あなたの力 信じます
精神科医 大 野(おおの) 裕(ゆたか)
一九五○年、愛媛県生まれ。一九七八年、慶應義塾大学医学部卒業と同時に、同大学の精神神経学教室に入室。その後、コーネル大学医学部、ペンシルバニア大学医学部への留学を経て、慶應義塾大学教授(保健管理センター)を務めた後、二○一一年六月より、独立行政法人 国立精神・神経医療研究センター認知行動療法センターセンター長に就任、現在に至る。慶応義塾大学訪問教授、講師(非常勤)を兼務する。近年、精神医療の現場で注目されている認知療法の日本における第一人者で、国際的な学術団体Academy of Cognitive Therapy の設立時からの会員であり、日本認知療法学会理事長。日本ストレス学会副理事長、日本うつ病学会や日本不安障害学会の理事など、諸学会の要職を務める。著書に「高齢者のうつ病」「「心の病」なんかない」「弱体化する生物・日本人」「はじめての認知療法」ほか。
き き て 山 田 誠 浩

山田: 今の時代ですね、ストレスを感じたり、不安を持ったりという方が多いというふうに思うんですけれども、誰でもそういう可能性を、つまりストレスや不安を感じる可能性というのがあるとも言いますか。
大野: まったくその通りですね。やはり誰でも不安やストレスを感じますし、不安やストレスは必要なものでもあるんですね。
山田: 必要なものなんですか?
大野: ええ。例えばストレスというのは、例えば緊張するとかということですけれども、ほどほどに緊張するから私たちは集中できるわけです。例えばこういう対談をしている時にも、ダラッとしているとなかなか受け答えが上手くいかない。まあほどほどに緊張する。だけど緊張し過ぎると、また考えが上手く働かないわけですね。ですからほどほどにストレスというのは必要なんですね。不安もそうですよね。まったく不安を感じないでフラフラと歩いていると、なんか自動車にぶっつかるかも知れない。やっぱり交通事故に遭うと心配だなあとか、そう考えるから自分を守ることができるわけです。ですからそういった意味では、ストレスは自分の力の基になりますし、不安というのはある意味で心の警戒警報だと言われるんですね。ですからそれ自体は悪いことではないですし、むしろ必要なことなんです。落ち込むことだってそうですね。人間関係が上手くいかない時に、全然落ち込まないで、「いや、大丈夫さ」なんて言っていると、ますますぎくしゃくしてくるわけですね。ちょっと落ち込んで何が悪かったのかなと、少し反省しながら振り返る。解決の手口を考える。ですから鬱にしても、不安にしても、ストレスにしても、必ずしも悪者ではない。
山田: そうすると、大野さんが不安を持っていらっしゃる方に寄り添って行かれる時は、それをどういうふうに、どういう方向に向けていこうとしていらっしゃるということなんですか。
大野: 何か問題がある時に、「これがあるからダメだ」というふうに退却する方向ではなくて、「これがある。じゃ、それを解決するためには、どうするばいいか」。そしてその時に大事なのは、「今何ができるか」なんですね。で、落ち込んでいらっしゃる方というのは、どうしても過去に引っ張られているんです。「あんなことしてしまった」「あんなことしなければよかった」。確かにそれはあるんですけれども、過去は変えられないんですね。だけど今からだったら変えられるわけです。ですから過去、ああいうことをしたけれども、じゃ、今からどうすればいいだろう。そしてもう一つは、将来を考えると不安になるんですね。何が起こるかわからない。悪いことが起こるんじゃないか。その時も将来はわからないんです。だけど今から準備をすることはできるんですね。ですから今に目を向ける。そういう力を私たちはもともと持っていると思うんです。だから落ち込んだり、不安になったりしながら、今何かをしよう、というふうに思うわけですね。ですから私がカウンセリングをする時というのは、そういうふうに今何ができるか。この方が、自分でどういうふうなことができるだろうか、と考えながら、その力を上手く出して頂けるようにお話をしていく、ということなんです。
ナレーター: 大野さんのカウンセリングの特徴は、患者の話を丁寧に聞きながら、質問を重ねるところにあります。この患者は人前で上手く話せないことを悩んでいました。大野さんは質問を繰り返します。そして患者の悩みが自分の思い込みに過ぎないことに気付くよう導いていきます。
山田: 実際にカウンセリングをなさる時に、何を考えて大野さんはカウンセリングしていらっしゃるんですか。
