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【社会】

戦争、子ども巻き込む 学童疎開経験者 機関紙「赤とんぼ」発行

機関紙1号の発送作業をする学童疎開の経験者ら=東京都港区で

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 戦時中に東京都などから全国各地に避難した学童疎開の経験者が、当時の体験を次世代に伝え残すため、今月から機関紙の発行を始めた。政府が学童疎開の実施を決めてから三十日で七十年。当時の学童らは「集団的自衛権が議論される今だから活動を始める意義がある」と話す。戦争体験を語り継ぐ意欲は衰えていない。 (秦淳哉)

 十五日付で機関紙「赤とんぼ」の第一号を発行したのは、さいたま市の小林奎介(けいすけ)さん(82)ら、学童疎開の経験者を中心とした十二人。これまでも自らが体験した学童疎開の実態を伝えるため、別の団体で写真展示会や体験記の発行、資料収集などの活動を二十七年間続けてきた。

 メンバーの高齢化もあり団体は昨年、活動を一時中断した。しかし「戦争体験の風化は危機的だ」との声がメンバーから上がり、七十年の節目を前に昨年、新たに「学童疎開資料センター」(東京都港区)を発足。小林さんが代表となって活動を再開し、「赤とんぼ」の発行を決めた。

 疎開先で飛んでいた赤トンボの光景が今も目に焼き付いていることが、タイトルの由来。第一号の「発刊にあたって」の一文には「集団的自衛権の行使が喧伝(けんでん)されるなど、あの戦争の時代へと一歩一歩近づいているようでなりません」と指摘。「学童疎開の体験を歴史としてきちんと記憶にとどめておくことは私たちの責務です。二度と戦争を起こさないための貴重な証しになるはずです」などと記した。

 このほかにも資料センター所蔵資料のうち、沖縄からの疎開を記録した出版物四十二冊を特集した。A4判八ページで、五百部を印刷し、交流のある学童疎開経験者や研究者のほか、東京都内を中心に各地の図書館あてに発送した。今後も年四回の発行を目指すという。

 小林さんは十二歳の時に東京都荒川区から福島県熱海町(現郡山市)に疎開した。毎日ダイコンの食事ばかりで、最初はおやつとして出たサツマイモも、いつの間にか主食となった。農家の軒先にあった干し柿や干し芋を盗む児童も出て、食糧をめぐる争いは激烈だった。中学進学のため半年後に東京へ戻ったが直後の空襲で自宅は焼け落ちた。「食べ物がなくて、つらかった。子どもたちを再び戦争に巻き込ませたくない。この気持ちが活動を続ける気持ちにつながった」

 静岡県奥山村(現浜松市)に疎開した東京都品川区の中野登美さん(79)も「生きている限り疎開体験を語り続けたい。歴史を学ぶことの大事さを知ってもらいたい」と語る。

 資料センターでは学童疎開が始まった八月に向け、体験者の講演会なども計画している。

 <学童疎開> 本格的な本土空襲が始まる恐れから、政府は1944年6月30日、東京、横浜など都市部に住む児童を疎開させると閣議決定した。対象は国民学校初等科3年生から6年生。親族を頼る「縁故疎開」を原則とし、疎開先がない児童には学校単位の「集団疎開」も実施した。その後1、2年生も対象に加え、疎開児童総数は40万人とも70万人ともされるが、正確には分かっていない。

 

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