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<  2013年 06月   >この月の画像一覧

  • 鶴見騒擾事件~土建屋とやくざのどちらが強いか
    [ 2013-06-30 13:09 ]
  • 義理と人情は下層労働者や近代やくざにとっても必要であった
    [ 2013-06-27 21:27 ]
  • 土建屋の談合屋誕生~東の河合徳三郎VS西の井上初太郎
    [ 2013-06-26 20:32 ]
  • 明治の博徒大刈込〜清水次郎長・会津の小鉄も逮捕。明治政府の頂上作戦
    [ 2013-06-22 21:56 ]
  • 都市の下層労働者を統括する近代のやくざ〜首相だったあの人の祖父も
    [ 2013-06-18 22:08 ]
  • ヤクザの明治維新〜ヤクザは中立派・勤王派・佐幕派と分かれた。
    [ 2013-06-15 10:06 ]
  • 幕藩体制の矛盾と苦悶の中で博徒系近世ヤクザが生み出された
    [ 2013-06-12 23:27 ]
  • 関東取締出役〜ヤクザや風俗を取り締まる江戸時代における関東のFBI
    [ 2013-06-11 21:31 ]
  • お控えなすって・・「仁義を切る」の起源は、木挽き職人の仁義を模倣したものだ
    [ 2013-06-10 22:48 ]
  • 江戸時代の博打を再現する〜さあ張ったり張ったり。半か丁か。
    [ 2013-06-09 19:02 ]

鶴見騒擾事件~土建屋とやくざのどちらが強いか

 鶴見騒擾事件といっても今やほとんどの人は知らない。鶴見騒擾事件とは、1925年(大正14年)の暮れに現在の横浜市鶴見区で起きた乱闘事件。日本最大の喧嘩と呼ばれるこの事件は一度に500人以上の検挙者を出し、騒擾罪(法改正により騒乱罪)で起訴されているため鶴見騒擾事件とも呼ばれる。

 事件は1925年(大正14年)に川崎白石町に建設中の東力の火力発電所工事に始まる。当時の白石町は東京湾に面した寂しい場所で埋立地への交通の便は運河が利用される文字通り「陸の孤島」であり、この立地条件も闘争に逃げ場を生じさせない一因になる。大まかに火力発電所は「水路に水を通し火力により蒸気を発生させ」「圧力を生じさせた水蒸気がタービンを廻し発電する」構造上、建物は基礎の水路と建屋に分けられる。建設会社の入札が行われた結果、今回の入札は基礎を間組が、発電機を置く建屋工事を清水組(現清水建設)が落札した。

 当時はこのように1つの工事現場に担当・工期を分けるケースを出会い帳場と呼び、先に間組が基礎を完成させ清水組へ現場が譲られるはずだった。しかし、基礎が完成したにもかかわらず間組の下請が現場を占拠、測量に着手した清水の測量小屋を東京湾へ投棄する。発電所の工期は遅れ、松永ひいては業界全体の信用を失う危機に陥った清水組だが、この妨害工作は土木業界において隠然たる勢力を有する川崎「三谷秀組」(みやひでぐみ)の中田峰四郎の示唆によるものと世間は見ていた。

 ここまではwikからの引用である。そして片や清水組の下請けは、青山組であった。青山組は土建屋であり、三谷秀組は喧嘩のプロとも呼べる集団であった。三谷秀組は千人集め、青山組は300人集めた。どちらが勝ったかといえば土建屋集団の青山組であり、その結果、この本体工事は清水組が施工することになった。

 喧嘩にしても喧嘩のプロであるヤクザの方が一見強そうに見えるが、青山組が何故勝ったかといえば、もし鶴見の工事で敗北するようなことがあれば、次の工事はもらえなくなり、おまんまの食えなくなるという危機感があった。だからこそ青山組は必死になったとも言える。

 ちなみに清水組は現在のスーパーゼネコン清水建設であり、間組は、合併もあり、安藤ハザマである。本体工事の落札者は、清水組に決定したのだが縄張り意識の強い三谷秀組は、本体工事も取ろうとして譲れない喧嘩になったというのが背景にある。

 今やサラリーマン集団となった清水建設や安藤ハザマだが、当時こういう荒っぽいこともあったのだ。

 そして喧嘩で言えば、喧嘩のプロが必ずしも勝つとは言えない事象がこの鶴見騒擾事件でもあった。どちらが必死に守るべものがあるかによって勝つということでもあった。詳しくは、青山光二 『闘いの構図』で小説になっているが生き生きと描かれている。



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by shinwa_2007 | 2013-06-30 13:09 | ヤクザシリーズ | Trackback | Comments(6)

義理と人情は下層労働者や近代やくざにとっても必要であった

 ここでいきなり話が中国朝鮮族に戻る。嫁さんが言うには、昔の中国社会や中国朝鮮族社会は、義理と人情の世界であった。その理由は貧しかったからである。相互扶助の精神がなければ生き残ることができなかったのだ。

