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地方騎士ハンスの受難 作者:アマラ

一章

女の想い

 目の前に置いた砂時計を見つめながら、レインは床の上に正座をしていた。
 その額には脂汗が浮かび、眉は僅かながら顰められている。
 無理からぬことだろう。
 彼女はここ二日、一切休むことなく山道を走り抜けてきたのだ。
 足全体がはれ上がり、骨が軋みと悲鳴を上げるように痛みを訴えてくる。
 そんな状態の足で、冷たい床の上に正座しているのだ。
 普通の人間であれば、叫び声を上げるほどの激痛が足には走っている。
 だが、レインは僅かに表情を曇らせるだけで、その痛みに耐えていた。
 これはレインが自らに課した、罰であるのだ。
 レインにとってハンスは、絶対の存在である。
 走れといわれれば走り、殺せといわれれば殺し、死ねといわれれば死ぬ。
 にもかかわらず、レインはハンスの行動に一瞬でも疑問を差し挟んでしまったのだ。
 それはレインにとって、けっして許すことの出来ない罪であった。
 だから、こうして自分に罰を与えることにしたのである。
 正座をしながら、一時間の反省。
 その間、常にある言葉を口にし続けることも忘れない。

「ハンス様の言葉は絶対。ハンス様の言葉は絶対。ハンス様の言葉は絶対。ハンス様の言葉は絶対。ハンス様の言葉は絶対。ハンス様の言葉は絶対……」

 自らの魂に刻み込むように、口に出してそういい続けるのだ。
 自身にしか聞こえないような小声ではあるが、頭の中で繰り返すのと口に出すのとでは、やはり口に出すほうが深く心に残るものなのである。
 ちなみに、レインが目の前においている砂時計は、彼女の仕事道具であった。
 遠く離れた対象と精神をつなげ会話する「遠話」という能力を持つレインは、正確に時間を測ることを要求されることも多い。
 襲撃のタイミングや経過時間などを、味方全体に伝える場面もあるからだ。
 砂が落ちきるのを確認し、きっかり一時間の罰反省を終えると、レインはほっとため息をついて立ち上がった。
 今レインが居るのは、街に一軒しかない宿屋の一室である。
 日本出身者達との食事兼顔合わせを終えた後、ハンスの案内でここにやって来たのだ。
 本来であれば、レインやハンスは国が設置した兵士詰め所に寝泊りするべきなのだろう。
 だが、この街にあるそれは、机一つと椅子が数脚でいっぱいの掘っ立て小屋だ。
 とても眠ることが出来るような場所ではない。
 そのためハンスはこの街に赴任してきてからずっと、街に一軒しかない宿屋に寝泊りしていた。
 陸の孤島と呼ばれるこの街には、旅人などほとんど訪れない。
 来るのはせいぜいが徴税官か、月に一度訪れる行商人程度である。
 そんな宿屋にとってハンスは最上の客であるらしく、最近では店主に「いつまででも居てくれ」と言われるほどであった。
 ちなみに、今レインが居る部屋は、ハンスが寝泊りしている部屋の隣である。
 最初は少し離れた部屋を進められたのであるが、レインは頑としてこの場所がいいと言って譲らなかった。
 何かあったときにすぐに合流できるように、という名目だ。
 ハンスも納得した「いかにもそれらしい理由」ではあったが、勿論レインにとって真に重要なのはそこではないことは言うまでもないだろう。
 レインはベッドの上に置いていた背のうを開くと、中から荷物を取り出し始めた。
 移動力を重視するために必要最低限のものしかもって来ていないのだが、それでも出しておくべきものはいくつかある。
 シャツの替えや、タオル。
 そして、木箱が一つ。
 レインは愛おしそうにそれを取り出すと、丁寧な手つきで封を解く。
 飾り気のない木製の箱なのだが、一目で高価なものであるとわかる品だった。
 箱の中は、真綿の上に布を張られた、かなり丁寧な作りになっている。
 実際、その箱は希少な木材や布地がふんだんに使われており、それだけで一般庶民の月収かそれ以上の価値があるものであった。
 勿論中に入っているものは、その数千倍の価値があるものだ。

