「解釈改憲」大詰め/国民の理解は置き去りか
憲法がこれほど軽く扱われたことがあっただろうか。国民の生命が危機にさらされかねないことへの、政治の覚悟があるようにも見えない。
そうした政治の先行きが危ぶまれてならない。
憲法解釈を変更し、禁じてきた他国を武力で守る集団的自衛権の行使容認をめぐる自民、公明の与党協議が大筋で合意し、閣議決定が秒読みの段階に入っている、そのことである。
「平和憲法」の要、憲法9条を骨抜きにし、国の形をも変える大転換を、密室の協議で決めてしまうならば、民主主義にもとると断じざるを得ない。
協議は従来の憲法解釈との整合性や歯止め措置をめぐり迷走。無理筋ぶりを見せつける。
たどり着いた閣議決定案の柱、武力行使の「新3要件」を掲げて政府、与党は限定容認を強調する。確かに「覆される恐れ」を「覆される明白な危険」に、「他国」を「わが国と密接な関係にある他国」に修正した。これとて、曖昧さは拭えず、判断は政権の手の中にある。
自民、公明双方が文言を都合良く読み取り、見解の相違にふたをする。「同床異夢」の現実が恣意(しい)的な解釈、運用を可能にする「解釈改憲」の危うさの何よりの証しだ。
微妙な言い回しで真意をぼかすような対応では歯止めを期待できようもない。閣議決定案に国連の集団安全保障は明確に規定されていないが、参加の余地を残し、決定後の国会審査を見据えた想定問答には3要件を満たすなら許容される、とある。
そもそも、実力行使の範囲を最小にとどめること自体、極めて困難だ。当初は限定的でも踏み出せば拡大するのが常だからだ。有事への対応能力を不完全なままにしておけないだろうし、幅広い参加を期待する「他国」の圧力にも抗しきれるのか。
「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」を3要件の軸に据えつつ、明白な自衛活動を超える形で国民、つまりは自衛官を命と向き合う場に向かわせる厳しい側面を論じない。現実感覚の希薄さを物語る。
安倍晋三首相は「抑止力」の高まりを強調する。ただ、仮想敵国の対応次第で、冷たい関係が予期せぬ形ではじける恐れがあるし、振り返れば「自衛」の暴走から戦争に発展してきた歴史に満ちているではないか。
他国のための実力行使に道を開くことで、戦闘行為に巻き込まれる可能性は確実に高まる。戦後、無縁だった「殺し、殺される」事態を念頭に置かざるを得なくなるということだ。
政権に深い洞察はうかがえず、起こり得る不都合な現実から目をそらし好都合な論理と事例を駆使して、国民の判断を惑わしているだけではないのか。
21、22日の共同通信社の世論調査で、行使容認、解釈改憲ともに過半数が反対し、容認の範囲拡大への懸念が62.1%に上った。十分な国会の議論と国民の理解を置き去りにし、政権の一存で押し通してはならない。
2014年06月28日土曜日