 同じことは昔の日本の農村社会にも言える。何回も説明してきたがかつての農村社会は、「結(ゆい)」という労働力の相互提供によって成り立っていた。ある家の田植えが終わると、次は全員で別の家の田植えを行う。

 ところが中国社会・中国朝鮮族社会もいまなお義理は残っているものの、かつての精神は薄れつつある。その理由は、皆が忙しくなりすぎて心に余裕がないからである。たとえば、昔の中国や朝鮮族社会であれば、引越ししたり、家を立て直す際は、知り合いや親戚が皆で手伝ったり、場合によってはセメント等の建材も持ち寄ることはある意味、当然のことであった。

 人間が果たすべき役割であり、重要なこととしてあったのはまさにこの「義理」であり、アジア的な考え方から見ても欠いてはいけないものであった。中国も韓国も朝鮮族社会さらには日本も昔は貧しかった。貧しかったゆえに、相互扶助の精神がなければ、各人が生き残ることはとうてい無理があったのであろう。

 そしてもう一つの人情は人の情けである。義理も大切な行動規範であるが、心の底から人を助けようと考える気持ちも大切である。この両輪がうまく稼働させていかなければ、貧しかった社会を輪転させることは不可能であったように思える。

 そのアジア的な義理と人情であるが、都市の下層労働者から発生した近代やくざにとっては義理と人情は非常に重要なことであった。彼らがどこからきたかと言われれば、どこかの農村や漁村社会であったりしていたのだろうが、いずれも帰る場所がないということは共通していた。

 しばし、近代やくざは在日韓国・朝鮮人社会や被差別部落との共通点や相似点に議論されてきた。実際、戦後になってから、在日韓国朝鮮人はやくざ社会に身を投じる人もそれなりに多く、名を馳せている愚連隊や組長も日本名を名乗りつつも、一方で彼らは韓国名もあった。

 後に語ることになるが柳川組もそうであったように、やくざ社会は義理事を大変重要視する。その発祥が近代やくざが下層労働者から生まれ、義理と人情の両輪を回さなければ、近代やくざ社会は崩壊してしまう危険性もあった。

 そういう意味で、よくいわれるようにやくざが「義理と人情」を重んじるということは、かつての下層労働者の組の名残とも言えるのであろう。そう考えると近代やくざの発生は、ある種の組合的な要素が強いと見るべきかもしれない。そして農村や職人社会に存在した親方・子方の精神を親分・子分に昇華させ、よりどころとしての組を作り、その円滑材としても「義理と人情」は必要であった。

 これは土建屋にしてもそうであったし、港湾荷役の仕事でも同様であった。今でも土建屋の創業者の人々が好きな歌は、何人かとカラオケに行った体験上から話すが好きな歌と言えば北島三郎だろう。港湾荷役のことは寡聞にして分からないが、「義理と人情」と「親分・子分」の関係は、いまなお、地方の土建屋に息づいているのである。



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by shinwa_2007 | 2013-06-27 21:27 | ヤクザシリーズ | Trackback | Comments(4)

土建屋の談合屋誕生~東の河合徳三郎VS西の井上初太郎

  実はこのヤクザシリーズ戦時中までを持って少しの間、筆を休めることにしました。普段は毎日書けるのですが、仕事の都合でそうもいかなくなったからです。その期間はどのくらいかと聞かれれば分かりません。一年かも知れないませんし、三ヶ月くらいかもしれません。この原稿も今まで書き溜めたものを出しているに過ぎません。とりあえずこのヤクザシリーズの途中で書くべきことは数多くあったのですが、そういうことでご容赦いただければ幸いです。本来は、戦後の闇市、的屋の動向、在日韓国人の暴力団関連、総会屋、ブラックジャーナリス等書くべきことは山ほどあったのですが私としても非常残念です。ただ全く書かないわけではなく、いつかまた復活します。もう一つ問題なのはいつもの書けなくなったモードに入ったことです。
 前にも書きましたが考えないで書く事から、書けない時は全く書けないのです。ほかの人はどうか分かりませんが、思うがままに書いているタイプはこういう時が来るのかもしれません。
 それにしても想像以上にヤクザシリーズは全く読まれませんでした。結構調べものをして力をいれて書いたのですが、それがちょっと残念です。とりあえず、近々休筆のお知らせをしますので、後もう少し戦時のことまでのやくざを書きますのでそれまでお付き合いください。


 さて、一気に明治維新まで終え、まだまだ書かなければいけないことはあるのだが、もっと細かく書いていくと、本当に一冊の新書並みになってしまうのでかなり明治から戦前にかけてはかなり省くことはご容赦願いたい。それでも書かなければいけないのは、土建屋のことである。

 今日の土建屋の発展は、官庁工事の発注業務が中心であった。日本のゼネコンを生み出した原動力の当初は、ここにあったといっても良い。だからこそ彼らも受注には必死であった。

