第二十六話 コルネリアスの嵐
「へえ……我が息子をアントリム子爵にねえ…………」
王宮からの使者の口上を聞いたマゴットの声は、冷たくはあったがまだ冷静なものであった。
しかしそれを聞かされているイグニスやジルコは顔面を蒼白に染めてガクプルである。
猛獣は獲物を捕食する直前はむしろ穏やかな顔をするという話があるが、マゴットのそれはまさに同じものであるということを二人は経験的に熟知していた。
(陛下――――貴方はなんということを…………!)
(終わった…………今度こそ終わった……死ぬ前にもう一度大将のスイー ツを食べたかっ…………た!)
「これほど短期間に二度も陞爵するなど前代未聞の名誉でございます。まことに慶賀の念に耐えませぬ」
本心から王宮からの使者ベナリス・サザンプトンは祝いの言葉を述べた。
もし自分に才覚があると自負するものならばまさに男子の本懐というべきだろう。
伯爵家の嫡子とはいえ、まだまだ跡を継ぐには幼い少年が危険を伴うとはいえ歴とした領地持ちに成り上がるのである。
事と次第によってはアントリムからコルネリアスまでの国境線を一体化したコルネリアス辺境伯、あるいは侯爵家が創設され十大貴族の一角に肩を並べることさえ可能かもしれない。
一番の問題はその当人も父母も全くそうした名誉を望んでいないということにあるのである。
「名誉、か―――――――」
ふと、マゴットの声色が変わった。
遂に来るべきものが来てしまったことにイグニスとジルコは身を固くした。
「ふふふふふふ……あははははははははははは!」
壊れたように腹を抱えて哄笑するマゴットの豹変ぶりにベナリスは眉を顰めるのを抑えることが出来なかった。
いかに伯爵夫人とはいえ彼女の態度は国王の使者に対する礼儀を踏み外しているとしか思えなかったのである。
「あの土地がどんな場所で、どれだけの兵が死ななければならなかったか知って言っているのか、それは」
アントリム子爵領はマウリシア王国からハウレリア王国内に突き出した突出部であり、三方を敵国に囲まれたそこはマウリシアの盲腸とさえ呼ばれる。
領民を逃がすためにあえて盾となった先代のアントリム子爵は一族ごと全滅して今ではアントリムを名乗る者は誰もいない。
アントリムはハウレリアの後方を扼することのできる地政学的な性質上、両国が開戦となれば真っ先に攻め落とされる可能性が高い死地だ。
そんな場所に送り込まれることが褒美であるというのなら、仕える価値などないというのが元傭兵たるマゴットの本音であった。
もしマゴットが現役の傭兵であったならば、今頃は国王の首は飛んでいるだろう。
「―――――冗談じゃない。子供に対する大人の礼儀ってもんがなっちゃいないね。あんな子供に頼らなきゃいけないほどの無能かい?あの禿げ頭は」
「な、なんということを!いくらなんでも無礼でありましょう!」
ここ数年国王の頭の生え際が後退して本人が気にしていることを、傍に仕える者たちは知っている。まさかそれを堂々と罵倒に用いる人間がいたことがベナリスには信じられなかった。この女はいったい国王をなんだと思っているのか。
「無礼で結構。王族なんざ敬うだけ馬鹿を見るってもんさ!」
ベナリスは憤慨とともにマゴットに向かって剣を抜こうとして杭で打ち付けられたかのように身体を硬直させた。
全身を悪寒ともつかぬ強烈な寒気が襲う。
ガチガチと寒くもないはずなのに歯が震え、他国の国王に対しても委縮しないはずの男が油汗に塗れて逃げ出すことすら出来ずにいた。
――――――死がそこにいた。