大野: その時は、先ず気持に寄り添うことだと思うんです。どういうふうに感じていらっしゃるか、というのを、私も自分で感じられるように、ということを、一つは意識しているんですね。その上で、その方がご自分の考えに縛られないで、いろんな視点を持つことができるように、ご自分でなっていかれるという、そこがポイントだと思うんです。ですから、私がアドバイスをするのではなくて、私が疑問に思うことをお聞きして、その中でご本人が気付いていかれる。そこがとても大事だと思うんですね。そのためには相手の気持ちに寄り添っているということが必要なんですけれども、例えば私たちは状況がはっきりしない時というのは不安ですから、自分なりの状況判断をして、自分なりのストーリーをつくるわけです。その人と上手くいっていない。それは、例えば連絡しても上手く通じない。メールを送っても返事がこない。それは自分のことを嫌っているからだ、というふうに、ある程度ストーリーがはっきりしないと、何か落ち着かないわけですね。ですからそのストーリーをつくる傾向があるんです。おそらくみなさんそうだと思うんです。なかなか曖昧なままずっとしておくというのは難しいと思うんです。おそらく「こうじゃないかな」といろんな推測をされる。で、それが推測であるうちはいいですし、その推測が当たっていると、それはそれでいいんですね。ところが推測に過ぎないことが、それが事実に違いない。嫌われたかな、と思った時に、「嫌われたかな」ではなくて、「嫌われたに違いない」というふうに、だんだん思い込んでくると、ご自分の考え、世界の中に入ってこられるという感じになるわけですね。だけど、上手くいっていた時の話だとか、その人に対するプラスの感情とかも話されることもあるわけで、ですからそれも参考にしながら、あの時は一緒に楽しく旅行をしたとおっしゃっていたけれどもとか、少しその人の体験を例に出しながらお話をしていくと、その人が見えていなかった部分が、だんだんとご自分で見えるようになってくるんですね。通常私たちは、これまた自分で自然にできていることなんですね。あの人怒っているのかなと思って、いや、だけど、この前はちょっと温かい言葉も掛けてくれたし、どうなんだろう。ちょっとメールでも送ってみるかな、というふうに考えられるんです。ところが精神的にちょっと弱くなってくると、そこが上手く考えられなくなって、だんだんとやっぱり自分は嫌われているんだ、というふうに思われるようになる、という。そこがいわゆる悩みが深くなっていくきっかけになり易いですね。人間というのは、完璧な人っていないわけですよ。相談されている方だけじゃなくて、例えば私も、いろんな欠点があるわけです。そして上手くいかないこともあるんですね。私は、「人に頼るのが上手い」って言われることがあるんですけれども、それは自分にある意味自信がないからなんですね。そして自分ができないと思うことは、人に頼んで、できれば一緒にやって貰う。もっとよければ、相手の人が全部やって貰えるといいんですけども、そうもいかないのでやる。それはやっぱり自分が、できない部分があるんだ、と思えているからだ、というふうに、最近漸く思えるようになったんです。と言いますのは、やはり少なくとも私の場合に、過去の体験から言っても、学生運動の時代があり、その頃私は予備学生だったんですけれども、七十年安保の前後ですね、やっぱり一生懸命やっても、結局そんなに社会が変わらなかったみたいな、ちょっとした絶望感がその頃あったんですね。例えば「佐藤訪米阻止」と言って、みんな学生が騒いでいても、結局佐藤さんはアメリカに飛び立ってしまうという。私、今でも覚えているんですけれども、みんなで雑魚寝していて、朝だと思うんですけれども―朝か昼か、目が醒めたら、「今、佐藤首相が飛び立ちました」と言って、飛行機の音がラジオから流れてきた。ああ、結局こういうものなんだ、と、ちょっとがっかりした思いがあるわけです。そうすると、社会を見るよりは、人をなんか手助けできないだろうか、というふうに、それ一つの例ですけれども、そういうふうに思って、そこの目の前にいる人乃至はご家族、そういう人たちを手助けするというのが、今の私のスタンスなんですね。
ナレーター: 大野さんが生まれ育ったのは、愛媛県野村町。高知県との県境に近い山奥の村です。この村で一軒の歯科医師の息子でした。小さい頃は、身体が弱かった、と言います。大野さんは、親に言われるまま、松山の神学校(愛光学園)に進みます。十二歳で親元を離れ、下宿生活を始めました。
