シャバはつらいよ

第11回 ゆ・れ・る


 「グワン」と音がした。聞いたことのない、奇妙な音だった。
 何の音なのか、と考える前に、部屋じゅうの本が本棚から一斉にドサドサと落ちてきた。
 ゆれているんだ。
 このマンション自体が、倒壊している?

 パソコンの前で作業をしてくれていた真理さんが、わたしが立っていたキッチンのほうへ寄りすがってきて、そばにある電子レンジと本棚が倒れてこないように、押さえてくれた。

 「これ、地震じゃない?」

 「ええ?」

 ひとまず、普段は滅多に見ないテレビの電源を入れた。こういうときは、たしか「NHK総合」。キャスターが速報を読み上げているが、状況がよくわからない。
 エレベーターが、止まっていた。普通、こういうときは「建物の外に出る」ということをするのかもしれないが、自力で階段を下りられないし、死ぬ気を出してなんとか下りたとしても、上って部屋に戻れない。

 いったん大きな振動がおさまったかなと思うと、また、ぐわ──んとゆれる。しばらく繰り返すので、真理さんとベッドに座って、テレビの画面を見つめた。
 何が起きているのか、わからなかった。
 すこし経過すると、テレビの画面に日本列島の地図が表示された。真っ赤だった。

 「東北地方 宮城県沖 マグニチュード9.0」

 「津波がきます。逃げてください」

 「津波」。2004年12月26日のスマトラ島沖大地震・大津波の「悪夢」がよぎった。悪寒がして、全身の肌があわだった。


「悪夢」、ふたたび

 スマトラ島最西端のバンダ・アチェの映像が脳裏に浮かんだ。「あれ」がくる。
 家、土砂、瓦礫、家畜、電柱、学校、人、車、地上のすべてを押し流しながら迫ってくる、「あれ」。

 2004年のあの日、メール添付で送られてきた、バンダ・アチェの津波の映像。人が叫びながら、凄まじいスピードで迫ってくる水に飲み込まれる。助けようとして手を伸ばすが、流れに逆らえずに、目の前で人が流されていく。

 2006年の2月、バンダ・アチェの地域研究をしている人たちにくっついて、被災地の現状調査に入った。アチェ人男性のガイドに案内してもらいながら、「本当に、ここに街が存在したのだろうか」と海岸沿いで呆然と立ち尽くした。白いモスクが一つ残されているのみで、見えないはずの海が見晴らしよく見える。コンクリートの建物の基礎部分を残し、まさしく「何もない」状況だった。

 「地獄だった」

 「人の遺体が腐るにおいなんて、あんたは、かいだことないだろう」

 ガイドのアチェ人男性の目線は、遠いところを見ていた。わたしは、こんな質問がどんなにか無礼千万であるかを承知で、訊いてみた。

 「津波が来た直後、どう思った?」

 「どう思ったかって? 『アチェは終わりだ』と思った」

 発症して以来、思い出す余裕すらなかったフィールドの記憶や感覚が、蛇口の栓をとっぱらってしまったかのように、あふれ出してきた。


2011年3月11日、金曜日

 自力では部屋から出ることすらできないので、部屋の中からツイッターでつぶやいた。つぶやいても、今、津波が押し寄せ、何もかもが飲み込まれて引き流されている場所に届くはずはないとわかっていたけど、つぶやかずにはいられなかった。
 東京にいて、ツイッターが見られる環境にある人は限られているけれども、これから主に東京の人が支援に飛んで入っていく。

 『津波は、「水」ではありません』

 『スマトラ島沖大津波と、同じです』

 『「濁流」は水ではありません。建物も車も土砂も瓦礫もすべてふくまれた固まりが流れてきます』

 『宮城、福島、海岸から、海につながっている河が氾濫してきます。河から離れて。「濁流」は水ではなく固まりです。すべてを押し流します』

 福島のムーミン谷のママ、パパは、生きているのだろうか。
 電話をかけた。

 「ただ今、回線が大変混雑しております」

 案の定、通じない。
 福島の第一原発と第二原発は、見るも無残に崩壊しただろうなと思った。「メルトダウン」という単語が反射的に浮かんだ。わが家のおじいちゃんは、由緒正しき地域の反原発運動家であったため、「メルトダウン」とか「燃料棒」とかの言葉は、「ラーメン」とか「カレーライス」の言語レベルでよく使われていた。