「ああ……ハンス様……!」

 熱っぽい声とともにため息を吐き、レインは箱の中身に指を這わせる。
 そこに入っているのは、人間をデフォルメした、可愛い系のヌイグルミだ。
 撫で付けられた金髪に、鋭い目つき。
 そう、ハンスをぬいぐるみにした、「はんすくん」である。
 可愛らしい外見や製作された素材が布や綿であるにもかかわらず、はんすくんはまるで一個の生命のような力強さを宿していた。
 それもそのはずである。
 一般庶民の生涯収入程度の金額をつぎ込み、一流の職人ばかりをそろえて作らせたのだ。
 これはもはや、ヌイグルミの形をした芸術品である。
 だが、それだけではレインはこれほどこの人形を大切にはしなかっただろう。
 勿論、ハンスの形をしているだけでそれは非常に価値のあるものではあるのだが、このはんすくんにはそれを超絶するほど圧倒的な存在価値があるのだ。
 このはんすくんの中には、ハンス本人の髪の毛が封じされているのである。
 誤解がないように記しておかなければならない事なのだが、この国では髪の毛の入れられた人形というのは珍しいものではない。
 万が一のときに身代わりになってくれるようにと、子供の髪の毛を一房入れた人形を作るのである。
 それは特に、無事に育つことを望まれる貴族の子供や、戦場へ赴く兵士が作ることが多かった。
 そのどちらにも当てはまるハンスにこういったものが作られるのは、ある種当然なのだ。
 正史として記録されている中にも、この人形が身代わりになり引き裂けたおかげで、戦場で怪我を負わずに済んだという逸話が記録されていたりする。
 日本でも似たようなものはいくつかある、その国ごと独自にある文化的な品なのだ。
 このはんすくんの中に収められている髪の毛も、その目的のためにハンスから譲り受けたものなのである。
 先の大戦の折、ハンスの身の安全を祈願するために作られた、思い出の品なのだ。
 余談ではあるが、今レインが持っているはんすくんは二体作られたうちの一体である。
 戦場に赴く前、ハンスが指揮する騎士団の団員達が贈り物として企画したのが、このはんすくんであった。
 その際、レインがハンスの髪の毛を譲り受ける役を拝命したのだが、そのときに役得として髪の毛を一部横領したのだ。
 目的は、もう一体はんすくんを作らせるためである。
 ハンスに贈られたはんすくんは、騎士団全員が金を出し合って作られていた。
 レインの持っているものは、全額レインが支払って作ったものである。
 お金は着服したりしていないということは、レインの名誉のためにきちんとお伝えしなければならないだろう。
 ハンスが絡むこと以外では、レインは非常に良識のある人物なのだ。
 当然、ハンスが絡む事柄であれば話はまったく別なのだが。

 寝巻きに着替えたレインは、はんすくんを抱きしめベッドに入った。
 はんすくんに顔を埋めてすぅはぁしたりしながら、日本出身者達との顔合わせのことを思い出す。
 会話から察するに、彼らはおそらくレインが生まれ変わる以前住んでいたのと同じ世界から来たのだろう。
 ただ奇妙なことに、レインの知る知識と彼らの語る内容に、ほとんど時代差がなかったのだ。
 彼らが話していた時事ネタは、レインにとっても聞いた覚えのあるものばかりだったのである。
 レインはこの世界に生まれ育った。
 この世界とあちらの世界の時間の流れが同じであるならば、十数年の時間差が無ければおかしい筈だ。
 一体どういうことなのかと思ったレインだったが、その応えはすぐに出た。
 ケンイチ達の口から、この世界に来た日時が語られたのだ。
 驚くべきことに、キョウジもミツバもコウシロウも、あちらの世界からこちらの世界に来た日付は同じであるというのである。
 そしてその日付は、レインが前世で死んだ日付でもあったのだ。
 同じ日付にあちらの世界から消えた人間が、別々の時間にこちらの世界に現れる。
 ましてレインにいたっては、生まれ変わるという尋常でない経緯を経てだ。
 これは一体、どういうことなのだろうか。
 一瞬、ハンスを盛り立てるために異世界から集められたのかとも思ったレインだったが、流石にそう思い込めるほど頭はお花畑ではなかった。
 だが、とても偶然とも思えない。
 誰が、何の目的でそんなことをしたのか。
 すぐに答えは出ないだろうが、調べるべき問題であるだろう。
 そこまで考えて、レインは思考を切り替え、直近の問題について考えることにした。
 日本出身者達の特殊能力についてである。