 明治から昭和にかけて活躍したのがまさに談合屋であった。大きな工事を受注するということは、ゼネコンにとって大きな問題であって、そのトラブルも含めて談合屋に委任すれば良いという考え方も生じて、顔役とも言える談合屋が暗躍したこともゼネコン裏面史としては当然の流れとも言えた。

 大正末から活躍した談合屋としては、東は河合徳三郎、西は、井上初太郎である。河合徳三郎は、床次竹次郎(当時内務大臣)を世話役に、右翼の大物・頭山満を顧問に迎えて、大日本国粋会を結成する。

土建業者を含む博徒の全国的な右翼団体であった。超党派的純国家主義思想団体として、また、伝統の侠客道を根本信条として行動することを原則とした。創立当時、総裁は伯爵大木遠吉、会長は村野常右衛門、理事長は中安信三郎が務め、会員数60万と称した。これが後の『國粹会』となり、2005年に工藤会長が山口組組長・司忍との盃事を敢行。これにて組織は山口組の二次団体となり、ヤクザ業界に衝撃を与えることになるのである。片や井上初太郎の甥が大阪で浪花組を起こす曽我長三郎である。

 談合屋は関係者を温泉宿に連れて行き、飲めや歌えやということを行うのだが、その関係者を得心させるほどの器量と顔があった。あの人の言うとこだからしょうがないということでかくて談合屋は生まれた。やくざに必要なものと問われれば、ある親分筋から言わせると器量だという。器量が大きければ多くの子分の面倒を見ることは可能であり、また、組の繁栄に役に立つ子分も養成することができるからだという。

 この器量というのは談合屋にとって必要なことであった。河合も自ら土建屋を起こすが、基本的に工事は様々なゼネコンに分配し、うまくさばいた。談合屋にとって重要なことは、一人勝ちをさせないことである。うまく分配をしないと恨みを買うからである。そこに細心の注意が必要となる。

 同時に博徒系ヤクザにも何か正業を持たせなくてはいけない、いつまでも博打が正業では困るという動きもあった。そこで結成されたのは土建系の企業であった。大正時代には、博徒が次々と土建屋になった。日本の専門工事業者の源流はほぼここにあると言って良いだろう。

 ただしこれは誤解のないように言うがこれらの現在も存在するゼネコンや専門工事会社がヤクザであるというのではない。こう書くと、今でも談合はあるのかとか、様々なことを聞かれるがこのような河合徳三郎や井上初太郎のような顔役がいなくなったことから、大規模談合は全くなくなったといっても良い。

 ただし地方の個別の工事まではわからないが、東と西に分けて仕切り屋が仕切るという時代ではなくなったということである。これはゼネコンと談合屋と暴力団の関係が極めて深かった時代において、80年代から90年代にかけて逮捕が相次ぎ、談合屋も顔役として力を失った。だからこそ、こうした東の河合徳三郎、西の井上初太郎のような談合屋の登場は今後ともないだろう。



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by shinwa_2007 | 2013-06-26 20:32 | ヤクザシリーズ | Trackback | Comments(2)

明治の博徒大刈込〜清水次郎長・会津の小鉄も逮捕。明治政府の頂上作戦

 明治政府は、明治16年から翌年にかけて、博徒系やくざを一斉に検挙することになった。まさに明治時代版の頂上決戦である。結論から言えば、この頂上決戦は成功した。この明治の博徒大刈込をもって近世やくざは退場することになった。

 博徒系やくざを殲滅した理由は、賭博が普及しすぎたということはもちろんである。しかし、一方、明治政府が彼らを恐れたことは彼らが農民の不満と結びついて、新政府打倒の運動を展開されることにあった。例えば、戊辰戦争でも、黒駒勝蔵が仙台まで転戦し、活躍もするが、こうした草莽隊は今や新政府にとって邪魔な存在でもあった。

 そういう意味で治安の維持のため、こうした博徒系ヤクザを殲滅しようと考えたことは自然の流れでもあった。そして明治政府は新しい国づくりとして立憲国家に邁進していくさなかであった。明治政府としては天皇を中心とし、臣民は奉仕しなければいけないと国民に教育している時代であった。近世において治安を乱した博徒系やくざが近代においても治安を乱すと明治政府としては極めて困る情勢でもあった。

 だからこそ明治政府は博徒系やくざを一斉に逮捕したという見方はおおむね正しいと思うのだ。そしてその明治政府の見解も正しかった

 まず、群馬事件が発生し、農民・博徒系やくざ・力士等が集まって、武装蜂起する。続いて歴史教科書にも登場する「秩父困民党」事件が発生する。秩父事件の定説は、自由民権運動の一環とされ、ほぼ歴史教科書でもそのように執筆されているが、調べれば調べるほど、松方デフレ財政による農民の困窮によって、農民に多額な借金が生じたことによるものではないかと考えている。さらに私見であるが、被差別部落が本当に貧しくなった原因も実は、松方デフレ財政に原因を求めている。