理不尽で、暴虐で、微塵の容赦もなく、無造作に命を狩る死そのものがじっとベナリスを睥睨していた。
その視線を全く傲慢だともベナリスは思わなかった。
死は誰にも平等に避けられぬ絶対の真実であるからである。
「ひぃっ……うぐぁ…………」
声にならぬ悲鳴が、まるで嗚咽のようにベナリスの口から漏れだした。
――――死にたくない。そのためなら恥も外聞もなく土下座して命乞いをしても良い。
だから、頼むから私を殺さないでくれ。
誰も逆らうことの出来ぬ死神に、人は祈り、許しを乞うことしか許されない。
ベナリスは無意識のうちに滂沱と涙を流し、死へ祈った。
「――――――そのくらいにしておいてやれ」
イグニスの声と同時にベナリスに対する無言の圧力が途切れた。
不可視の圧力が不意に途切れたことでベナリスはがっくりと膝をつく。
「帰るがよかろう。これ以上我が妻を怒らせないうちに」
「ははは、はいっ!」
なぜマゴットが怒ったのか、どうして自分がこんな殺意を浴びなくてはならないのか、そんな疑問を抱く余裕はベナリスにはなかった。
ただ目の前の死神から一刻も早く離れたい。
その一心でベナリスは振り返りもせずに必死で出口へと駆け出していた。
「…………悪いけど今日という今日はストレス発散で済ませるつもりはないわ」
ウェルキンの思惑もわからなくはない、考えようによっては息子にかけられている期待を誇ってもよいくらいだ。かつての戦役の際にウェルキンは側近であった若いハロルドを宰相に抜擢したという実例がある。
将来の宰相候補にすらなりうるこの機会を喜ぶものも確かにいるだろう。
しかしそんなことはマゴットの知ったことではなかった。
否、それ以上に王宮がその思惑を押し付けてくるという行為に生理的嫌悪感すら感じていた。
世の中は何も政治的に正しければ全てが許されるわけではない。
もしもそのことを理解していないのなら身体に覚えさせるというのがマゴット流であった。
いかにイグニスの武をもってしても、ここまで決意を固めたマゴットを止めることはできないとイグニスは承知していた。
本気でマゴットを止めるにはジルコほかの精鋭を根こそぎ動員して、半数以上の犠牲を覚悟する必要があるに違いなかった。
「今回の陛下のなさりよう、俺も思うところないわけではない…………だが一番の問題は別にある」
さて、何のことだろう?マゴットは不覚にも怒りを忘れてイグニスの言葉に首をひねった。
「バルドがいなくて寂しくてしょうがないのだろう?そろそろ私たちには二人目の子が必要だと思わないか?」
「なああああああっ?」
完全に予想外の方向からの攻撃にマゴットは口をパクパクと動かして狼狽える。
全てではないがイグニスの言葉も事実であることも大きかった。
こう見えてマゴットは情の強い人物である。
前世の記憶というハンデをしょった息子を過保護すぎるほどに手をかけて見守ってきたのは、彼女の深い愛情なしには語れぬものだ。
その彼女が息子離れするためには、確かに二人目の子供が必要なのかもしれなかった。
二人目は出来れば娘が欲しい――――そんな欲望がマゴットにあったことも確かであった。
「ご、ごまかされないぞイグニス!私は本当に怒っているんだ!」
「誓ってこんなことをごまかしで言ったりしないさ」
そう言ったときにはすでにイグニスの手はマゴットの腰をしっかりと抱いている。
かつて王都で有名なプレイボーイでならしたイグニスの手管全開であった。
怒り狂ったあの銀光マゴットをあっさり丸め込んだその手腕にジルコは驚きを通り越して感涙の涙を流した。
(すげえ!あんた漢だよ!伯爵!)