 まず、「魔獣使い」のケンイチだ。
 ハンスは明日牧場で能力を見せるといっていたが、その異常な力はすぐに確認することが出来た。
 ケンイチとキョウジが乗ってきたのが巨大な狼だったからだ。
 人を乗せられる大きさの狼が大人しく人間の言うことを聞いているその姿は、すこぶる異様である。
 その巨大な狼の魔獣は、レインも知っているものであった。
 強靭な顎と大きな爪。
 鎧のような強固な毛皮で全身を固めた、とてつもなく厄介な魔獣である。
 数匹で群れれば、今回隣国が持ち込むという鎧熊にも匹敵する化け物だ。
 大きな群れになれば、その鎧熊を狩ることすらあるという。
 そんな魔獣を、まるで当たり前のように使役している。
 これは恐るべきことだ。
 驚愕するレインに、ハンスは事も無げにもっと驚くべきことを告げた。

「ケンイチはこの狼魔獣だけで、数十匹従えている」

 それはもはや、軍隊に匹敵する戦力だ。
 恐ろしいのは、「狼魔獣だけで」という点であるだろう。
 それは、ほかの魔獣も居るということを意味している。
 ケンイチはそれらを、すべてたった一人で従えているというのだ。
 レインの頭に浮かんだのは、月並みな言葉であった。
 魔王。
 魔物を従え軍勢とするものの呼び名だ。
 今この世界には居ないとされているが、かつては確かに存在したと歴史には刻まれている。
 しかし、ケンイチという男は魔王という言葉からはかけ離れた男であった。
 絶対にうつ伏せで眠れない途轍もなくでかいポンパドールに、ジーンズ生地のオーバーオール。
 顔はそれなりに迫力があるが、「田舎のにいちゃん」な印象がぬぐえない。
 酒を飲みながら爆笑するその姿は、せいぜいが「~の魔王」と名乗っているチンピラがいい所だろう。

 次に、「治療魔法」のキョウジである。
 その能力は、その場ですぐに披露されることとなった。
 レインの体の傷を、キョウジが癒して見せることになったのである。
 キョウジの能力の恐ろしい点は、古傷や体の不調すら癒すところであった。
 レインの腕には、いくつかの古傷が残っている。
 戦場で受けた、いわゆる刀傷だ。
 傷自体はとっくに塞がっているのだが、皮膚の引きつりや違和感は否めなかった。
 キョウジはそれを、あっという間に癒して見せたのである。
 ベッドの中で寝転がりながら、レインは手を開閉してみた。
 これまでは確かにあった僅かな切り傷や擦り傷でからくる違和感が一切無い。
 皮膚が変色していた傷跡も、まるで何も無かったかのように消え去っている。
 確かに回復魔法というのはこの世界には存在している。
 だがそれには、こんな芸当は出来ないはずなのだ。
 精々外傷を塞いだり、病気で落ち込んだ体力を回復する程度のはずなのである。
 にもかかわらず、キョウジは事も無げにそれをして見せたのだ。
 驚いているレインに、ハンスはさらに驚くべきことを告げる。

