日々、これ口実

PDDである自分の感じたこと、思ったこと、ただの雑記

発達障害と精神疾患と

嫁との日々をブログに綴り始め、まだ3回しか更新していない。

3月末に体調を崩してなかなか書き進められず、やっとそれなりに動けるようになりちまちまと書いていたら煮詰まってきたので、切り替えに別のことを書こうと思います。

 

4月のほとんどはベッドの上のような生活をしていて、Twitterにpostする気力もなく、たまに眺める程度。ちょっとした本も、漫画でさえ読むような気になれず。

 

そんな中、適度に読みやすくて、働かない頭を少しでも動かしてくれていたのが、三沢文也氏のブログ

とある青二才の斜方前進

素直に面白いという感想でしか表現できないのだけど、日常に追われている頭を切り換えることができてとてもありがたい。

 

影響されて、そのときどきの時事について頭の中で文章を構成していたけれど、寝る前に沢山浮かぶアイデアが次の日には消えているように、アウトプットもできず結論にも至らないまま、また浅い眠りに就く日々でした。

 

全く関係ないテーマで文章を書いていたら、3000文字程度に半日以上もかかった上、文体が定まらずちょっと公開するにはもうちょっと推敲が必要っぽいので、1年近く前に書きっぱなしにしていて、公開してないものをほぼ原文ママで少し追記して公開します。

 

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福祉の世界の中でも、一般的にまだ正確に理解されてない分野である、自閉症スペクトラム、広汎性発達障害、あと精神障害の分野にある意味で草の根的に関わってかれこれ10年ちょっと。
認知は多少進んだと思う。言葉として知ってるだけで、理解があるといったらない方が圧倒的。誤解も多い、いや寧ろ誤解の方が多いのかもしれない。


自分自身がおかしいなと思ったのは中学の頃。

そ の違和感がなんなのかわからないまま、知らず知らず大学ではその関係のゼミに進み、院生になった頃、同じゼミの人達から指摘されて、医師からの診断はない ものの、自分は発達障害があるものとしてやっていた。それをオープンにした時点でその世界にはいられないと思ったから、ひたすらクローズドで。

今は転院したが、3年ほど前に通っていた心療内科のドクターから、広汎性発達障害ADHDの診断を受けた。

精神障害者2級の手帳の更新の診断書にはそれまでのうつ病ではなく、そちらの方の診断が書かれていた。無論、いわゆる三つ組みの全てにチェックが入っていた。(2014/4/30追記:専門医による正式な診断は今年の3月)

訳あって、その病院から転院したが、そのドクターも自分もそうだということと自分はこの場所で適応できたからということを言っていた。

自分の発達障害の程度とWAISで計られたIQで随分無茶を言われたなとよく思う。

今でも痛烈に心に残っているのが、「あなたは組織の中で働くのはまず不可能だ」と言われたこと。理由はちょっと言いにくいので、もう一つ言われたことは、「次の東大入試受けろ。受かるから、入学するな。(当然理Ⅲ、医学部)それで、ハクをつけろ。そうすれば働ける」

今になってみると、医者の言うことなのかと思うが、ドクターと患者ではなく、診察室で行われるゼミのようなものだったと思う。他の患者が10分耐えられない (怖くて)と言われてた場所で、毎週1時間近くフロイト派精神医学についての口頭試問と、病院及び関連施設の経営についての話を聞いていた。きっとあれは擬似的な師弟関係だったのだと思っている。転院 した理由の半分近くがこれが理由。自分は病気を治すため、障害と向き合うために通院していたのであって、精神医学と施設経営論を学びに行ってる訳ではなかったから。


