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「罪償われた」と言える水俣を
公害ない社会 子どもら決意
「尊い犠牲を無駄にしない」――。水俣病の公式確認から58年を迎えた1日、熊本県水俣市で開かれた水俣病犠牲者慰霊式では、参列した子どもたちも、公害のない社会の実現へ向けた決意を述べた。
「鎮魂の鐘」が鳴らされる中、参列者らが黙とうをささげ、慰霊碑前に菊の花を供えた。
「祈りの言葉」に立った同市立水俣第二中の福島遼太郎君は「つらく、苦しい体験をした水俣は、環境モデル都市として全国に知られるようになった。自分たちは何ができるのか考え、これまでの学習をもとに、考えを行動に移していく」と力強く語った。
これに先立ち、西田弘志市長は式辞で、「未来を担う子どもたちのため、水俣病と向き合い、水俣に生まれて良かったといえる地域を作っていくことが大切。被害者や遺族らが真に報われるよう、住民協働で明るく希望ある地域を目指したい」と誓った。
初めて式典に参列した天草市新和町の女性(83)は「58年たっても水俣病は終わっていない。少しでも早く、みんなが救われることを祈っていきたい」と話していた。
今回から、最大の被害者団体の水俣病
長い闘い 川本輝夫さんの長男が切々
慰霊式で、市立水俣病資料館語り部の川本愛一郎さん(56)が述べた「祈りの言葉」の要旨は次の通り。
「俺が鬼か。親父は69歳で死んだぞ。病院の畳もなか部屋で、
自主交渉派のリーダーとして、チッソ本社に座り込んだ父・川本輝夫は、交渉の席で、社長に対して水俣病で狂い死にした祖父のことを、涙にむせびながら語りかけました。
父の闘いは、不条理に奪われた人間としての尊厳と生活を、名前を持った一人ひとりのその手に取り戻すことにありました。
昭和46年12月6日、父は「1週間くらいで帰ってくるばい」と言い残して、チッソとの自主交渉のため東京に向かいました。帰ってきたのは1年9か月後でした。東京で激しい交渉が続き、父たちがニュースにでると、夜中には決まって嫌がらせ電話がありました。
恐る恐る電話に出ると「バカ」と言って切れます。葉書には「死ね」と大きく書いてありました。玄関に消火器が置いてあったことも覚えています。これ以上チッソを責めると火をつけるぞ、という脅しです。母は私たちに、懐中電灯を抱かせて寝かせ、暴漢が入ってきた時は、懐中電灯を頼りに隣家に逃げ込むようにと言い聞かせていました。
過酷でしたが、胸を張ってきました。母が「父ちゃんはえらかっぞ。いつも人のために闘っている」と教え続けたからです。
父は、患者救済に生涯をささげて平成11年に亡くなり、「熱意とは、ことある
私は市立水俣病資料館の語り部をしてます。ある時、小学5年の男の子が「川本輝夫さんは長い闘いをしてこられたのですね」と感想を述べました。未来を託す子どもたちに「長い闘い」と思わせることに、悔しさと責任を痛感します。
加害責任が確定した国や県、チッソはこれからも長い闘いをしていかれるのでしょうか。
水俣病事件の教訓とは何でしょうか。私は、未来を担う子どもたちに、「長い闘いがあったが、当事者が真実に生きることで過ちは謝罪され、罪は償われ、責任は果たされた。皆が幸せに暮らせるようになった」と胸を張って言えるような水俣を、そして日本を受け渡したいと切に願います。
(2014年5月3日 読売新聞)
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