 何しろこの当時の借金の金利は今で言えば、「トイチ」(10日で一割の金利)であったし、松方デフレ財政によって絹や生糸の価格が暴落した。余談だが、埼玉県県北に位置する秩父は歴史的にも文化的にもつながりは、東京よりも群馬県に近く、埼玉県県北には、博徒系やくざも多数存在した。そしてお決まりの姿であるが、金を返せないとなると、娘を借金のカタに取られたり、田畑も取られたりした。そういう不満がふつふつとマグマのように溜まっていった。

 そして明治政府の施策、たとえば地租改正や徴兵令などにも多くの不満と借金の返済に困窮した農民たちが、仕事を失った下級士族や押さえつけられていた博徒系やくざと結びつき、武装蜂起したという見方は正しいと確信している。

 山川詳細日本史という進学校が使う歴史教科書でもこの運動は、自由民権運動よりも農村における伝統的な借金問題に求められる説もあると並列するようになっている。だから、真っ先に襲われたのが金貸し屋でもあった。

 そういう意味では、「秩父事件」をどう見るかという点では様々な視点が必要になってくる。そもそも論で言えば、こうした博徒系やくざを士族に取り立てると甘言で誘い、戊辰戦争で戦わせ、いらなくなるとやくざは士族に取り立てることはできないとし、結局殺されたか全く放置されることになった。だから博徒系やくざにとってはそれなりの不満はあったのだろう。

 そしてこうした秩父事件や群馬事件等の発生に影響されてか、博徒系やくざの大刈込をさらに強めることになる。そして秩父事件の終焉の意義として、近世から近代やくざへとバトンタッチするというアウトロー史的な意味合いをも持つのである。



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by shinwa_2007 | 2013-06-22 21:56 | ヤクザシリーズ | Trackback | Comments(3)

都市の下層労働者を統括する近代のやくざ〜首相だったあの人の祖父も

 近代やくざについては、宮崎学氏の『ヤクザと日本』『近代ヤクザ肯定論』、猪野健治氏の『やくざと日本人』が最も優れたテキストである。この三書をテキストに使って、近代やくざについて語っていきたい。

 近代においては産業構造が大きく変容し、国家の保護の元、今日の三井・住友・三菱等の企業群を誕生させる一方、それを補完する意味合いとして、零細企業群もおびただしい数で誕生した。

 近世においても地方から人の流入が激しくなり、大都会に向かう人々の数が多く見られていたが、近代社会においてはさらに人が必要となった。近代ヤクザの祖ともいえる実業家であり、政治家でもある吉田磯吉、山口組の創設は港湾の積み込み作業を行う港湾労働者港湾労働者)から生まれた。小泉純一郎元首相の祖父にあたる小泉又次郎も小泉組を率いて、横須賀の港湾労働者を管理する。

 こうした管理は当然、それぞれが荒くれ者であり、また同時に他の組から守る意味合いでも、親方・子方を超えた親分・子分の関係を結ぶ必要性があった。近世の口入れ業では、親方・子方の関係であったが、近世ではより関係を深める親分・子分の関係へと昇華していくのである。

 ここでも近世から受け継がれた縄張りを守るために荒くれ者が活躍する。親分は子分を統率し、縄張りを死守するために、一家や組を形成するに至った。これが現在の「組」という概念である。現在、我々が考える暴力団の「××組」は、明治時代に誕生し、平成時代にも受け継がれていったのである。

 港湾労働者の統括や土建屋を統率する意味合いとして、近代ヤクザは誕生したが、それは街の自治の管理にとっても必要なことであった。この当時、警察の力はもちろん必要とされていたものの、それと同時に、こうした荒くれ者が一気に港湾や土建屋に流入したことで治安が悪化した。これを抑制するためにも、組は当時は必要とされていたのだろう。

 親分・子分の関係の源流は一体どこにあったのか。もともと職人世界から発生したように思えるが実はそうではない。日本の漁村・農村社会にあり、すべての原点はそこにあった。だからやくざの世界の原点もそこに見出すこともできる。武士階級のような主君・家臣の関係と似ているようで少し違うところがあるのはやくざの原点の親分・子分の関係は、農村や漁村の親方・子方の思考が職人社会に転化し、さらにやくざの世界にも拡大したと考えるべきなのであろう。

 そして一方、近世であれば無宿人となっていた彼らも都市に行けば仕事にありつけるということで都市生活に入った。今であれば、「フリーター」とか言われる存在であったのかもしれないが、いずれにしろ荒くれ者だった。中には都市に行って一旗あげようという人物もいたかも知れない。いずれにせよ、都市の下層社会を形成したのはまさしく彼らであり、それを統括する存在こそが「近代やくざ」という存在でもあった。