「まだ実績は二例しかないが、キョウジは失った足や腕の再生も可能だ」

 手足を失った農民のそれを、キョウジは再生してのけたのだという。
 それはもう、治療魔法などとは呼べないだろう。
 単純に人知を超えた、奇跡である。
 これはもはや、悪用しようとするものが出るとか、そういう次元の話ではない。
 一目それを見たならば、権力を持つものであれば是が非でも確保しようとするだろう。
 それほどに想像を絶する能力である。
 だが、それだけに信憑性があまりにも無い。
 うわさを聞いたとしても、ただの与太話だと思うだろう。
 それほどまでに異常で、それほどまでに奇跡じみた能力なのだ。

 もう一人、「超身体能力」のミツバだ。
 これを説明しようとしたハンスは、一瞬考えた後レインにこう言った。

「レイン、ミツバを斬って見ろ。ミツバ、受けてやれ」

 言葉が終わるか終わらないかの一瞬で抜刀したレインは、その剣をミツバの首筋に叩き込んだ。
 魔法で強化したその一線は、今まで何人もの人間をほふってきたものである。
 必殺を確信した一撃であったが、それはミツバの命を刈り取るにはいたらなかった。
 それどころか、剣はまるで鉄の塊でも殴りつけたかのようにはじき返されたのだ。
 しかも、斬りつけられたほうのミツバはといえば、まるで何事も無かったかのようにチャーハンをかきこんでいるのである。
 もう一度斬りつけようとするレインを片手を挙げてとめると、ハンスは自分の持っていたスプーンをミツバに渡した。
 そして、こう言ったのである。

「ミツバ、引きちぎれ」

 ミツバは口いっぱいにチャーハンを頬張ったままうなずくと、むんずりと両手で鉄製のスプーンを握りこんだ。
 そして。
 まるでネンド遊びをする幼児のように、さも当然といった様子でそれを引きちぎったのである。
 金属というのは、押しつぶす力に対してよりも、引っ張られる力に対して強い物質だ。
 クレーンなどのワイヤーを思い出してもらえばいいだろう。
 スプーンを曲げたり、ひねったりするならばともかく、力任せに引きちぎる。
 もはや人間の腕力ではない。
 控えめに言って、化け物である。
 当のミツバが終始至極まじめな顔で料理を食べ続けているのもあいまって、言葉が通じる生物である気配が薄いのも、レインに恐ろしさを感じさせる原因になっていた。
 ケンイチ曰く、「飯を食っているときのミツバは野生に返っているから危険」なのだという。
 確かに食べている皿などに手が近づくと、唸り声を上げたりしていた。
 昼間会ったときはきちんと人間であったから、おそらくケンイチの言う通り食事中は危険なのだろう。
 あれでも一応ハンスの従者である訳だから、関係を持たないという訳にはいかない。
 亡き者にするのも難しそうである以上、友好関係を結ぶべきだろう。
 明日以降、何かしらの食べ物を用いた懐柔策をとらなければならない。

 そして最後に、「千里眼」のコウシロウだ。
 ほかの者も危険な能力の持ち主だった。
 コウシロウの能力も、かなり特殊なものだ。
 だが、「千里眼」という能力は、一つの国に一人は持つものが居る、魔法で代替の利く能力なのだ。
 レインのもつ「遠話」と同じく、「千里眼」はこの世界には稀にではあるが存在する能力なのである。
 能力だけを取ってみれば、ほかの四人からは大きく見劣りするといって良いだろ。
 だが、問題なのはコウシロウ本人である。
 今のレインは、生まれ変わる以前の平和な国で生まれ育った何も知らない一般人ではない。
 幾人もの人間を屠り、修羅場を潜り抜けてきた歴戦の騎士だ。
 だからこそ、コウシロウのまとう空気が尋常のものでないことをすぐに見抜くことが出来た。
 いや、この言い方は正確ではないだろう。
 正しくは、「尋常のものでないと教えられた」といった所だ。
 挨拶をして握手をしたその瞬間、コウシロウはレインにだけ殺気のようなものをちらりと見せたのである。
 暗殺者、凶手、殺し屋。
 そういった類の、剣を持って戦う兵士とはまた違った、薄ら寒いものをレインは感じ取ったのだ。
 そして、続くハンスの言葉で、レインはその正体を理解した。

