社説
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集団的自衛権/重い選択、あまりに軽く

 平和国家を象徴する憲法9条が改正手続きを経ることなく空文化し、「戦争のできる国」の扉が開いた日として振り返ることを覚悟すべきかもしれない。
 実質的な改憲となる極めて重い選択を、政府と自民、公明両与党の何とも軽い議論だけで押し通す。そうした対応に不安と失望を超えて憤りを感じた国民も少なくないだろう。
 安倍政権はきのう、集団的自衛権の行使容認を閣議決定した。戦後、歴代政権が禁じ、踏襲してきた憲法解釈を一内閣が一存で変更したわけだ。近代国家の根幹、立憲主義が大きく傷付いた。遺憾である。
 「解釈改憲」ではなく、本来憲法改正の手続きを踏むべき重大事案である。にもかかわらず、政権に国民の意思を問う姿勢ははなから欠け、公聴会やパブリックコメントといった手法を駆使し、民意を丁寧にくみ取る慎重さとも無縁だった。
 国会の審議も短期間で、議論が深まることもなかった。
 強引な解釈変更は、国家存立の基本的条件を定めた根本法、憲法の無視に通じる。針路の大転換を政府、与党のわずかの協議で決めてしまう政治は、自民党1強体制下の議会制民主主義の現状を物語ってもいよう。
 安倍晋三首相は年末の日米防衛協力指針(ガイドライン)改定に反映させるため、として早期の決定に固執した。多分に口実的で、急ぐ根拠に乏しい。
 「外交・安保環境の激変」を、集団的自衛権の行使容認に踏み切る要因に挙げる。背景は否定しないが、同盟強化による抑止の効果を目いっぱい見積もる一方、新たな環境の激変を招く事態を警戒する深い思慮を認め難い。第一、環境改善に向けた外交努力がなさすぎる。
 従来の憲法解釈との整合性を取り繕いつつ、協議は文言の調整に傾斜。そこに本来の自衛を超える「他国防衛」の本質を突き詰める姿勢はうかがえない。
 閣議決定の文書は、公明党の要求を受け入れて微修正。多少、限定的な表現にはなった。ただ、武力行使の「新3要件」は抽象的で、許容範囲は半ば、政府、与党の裁量次第。国連の集団安保参加も視野に入る。
 そもそも、有事の多様性、発展性の前に限定の有効性は疑わしい。憲法の制約を突破してしまえば、安保関連法改正により行使拡大も可能になる。
 権利の行使を認める以上、義務の履行を断り続ける理屈は国際的に通りにくい。集団的自衛権の適用範囲を最小にとどめて、役に立たない「抜けない宝刀」のままにしてはおけまい。「アリの一穴」を恐れる。
 戦後、日本は国際紛争解決の手段として、武力行使を避けてきた。憲法のたまもので平和国家が世界の評価を高め、国益の確保にも作用し続けた。その遺産を食いつぶしてはならない。
 臨時国会の安保法制をめぐる審議で限定のたがをきつく締め、「容認の封印」を図りたい。行使を遠ざける外交活動、とりわけ近隣諸国との友好関係再構築にも総力を挙げるべきだ。


2014年07月02日水曜日

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