 家族や親戚の顔が、数十人くらい浮かんでは消え、生きているか死んでいるか、それとも逃げているのか、考えた。
 おとうさん、おかあさん。

 何の根拠もなく、「きっと、生きている」と思った。
 動物的直感としか表現しようがないが、おとうさんとおかあさんは、必ず生きているはずだと思った。

 真理さんは、心配だと言ってしばらく部屋にいてくれた。真理さんの携帯が夕方になってやっと通じて、家族に家の様子を確認していた。キッチンの食器棚のお皿類は、全滅みたいだった。自身の家も滅茶苦茶な状態になっている。

 「大野さん、本当に大丈夫?」

 「大丈夫、大丈夫。それより、どうやって帰るんですか」

 都内の交通機関はすべて麻痺していた。真理さんは、マラソンしながら帰るという。

 「1時間ちょっと走れば、着くから。今日、スニーカー履いてきて運がよかったわ」

 真理さんの趣味は市民ランナーだ。フルマラソンも走る。
 「走って帰る」という選択肢があるのはすごいなと思った……。


行政もダウンする

 「ピンポーン」

 真理さんが帰ってからすぐ、インターフォンが鳴った。
 こんなときに、誰だろう。

 「ああ、よかった、無事ですか!」

 区の相談支援担当の女性職員が、息を切らして、安否確認をしにきてくれた。

 「無事です、部屋もせまいし、地震のときお客さんが本棚を押さえてくれたので、倒れなかったです」

 担当している障害のある人の家を、全戸、自転車でまわっているという。常に数十ケースは担当しているから、夜を徹してまわるのだろう。彼女には、小さいお子さんもいる。自分の家だって大変だろうに、立派だなあと、率直に思った。

 わがQ区は、東京都心部に位置している。ここの機能が停止したら、日本の中枢が機能停止していることとほぼ同義だ。Q区ですら、こうやって職員の人が総出で、手元の担当者名簿のファイルを頼りに、自転車で安否確認をしている状況にある。区役所の他の業務は、一時的にダウンしているに違いない。

 ほかの自治体は、どうしているのだろうか。被災の程度が大きいところは、たぶん、行政機能自体が停止しているのではないか。
 「お役所」が、一時的に、ない状態。
 被災地自治体は、難病の人や慢性疾患の人、高齢の人や障害のある人へのサービスがもともと手薄い。もともと生存ギリギリでみな生きているのに、患者さん達や障害のある人たちは、一気に弱って死んでしまうのではないか。

 ツイッターでつぶやいて何の効果があるのかはわからないが、とにかく考え得るかぎり妥当な情報発信をするしかないと思って、パソコンの電源をまた入れて、つぶやいた。

 『おせっかい、躊躇をすべて無視して、高齢者、障害者、難病患者、周囲近所に声をかけまくって』

 『彼らは自力で動けない、避難できない、室内に物が散乱してもどうすることもできない』
 
 『ステロイド、透析、血液製剤、免疫抑制剤等、医療行為・薬品が生命維持に毎日不可欠なひとの医療ライン確保を』


パパ先生は、変わらない

 今日はもともと、病院で緊急受診する予定だったことに気がついた。帯状疱疹と思われる症状が口元に出ていた。
 わたしは免疫力がとても低くなっているので、重度化する前に対症療法薬で抑え込まないといけない。

 こんなときに診てもらえるのかどうか、まったくわからなかったが、とりあえず病院の夜間専用窓口まで行ってみた。そういえば、今日は金曜日だ。ちょっと不吉な予感がしたが、とにかく向かった。
 玄関で守衛さんに、ここまで来た理由を告げる。

