安倍政治を問う 試される民主主義の底力
もはやこれは、戦後の安全保障政策という次元にとどまらず、戦後民主主義にとっての「大転換」と言っても過言ではあるまい。
安倍晋三内閣はきのうの臨時閣議で、歴代の内閣が「行使できない」としてきた憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認する閣議決定に踏み切った。
国民に定着した憲法解釈を一内閣の裁量でひっくり返してしまう短絡と無謀、密室の与党協議で先に決めて国会審議と国民への説明を後回しにする倒錯と専横、そして最高法規の憲法で権力を縛る立憲主義に対する懐疑と軽視-。どう考えても納得できない疑問と矛盾に満ちた閣議決定である。
集団的自衛権を「使える」としたいのなら、憲法解釈の変更という姑息(こそく)な手段ではなく、正々堂々と国会で憲法改正を発議して国民の判断を仰ぐべきだ。私たちは一貫してこう訴えてきた。にもかかわらず、解釈改憲へ突き進んだ安倍政権の姿勢を強く批判するとともに、あらためて議会制民主主義のあり方を問い直したい。戦後政治を支えてきた民主主義の土台が揺さぶられ、
その底力が試されようとしていると痛感するからだ。
▼開店休業状態の国会
何より重大な問題と指摘したいのは安倍政権の政治手法である。首相が「検討開始」を正式に表明したのは5月15日だ。「期限ありきではない」と言いながら、わずか1カ月半で強引に閣議決定へ持ち込んだ。しかも論議の場は自民、公明だけの与党協議であり、国会は開店休業状態だった。
その与党協議もお粗末の一言に尽きた。いわゆるグレーゾーンを含む事例集、自衛権発動の新要件、さらには集団的自衛権の問題とは全く異なる集団安全保障への参加まで取り上げ、目くらましのように論点は次々とすり替えられた。結局は閣議決定の文章表現をめぐる自民と公明の内輪の相談事にすぎず、いくら「限定的」「歯止め」といった修辞をまぶしても言葉遊びの域を出なかった。
与党は今回の閣議決定を踏まえ、衆参両院の予算委員会で閉会中審査を行う構えだ。「国民に説明するため」という。これは「国民への説明は後回しでした」と正直に白状したも同然ではないか。
集団的自衛権の行使容認という極めて重大な政治判断の是非を脇に置くとしても、憲法が「国権の最高機関」と位置付ける国会を軽んじ、主権者の国民に対する説明責任を果たしていないという一点において、今回の閣議決定は憲法に基づく民主主義の理念と手続きに反すると指摘したい。
それにしても、これほど重大な問題なのに自民党内で異論や反論がほとんど聞かれないのはなぜだろう。この老舗の保守政党は確かに「自主憲法の制定」を党是として誕生した。しかし、党内にリベラル派も抱え、憲法上の問題も絡む安全保障政策には慎重を期す「安全装置」が組み込まれていたはずだ。戦争を体験したベテラン議員の相次ぐ引退と世代交代で、そうした機能は失われたのか。
▼健全な批判勢力こそ
首相官邸や党執行部から「号令」が出れば唯々諾々として従う。もしそんな「沈黙の巨大与党」になっているとしたら、党名に冠する「自由」「民主」の名が泣く。連立合意にない集団的自衛権の行使を認めてしまった公明党も「平和の党」という看板を自ら破棄したと言われても仕方あるまい。
野党の責任も重大である。民主党は安倍政権の解釈改憲という政治手法には反対だが、集団的自衛権行使の是非そのものについては党内の意見集約ができず判断を留保したままだ。野党転落から1年半以上もたつというのに優柔不断のぬるま湯から抜け出せない。
日本維新の会やみんなの党は野党再編のあり方や党運営をめぐって分裂する始末で、「自民1強多弱」にブレーキをかけるどころか、拍車をかけてしまった。
急展開した集団的自衛権をめぐる論議と決定のあり方から学ぶべき教訓は「健全な批判勢力がなければ民主主義は危機にひんする」という自明の理ではないか。
私たち国民は、「数の力」を過信して物事を乱暴に決める与党と、無為無策のまま立ちすくむ野党で構成される国会に国政を負託した覚えはない。
あえて繰り返す。民主主義の底力が試されようとしている。
=2014/07/02付 西日本新聞朝刊=