J論

 

 

 「指輪をつけてスラム街を歩けないのは不当な抑圧だ」というのが、最近のインターネット上の女性の主流な論調です。もちろん、スラム街が歩行者に抑圧を与え、歩行者の権利を侵害していることは間違いないでしょう。しかしそのとき、インターネット上で女性は「スラム街の住民の性格が悪いから私は指輪をして歩けない」ということを言い続けます。「スラム街の住民は恥ずかしい」「人の気持ちを考えるべき」という主張します。

 

 私はとても不思議です。「虐待をする母親」に対してはとても温かい論調(育児で憔悴しきってるのよ)を向ける女性たちが、なぜスラム街の住民に対しては道徳を説いたり、辛辣な言葉や自己責任論を向けるのでしょうか。スラム街の住民だって貧しい生活の中ですり減り、憔悴しているのです。道徳や法律を守るよりも、明日のご飯のためにリッチな人間の指を切り落として指輪をゲットすることの方が大切なのです。「虐待をする母親」に事情があるように、「スラム街の住民」にも事情があるのです。

 

 だから私たちは、社会の仕組みについて考えるのです。お母さんが育児で追い詰められない社会にするためには、スラム街を減らすためには、私たちは何をすればいいのか。それを考えるのが市民です。「あいつは性格が悪いから悪いことをするんだ」で済ませるのではなく、「あいつがあんなことしなくてもよくなるような仕組みを作ろうよ」と考え続けるのが社会的正義だと私は考えます。

 

 しかしいくら社会を整備したところで、貧困の根絶というのはとても難しいことですし、また貧富に関わらず「根っからの悪人」というものは社会の中に常に数%生まれ続けます。貧しい人間は切羽詰まっていて、私の命乞いなど聞かずに私を殺し、財布を奪って行くのです。サイコパスは私の命乞いを聞いてもエクスタシーを得るだけです。

 

 「言ってもわからない奴」「話の通じない奴」「問答無用で殺しに来る奴」というのは、社会の中に必ず居ます。だから私たちは、そういう人間が存在しているということを知っておき、またそういう人間に遭遇したときの逃げ方、対処の仕方を知っておかなければなりません。もちろん常にそういうことを考えて疑心暗鬼になる必要はありませんし、またそういう知識や対処法が役に立たないようなシチュエーションも多々あるでしょう。しかしそれでも、それらを心の片隅に置いておいて、緊急時の備えにしておくべきだと私は思います。

 

 「そういう備えをさせられるのが抑圧・差別」だと言う人が居ます。ならその人は、そういう抑圧を解除するために、スラム街を無くす運動をするべきなのです。それはスラム街を力ずくで壊せということではなく、どのような経済体制にすればスラム街を無くせるのか、どうやってスラム街の住民に教育を施して健全な経済の流れに組み込んで行くのか、そういうことを考えるべきなのです。そういうことを考える気力が無いのなら、初めからスラム街に近づかなければいいのです。これは自衛論です。あなたが相手の事情を考えないのなら相手もあなたの事情は考えません。スラム街でありのままの自分で指輪をして歩くのなら、スラム街の住民もありのままの姿で群がって来るでしょう。

 

 最近のインターネットでは「人ん家の前でウンコできないのは抑圧だ!差別だ!」というレベルの言説がまかり通っていて私は少し困惑しています。そんなウンコを家の前でされた人はどういう気持ちになるのでしょうか。たとえば、事前に「私はお腹が弱いので」とか「あたしにはスカトロ性癖があるので」とか説明されれば、家の前でウンコをされても不快度は多少下がるというのに、そういった事前説明なしにいきなりウンコをしようとして周囲の人間に止められて、「これは排泄への抑圧だ!」と叫んでる感じなんですよね。「堂々とウンコできるあたしに嫉妬してるんだろ!」とかもよくありますね。

 

 社会的な常識として確立されていないことをやるときには、周囲への多少の説明だとか、もしくは「ゴチャゴチャ文句言って来たら殺す」くらいの態度を見せるとか、そういうことをしてくれれば、こちらとしても受け止め様があるのですが、そういった文脈を作ろうとしなかったり、態度を表明しなかったりして、いきなりウンコをし始めて、周りの人間にビックリされると、「傷ついた!差別だ!」と言うのは間違っていると思います。前にも言ったとおり、自分の加害性とか、自分の中の悪とか、公共の幸福とか、そういうもので悩みぬいた人間に提示される生き方の1つが「ありのまま」であって、そういうもので悩まずに普段からありのままに生きてるあなたが更にありのままになってもしょうがないのです。人の家の前でウンコをしたいのなら、その家の人間に事前に了承をとるとか、もしくは道ばたでウンコをするのが普通な社会を作るように努力をするべきであって、そういったことすらせずにいきなり私の家の前でウンコをするというのなら私は警察を呼びます。

 

 備えをしないということ、文脈を作ったり説明したりしないこと、指輪を外さないこと、これらのことは、無防備であることももちろんですが、その無防備さは他者への加害にもなります。「そんなことされたら介入するしかない」という状況を作り出して、いざ介入されると「抑圧だ!自由に生きてはいけないのか!」と怒るのです。あなたがそんなに自由に生きたいのならもっと考えるべきです。自由はタダではありません。障害者が座敷牢に閉じ込められなくなったのも、同性愛や性同一性障害への理解が進んでいるのも、それは先人たちが文脈を作り、説明し、ときには反対勢力を(ある意味で)殺してきたからなのです。そういったことをせず、何となく・雰囲気で、「家の前でウンコするのもオッケー」という社会にしようとする(ゆるふわ革命)のはお気楽過ぎます。そんなゆるゆるの土台と骨組みの建物は簡単に壊されますよ。私は障害者やトランスジェンダーの人たちをウンコだとは思っていません。しかし、彼らをウンコだと思っている人たちは昔大勢居たし、今も居るんです。しかしそういう人間たちを潰して来たから今があるのです。

 

 サッカー日本代表とかもそうなんですが、「ウチらの事情も考えてよ」とか「アタシの好きなようにやらせてよ」とか言っても、敵がそうさせてくれるわけないじゃないですか。だからやりたい事をやるときは工夫しなきゃいけないのに、その工夫を放棄して、相手(敵)の良心に全てを託すやり方ってすごく危ないし、私はやろうとは思わないのですが、最近のインターネットってそういう性善説をゴリ押ししようとする人が増えてるんですよね。それはすごくガラパゴスだと思うんです。「相手の事情を考え合う」なんてのも、たとえば欧米でも上位数%なんですよね。それを切り取って、さも欧米の人間全てが「相手の事情を考え合って不可侵だ!個人主義!日本人も!」とか言っても、それは無理ですよ。実態から剥離してます。個人主義をナメないでください。

 

 日本はこれから、更に「文脈」や「説明責任」を失って行くのでしょうか。そして、他者の良心を拠り所にして生きていく社会になるのでしょうか。私はそれは怖いので、誤解されたくないことは積極的に説明しますし、また他者の良心を絶対視もしません。まぁマジョリティは文脈を作ったり説明をしたりする必要も最初から無いから、そういう機能がどんどん退化して行ってるっていうのもありますかね。でもだからといって、人の家の前でウンコするときに説明しなくてもいいということにはなりません。私の良心を信じられても困ります。そりゃ日本人は知らない人同士がお喋りするハードルがめっちゃ高いですが、それでも喋りかけてください。私は無視することはありませんので。