大野: 凄く辛かったですね。寂しかったですね。身体も小さかったですし、その時に親元を離れる。私、早生まれだったんですね。そうすると、そこで親元を離れないといけない。親は良かれと思ってやってくれたわけです。で、今も私は、その時松山に出たのは良かったというふうに思うんですね。だけどその時点では、とっても寂しい気持が強かったです。おそらく今考えると、鬱の状態だったんだろうと思うんですけれども、家に帰りたいと思っても帰れないんですね。私の実家から松山まで舗装していない道路をバスで行って、途中から汽車に乗って、三時間か四時間かかるんですね。ですから帰るわけにはいかない。じゃ、電話ができたかというと、今のように携帯はなくて、こうこうグルグルと回して交換手を呼んでという電話で、あれ三十分かかるんです、相手が出るまでに。だからそんなに簡単に話もできない。独りポツンと置き去りにされた。で、私が生活を始めたのは、いわゆる下宿屋さんで、中学生から高校生まで十人ぐらいですかね、長屋風に住んでいて、それを賄い付でいるというところで、ほんとに独りになったという孤独感ですね。で、その時私の部屋から松山城が見えたんですね。松山城ってライトアップしているんです。綺麗なんですけれども、夜の九時になると、それが消えるんです。ですからこう見ていて、九時になったら真っ暗になるんですね、山が。それと同時に涙がわぁっと溢れてきてという。あれは確かに辛かったですね。その寂しさを癒してくれるような空間が学校だったんです。ただ勉強はしなかったですし、できなかったんだと思うんですね。だからもう頭が回っていないので、先生から聞かれてもよく答えられない。英語の発音なんかも間違いてしまうとかね。成績としてはなかなか上がれなくて、下の方というか、最下位になったり、いろいろして、結局高校一年の時に落第をするんですね。
山田: 高校生で落第するというか、留年をするというのはなかなかのものですね。
大野: なかなかのものだったと思いますね(笑い)。で、その時に、一つはとっても気持が落ち込んで寂しくなっていて、実際に頭も働いていなかったと思うんです。で、むしろ自分の世界の中に入り込んでしまって、何で自分はこんな辛い目に遭わないといけないんだ。ちょうどその頃読んでいたので、ヘルマン・ヘッセ(ドイツの作家。主に詩と小説によって知られる二十世紀前半のドイツ文学を代表する文学者である: 1877-1962)の『車輪の下』があったんですけれども、あれも若い人が悩むストーリーなんですけど、あれを両親に、特に母親に、「この本を読んでみろ、俺はこんなに辛いんだ」みたいな、突き付けたことがあるぐらいなんですね(笑い)。やっぱりそうなってくると、本来自分の持っている力というのが出せなくなってくるわけです。例えばX+Y=2、Xが1だったらYはいくつか。普通だったら、2引く1で1なんです。それさえもわからないんですね。突然当てられて、「わからない」と。「なんだ、お前ダメだな」と言われて、ああ、やっぱり自分はダメなんだ、と思うと、もうほんとに何もできなくなりますし、やってもダメだと思って、やらないと当然できないわけですよね。ですからそうやって悪循環に入っていったというのが、私は中学時代だったと思います。その時に、だけど私の心に残っているもう一つのことは、父親が私に聞いてくれたんですね。「お前は勉強する気があるのか?」「ウン」と私が答えたら、「じゃ、何も言わないからやってみろ」と言ってくれたんです。確かにそれまでは、特に母親がいろいろ「勉強しろ」とか、「なんであんた勉強しないんだ」と泣きながらいろいろ叱るわけですよ。「何で勉強しない」と言っても、それは何でってわかっていれば勉強しているよ、と心の中で思いながら、ちょっと反抗的に。で、大人の雑誌を見たりしていたわけです。だけど、「もう何も言わないからやってみろ」と言われて、ほんとに両親は何も言わなくなったんですね。それでやっぱりやらないとダメかな、と思って勉強を始めたという。で、先生たちも成績が悪いからダメだというんじゃなくて、「ダメだな」とは言ってくれるけれども、どうやれば勉強ができるようになるかという、そういうことを一つ一つ教えて貰えるとか、例えば英語だったら、「難しいことやらなくていいから、五文型だけ、「主語、述語(動詞)、補語、目的語、付属部分」それだけ覚えていれば文章は理解できるから」とか、これは問題を解決する時大事なんですが、「非常に簡単なことからやるように」ということを教わったりしたんですね。
山田: その後、医学部に進もうというふうに決意されて、医学部の受験をされますね。
大野: 私、最初は現役の時は、新潟大学の医学部を受けたんですね。で、当然通っているものだと思って、愛媛から発表の時に雪の中を見に行きましたからね。そして見たら載っていないんです。愕然としましたですね。そこから受けても落ちる、受けても落ちるという。やっぱりそうすると、何をやってもダメなんじゃないか、という気持になってくるんですね。
山田: それをどんどん受け続ける中、挫折はありませんでしたですか?
