2014年7月2日05時00分
安倍内閣が集団的自衛権行使を認めた7月1日は、日本の立憲主義の歴史において、最も不名誉な日として残るだろう。
首相自ら憲法の制約をふりほどき、定着した解釈をひっくりかえした。国会に諮ることも、国民の意思を改めて問うこともなく、海外での武力行使に道が開かれた。
従来の積み上げを突き崩す解釈変更は、本来の改憲論にとっても屈辱のはずだ。ルールの改正は、ルールの尊重を前提とする。憲法改正は、憲法への敬意なしには成り立たない。
69年前、日本は世界を相手にした戦争に敗北した。明治以来の「富国強兵」路線のうち、「強兵」は完全に破綻(はたん)した。それに代えて国民が求めたのが、9条に基づく平和主義だった。
日本はその後、米国と安保条約を結び、自衛隊を発足させた。しかし、戦前の反省から、その枠内でも軍事的要素を極力抑制し続けたのである。
9条か安保・自衛隊か、ではなく、日本は9条の理念と安保・自衛隊の現実主義を組み合わせる道を選んだ。軍事力ではなく経済力を柱に、民生部門中心に世界に貢献する道を選んできた。この路線は、国民の広い共感と支持を得た。
本紙世論調査では、多数は集団的自衛権行使に反対である。民意が国のあり方に根本的な変更を求めているとは、とても言えない。
それでもこの解釈改憲が実現したのは、政府・与党内の力学の結果である。
「戦後レジームからの脱却」を唱えて靖国神社に参拝する首相の後ろ向きのナショナリズム。そこに、「普通の国」と肩を並べるため、対外政策で自衛隊の活用範囲を広げようとする外務・防衛官僚のある種の「国際主義」が結合した。
だが、ナショナリズムと軍事力の結合ほど危ういものはない。賢明な外交がなければ、どんな軍備でも国を守ることはできない。
安全保障環境が激変したのだ、とよく言われる。だが、グローバリゼーションの時代は、国家は対立しながら深層では結びつき、複雑なゲームを展開する。弱肉強食の国際政治への単なる逆戻りではない。
第1次大戦勃発100年の今年、20世紀の動乱の発端として大戦を回顧し、ナショナリズムや軍事依存の危うさを反省する機運が、欧米を中心に高まっている。
そして来年は戦後70年にあたる。そのときに日本の選ぶ道が、「強兵」への復帰でよいはずはない。
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