 だからこそ、近代やくざという存在は、資本主義が発達するにつれて必要な存在であった。近世やくざが博徒としての役割を果たしたが、近世と近代との大きな違いは、資本主義の発達により、都市に下層労働者が必要となり、同時に管理する人間も必要とされたのである。だから、近代のやくざが誕生したことはそういう意味では、歴史の必然でもあったというべきなのだ。

 そうした中で明治時代も生きた博徒系の近世やくざ撲滅に明治政府は動くことになる。重ねて言うが博徒系は、博打をで食っていくやくざの系列である。近世末期のやくざの主役はまさに博徒系やくざであった。しかし、明治政府は、この博徒系やくざを治安を乱す集団と考え、彼らを一斉に殲滅する行動に出るのである。

 



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by shinwa_2007 | 2013-06-18 22:08 | ヤクザシリーズ | Trackback | Comments(5)

ヤクザの明治維新〜ヤクザは中立派・勤王派・佐幕派と分かれた。

 歴史にifはないが、幕藩体制の矛盾が行き着くところまで行き着いて、封建体制はいずれ瓦解し、近代国家の形成をすることは日本にとって必然でもあった。日本の近代は、ペリーが黒船来航で、近代の窓をこじ開けていたが、日本の近代は近世後期から胎動は始まっていた。

 蘭学者の前野良沢・杉田玄白・中川淳庵は、オランダの医学書を翻訳し、近代医学の父ともなったし、本当に尊い人は、徳川家ではなく、忠誠を誓うべき人は天皇ではないかという考えも次第に広まるようになった。さらに西国大名の中には、いち早く近代化に成功し、雄藩というべき力を蓄えた大名も登場した。

 これまで近世ヤクザの台頭は、幕藩体制の矛盾によって生じたことを説明した。もちろん本人自身の素質素養もあるのだが、博徒系ヤクザによって関八州の治安が乱れたことも幕府崩壊を早めた要因でもある。

 そういう中で近代を生み出した明治維新では、様々な人物が勤王か佐幕か中立かで揺れ動く。彼らにとって大義もあったであろうし、あるいは単に縄張りが欲しいか拡大したいか様々な理由で明治維新に参加した。中には、清水次郎長のように局外中立を決め込む親分もいたが、やはり政治の動きにからまないヤクザの方が多数を占めていただろう。

 佐幕派の親分といえば、新門辰五郎だ。辰五郎は、最後まで徳川に忠誠を誓ったが、黒駒勝蔵はしばしば講談や映画で清水次郎長のライバルとして描かれるが、この人物は、勤王派として仙台まで従軍する。中々の活躍を示し、東京に意気揚々として戻ると、昔の悪事が露見したので斬首した。同じく岐阜の弥太郎も侠客であったが、「年貢は半分になる」と触れ回ったことから、これもまた殺されてしまった。

 実際、明治維新において草莽隊と言われる赤報隊も偽官軍とされて逮捕されてしまったが、こうした草莽隊全体に言えることだが、結果的には新政府軍に利用され、使い捨てにされてしまった構図がある。

 明治初期には近世の博徒も温存されたことから、彼らは治安を乱すのではないかと恐れられた。率直に言うと草莽隊として立ち上がったのは博徒だけではない。農民も浪人もそうであった。しかし、立ち上がって目覚しい活躍をするもほとんどいっていいほど恩賞はなかった。はっきりいうとていのいい弾除けにされたのだ。

 こうした構図は別に明治維新だけのことではない。権力は博徒だけではなく庶民をおだてあげ、いざ近代化になると、排除する。確かにヤクザを官職につけることはムリなので、そうするとかなかったとも言えるが、黒駒勝蔵のように殺す必要もなかったと思う。

 みなもと太郎氏は、同人雑誌「日本侠客史」の中で、「ヤクザはえげつないが、それを利用する権力者はもっとえげつない」と締めている。こうした構図は実を言えば、岸信介の安保闘争まで続くのであった。

 そして、近世ヤクザまでの項目はここで終了する。これまで書いてきたようにヤクザの世界は様々な年代によって断絶する。明治維新後も近世ヤクザは一部生き残るが、近代ヤクザにとって変わる。ここまで一気に古代から近世ヤクザについて語ってきたが、予想通りというか当然というか、実を言えばこのシリーズヤクザはほとんど読まれていない。もう少し読まれると思ったのだが、今ひとつだなあと感じる。



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by shinwa_2007 | 2013-06-15 10:06 | ヤクザシリーズ | Trackback | Comments(9)

幕藩体制の矛盾と苦悶の中で博徒系近世ヤクザが生み出された

 近世にこれだけの大規模なヤクザが登場したというのは、やはり幕藩体制の矛盾と無関係ではない。そもそも最初から幕藩体制に無理があった。農家でも武士階級でも、結局その家を継げるのは長男坊であり、次男坊は長男坊が死亡しない限りあまり必要とされていないものであった。農家でも、長男が継げば、次男坊は、家を出て、自然とその家との関わりが薄くなっていくのだ。