大野: ずっと挫折ですよ(笑い)。私、だけど諦めなくて良かったなと思ったんですけれども、浪人を続けると、やっぱり三浪するというのはなかったんですね、その頃。だけど途中で止めるわけにもいかなくなって、そしておそらく医学部に行けば手に職がついて仕事ができるだろう。例えばここでよく文系と言いますが、文系に変わって、そしてどっか会社に就職しようとしても、ここで三年使っているから、就職できるかなとか、例えば私、小説書きたいなと思っていたんで、例えば文学部に行こうかなと思って、だけど自分の才能でそうなられるとも限らないしなと思って、その医学部のところで拘って、漸く最後に慶応大学に通ったんですけどね(笑い)。
山田: 今度はそこで精神科のお医者さんになられるわけですけど、それは何なんでしょう。何故精神科の医師になると決断をされたんですか。
大野: 一つは、やはり医学部の中で、いわゆる人間というものに一番近いのが、精神科だな、と感じたんですね。要するに、内科ですと、非常に理論的に数値を見て病気を考えて、というイメージが私にはあったんです。外科というのは、いわゆるメスを使って、ある意味物理的に身体を治していく。精神科というのは、いわゆる心と言いますか、人というものをみていくという。そこに興味があったんです。おそらくその背景には、いくつかあると思うんですけれども、自分で考えてみると、先ほどお話したような、独りぼっちになった体験だとか、その中で友だちや先生や家族に支えられた体験、そういうのもあったと思うんです。だけど一方で、身体が弱かった小さい頃、成績も悪かった自分ということで、けっこう劣等感もあったように思うんですね。高校時代から空手をやっていたんです。空手を町道場に行って、ちょっと乱暴な感じでやっていた。それは弱い自分を否定する。強い自分をつくりたかったんだ、と思うんです。そういうことで、自分の心理状態にも関心があったし、人を支える、人間的に支えるということにも関心があったし、そして医学の中でそういうものに近いということで、精神科というのを選んだんじゃないかな、と、今振り返るとそう思いますね。
ナレーター: 慶応大学医学部で、大野さんが出会ったのは、日本の先進医療の草分け小此木啓吾(おこのぎけいご)(精神科医、精神分析家。慶應義塾大学教授、東京国際大学教授を歴任。専門は臨床精神医学、精神分析学。特にフロイト研究や阿闍世コンプレックス研究、家族精神医学の分野では本邦の第一人者であった:1930-2003)さんです。大野さんが、小此木さんから学んだのは、人と向き合うことの大切さでした。そしてそれは大野さんの医師としての姿勢の基本となりました。
大野: あの先生は、非常に厳しい先生だったんですけど、非常に後輩思いで、ご自分の自宅に呼んで一人ひとり教えていらっしゃったんですね。それも夜中まで、例えば私に、「じゃ、大野君は夜一時にお出で」「先生、電車がないんですけど」と言ったら、「タクシーはあるでしょう」というわけですね(笑い)。で、行く。で、私が一時から二時まで教わったら、次二時から別の人が待っているんです。というぐらいな方だったんです。ですから一つはそうやって教えて育てていく、それが大事なんだ、ということを、自分を通して教えて頂いたように思うんですね。精神科の患者さんに対して―お年寄りに対してもそうですけれども、医療者が、「ちゃん」付けで呼ぶことがあるんです。「何とかちゃん」と言って。それに対して小此木先生が、「それは失礼だ」ということをおっしゃっていたんですね。やっぱりその人は一つの人格を持った人間なんだから、きちんと「さん」を付けるとかね。そういう人として接することが大事なんだ、というふうなことをおっしゃっていて、それは私の中に凄く残っていますね。小此木先生は頭の良い人だったので、洋書なんか三日ぐらいで一冊読まれるんです。で、私に渡されて、「これを読んでおいで」と言われて、次の週にお会いした時に、「読んだ」と言って、「いや、まだちょっと少ししか」と言ったら、「ダメだよ、君」なんていうこともありますけれども(笑い)、まあそういう勉強の厳しさと臨床的な温かさと、両方教わったように思いますね。
ナレーター: 一九八五年、小此木さんの勧めで、大野さんは最先端の精神医療を学ぶため、家族を連れてアメリカに留学しました。
大野: 私は、私なりに英語を勉強して行ったんですけど、まあ日本で勉強した英語と外国で実際にアメリカでみなさんが話している英語というのは、またこれ格段に難しくて、なかなかその輪に溶け込めないという、そういうことがあったんですね。
山田: それはやはり精神科のお医者さんとして患者さんと話すということは、患者さんの状態をきちんと掴むための会話でしょうから、やっぱりきちんとそこはわからないと掴められないということですか。
