映像認識における文化的差違
〜空間を空間として認識するか、あるいは平面に置き換えるか〜
(1998年3月14日更新)
たとえば、
ようやくクレヨンを握れるようになったばかりの幼児に、
絵を描かせてみるとよくわかる。
人間の顔を描くとき、
幼児は肌色のクレヨンを手にする。
そこに顔の形を作るために画用紙を塗りつぶしていく。
塗りつぶした顔の上に、
目鼻を描き足して、
幼児は顔を完成させる。
ところが、ある時期から、
描き方に変化があらわれる。
まず最初に黒のクレヨンを手にして、
顔の輪郭を描きはじめるようになる。
そして、その内側を、
今度は肌色のクレヨンで塗りつぶしていくようになる。
子供は、いつしか「輪郭」という概念を把握するのだ。
しかし、
これは全人類的に共通の変化ではない。
アジアの多くの国ではこのような変化が見られるが、
欧米では違う。
欧米人は、
輪郭という概念を持っていない。
輪郭を別の色で描くという概念を持たないのだ。
日本の幼児と同じように、
すべてを同じ色で塗りつぶそうとする。
国や地域によって、視覚文化には差違がある。
歴史を溯ってみよう。
ダヴィンチの時代。
すでにヨーロッパでは、「遠近法」が確立していた。
透視法、
あるいは空気遠近法など、
絵画の基礎テクニックが整っていたのだ。
「光源」という概念も登場していた。
現在のハリウッド映画でも使用される
「レンブラント・ライト」という光の当て方は、
文字どおりレンブラントの時代に成立していた。
彼らは絵を描くとき、
まず対象物を立体として認識し、
そこに光を当てることにより陰影を生ませ、
その陰影を描くことで対象物を描こうとする。
そういう映像文化の持ち主なのだ。
一方、
アジアの絵画には遠近法という概念が希薄だ。
戦国絵巻を見ても、
遠くの侍と近くにいる侍が、ほぼ同じ大きさで描かれていたりする。
また、その足元には影がなかったりする。
光源という概念がないからだ。
浮世絵にも影はない。
対象物を見て、
それを平面として描くとき、どのような輪郭になるかを把握し、
その輪郭を描くというのが、日本の絵画技法なのである。
積み重ねられた文化の違いは、
いまなお強い影響を残している。
たとえば、アニメーションを比べてみると、よくわかる。
まず輪郭を描き、その内側に色を塗るのが日本のアニメーション。
輪郭がなく、光源を計算して
陰影のあるグラデーションをつけるのが欧米のアニメーション。
積み重ねられた歴史は、それぞれ違う映像文化を育ててきたのだ。
さて、ここからがゲームの話。
日本がゲーム文化の先陣を切った理由のひとつが、
日本の映像文化にあるのかもしれない、という話である。
「輪郭+その内側の色」があれば対象物を描ける
(という映像文化の持ち主である)日本人は、
コンビュータの機能が低く、
わずかの色数しか使用できない時代にも、
そのことをあまり苦にせず、
ゲームのグラフィックを描くことができた。
なにしろ我々は、
単色の円に切り込みが入っただけのキャラを
「ドットを食べるキャラクター」として認識できるのだ。
当たり前のことのようだが、これはスゴイことである。
たぶん欧米でこんな革新的なキャラを作ったら
「アーティスト」と呼ばれたのだろうが、
こと日本では、フツーの人がこのようなキャラを作り、
しかも、誰もがフツーのこととして納得していた。
これこそが、
欧米に対する圧倒的なアドバンテージだった。
まだゲームで平面しか描けなかった時代に、
日本は、その能力をフルに発揮して、
次々にいいゲームを作ることができたのである。
その後も、コンピュータは、
なかなか立体的なグラフィックを描けるまでに進化しなかった。
しかし日本は、
それをまったく苦にすることもなく、
平面のキャラを作り続け、
平面のゲームを作り続けた。
キャラを立体としてとらえる海外のゲームクリエイターは、
まだ本領が発揮できず、
苦肉の策としてクォータービューのゲーム、
つまり擬似的な空間でのゲームを作ったりした。
日本のクリエイターなら
平面画像のまま作ったであろう戦闘ゲームも、育成ゲームも、
海外クリエイターの手にかかると
「ポピュラス」や「シムシティ」のような
擬似立体のゲームになるというわけだ。
それは、わずか数年前のことである。
話は逸れるが、
欧米ではフライトシミュレーターが人気ジャンルだが、
日本では人気がないのも、
同じところに理由があるのだろう。
欧米人は空間を空間として認識するが、
日本人は、空間を地図のような平面に置き換えることで認識する。
我々はつい、
地図上のどこを飛んでいるのかを把握したくなっている。
しかし宙を自在に飛ぶ楽しさは、
空間を空間のまま認識できるからこそ感じ取れる楽しさなのである。
さらに話は逸れるが、
欧米人が「DOOM」系ゲームに酔うことなく楽しめるのも、
空間認識能力に優れているからだと考えていい。
彼らは、
自分がどこにいるのか、ではなく、
何が見えているのか、という情報で空間を把握する。
映像を真剣に見て、
自分のいる位置、
向いている方角を確認しようとする日本人は、
めくるめく3D映像に酔ってしまうのだ。
話を戻そう。
日本人は空間認識能力が低かった。
しかし、そのような映像文化の持ち主だったからこそ、
日本は、まだ描画能力の低かったコンピュータを利用して、
ゲーム文化の先陣を切った。
海外のゲームクリエイターの作品が、
日本でも認められるようになってきたのは、
コンピュータの性能が上がり、
そろそろグラデーションのあるグラフィックが
描けるようになってきた頃と一致する。
彼らは、
近年になってようやく
自分たちの思い描くグラフィックがモニターで再現できる環境を得て、
その本当の力を発揮してきたのだ。
今後はどうなるのだろうか。
性能の上がったコンピュータは、
すでに楽々と3D空間を描けるようになっている。
映像を平面で認識することによる優位性は、もはや存在しない。
しかし、
現在の日本にはディズニー映画(空間を空間としてとらえたアニメだ)に
夢中になる子供たちがいる。
欧米には、
マリオやソニック(平面内で存在するキャラだ)に
夢中になった子供たちがいる。
双方の映像文化は、
ものすごい勢い交じり合い、
その差違を消滅させようしている。
任天堂は「マリオ」を立体にした。
セガは「バーチャフイター」で立体空間を作った。
空間を空間として認識するゲームを、
日本人も楽しめるようになっている。
映像面における文化の違いは、
そう遠くないうちに、
意味のないものになっていくかもしれない。
少なくとも、コンピュータの世界では。