながら、ハンスはレインの頭をぽんぽんと撫でる。
ガキの時分、と言うように、ハンスとレインの関係は、極子供のころからのものである。
幼馴染と言ってもいいかもしれない。
頑張り過ぎてすぐに無茶をするこの少女を、ハンスはいつも危なっかしいく思っていた。
レインを騎士にしたのは、ほかならぬハンスである。
それでも、いや、だからこそ、ハンスはレインの事を兎角気にかけていた。
彼女の才能はこの国に必要なものだ。
だが、あまり無理はさせたくない。
矛盾するようだが、それがハンスの偽らざる気持ちであった。
「ずっと一緒に居たんだ。調子が良いか悪いかぐらいなら、顔を見ればわかるさ」
「そう、ですか」
レインは僅かに頬を赤くして、自分の顔に手を当てる。
ハンスはそれを、自分に調子があまりよくないのを見抜かれ、恥じ入っているのだと判断した。
生真面目でいつも一生懸命なレインの事だから、弱みを見せたのを恥じたのだろうと思ったのである。
勿論、実際は少し違っているわけだが。
「あ、レインさん。ちーす」
「ああ。おはよう」
ハンスの後ろからレインに声をかけたのは、ミツバだった。
部屋のドアから顔だけを出しているミツバに、レインも返事を返す。
そのレインの眉根が僅かに上がったのを見て、ハンスもくるりと後ろを振り返った。
目に入ってきたのは、寝癖だらけの頭でコントのようにぐっちゃぐちゃにジャージを着たミツバの姿だ。
全身全霊でまだ眠いと言うことを示すように頭をかきながら、大きくあくびをしている。
「シャキッとしろ、シャキッと」
「うーっす。洗濯物もってくっすねー」
一切シャキッとしていない声で返事をしながら、ミツバはハンスの部屋に入っていく。
洗濯物を回収するためだ。
本来はついでに掃除などをするのも、従者の仕事であったりする。
だが、ハンスは長い事一人でこの街に赴任していたせいか、その殆どを自分でやる癖が付いていた。
それでは教育にならないからと、こうしてわざとミツバに仕事を残しているのだ。
「まったく、普段は邪魔になるほど元気なんだが寝起きはアレなんだよなぁ」
「あの小娘ハンス様の部屋にさも当然のように……! どうしてあのときに首を落とせなかったの私……!」
ぼやくハンスの横で、レインが小声でつぶやく。
ちなみにレインの声は本人にしか聞こえないほどボリュームを落としているので、ハンスには聞こえていなかったりする。
たとえ耳を澄ましていたとしても聞こえないだろうこのつぶやきは、レインの癖の一つであった。
おそらくこの音を拾えるのは、超身体能力を持つミツバぐらいだろう。
「ハンスさん、起きてますか?」
そんな声と共に階段から顔を出したのは、キョウジだった。
彼は街から離れたケンイチの牧場に寝泊りしているため、この時間に街にいるのは非常に珍しいことであったりする。
ハンスはキョウジのほうへと向き直り、軽く手を上げて声を返す。
「ああ、起きている。おはよう」
「おはようございます。ああ、レインさんもおはようございます」
「おはよう」
「それであの、朝早く申し訳ないんですけど例のあれ準備できたんですよ。昨日朝一は避難所の建設現場行くって言ってましたけど、どうします?」
キョウジの言葉に、ハンスは表情を真剣なものへと変えた。
そんなハンスを見て、レインも表情を引き締める。
「わかった。先にそちらを見ておこう。時間はかからないだろう?」
「もう用意してありますから」
「なら、すぐ行こう。レイン、お前はゆっくり休んでろよ」
「レインさん、失礼しますねー」
ハンスはもう一度レインの頭を撫でると、階段へと歩き出した。
それを見たキョウジは、レインに挨拶をして急ぎ足で下へと降りていく。
こうして、ハンスの忙しい一日はまた始まったのであった。
「ハンス様に頭を撫でていただいた……あた、あ、ああああ、頭をっ……!」
睡眠不足で心のバリケードが崩れかけているところへの不意打ちの接触で、レインは崩壊寸前になっていた。
夜通しもんもんとしていたのも、かなり利いていた様だ。
ただ、見た目的には僅かに眉根を寄せている程度であり、表情からその心情をうかがい知る事はできない。
長年培ってきた鉄壁の無表情は、他者の追随を一切寄せ付けなかった。
レインの「遠話」は、双方向に会話を可能にする能力だ。
逆に言うと、双方向でしかお互いをつなげることが出来ないものである。