大野: それ以前に、みんなで話す時に上手くついていけない、ということがあるわけです。例えば一対一だったらこういうふうにゆっくり話して貰えるからわかるんですけれども、グループで話して、特に冗談の話になると、早口になるし、冗談の背景がわからないしというんで、だから間髪入れずに笑うという技術だけは伸びたんですけれども、なんかそこは難しかったですね。そこがまず最初のカルチャーショックとしてはあったんですね。ただ私なりに良かったなと思うのは、会話はなかなか難しいけど、と思って、みんながバスケットボールをやっていたんです、仕事の後に。けっこうアメリカの人たち、病院の人たちって、そうやってグループでそう活動されていたんですけれども、その時に私もバスケットボールのグループに入って、そして一緒にそのバスケットボールをした。そうすると、会話しなくて済むんです。会話しなくてコミュニケートできるわけです。ボールをやり取りすれば、走り回ればいいわけですからね。だからみんな背の高いマンハッタンのビルみたいな中で、日本の家屋の私がやっているんですけど、逆にそれも下を潜って行けるからいいかなみたいな考えで、そういう体験が一つありましたね。もう一つは、患者さんとの対話の中で、確かに言葉―今「きっちり聞くというのが大切だ」とおっしゃいましたが、確かにそうなんですけれども、一方で全体をざっくり理解する。おっしゃっていることが、「こういうことをおっしゃっているんだ」ということを理解することが、一方で大事なんですね。あんまり言葉の端々よりも、この方はこういう気持でいらして、こういうことをおっしゃりたいんだ、ということを理解する。そのためには、言葉も大事だけれども、仕草だとか、表情だとか、眼の動きだとか、もっともっといわゆる言葉にならないコミュニケーションというのが大事だなという、そこにも気付いたんですね。日々積み重ねの中で、バスケットで交流している時に、あ、こういう交流の仕方があるんだ、というふうに気付いたり、何とか患者さんのことを理解しようとやっているうちに、あ、こういうふうに理解できた、ということで、英語のできない自分というところ、確かに英語は得意ではないけれども、だけどこうやれば患者さんと通ずることができるんじゃないか、というふうに、ある意味視野を広げることができたという。それが私にとって大きかったと思いますね。たまたまその時に、別の先生と親しくなる機会があったんですね。ア

レン・フランセスという先生なんですけれども、これはDSM4という、アメリカで、今世界的に使われている診断分類を作った人なんですね。その方と会う機会があった。で、その方は、「精神科の治療というのは、一つのやり方だけじゃなくて、いろんなやり方をその人に合わせて使うべきだ」そういうことをおっしゃっていた方なんです。そして私が、「精神分析を勉強に来た」と言ったんですけれども、それは小此木先生からずっと精神分析を教わっていたので、「精神分析を勉強しに来た」と言ったら、「それは大事だけれども、もっといろんな治療法を勉強したらどうか」と教えてくれたんですね。またその先生の対応というのは、私にとって非常に印象的だったのは、その頃日本の精神医学って、そんなに世界に知られていなかったんです。特に私が行ったコーネル(大学医学部)だとか、アメリカのトップクラスのところではあまり東洋の小さい国の精神医学、乃至は医学というのはあまり注目されていなかった。だけどそこからわざわざやって来たという、そっちに目を向けてくれたんですね。たまたま励ますつもりで「カローラ作っている国だから、頑張れば何とかなるよ」と言ってくれたんですね(笑い)。
山田: それはどうふうに受け取ればいいんですか?
大野: なかなか難しいところなんですけどね。彼にとってみれば、賛辞だったんでしょうけどね。カローラ作っている日本人というのでね。それでいろんな臨床の機会を与えてくれたんです。で、コーネルでもトップクラスの先生に、例えばお薬の使い方を指導して頂けるような場をつくったり、WHOの研究のグループに参加できるようにしてくれたり、まあ精神分析は精神分析で勉強してくれたり、その中で、その頃割と注目されていた認知療法(認知行動療法)というのを、「こういうのもやった方がいいだろう」と言って、またそのトップクラスの人を指導者に付けてくれた。やっぱりここでも私はそういった意味では幸せだなと思うんですけれども、いいものを与えてくれる人に会えたというところがあるんですね。ただその会えるまでに一年ぐらいかかっているんですね。なかなか英語も上達しないし、辛いし、帰りたいな、と途中で何度か思ったんですけれども、ここも諦めなかったというか、せっかくアメリカに来て、みんなが「頑張ってね」と言って送り出されて来て、ここで帰るとみっとうもない、恥ずかしいなという。それだけで頑張ったみたいなところがあるんですけどね。私が一つ覚えているのは、その後アメリカに留学した後、非常に苦労したんです。苦労したというのは、英語もそうですけれども、金銭的にも苦労したんですね。けっこう自分の持ち出しで留学の費用を出しましたし、お金がなかったんですね。ニューヨークって寒いんですよ、雪も降るし。だけどコートが買え

ないんです。だから普通のスーツで冬でも生活したら、「日本人、寒さに強いな」なんてアメリカ人に言われて、「いやぁ」とか言っていたんですけど、実はほんとに寒かったんですね。それは小此木先生がその頃ニューヨークにいらっしゃった時に、ちょうどその時着ていらっしゃった高級メーカーのジャケットを、「君、これあげるよ」ってくれたんです。それがとっても温かくて、擦れきれるまで着まして、今でも自宅に置いているんですけど。その辺のすり切れたのを。それ、とっても嬉しかったですね。
