風船爆弾や細菌兵器などを研究開発したとされる「陸軍登戸(のぼりと)研究所」が太平洋戦争末期、現在の駒ケ根市中沢小学校に当たる中沢国民学校に併設されていた中沢青年学校に疎開した際の記録が中沢小に残っていることが26日、分かった。同青年学校が学校事務などを長野県に報告した「申達(しんたつ)文書」で、校舎の転用計画や戦後に米兵らが接収した物品の一覧も掲載。旧陸軍の最高機密だった同研究所に関わる資料の多くは終戦直後に処分された。現存する公文書は珍しく、研究者は「具体的な事実が記された貴重な資料」としている。
申達文書は、1944(昭和19)年4月〜47年3月、中沢青年学校から県上伊那地方事務所への報告をまとめた縦約25センチ、横約20センチの紙束。現在は駒ケ根市民俗資料館になっている旧中沢国民学校校舎内に保管されていた。
登戸研究所は45年3〜4月、川崎市から上伊那地方などに疎開した。同年4月16日付の申達文書は「中澤青年学校校舎転用計画書」と題し、転用申請者を「陸軍登戸研究所中澤製造所」と明記。目的は「特殊兵器製造資材倉庫並事務所トシテ転用」、転用する校舎に収容する作業人員は「約四十人(男)」で、「教室授業停止」と記している。
終戦後の同年11月18日付では、青年学校を訪れた米兵らが接収した小銃や銃剣といった品の一覧を掲載。米兵について「態度極メテ平静ナリキ有難ウト言葉ヲ残シ去ル」などと書いている。46年1月23日付では、「更衣箱」や「作業台」など、同研究所から青年学校へ払い下げられた物品を報告している。
文書は、登戸研究所を調べている明治大の渡辺賢二講師(71)らが昨年夏、上伊那に残る資料を確認する過程で見つかった。渡辺講師は「登戸研究所が地域を巻き込んだ形で本土決戦に向けて準備していたことが示されており、ほかに疎開した地域でも例のない資料」とする。
同研究所をめぐっては、赤穂高校(駒ケ根市)生徒の自主的なゼミ「平和ゼミナール」が89年、市内で存命だった複数の元研究所員から聞き取りを開始。活動の目的、実態などの証言と約500点の資料を集めた。成果は、明治大平和教育登戸研究所資料館(川崎市)に展示、収蔵されている。
当時のゼミ顧問で、今も研究を続ける辰野高校(上伊那郡辰野町)の木下健蔵教諭(59)は「登戸研究所については中沢国民学校の学校日誌などで断片的に触れられているだけだった。ここまでしっかり書かれている公文書は初めて」としている。
木下教諭が担任する同高2年4組は登戸研究所について調べており、7月19日の文化祭で申達文書の内容を含めて発表する。