「彼の狙撃の腕はかなりの物だぞ」

 この世界で狙撃といえば、弓矢かクロスボウでのことを言う。
 ハンスが狙撃といったのだから、おそらくそれらのことを指しているのだろう。
 だが、地球ではそれらは既に使われていない。
 銃器に取って代わられているからだ。
 この世界で何人もの敵と対峙して来たレインだったが、コウシロウが覗かせた類の気配を感じたことは、殆ど無かった。
 一度だけ似たようなものを感じたことがあるとすれば、エルフの弓矢使いだけだろう。
 おそらくコウシロウは、地球でそういった類の仕事をしていたのだ。
 つまるところ、狙撃手。
 スナイパーである。
 実際当人も、「本当はもっと別なのが得意なのですけれどねぇ」と言っていたので、おそらく間違いないだろう。
 一体なぜ、あの平和だった国の平和な時代に、そんなことをしていた男が居たのか。
 理由はわからない。
 だが、実際こうして、ここにいるのだ。
 ハンスは、戦闘に関してお世辞を言うタイプの男ではない。
 彼が狙撃の腕を褒めるという言うことは、かなりの腕を持っているということだ。
 本来であれば銃を使うのだろうが、それを弓矢やクロスボウに持ち替えても、腕前を発揮できたのだろう。
 それは、恐るべきことを意味している。
 ここで微笑んでいる優男は、「千里眼」という特殊能力を持った「狙撃手」なのだ。
 どこに逃げようがけっして対象を逃さず、一挙手一投足を監視できる「千里眼」。
 それに、救国の英雄が認める狙撃の腕が加わるのだ。
 もしこれに狙われるものが居るのだとしたら、レインはその対象に深い同情の念を抱くだろう。
 たとえそれが、敵であったとしても、である。

 この四人の指揮を、ハンスが執る。
 情報伝達には、同時に全員との回線を開くことも出来る「遠話」の使い手である、レイン本人が当たるのだ。
 たとえどのように身を隠して近づいても発見され、魔獣の群れをけしかけられる。
 近づけたとしても、剣で斬っても傷つかない、鎧を素手で割る化け物少女と戦うことになるだろう。
 その後ろには、「魔術師殺し」のハンス・スエラーと、狙撃手が控えている。
 千里眼からもたらされる情報は、逐一遠話で届けられることになるだろう。
 これはある種、理想の軍隊の形であるといって良いはずだ。
 歴戦の指揮官が、「千里眼」によってもたらされた情報を元に、「魔獣使い」によって指揮された魔獣と「超身体能力」の化け物を指揮する。
 情報は「遠話」によってタイムラグ無しに全体に届けられ、万が一けが人が出たとしても「回復魔法」により一瞬で癒してしまう。
 隣国が送り込んで来る部隊がいかほどのものか知らないが、おそらく彼らは無事ではすまない。
 彼らが使う魔獣も、確かに危険だろう。
 だが、武器になりえるのは精々その程度だ。
 ケンイチの従えている魔獣は、数だけでもその数倍である。
 その時点で既に、隣国から来るであろう部隊の強みはなくなってしまっているのだ。
 下手をしなくても、かなり一方的な戦いになるかもしれない。
 だがそれは、ハンスにとって必ずしも良いこととはいえないだろう。
 ハンスがこの街に来たのは、政治の場や戦いの場から遠ざけられるためだ。
 それが、これだけの戦力を整えているのだと知られれば。
 ハンスの実家である公爵家は、一体どんな行動に出るだろう。
 貴族のやり口にあまり詳しくないレインではあるが、ろくなことにならない事だけは予想が出来た。
 だが、このぐらいのことはハンスもわかっていることであるはずだ。
 何の考えも無く、これだけのことをしようとするとは思えない。
 ならば、レインがすべきことは一つだけだ。
 いつものように、ただハンスの後に付き従えばよいのである。
 レインにとってハンスは、絶対の存在であるのだから。