 昭和時代大量に金の卵としてもてはやされた集団就職だが、それも長男は家を継ぎ、次男三男は都会へ出でいった。希に分家が許されて土地を分けてくれる家もあるかもしれないが、それも「田分け」と言って褒められないことであった。「ボンクラ」がサイコロ博打での勝負の見極めができないことを説明したが、「田分け」は分家を許しすぎて、田んぼが分割し、結局その家が衰退することが語源であるが、これが意味合いとして「まぬけ」に近い意味合いとしても使われるようになった。

 そういうことで当時から次男坊・三男坊の行く道が非常に限られていたというのは象徴的なことでもあった。彼らがどこにいったかといえば、行商人になったり、ヤクザになったり、職人になったり様々だ。

 江戸時代の「住所不定・無職」の代名詞である無宿人という存在が生まれることは必然的なことであった。そこで松平定信は、寛政の改革で増加する無宿,浮浪者に対して授産・更生の道をひらくと同時に,江戸市中から無宿者を一掃して治安の向上をはかることを目的として開設した一種の保安処分の施設「人足寄り場」を開設した。

 実際、無宿人は、ヤクザになった事例も多いことから更生させようという考えから行ったものなのだろうが、あまり成果が挙げられたとは言えなかった。また、松平を名君と崇めた水野忠邦も人返しの令を行うもこうした政策はほとんど意味はなさなかった。

 というのも、当時から人の移動は結構激しく、職人や行商人も儲かるところでは積極的に動いた。ヤクザも任侠の世界も同じである。人の流動性は近世末期では政治の力では、どうかできるほどたやすいものではなかった。

 同時に社会全体が複雑化し、貨幣経済も発展したところもあり、江戸後期は、農村でも年中行事が盛んに行われるようになり、盆踊りの習慣もこの頃に定着したのであろう。いわゆる日本の伝統的な色彩を帯びた「民俗」の起源はほぼ江戸後期で固まったと見て良い。

 娯楽が普及した一方、天明の大飢饉や天保の飢饉も発生し、定期的に困窮したこともある。そういうことで、ヤクザという存在は、ある面では個人が生み出したものとも言えるし、社会政治が生み出したという双方の面を持っている。

 ヤクザの語源は、定かではないが、三枚カブ花札ゲームで8・9・3からきたとされ、これはカブゲームではブタであり役に立たない札になることから、ヤクザは役に立たないということからこの呼称が生まれたとされる。

 そして役に立たない人や正業につけない人々を供給するシステムが幕藩体制に組み込まれた。幕藩体制の矛盾と行き詰まりと同時期に博徒系ヤクザか登場することは歴史の必然であった。

 そして時代は明治に向かい、近代国家の建設に向かう。こうした中での博徒系近世ヤクザも大きな変質を余儀なくされ、近代ヤクザが生み出されていくのである。





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by shinwa_2007 | 2013-06-12 23:27 | ヤクザシリーズ | Trackback | Comments(3)

関東取締出役〜ヤクザや風俗を取り締まる江戸時代における関東のFBI

 今まで読んできた方にはこんなにヤクザに好き勝手されていて、幕府は何をしていたのだという声もあがっていたと思われる。そこで幕府は、文化2年に関東取締出役を設置した。
 何しろ、関八州(関東地方)はモザイク状に天領もあり、旗本領あり、譜代大名ありと領土が入り組んでいる。それに各藩の領土では自治権や逮捕権も委任していたことから、Aという天領からBという旗本領に逃げ込むとそうそう簡単に逮捕できない事情もあった。

 それに上州は隣に、武蔵国、下野国、信濃国があることから逃げるのも容易であった。これではヤクザに逃げられて関東の治安が安定しないと考えるのは極めて当然のことであった。特に旗本領にしても天領にしても、警察力もなかったことから、逮捕もできなかった。上州にヤクザが生まれやすい気風についてこれまで語ってきたが、旗本領や天領も多かったことも影響している。

 Wikによると、「関東取締出役は身分上は足軽格という比較的下層な身分であるにも関わらずかなりな権勢を誇っていたようで、本来は上級武士にしか許されない駕籠を乗り廻し大勢の従者を引き連れて廻村するなど弊害も大きかった。俗に「泣く子も黙る」と言われるほど、恐れられた存在であったという」とある。

 アメリカのFBIのように関東を回ったといい、一定の治安の安定には寄与できたとされる。しかし、江戸末期には再度乱れることになる。当時、取締の中心であったものは、博打、暴力、百姓の帯刀、盗み、歌舞伎や娯楽などであった。

 ターゲットは当然のことながら国定忠治のようなヤクザであったであろう。江戸後期になると無宿人は次から次へと江戸に入ってくるし、博打も打つようになる。これに対抗しようとしたのが水野忠邦の天保の改革で、人返し令を行っている。