ナレーター: 留学して二年目、大野さんは、精神科医アーロン・ベックと出会います。ベックは、対話を重ねて人の心を見つめる認知行動療法を生み出した人です。それは大野さんが探し求めていた治療法でもありました。
大野: 私がちょうどアメリカに留学した一九八五年の頃、特に八十年代に入ってからですけれども、精神医学というのは、生物学的な視点から精神を考えるという流れが強くなったんです。つまり脳の働き、それが精神の機能なんだ。それを解明しよう。それに対して、例えば精神疾患というのは、脳に問題があるんだからお薬を使って脳を治療しよう。で、その頃だんだん遺伝子の解明なんかも進んできたので、じゃ、お薬の効き方がどういう人に効くか。副作用の出方。それも例えば脳とか、遺伝子から解明しようという、そういう流れが強くなっていたんです。ですから八十年代半ばには、いわゆる精神療法カウンセリングというのは、精神医療の中では下火になってきていたんですね。その中で一九八八年に、ベックがやった認知療法というのが、アメリカの学会の中で非常に注目されたんです。つまりやっぱり生物学的な脳の科学から精神を考える。精神疾患を考える。だけどそれだけではやっぱり人間の心というのは十分に理解できない、というのをだんだんまた精神科医たちが気付き始めてきたところなんですね。確かにお薬は効く。だけどお薬だけで人を治療することはできない。その時に精神療法カウンセリングが大事になってくる。そこで、だけどその方法が本当に治療的な効果があるかどうか。それをきちんと評価する必要があるわけですね。お薬なんかもそうですけれども。それをやっていたのが認知療法なんですね。ですからベックは認知療法というのを編み出しただけじゃなくて、それを本当に効果があるんだ、ということを、臨床の現場の中で実証をしていった、というところが非常に大きいんです。その認知療法というのは何かというと、この自分の思い込みだとか、考え、それに縛られないで、もっと現実を見ながらもっと自由に考えていくと気持が楽になる。そしてそう考えると問題の解決も容易になってくる。そういうことに注目した治療法なんですね。
山田: それを具体的に、易しく言って頂くと、どういうことになりますか。
大野: 認知療法(認知行動療法)というのは、認知というのはものの受け取り方、考え方ということです。ですから何かに出会った時に、私たちがいろんな気持になったり、それに対する行動をとる。だけどみんな同じ行動をとるかというと、人によって違うわけですね。そこはその人の受け取り方によって随分違ってくるわけです。ちょっと気弱になっている時には、気弱な見方をしてしまって、落ち込みが強くなる。不安になっている時には、注意深く聞くので、むしろ危険の方に目が向いてしまって、逆に不安が強くなることがある。そういうふうに、その時の受け取り方によって違って、それがいわゆる精神疾患の症状に繋がってくるんだ、という。それに働きかけて、もっと自由に、考えに縛られない、現実に根ざした見方をすれば、気持が楽になる筈だ。それを実証したわけです。それは、これで効く筈だというのも、これも思い込みなんです。だけど本当に効くかどうか確かめてみよう、って、これこそまた認知療法の考え方なんですね。それを精神療法カウンセリングでもやったというのは、非常に画期的なことですね。ですからそれが精神科の治療の中に組み込まれていって、その後注目されるようになった、そういうことになっているわけです。私が帰って来て有り難かったのは、日本の中で、割と先ほど言った生物学的な精神医学を専門にしている精神科医、特にリーダ的な精神科医たちがこの認知療法(認知行動療法)に関心を持って、いろいろ招待してもらったり、話をする機会を与えてもらったりしたんですね。それはとても有り難かったですね。どうしても日本の精神医療というのは薬物療法に片寄りがちですし、脳科学というか、生物学的なところに片寄りがちなところがあるので、そのことはそれを専門にする日本の精神科医も認識しているわけです。ですからそうでないアプローチも一緒にやっていこうという姿勢を見せてくれたんですね。それはとても有り難かったですね。私は、認知療法(認知行動療法)を最初に日本人としてはベックから指導を受けた人間なので、どうしても日本人は、この人はそういう認知療法の専門家だって色を付けたくなるんです。だけどけっこう長い間私は、「いや、そうじゃないんだ。私は臨床家だから色付けないでくれ」と言って。だけど認知療法について書くことを少し拒んでいた時期がありますね。
山田: それは何故ですか?
大野: 小此木先生もそうですけれども、やっぱり臨床家というのは、一つの治療法ではなくて、その人に合った助け方というのがある筈なんですね。だから自分の方法を押し付けるんじゃなくて、自分はいろんなレパートリーを持っていて、その人に合った助け方というのをやっていくのが、私は臨床家として大事なんだと思うんです。
山田: 今、私たちの国では、年間三万人を越える人たちが毎年自分で命を絶っているという状態なんですけれども、これはそういう社会であるということ、何がどうなっているんだというふうに、大野さんは考えていらっしゃるんでしょうか。