対外的には、児童の広汎性発達障害が専門ですと言ってはいるけれど、上記の病院でのあれこれの通り、精神医学に関して全くずぶの素人というわけではない。

院での研究がひきこもりについて。2000年初頭の話。

今だから言えるが半ば強制的に教員から現場に放り込まれた。言葉を選ばなければ、顧問の依頼をたらいまわしにして「君のフィールドだから」と院生である私に投げられてしまったのである。底なし沼しか見えない問題だったから仕方ないかなと今では思う。当時はまだ研究や対処法も進んでおらず、現在で言う統合失調症の症状ではないひきこもりとして「非分裂性ひきこもり」という言葉が医学論分では書いてあった。本によっては「閉じこもり」だったり「引きこもり」だったりで、言葉も曖昧、ましてや定義も完全になされていなかった。ある論文の英文のsubjectには”Social withdrawal”とあったが、”Social withdrawal”は統合失調症に起因するひきこもり症状のことを指すから適切でないといった議論がなされていたのを覚えている。


自分は精神科医でもなんでもなかったが、様々な文献を読んだ結果、ひきこもりは精神疾患を起因としないという前提が多かったため、現場に行き目の前の人が精 神的な疾病なのかどうかを見極めるだけの力が最低限必要だった。かといって様々な理由で、結局ほぼ独学で精神医学を勉強するしかなかった。師匠の教えも当 然あったが、それが臨床でとなると結局自分で勉強しつつDSM-ⅣやICD-10をひたすら参考にするしかなかった。

だが、目の前にいたのはほとんどが医学というものに絶望し、民間療法や場合によってはカルト宗教に傾倒するような人達だった。

明らかに精神疾患であるケースも多数あったが、すでに病院は通りすぎた道で、必要なのは特効薬となるなにか。そんなものは当然存在しなかった。

幸か不幸か、師匠から家族の力というものを耳にタコができるくらい教わった上で、家族療法、ナラティブセラピーを専門とする臨床心理士の教員から、ある程度の訓練を受けていたので、自分で学んだことやそれらを自分の中でアレンジして現場で使うようになっていた。

本当に危険だったと今でも思うのが、駆け出しにも満たない人間がスーパーバイズを受けずに現場に立っていたということ。

結果、心身がボロボロになっていくのは実感していたし、自分自身が通院するようになったのもその頃。

 

院生時代はひきこもりの現場だけに関わっていたのではなく、不登校児のフリースペースと親の会、正式なサービスとしてはやっていなかった自閉症児専門のデイサービスに関わっていた。

結論からいうと、そこが卒業後の進路に大きく影響したし、自分は元々児童と不登校の問題をずっとやっていきたいと思っていた。

なぜ研究していたがひきこもりだったのかというと、単純に研究が進んでいなかったのと、不登校の先にひきこもりがあるなら、それも児童の問題ではないかと思ったから。

 

その現場で散々思い知らされたのが、不登校児と自閉症スペクトラムの関係が実に深いと言うこと。

今でこそ社会不適応と発達障害について多く語られるようになったが、10数年前はまだ自閉症スペクトラム(広汎性発達障害)、ADHD学習障害その他諸々 の認知度はまだ熱心な一部にしか知られていない状態だった。それらと不登校問題を一緒に考えようとすれば「うちの子どもを障害者にするつもりか」と親御さ んから激しい叱責を受けるのが当たり前で、それでもごく一部の親御さんからは、何とか不登校発達障害の関係を論文か本で世に認知させて欲しいと懇願され ていた。

医師ではないので、仮にその児童になにかあったとしても、診断はできないし、見立てだけでは根拠の面で論文はおろか本なんて無理だった。

それに比べたら、ここ数年でそういったことをオープンにすることが多くなり、善し悪しあれど、自閉症スペクトラムと二次障害により、児童や成人問わず社会的に支障をきたす場合があるといった内容の特集や著作が多く出てきたのはいいことだと思っている。

 

それよりも数年早い段階で精神疾患というものが、少しずつ世に知られるようになっていっていた。

疾病が認知されるということはそれだけ一般的に話題にあがるようなものになり、人々の病気や病院に対する心の敷居が低くなったと言われるのもわかる気がするが、犯罪が起こり精神疾患が疑われればマスコミは面白がるし、不景気の煽りを喰らって様々な問題からうつが多くなったり、エッセイという名の闘病記が売れるようになった事、言い出したらきりがない様々な要因から認知され始めたと感じる。

 

精神の病が重度の統合失調症の人に持つ「気の狂った人」というイメージから、うつ病の「しんどくて動けない人」に少しずつシフトしていっているような気がしている。

 