 文化文政時代から天保時代にかけて無宿人は増えている。無宿人というと今の言葉で説明すると、「住所不定・無職」にあたろうか。こういう人々が増えると具合が悪いのは年貢の取立て料が減るからである。

 このあたりの時代が、「サンカ」等の誕生の時代とほぼ重なるのだが、「サンカ」というとそれなりにロマンがあると考えられるが、私は無宿人とそうそう変わらないものだと考えている。離村や離農も増えていた時代である。特に上州は無宿人が多かった。別名、「上州無宿」という言葉もあるが、これは、比喩的な表現であり、上州人でなくとも、「上州無宿」と名乗ったことも多かったことにも由来する。

 こうした無宿人がヤクザになっていき、関東取締出役は彼らを厳しく取り締まるのだが幕末になってペリーが来航する時代になって、お台場を作る必要があった。この時代、韮川の代官である江川太郎左衛門は多少、江戸にすねに傷を持つ人物が入ってきてもお台場の完成を急がせるため、侠客である伊豆の大場の久八に協力を仰いでいる。

 実は江川太郎左衛門は、こうした無宿人を取り締まる側であった。だから原理原則から言えば、こうした無宿人が江戸に入ることを拒むことが彼の仕事といえた。実際、大場の久八は、推測であるが江川にこう述べたであろう。このあたり、みなもと太郎氏の『風雲児たち』で、生き生きと描かれている。「ちょっとすねに傷を持つ人物が入ってきますがね。工事の人足は責任もって集めましょう」という内容について述べている。江川はこれを諾とした。

 そのため、ペリーは、品川沖まで来たが、このお台場のおかげで江戸城近くに黒船を停泊させることなく黒船は横浜まで引き返しペリーが上陸することになった。お台場の建設にはこうした侠客の力が必要であったのだ。大場の久八は、数千人の人夫を指揮したという。

 江戸末期にはこうした侠客やヤクザが次々と誕生していくことになる。中には治安を乱す人物もいる一方、国家にも貢献した人物もおり、本当に様々である。



菖蒲







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by shinwa_2007 | 2013-06-11 21:31 | ヤクザシリーズ | Trackback | Comments(4)

お控えなすって・・「仁義を切る」の起源は、木挽き職人の仁義を模倣したものだ

 「仁義を切る」は、任侠、テキヤなどが、初めて顔を合わせたとき挨拶をすることである。任侠、テキヤ以外にも、かつては各地を渡り歩く鉱山夫や旅の職人なども仁義を切っていた。
 しかし、群馬県の誇れる歴史学者萩原進は、むしろ木挽職人の仁義を模倣した可能性が強いと『上野村の民俗』で明らかにし、実はその可能性が私も高いと思っているのだ。仁義をよどみなく切れれば身元は確実でそうでなければ怪しまれるという。みなもと太郎氏の同人雑誌「日本侠客史」によると、同氏の先祖が渡世人であり、訪れたヤクザの人がまさに映画さながらの仁義を切っていたと語っていたことから、仁義を切る習慣は相当前からあったのであろう。
 
 見ず知らずの人間が一宿一飯の世話になる時の挨拶の仕方は、実はヤクザの専門用語ではなく、むしろヤクザが他の社会から真似た通常の慣例を踏襲したと萩原進は、推理した。というのも、萩原が昭和35年に多野郡上野村で民俗調査をした際、木挽職人であった老人から、そのままの言葉を聞くことができたのである。

 木挽き職人とは、木材を「大鋸」を使用して挽き切る職人であり、今で言えば、木材製造者である。今では電動ノコギリが普及したことから木挽職人は不要になったが、いい木材を探しに山から山へ転身をしていたのである。仕事が終われば次の山へという流れ者でもあった。

 そういう意味で山の民に近いが、今でも全国各地に木挽町という地名も残っている。真面目に研究しようと思えば同じ山の民であるサンカよりもはるかに興味深い題材でもある。
この木挽職人が別の山に移動する際に、その山には世話役という顔役のような木挽職人の親方がいたという。

 そこを訪問して、一宿一飯の世話になり、合格すれば仕事にありつけるというわけである。だから、ヤクザの仁義の意味合いは、木挽職人の相互扶助の精神があったこともうかがわせる。木挽職人もヤクザも様々な旅に出ることから、時として相互扶助がなければ成立しなかった面もあった。後に書こうと思うが、的屋業界の相互扶助の精神とも共通している。的屋が縄張り外の場所で店開きする際は、その地方の組合の世話役に挨拶するのが通例で、昔であれば仁義を切る作法があったが今は名刺交換だ。

 一方、ヤクザは親分・子分とのタテ社会でもあるし、兄弟分などの横の連携も密にしなくてはいけない。今のヤクザ業界は、やたら、兄弟分が増える傾向にあるというがこれは、無駄な抗争を避けるためとも言われる。