大野: とっても辛い状況で、一つはやはり死を考えざるを得ないような立場に、精神的に追い込まれてしまう人が増えている。おそらくそういう方は孤立をされている。そういう状況があると思うんですね。競争の社会、成果を求める社会、その中で成果を上げられない人、それは働いている人だけではないと思うんです。例えば精神疾患のために働けなくなった人、何らかの障害のために働けない。そういうことを含めて成果の上がらない人たちが、追い詰められていく状況というのが出てきているんだろう、というふうに思います。もう一つは、精神科医としてとても残念に思うのは、自殺をする方の九割以上が、何らかの精神疾患に最終的には罹っているというふうに言われているんですね。実際に東京都などを見ていますと、半数以上の方が既に精神科医療を受けていらっしゃるんですね。ところがその方たちを、私たちが助けられていない。そのことはとても辛い現実ですし、それを何とかしないといけないというふうには思っております。基本的には、私たち辛い時には、それを解決しようとするわけです。それが行き詰まって、もう死ぬという解決策しかない、というふうに、そういうふうになっていらっしゃるのが、自ら命を絶とうとされている方の心理状態なんですね。通常死ぬということが解決策になる、というのは、なかなか考えにくいです、今世の中で。必ず何らかの解決策がある筈なんですね。ところがそうしかない、というふうに思い詰めてしまわれるところに、精神疾患、乃至はそういうふうに思い詰めていらっしゃる方の精神状態の恐さがあるというふうに思います。ですからその方たちに、他の選択肢があるんだ。で、あなたは独りではないんだ、ということを、メッセージとして伝えられるかどうかだと思うんです。他に手がないんだ、ということを、講演でお話なっている方に、秋田県の佐藤久男(さとうひさお)さんという方がいらっしゃるんですね。この方は、NPOの「蜘蛛の糸」という自殺対策をなさっている団体の長でいらっしゃるんですけれども、ご自身が鬱病になられて、そして死ぬことを考えられた。そのきっかけは何かというと、ご自身が経営されている会社が倒産しそうになった、ということなんです。ほんとに最終的には倒産するんですね。これで万策尽きた、というふうにご本人は考えられた。倒産される前ですね。じゃ、何故命を落とされなかったか、というと、お嬢さんが、「お父さん、死のうと考えているんじゃないでしょうね。勝手に死ぬと墓参りに行かないからね」と言ったんだ、というふうに、講演でおっしゃっていたんですね。それを聞くと、確かに万策尽きた、というふうに言えるんですけれども、それは会社を建て直すということに対してなんですね。ところがちょっと視点を変えてみると、そういうふうに声を掛けて頂けるお嬢さんがいらっしゃる。おそらくご家族がいらっしゃる。で、お知り合いだとか、いろんな方が周りにいらっしゃる。つまり会社を建て直すというところだけは上手くいかないんだけど、他にいろんな繋がりをお持ちなんです。ところが上手くいかない、そこに目を向けてしまうと、もう全部ダメだし、もう死ぬしか解決策がないんだ、というふうに思い込んでしまわれるわけですね。ですから今お話した佐藤久男さんのお嬢さんが声を掛けられたように、周りから声を掛ける。それはご家族だけではなくて、その地域の方であったり、会社の方であったり、そういう方が周りにいらっしゃるというのは凄く大事なんですね。なかなか気付くというのは難しいんです。だけどやはりコミュニケーションがいろんな形であると、それが一つの気付きになってきますから、ですからやっぱりそういうこう周りから支えるというのが大事ですし、それができるような絆が、家庭や地域や会社にあることが大事ですし、で、それを基に気付けるご本人。死ぬことだけが解決策じゃないんだと思えるかどうかというのが、非常に大きいところだと思いますね。今の精神医療の大きな問題点というのは、病院での「待ちの医療」なんですね。つまり悩んでいる人は、病院にいらっしゃい。相談施設にいらっしゃい。そうでなければちょっと手が出ませんよ。ご家族が相談に言っても、ご家族の相談には載るけれども、最終的にご本人が来ないといけませんね、という、そういう仕組みなんですね。ところが、私たち、これも厚労省の研究班をお手伝いをして、地域調査をしたことがあるんですけれども、精神疾患に罹っている方で、医療機関にかかる方というのは、四分の一、五分の一なんですね。精神疾患に罹る方というのは、大体四人に一人は一生のうち、治療が必要な状態になる、というデータが出ているんです。だけど、なかなか受診をされない。じゃ、その人たちに、「受診をしなさい」と言っても、待っているだけではなかなか手が差し伸べられない。で、一回受診されても、今の精神科の外来って非常に忙しいんですよね。これは医者の数が基本的に足らないんです。ですからもう短時間で多くの人を診ないといけない。精神科医自体は、それが良いとは思っていないんです。だけど現実にそうなんですね。だからそれを変えていくということが必要だろう、ということなんです。そしてちょっとそうすることで悩んでいらっしゃる方を早く手助けして、効率的に支援の手を差し伸べる。そのために何をするかということがいくつかあるんですけれども、一つは、相談にいらっしゃった方は手厚く相談に載る。つまり医者だけではなくて、チームとしてその方の相談に載る。
山田: それは例えばどういう方たちがチームを作るんですか?