 そんなことを考えていたときだった。
 隣の部屋から、小さな物音が聞こえたのである。
 すぐにベッドに立てかけてあった剣に手を伸ばしかけるレインだったが、そちらも人の居る部屋であったことを思い出した。
 そこで、そこに居るであろう人物にようやく思考が及んだのである。
 この国の中央では建物は土壁や石造りであることが多く、部屋と部屋を区切る壁というのはかなり厚いのが常識であった。
 だが、この街ではそういったものがあまり産出されないのか、室内の仕切りなどは木製であることも多々あようだ。
 今レインが泊まっているこの宿屋も、その一つであった。
 通常であれば石の壁は防音性が高く、隣の部屋の音が聞こえることなど殆ど無い。
 しかし、木製の壁は違う。
 厚さにも寄るが、筒抜けとは言わないまでもかなり良く音は聞こえるはずである。
 一時間の反省のことを思い出し、レインの全身の血が音を立てて引いた。
 だが、言葉のボリュームはかなり絞ってあったことを思い出し、安心のため息をつく。
 元々あの台詞は、自身にすら聞こえるか聞こえないかの大きさに絞っているのだ。
 たとえどんなに壁が薄かろうが、聞こえるはずが無いのである。
 安心したところで、とある考えたレインの頭の中に浮かんできた。
 もしかして、耳を押し付けたらハンスの声が聞こえるのではないか、というものである。
 ずっと床の上に座っていたので気がつかなかったが、ベッドは壁ぎりぎりの位置にあった。
 これは寝ながらでも壁沿いに体を近づければ、ハンスの部屋の音を聞くことが出来るかもしれない。
 いや、だめだレイン、落着け。
 そう、レインは自分の心の中で自分を叱咤した。
 それでは盗み聞きではないか。
 そんなことは許されるものではない。
 これはあくまで、事故なのだ。
 レインには壁に張り付いて寝る癖があるだけなのである。
 たまたまいつものように壁に体を預けて寝ていたら、たまたまハンスの部屋の音が聞こえて来ただけなのだ。
 ちなみに、レインはいつもはんすくんを抱きしめて寝ているので、ベッドの中央で丸まって寝ているのが常であることは当然秘密である。
 レインはがちがちに緊張した表情で、ぎこちない動きのまま壁にそっと近づいた。
 そして、ゆっくりと壁に耳を上げる。
 聞こえてきたのは、小さな空気が漏れるような音であった。
 首をかしげるレインだったが、すぐにその正体に思い至る。
 そう、寝息である。
 これはハンス・スエラーの寝息なのだ。

「ぶっ……!」

 レインは顔を真っ赤にし、思わず鼻を押さえた。
 何かこう、赤い液体を鼻から噴出しそうな気がしたからだ。
 幸いそんなことは無く、ベッドが朱色に染まることは無かった。
 たかが寝息、されど寝息だ。
 寝息を聞ける距離に居るというだけで、レインには相当のダメージを与える事実なのである。
 今居る場所がベッドであり、手の中にははんすくんが居るとなればなおさらだ。
 これはいけない、と、レインの中の何かが激しく警鐘を鳴らす。
 あまりにも刺激が強すぎるのだ。
 うっかり寝言など聞こえようものなら、叫び声をあげてしまうかもしれない。
 当然、歓喜の黄色い声である。
 だが、目の前にあるお宝を逃すのはあまりにも惜しい。
 勿論これはたまたま聞こえてしまっただけなのだが。
 早々に切り上げて体を癒さねばと思う気持ちと、それをすてるなんてとんでもない! という気持ちが、レインの中で激しくぶつかり合う。
 ちなみにぶつかり合っている間、レインの耳はたまたまではあるがべったりと壁に張り付いたままになっていた。
 偶然というのはおそろしいものである。
 結局その日レインは一睡もすることが出来ず、無言でもだえ苦しみながら朝焼けを見ることになったのであった。

挿絵(By みてみん)
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