 しかし、木挽職人がそうであったようにヤクザ業界も裏切りは許されないものだった。今はかなり少なくなったとされるが、昔は足を洗う際は、小指を切ることはあった。ところでこの小指を切る習慣がいつ成立したのかは、いまもって不明である。江戸時代のヤクザにも制裁はあったが、それはどちらかといえばリンチに近いものであったのだが、厳しい制裁は、より団結力を強めていった。

 萩原進は群馬県の歴史民俗をくまなく調査をした郷土史家でもあるが、ヤクザと木挽職人の社会的共通性を見出したことは歴史的な発見でもあるのだが、どういうわけか過少評価されているのは残念である。今回、上州ヤクザについて執筆した項目も多いが、これは萩原進の一連のヤクザ研究に影響を受けたものが多い。

 萩原氏は若い時に本当に精力的に執筆したが、1997年に鬼籍に入った。もし、存命であれば、ヤクザ研究で最も話を聞きたい歴史学者であり、民俗学者でもある。
 



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by shinwa_2007 | 2013-06-10 22:48 | ヤクザシリーズ | Trackback | Comments(1)

江戸時代の博打を再現する〜さあ張ったり張ったり。半か丁か。

  何か自分でも嬉しそうに書いているが、私は一切賭け事はしない。韓国人や朝鮮族も花札は好きで、「日本人よ。あなたもやってみては」と促されることもあるが、「いや私は見ている方が楽しいんで」と言ってやんわりと断る。韓国人や朝鮮族は、花札などのカード系賭け事が好きだが、関東人はなんと言ってもサイコロである。余談だが、関西はどちらかというと花札系を好むらしい。賭博も関西と関東の違いがでていて興味深い。

 サイコロ博打についての時代劇に登場する姿は実はおおむね正しい。盆ゴザを敷いて、半座と丁座に分かれて座る。丁座の中心には、親分が座り、冒頭の挨拶で「客人、今日は楽しんでください」と言って退出することが多かった。昭和時代の博打は、商店街の店主たちや高度成長で一坪あたりの土地が上がったことで、「坪(壺)あそび」をする地主たちが多かった。そこで半座に座る中盆が親分の代行をし、博打の際にはかけるよう促すのが役割である。

 中盆が、「さあ張った張った。張って悪いは親父の頭。張らなければ食えない提灯屋」という口上で煽るのである。「壺振り」は、中盆が「勝負」の掛け声でサイコロを壺に入れて伏せ、壺をあげる役割である。余談だが、マヌケのことを「ボンクラ」というが、これは勝負の判定ができないことから、「盆クラ」という言葉も生まれた。

 時代劇ではボンボンの大きな商いの二代目が博打に走り、イカサマで負け続けてすってんてんになる話があるが、これも事実で手品師のようなイカサマも当時からあった。ちなみに半と丁を同額にする必要があり、半が10両かければ、丁も10両かけるシステムである。

 そして場所については現金の流動性が高い場所ということについて先日書いたが、このほかに地元民しか知られていない民家も山の中でもあった。博打は昼間からやるものではなく、夜行われた。その民家では、夜目がきく子分が周りを見回り、捕物が来れば逃げるようなシステムもあった。例えば、群馬県では古い民家では抜け道がある家がしばしば存在したという。酷いところでは寺に抜け道があるというのだから、何に使われたかといえばおおむね想像はつくだろう。

 寺が売り上げの一部を場所代として召し上げていたことから、「テラ銭」の起源になったのは前に書いたが、場所代を払う箱のことは現存しているが、名称は「テラ銭箱」という。
 変わった場所では古墳でも行われた。石室は夏は涼しく、冬は暖かいということで賭場としては絶好の地域だったらしい。関東では歴史的に群馬県南と埼玉県北に大きな古墳を抱えていたことから、江戸時代ではここでも行われていたようだが、古墳が賭場になるという事例は全国的なものである。

 ちなみに昭和時代には、漫画『こちら大阪社会部』(大谷昭宏原作・大島やすいち作)はスクープの過程の裏話が理解できる漫画としては興味深く、主役の谷一平が大阪府警の動きをつかみ、賭場に乗り込む圧巻のシーンがある。今は聞くところによるとこうした古典的な博打は、やっているところではほとんどないという。たまに世話になっている人のためだけの遊びであるという。昭和時代であれば結構、土地成金も輩出したことから、温泉宿で行われたというがサイコロ博打が廃れたのは、非現行犯でも逮捕できるようになってからだという。

 博徒系ヤクザにとっては今は割に合わないと声を揃える。そういうことで博徒系暴力団にとっては、サイコロ博打は歴史となってしまったのである。



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by shinwa_2007 | 2013-06-09 19:02 | ヤクザシリーズ | Trackback | Comments(2)


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