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点鐘[連載コラム]
ごく静かでさりげない世の中の変化
 
 本田由紀(東京大学大学院教授)   2014年7月1日

翌日から消費税が値上げされる、昨年度末日のことだ。私は夕方、冬物の服を大きな袋2つに詰めて、自宅近くのクリーニング店に向かった。店の前にはたじろぐほど長く、客の列ができていた。私も仕方なく、その末尾に並んだ。私の前には、30代くらいの背の高い男の人が並んでいた。大半の客がそうだったように、その人もかさばる荷物を手にぶらさげていた。

しばらく待った頃に、その人が、腕時計を何度も見て落ち着かない様子になり、やがて振り返って私に言った。「すみません、すぐに戻りますので、少しの間、荷物を見ててもらえますか。」私がうなずくと、その人は、近くに停めてあった自転車に飛び乗って走り去った。7〜8分ほどして彼が戻ってきたとき、自転車の後ろのチャイルドシートには、3歳くらいの女の子がちょこんと座っていた。

男の人は、その女の子を抱き下ろして私に礼を言い、女の子と一緒に元のように列に並んだ。男の人の荷物には、女の子の名前を縫い付けた布バックが加わっていた。ああ、この人はお父さんで、保育園のお迎えの時間が迫っていたので急いで行ってきたんだ、と私は理解した。

そこからも、長く待たなければならなかった。そのクリーニング店は丁寧に応対するので、普段から客1人あたりの時間がかかる上に、その日は客が持ち込む服も多かったからだ。私は並びくたびれてうんざりしていた。そこに小さい子どもが現れたので、この子も退屈してぐずり始めるだろうな、と、正直に言えば溜息をつきたくなる気持ちだった。

しかし、その後の待ち時間は、まったく逆の方向に展開した。そのお父さんは、姿勢よくすっと立っているだけで、子どもにあまりかまうわけではなかった。でも、私が驚いたのは、その女の子が、長い待ち時間の間、ほんとうに落ち着いて幸福そうにしていたことだ。その子は、お父さんと一緒にいられるだけで満足しているようで、時々お父さんの足に抱きついたりしながらも、ほとんどずっと、小さい声で歌をつぶやきながら、クリーニング店内にあった椅子をお家に見立てて、自分のお手々の指を使ってままごとのようなことをして楽しげに遊んでいたのだ。

それを間近に見ていられることは、私にとっても幸福をもたらした。もう私の子どもたちは大きくなってしまったので、こんなかわいい頃もあったなあと、頭の芯がしびれるようなしみじみとした気持ちになっていた。それにしても感心したのは、この親子の、いとも自然に信頼し合っている様子だった。日頃から互いの関係が積み重ねられていることがうかがわれた。お父さんがクリーニングに出した服の中には、お母さんの仕事着らしい、女物のスーツなども含まれていた。

女性の活躍とかイクメンとか、かまびすしく言われる昨今だが、世の中の本当の変化とは、この親子のように、ごく静かにさりげない形で現れるのだ、と思った。

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