一方的に相手の音を聞く、と言う事ができないのだ。
繋げる時、相手の許可を得なければいけないこともあり、盗聴のような使い方は不可能なのである。
レイン自身相当に訓練を積んで見たのだが、残念ながらその特性を変えることは未だにできていなかった。
やはり、もう一度一方通行の、せめて音を拾うだけでも出来るように訓練をしてみようか。
そんなどす黒い考えがレインの脳内を汚染しているのだが、表情はやはり一切変化していなかった。
レインの無表情は、文字通り鉄壁なのだ。
「あれ、ハンスさんもういったんすか?」
廊下に一人たたずみレインに声をかけてきたのは、洗濯物を抱えたミツバだった。
レインはすぐに思考を引き戻すと、ミツバへと顔を向ける。
「キョウジ殿と一緒に出かけたぞ。お前も急いだほうがいい」
「うーっす」
何事も無かったかのようなきりりとした表情のレインに、ミツバのやる気のささそうな返事を返す。
そして、盛大に欠伸をかますと、眉根を寄せてレインをじっと見つめた。
「どうした?」
「レインさん、今日お休みなんすよね? ハンス隊長が休めっていってたっす!」
「ああ。そう指示されたからな。休むつもりだが」
レインの言葉を聴き、ミツバはうんうんと何度もうなずいた。
そして、持っていた洗濯物を、おもむろにレインへと押し付ける。
「……ん?」
「どーせひまなんすから、これよろしくお願いするっす! だいじょうぶっすよ、洗い場に出すだけっすから。宿ってべんりっすよね! じゃあ、自分は朝ご
はんを食いに行ってくるっす!」
それだけ言うと、ミツバは片手を挙げてさっさと階段を下りていった。
残されたレインの腕の中には、ミツバとハンスの寝巻きだけが残されている。
そう。
ハンスの寝巻きである。
この際ミツバのはどうでもいい。
ハンスの、寝巻き、なのである。
それも、使用済みの。
表情こそ僅かにしか変化していないものの、レインの手はまるで突然世界を揺るがすほどの秘宝を託された少年のように震えていた。
実際、レインにとって今手にしているものは、それぐらいの価値があるモノなのである。
口から飛び出しそうな心臓を何とか落ち着け、レインは洗い場へと向かう事にした。
その前にやんごとなき事情で自室へと戻らなくてはいけないのだが、それは仕方がない事なのだ。
レインは周囲に人目がない事を何度も確認しながら、自室のドアを開ける。
いそいそと部屋の中に入りながら、レインはミツバへの評価を頭の中で改めていた。
はじめは、非常に気に食わない小娘だと思っていた。
だが、今はなんだか親友に成れそうな気がしていたのだ。
コウシロウの店を訪れたハンスは、地下室へと案内された。
巧妙な隠し扉の奥に作られた其処は、コウシロウ曰く事務所なのだという。
クロスボウやらナイフやら金属の筒などが置かれており、とても尋常の使い道が成されているスペースとは思われない。
まあ、当人が事務所だというのだから、あくまでも事務所なのだろう。
外からの明りは一切入ってこないらしく、朝であるにもかかわらず明りはランタンだけであった。
事務所の奥にはテーブルが置かれており、その上には大きな紙が広げられている。
そこに書き込まれているのは、目印になるものや地形などであった。
中央に書かれているのは、この街の名前である。
それは、この地方の地理を書き起こした、地図であったのだ。
ハンスには今すぐに確認する術はなかったが、地図は衛星写真を基にした地球で作られる地図にも劣らない精度のものであった。
それもそのはずである。
なにせこの地図は、元々地図を描く技能を持っていたコウシロウが、千里眼の能力を使って書き上げたものなのだ。
空高くから地上を見下ろすように「視る」ことすら可能である千里眼にかかれば、地形の把握など簡単な事なのである。
千里眼を使う本人に地図を描く技能があるのだから、その精度が低いわけが無い。
「とはいえ、私はこの世界の常識にまだ疎いですし、この国の地図記号も知りませんからねぇ。キョウジ君にはずいぶん助けられましたよ」
「僕、隣でああじゃないこうじゃないって言ってただけですよ?」
コウシロウの言葉に、キョウジは苦笑いをしながら肩をすくめた。
確かに実際に地図を書く作業こそコウシロウが全て行ってはいたのだが、詳しく書き込むべき箇所を指摘したのはキョウジであった。
治療魔法というその特殊な能力から、キョウジはあちこちの村でよく出かけている。