抵抗しようとするマゴットを抱き寄せ、イグニスは熱く上気したマゴットの耳朶に囁いた。
「そろそろバルドも一人前だ―――――またあのころのように君と二人で愛し合いたいというのは我儘かな?」
「ううう…………だ、だって私もういい年齢で…………」
「私が一目見て心奪われた時とちっとも変らない――――君は今でも最高の女神さ」
マゴットの細いおとがいを持ち上げてイグニスは思考が混乱したままのマゴットにとどめを刺すようにその唇を奪った。
「んんんっっ」
蕩けるような唇の感触にマゴットは頭に甘美な霞がかかっていくのを自覚した。
これほど情熱的なキスを交わしたのはいったいいつ以来になるだろうか。
(だ、だめだ。こんなことをしてる場合じゃ…………)
わずかに残ったマゴットの理性は桃色に溶けていく怒りを何とか持続させようと必死であったがそれもむなしい努力でしかなかった。
「ひやあああああああああああああああ!」
ようやく離れてくれたと思った唇がマゴットの耳たぶにかじりついたかと思うと、イグニスの右手が優しくマゴットの背中をなぞっていく。
マゴットの身体の弱い部分をイグニスは目をつぶっていてもわかるほどに熟知している。
高まりゆく刺激にもう耐えられない、というようにマゴットの両手がイグニスの首に回された。
「今は騙されておいてあげるから!それでもけじめはつけるんだからね!」
「無論、全力で君を愛そう」
弱弱しくイグニスの胸に顔を埋めるマゴット、不器用なだけでなく実はチョロい女であった。
王宮で異変が起こったのはコルネリアス家でそんな夫婦のやりとりがあってから一週間ほど後のことである。
起床したウェルキンの額に、なんと誰が書いたのか大きく墨のようなもので「ハゲ」と書かれていたのだ。
就寝の時まで変わりはなかったのは伽を務めた側室と後始末をした侍女が証言していた。
ならばいったい誰がこんな真似が出来たというのか。
早速王の寝室に近衛騎士が増強され、伽を務めるのも腕に覚えのある元女騎士が選ばれた。
しかしその翌日もまた王の額には前日より大きくくっきりと「ハゲ」の文字が刻印されていた。
豪胆なウェルキンともあろうものが、さすがにこの事態には恐慌をきたした。
目に見える脅威であればなんら恐れることなく、むしろ報復することに喜びを見出すウェルキンであるが、目的も正体もわからぬ相手に生殺与奪の全てを奪われているという事実は心胆を寒からしめるものであった。
そう、この悪戯をしている者はその気になればいつでもウェルキンを殺害できるのである。
蟻の這い出る隙間もないほど、実に五十名以上の騎士を動員して王の寝室を取り囲んでも結果は変わらなかった。
たった三日ほどの間にウェルキンの頬はげっそりとこけ、目には深い隈が刻まれていた。
いったいどうしたらこの悪戯を防げるのか見当もつかなかった。
しかしそこで恐怖してばかりはいないところがウェルキンのウェルキンたる所以である。
今夜は寝ずに犯人を確かめる、とウェルキンは心に決めた。
ランプの明かりを煌々とつけ、ベッドにあぐらをかいたままウェルキンは憎っくき犯人の登場を待った。下手に鉢合せをしたら命が危ないことなど気にもしなかった。
ただ日々の安眠を奪った犯人を確かめたかった。
次第に夜が更け、まんじりともせずにいつの間にか夜が明けていく。
黒茶を呷り眠い眼を擦っていたウェルキンの目に、朝日の日差しがカーテンから漏れだしてくるのが見えた。
いつの間にか朝になっていたらしかった。
(ふん、恐れをなしたか!余が起きているうちは現れぬとは!)
眠気覚ましに顔を洗おうと鏡を見たウェルキンは愕然とした。
ウェルキンの額には紛れもなく、デカデカと大きく「ハゲ」の文字が描かれていた。
自分は決して居眠りなどしていない。
起きていた自分に知覚すらさせずに落書きをされたという事実にウェルキンはそのまま後ろに倒れこんで昏倒した。
―――――その後いったいどんな捜査ややりとりがされたか定かではない。
しかし昏倒から回復したウェルキンが、アントリムに赴くバルドの支援を約束し、今後は事前にコルネリアス家に伺いを立てる旨の公文書を発行したことだけは事実である。
「さて、けじめも済んだところで責任をとってもらおうか」
獣欲に濡れた瞳でマゴットはイグニスの身体をベッドに押し倒した。
母性が強すぎるためにずっとご無沙汰ではあったが、バルドが生まれるまでマゴットは非常に閨に貪欲な女性であった。
あのころの若さを失った自分にどこまでマゴットを満足させることができるものか、イグニスは悲愴な決意を固める。
こうなった以上マゴットは本気で妊娠するまで搾り取る気だろう。
マゴットが妊娠するのが早いか、自分が干からびるのが早いか、勝負である。
(すまんバルド…………父さんは……もしかしたら生きて会うことはないかもしれん)
ベッドで乱れたマゴットが実は戦場よりも手ごわく恐ろしい存在かもしれないということを、世界中でイグニスだけが知っていた。
「今夜は朝まで眠らせないよ…………」
「はは……お手柔らかに頼むよ」
(バルドよ……男には……男には、負けるとわかっていても戦わなければならない時があるのだあああ!)
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