 「いつもクマ先生という人にかかっていて……それで今、こういう症状が出ているので……内科の先生がいたら診てもらいたいんです」

 「病院のほうに連絡しますので、お待ちください」

 しばらくすると、

 「○○先生が診てくださるそうですので、病院玄関へどうぞ」

 パ、パパ先生だ。退院して以来、怒られるのがちょっと怖くて避けていた、パパ先生の外来。
 
 病院の玄関を入ると、ロビーには「帰れない患者さん」らがぐったりとソファに横たわっていた。点滴を腕につけたまま、じっとロビーのテレビを見続けている男性。杖をかたわらに、自動販売機で買ったのか、菓子パンを神妙な面持ちで食べている六十代くらいの女性。たくさんの、それぞれの事情がある患者さんたちが、普段は埋まることはないソファを埋めていた。
 この病院は、緊急時のために自家発電機が備えつけてあるので、エレベーターも普通に動いている。
 カツカツと、パパ先生が風を切って早足で現れた。

 「あっ! 大野さん! こっちに来なさい!」

 お、怒られた。まだ何にも言ってないのに……。
 4階に上がって、空いている処置室で診察してもらった。

 「ヘルペスだなんて、無理をしすぎたんじゃないのか! 自己管理できているのか!」

 「すみません……」

 「アラセナ軟膏とバルトレックスで、経過観察!」

 「先生、こんな状況なので、次にいつ来られるかわからないので、それと口は塗り直さないといけないのでわりと早く軟膏が減ってしまうので、アラセナ2本処方していただけないでしょうか」

 「何を言っている! 1本で十分だ! 東北の人のことを考えなさい、贅沢を言ってはいけない!」

 パパ先生は、いつもとほとんど変わらない。
 もしかすると、わたしたちにとっての「非日常」は、日々、難病患者さんの診療をして生き死にに関わっているパパ先生にとっては「日常」なのかなと思った。
 世の中が、パパ先生の日常に近づいただけなのかもしれない。


役に立ちたい、という欲求

 夜、一人になった。
 ヘルパーさんは明日来られるのかとか、すでに都内ではスーパーの棚が空っぽらしいから食糧の確保をどうしようかとか、薬品の物流が滞って免疫抑制剤を手に入れられなくなったらわたし死んじゃうけどどうしようかなとか、他人事のように「危機リスト」をノートにメモした。

 マンションのガス管が断裂してガスが使えず、お湯が出ない。シャワーの使用はしばらくできないが、感染症を起こさないように、なんとか全身清拭と、おしり洞窟の洗浄はしなければならない。
 電気湯沸かし器の「ティファール 0.8L」で熱湯を沸かしては、たらいに溜め、水道の蛇口から出てくる冷たい水と攪拌する作業を26回繰り返し、洗浄用の「お湯」を準備した。いつも生存ギリギリだが、もうちょっとギリギリ加減が切迫している。

 テレビの画面は、つけっぱなしにした。ヘリから上空撮影した、気仙沼の映像が映った。もう日が暮れていて、停電して真っ暗なはずなのに。気仙沼は、真っ赤に染まっていた。火だ。「空襲みたいだ」と、思った。
 たくさんの人が、きっと死ぬだろう。不条理に、本人に何の責任もなく、さしたる理由もなく。

 わたしは、自分も死にたくないが、ほかの人に死んでほしくない。
 一人でも少なく。パソコンの前にいれば、できることはある。情報が断絶していない首都圏や海外に、「こういう困っている人が被災地にいるはずだ」と伝えることくらいはできる。

 人の役に立ちたい、という欲求。
 おせっかいで、ある種傲慢な、その衝動がよみがえってきた。

 

 

プロフィール

大野更紗(おおの・さらさ)
1984年、福島県生まれ。上智大学外国語学部フランス語学科卒。
明治学院大学大学院社会学研究科社会学専攻博士前期課程。
学部在学中にビルマ(ミャンマー)難民に出会い、民主化運動や人権問題に関心を抱き研究、NGOでの活動に没頭。大学院に進学した2008年、自己免疫疾患系の難病を発病する。
1年間の検査期間、9か月間の入院治療を経て退院するまでを綴った『困ってるひと』で作家デビュー。
2012年、第5回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞受賞。
Blog: http://wsary.blogspot.com/
Twitterアカウント: @wsary
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