そこで得た情報や知識は実に膨大なものであり、レインを除く日本出身者の中でもっともこの世界に詳しいのは、実はキョウジであったのだ。
どんな植物があり、どんな動物がいて、どんな地形ならば走破でき、どんな地形が嫌がられるのか。
地球で蓄積されたコウシロウの常識では考えられないような事が、この世界では常識であったりするのである。
キョウジはそれらをコウシロウに伝え、地図上で細かい書き込みが必要な場所を割り出す手伝いをしたのだ。
本来ならば全て事細かに書き込むことこそが、地図を作るうえでの理想であるだろう。
しかし、今回にそうしている時間が無かったのだ。
この地図は、隣国から攻めてくると言う敵に対応するため、ハンスがコウシロウに製作を依頼したものなのである。
飛行機や衛星が発達した地球であるならばともかく、この世界で地図と言うのは非常に製作が困難なものであった。
特に未開の地であったり、険しい山であればなおさらだ。
その両方であるこの街の周辺は、詳しい地図の存在しない土地であったのである。
地図が無くても、戦う事は出来る。
だが、地図があれば、軍隊を効率よく動かす事ができるのもまた事実だ。
どうにか地図を、それも正確なものをと考えていたハンスにとって、コウシロウの千里眼と製地図能力、そして、キョウジの知識は、まさに渡りに船であったのである。
「いえいえ。それがありがたいんですよ。何しろ私はこの世界の事がわかりませんからねぇ。全部細かく書くには時間もありませんでしたから、本当に助かりましたよぉ。剣と魔法の兵隊さんの行動なんて、想像もつきませんからねぇ」
「いや、僕だってハンスさんから聞いたり、本で読んだりしただけなんですけど。まあ、そういっていただけるなら、うれしいです」
いかにも日本人といったコウシロウとキョウジのやり取りを、ハンスは面白そうに見守っていた。
地球でも、日本ほど謙遜する文化のある国は珍しい。
この世界に置いても、それは同じようである。
ハンスは机の前まで行くと、睨み付ける様に地図を見下ろした。
自分の頭の中に入っている地形と、照合しているのだ。
地方騎士として巡回する中で、ハンスもある程度は地理は頭に入っている。
だが、それを作戦立案に使えるほどの地図に書き起すのは、まず無理だろう。
地図と言うのは、専門の職人がいるほど描くのが難しいものなのだ。
素人であるハンスが、それを出来るわけもない。
とはいえ、完成した地図が正確か正確でないかの判断はする事ができる。
ここ数年に関して言えば、ハンスは誰よりもこの地方を駆けずり回っているのだ。
地図を大まかに確認し終えたハンスは、満足そうな顔で大きくうなずいた。
「なるほど。やはり頼んで正解だったな。俺じゃぁこうはいかない」
「いやいや、そう言って頂けてよかったですよぉ。侯爵様にもご満足頂ければいいんですがねぇ」
「それにしても、どうしてこんなに急いだんです? ロックハンマー侯爵の到着まで、まだ時間が有ったと思いましたけど」
「ああ。俺個人で作戦を一つ立案したいと思ってな」
「へぇ?」
ハンスの言葉に、キョウジが意外そうな顔で声を上げる。
常日頃から地方騎士になってよかったと口にしているハンスが、積極的に活躍しようとしているのに驚いているのだ。
ハンスの実家の事情も知っているだけに、ここは無難にやり過ごすだろうと考えていたのである。
「昨日も言ってましたけど、何するつもりなんです?」
「君達の力を借りる策を考えていてね。上手くいけば、今後街を守る役にも立つはずなんだよ」
「なるほど。派手に動くとハンスさんには都合悪そうですけど、ハンスさんがそういうなら、僕はいくらでも手を貸しますよ」
「いや。確かに派手に動く事にはなるが、これは上手くいけば俺にも都合よくことが運ぶはずなんだ」
「え? 目立つのにハンスさんに都合よく、ですか?」
「ああ。まあ、上手くいけば、だけどな」
不思議そうに首をかしげるキョウジに、ハンスは笑顔を作って見せた。
このときハンスが考えていた作戦は、それなりに成功の見込めるものではあった。
実際、上手くいきさえすれば、ハンスの目論見どおりの結果が望めただろう。
だが。
このときハンスは、まだ自分の運の悪さを、完全には理解しきっていなかったのである。

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