「国のためにと思ってしたことが、侵略だと気付いたのは戦争が終わってからだった」。第2次大戦を生き延びた長野県内の元兵士たちは1日、集団的自衛権をめぐる閣議決定に危機感を募らせた。過酷な体験から、「集団的自衛権」が歯止めを失い、他国の戦争に引きずり込まれる事態を懸念した。
「後の世の裁きを畏(おそ)れぬ者ばかり」。1日午後、松本市板場の小口凪海(なぎみ)さん(92)は、ノートに記した自作の川柳を指さした。2月に安倍首相が閣議決定で憲法解釈を変更する方針を明らかにした時、批判を込めて詠んだ。
1942(昭和17)年、長野師範学校(現信州大教育学部)を卒業後に召集され、中国に出征した。「当時は軍部でさえ国会を動かそうとしたが、今は内閣が決めれば全て決まってしまうような雰囲気。どちらがより異常だろうか」と問い掛ける。
当時は「自衛のための聖戦。負ければ大変なことになる」と考えていた。風邪をこじらせて野戦病院に入院し、治ってから20人ほどの戦友をみとった。「骨と皮だけになって死んでいった。戦争で死ぬことは決して格好の良いことではない」と言う。
「世界最強の米国と一緒に武力行使した国への反撃手段はテロだ」とし、「自衛隊員が勇ましく死ぬのではなく、市民がむなしく犠牲になるだけ」と語った。
上水内郡飯綱町牟礼の土倉秋五(あきい)さん(87)は、満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍に志願して14歳で満州(現中国東北部)に渡った。その後に入隊した関東軍の兵士として終戦を迎え、3年もの間、シベリア抑留を経験した。
満州の土地は現地で安く買い上げたものだったが、土倉さんは「当時は日本が生きるために必要な移民で、間違ったことをしている感覚は全然なかった。戦後になって侵略だったと気付いた」と振り返る。
安倍首相は「自衛隊がイラクやアフガニスタンの戦争に参加することはない」と強調する。だが、土倉さんは「不都合なことは隠され、国や国民を守るというもっともらしい理由でどんどん広がるのが戦争。戦争を経験していない世代はそこを疑わない」と、もどかしさを口にする。
農家の五男で兵隊に行くしかなかったかつての自分の姿は、格差が広がり、困窮する現代の若者たちに重なる。「(集団的自衛権の行使容認で)一時的に自衛官を志望する人は減るかもしれないが、いずれ海外に戦争に行くしか選択肢がない若者が増えるかもしれない」
自宅のテレビで1日夕、閣議決定を報じるニュース番組を静かに見つめた。「とにかくもう、私たちが戦争に参加した時のような手口を許しちゃいけない」と表情を曇らせた。