大野: 例えば、看護師だとか、精神保健福祉士がいたり、心理士がいたり、そういう人たちがチームを作ってカウンセリングをしたり、生活相談に載ったりする。そういうことで医療の質を上げましょう、というのが一つですね。もう一つ、アウトリーチ(Outreach)という考え方があるんですけど―アウトリーチというのは、外へ出て行って手助けするということですね。外に出て行く。つまり治療チームや相談チームが困っている人のところへ行くわけです。一回受診されても、なかなか二度目は来れない。何回か受診されても来れない。じゃ、行って相談に載りましょう、という。チームがそこに相談に行って、そして手助けをするという、そういう仕組みなんです。だから「待ちの医療」ではなくて、「届ける医療」というのをやったらどうか。そうすると精神疾患のために悩んでいる方が、孤立する可能性は低くなってきます。精神疾患に罹る手前のところに悩んでいる方、こういう方が相談するところがないんですね。ですからこの辺りも町でどっかに行けばちゃんと相談に載って貰える。医療機関に行くのは敷居が高いけれども、まあお茶を飲みながら苦労話を聞こうか、みたいなところがあればいいわけですね。そういう方たちに、私たちは認知療法(認知行動療法)のスキルを提供するという、そういうことをやっているんですね。
ナレーター: 大野さんが考える新しい医療は、東北の被災地で生かされています。被災者の心の悩みは、生活苦や健康問題と切り離すことができません。そこで保健士や役場の暮らしの相談員がチームを組んで、被災者の心のケアに当たる仕組みを、大野さんは提案しました。

相談員: ケアスタッフ養成研修でやっている、ここから専門員さんと社会福祉協議会の暮らしの相談員さんを常駐させながら、地域をみていくというふうなところまでやっと漕ぎ着きました。
ナレーター: 地区毎に相談員を置き、長期的に住民の心をケアに当たります。
相談員A: グリーンケアとはどういうものかとか、そういうところまではまだいかないのかな。ただ亡くされた方の割には多いし、そういう方々に相談された時に、どんな言葉を述べたらいいのかとか、どうしたらいいのかとか、まだまだ声を出して言えるところまでいっている人もいるだろうし、亡くなった人のことを誰にも伝えたくないという人もあるだろうし、もう少し時間はかかるかなとか、これから出てくるのかなと思います。
相談員B: 実際こう悩んでいることとか、声の掛けられないでいるとか、そういうところを少し話し合って出して頂いて一緒に考えるというような場面を作っていってもいいのかな、と。
相談員A: そうですね。実際にここに参加している住民の人たちが、いろんなところで声掛けられなくて、ちょっと悔やんでいるとか、なんかあれば出して貰った方がいいのかな。
大野: やっぱり落ち込んでいる時というのは、ここに書きましたように、自分のことをマイナスに考えてしまう。自分はダメだ、というふうに考えてしまいやすいですね。周りとの関係に対して悲観的になりやすい。自分のことをダメだと思っているんじゃないか。信用されていないんじゃないか。・・・
ナレーター: 大野さんは、保健士やボランティアの人たちにカウンセリングの指導を行っています。普段の何気ない会話や、さり気ない声かけによって孤立を防ぐことから、心のケアは始まると考えているからです。
山田: そういうシステムの中で、ほんとに実現できていかなくちゃいけないというのは、どういう関係が成立していくことだというふうにお考えでしょうか。
大野: やはりその方自身が変わっていける力というのは持っていらっしゃると思うんですね。ですからそのご自分の力を信じて頂けるかどうか。信じて頂けるように、私たちがなんか手伝いができるか、ということだと思うんです。そのためには私たちも諦めないということが大事なんですけれども。私は、時々ちょっと思うんですけども、よく「心が病む」というふうに言われますけど、人間の心って、決して病むということはないんですね。病気になるのは、脳の働き方が病気になるのであって、心自体はみなさん非常に綺麗なものをお持ちですし、力を持っていらっしゃるんです。ですからそれをどう生かすかが大事だと思うんですね。ちょっと具体的な話をしますと、私がある癌の患者さんに教わったことなんですけれども、その方は五十前後で末期の方だったんです。そして肺に水が溜って、その治療で非常に痛い思いをされて、夜九時か十時に呼ばれたんです。で、お話を聞いていて、そうすると非常にいろんな後悔の気持ちを話されるんですね。自分はビジネスマンとして凄く忙しい毎日を送ってきた。家族も犠牲にして送ってきて、そしてこれからという時にこんな病気に罹ってしまって、何で自分はついていないんだ。それはとても精神的に辛い、痛い、というふうにおっしゃっていたんですね。それに対して、私は何もできないんです。それはもう聞くしかないんですね。で、居たたまれないです。だけどそこでジッとお話を耳を傾けて、一時間ぐらいその話をされていましたかね。で、そこを話された後に、「だけど先生、忙しかったけれども、家の子ども―息子が小さい時には、ちょっと休みの日にキャッチボールなんかしたんだ」とか、楽しい話を少しずつされるようになったんですね。やっぱり辛い中で、ご自分を立て直すために、ご自分でそういう話をされて、そしてその話をひとしきりされた後、「ちょっと眠くなったから、これで寝ます」とおっしゃって頂いたんです。結局私は傍にいただけなんですね。だけど傍にいることで、その方がそういうふうに考えを変えて頂いた。そういったところで、やっぱり人間の持っている力、心の力というのは大きいな、というふうに感じたことがあって、それもあって、精神科医としてこういうお手伝いができるのは凄く嬉しいな、というふうに思ってやっているところがあるんですね。
これは、平成二十三年十一月十三日に、NHK教育テレビの
「こころの時代」で放映されたものである