こころの病気を持った人が多くなったのは事実かもしれないが、それには結果的に通院する人が増えたという結果からきている考えておかしくないだろう。病気でも病院にいってなくて数に上がらなかったケースが数にあがるようになってきた。

結果的に隣の人が精神疾患を抱えていても不思議に思わないような風潮が少しずつ出来てきている。

当然、無知から来る偏見も多くあり、自分自身もそれをとある職場で経験した。

精神疾患だけではなく、自閉症スペクトラムも流れは似たようなもので、「言葉は知っているだけど何かは知らない」という人が多く、理解もされやすくなってきたが、偏見や差別に晒されやすくなったとも言える。

 

私に実際会ったことがある人に、「実は広汎性発達障害双極性障害なんよ」と言ったところで、理解する人はそう多くないと思うし、逆に否定されると思う。「自分の知ってる発達障害と違う」「自分の知ってる精神疾患患者と違う」言葉は違えどこう思う人が多いのではないかと思う。

 

精神疾患自閉症スペクトラム、それぞれ別の視点からみないと非常にややこしく、理解しにくいのだが、それぞれ影響しあっているので、複合的に考えないと難しい面がある。

 

実際、両方ともの視点から診ることができる医者はそう多くない。

双極性障害ADHDはどちらかと誤診されやすいケースであり、躁状態と多動の誤診で投薬ミスもある。

 

医師でも判断に迷うものを、言葉尻ひとつだったり、10個ほどの質問に丸を付けさせて自己診断させて、「アスペが」と罵ったり、不安にさせるものがあとを絶たない。

なにより、アスペルガー症候群という診断自体なくなったのだから。

 

精神分裂病」という病名が「統合失調症」に変わることになったとき、師匠が「自閉症こそ変えなければいけない言葉だし、脳の統合機能の問題なんだからむしろ自閉症統合失調症にしたらよかったのにね」と私達に言っていたことがあった。

 

障害を「障がい」という表記に変えたり、子供を「子ども」にしたりする前に、誤解を生みやすい「自閉症」という診断名を変えていけるような働きをしたほうが、誤解を生みにくくなるのではないだろうか?

自閉症スペクトラムも広汎性発達障害もほぼ同じ意味だが、概念的に難しい。

スペクトラムは連続体と訳すが、それでも一般的には難しい。

虹の色のように境目がなくその様相が変わっているとよく説明するのだが、お役所さんも多くの人も白黒つけるというか、きっちり線引きしてないとよくわからないじゃないかとなる。

法を作るにも理解するにも基準が必要なのはわかるが、精神疾患自閉症スペクトラムも連続体なので、ここからが自閉症とか、ここからがうつ病というはっきりしたものが実はない。よほどはっきりと様相を呈しているものでないと、これ!とは言いにくく、乱暴に言ってしまえばDSMなどの診断基準から大体これにあてはまるからこの病気と決めていると言っても過言ではないと思う。

 

便宜上自閉度という言葉を使うが、人によって自閉度は高かったり低かったりでそれが目立つか目立たないか、所属する社会で浮くか浮かないか、本当にただそれだけなので、自分は自閉症スペクトラムじゃないと言う人がいても一概に肯定は出来ない。

 

精神疾患自閉症スペクトラムの診断基準においても、私たち福祉の仕事をやっている人においても大前提として「それにより本人や周囲の人が困っている」状況があって初めて診断が出来たり、福祉が介入できたりする。

 

だが、未だに偏見が大きいので、私のようにクローズド(隠して生きる)という選択肢を選ばざるをえない状態では、困っていないorメリットがないのでオープンにしないという人との区別がつきにくい。

 

結果的に問題が深刻化してからでしか医療も福祉も入っていけなくなってるケースが多いのでないかと。

ひきこもり問題も、私が関わっていた頃は本当にシリアスな問題として報道もされていたが、一般的にはニートというカジュアルな言葉にすり替わり問題自体を軽視されがちだと思う。

 

問題があったらぼかして平たくして出てきたら叩く。

福祉に携わって十数年。そんなことが何度も繰り返されている気がしてならない。