日本が条約で「集団的自衛権」を明文化したのは54年前の1960年、旧日米安保条約を改定した現在の日米安保条約締約時だった。「新日米安保条約」とも呼ばれるこの条約は、前文に「両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し」とある。
戦後の日本外交の一貫性した目標は「国の安全を保障し、敗戦で喪失した日本の影響力を回復すること」だ。日本はそのための手段として米国と手を握る「親米」を外交の軸とする一方で、敵対国のソ連・中国・北朝鮮との関係正常化も推進するツートラック(two-track)路線を展開した。60年の日米安保条約は、親米路線を確固たるものとし、日本の安全保障を安定的なものとした評価される。
日本社会の猛反発の中、日米安保条約締約を成功させた政治家こそ、安倍晋三現首相の母方の祖父・岸信介首相(当時)だった。戦後、A級戦犯被疑者として逮捕・収監されたが後に不起訴となり、首相にまで上り詰めたことから「現代の妖怪」とも呼ばれた人物だ。安倍首相はこれまで何度も、祖父の日米安保条約締約を「(日米間の)不平等な関係を平等にした戦後の日本外交の最大の成果」と評している。「祖父にとって日米安保条約は日本の独立も同然」と言ったこともある。
新安保条約が締約される前の旧安保条約(1951年締結)は「片務的条約」と見なされている。日本を米国が守ってくれるという依存性のある性格のものだったからだ。これを事実上改定した新安保条約(現行の日米安保条約)は「いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処する」(第5条)と規定、双務的な性格を強化した。依存の関係から対等の関係へと日本の立ち位置を変えたのだ。
しかし、安倍首相は2006年の対談集で「残念ながら当時の政治状況では完全な双方性を実現できなかった」「(それを実現させることは)我々戦後生まれの世代に課せられた大きな宿題」と述べた。当時の日本には「日米安保条約のため日本は米ソ対立に巻き込まれるかもしれない」という反発があった。戦後の日本国民の最大抗争とされている「安保闘争」だ。この時は首相官邸が竹やりを持ったデモ隊に包囲されるという危機的な事態にまで陥った。