心がよろけそうなときに読むポンコツ日記

現在心の福祉職をとして考えることや日常のことなど徒然なるままに

「わからない」がわかるだろうか





他人の言葉を気にしない力というのはある程度必要だと思います。自分が良いと思った言葉は真摯に受け止めて、こりゃあかんなと思った言葉はスルーして...ということはずっと意識してきたんですけれども、無意識にそれができるとこまではまだ成長していません。今はその練習中というところです。意識的を無意識的に変えていけたらいいなという展望があり、そこへ向けて試行錯誤しているところなんですよ。

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突然なんですけど、父が自殺した理由は私にはわからないんです。遺書もあったけどそういうことは書いてなかった、あるいは母が私に配慮して隠しているのかもしれません。私はそれを母に聞こうとは思わないんです今は。母のことを思うと今はそれでいいと思うんです。
わからないもんはわからないと割り切れたらいいんですけど、そこまで大人になりきれずにいます。断片的な記憶を頼りに父が自殺した理由を想像することしかできません。

でもどの自殺者だってそうかもしれないと思います。いくら遺書に具体的に理由が書いてあったって、本当のところは誰にもわからない。それが自殺。死人に口はありません。
だから遺された人たちは知りうる限りの情報をかき集めて想像することしかできない。永遠にやってはこない答え合わせを夢みて想像し続けることしかできません。それか自分のなかで「彼はこういう理由で死を選んだんだ」と折り合いをつけて納得するしかないんです。死の受容の過程って結構大変なことですよね。


せっかくこんな辺鄙なネットの世界のブログを読んでくださっている貴方です。もしよかったら、ずっと「わからない」ことを抱えている人の気持ちを想像してみてはいただけないでしょうか。私はそれを想像してくれている人達のことを想像してみますから。



考えてみたら、「具体的なことを知りたい」という言葉が私に突き刺さっていたのは、私自身もわからないことだったからなんですよね。私も知りたいんです。でも今更知ったところでどうするんだ?ってもう一人の自分が言っているんです。だから、これはもう永遠に答えの出ないことだと割り切って、亡くなってしまった父の分まで生きるのが一番だなって思うんです。そう思うしか、自分を救える方法が見つからなかった。今の自分には。

「○○の分まで生きる」という言葉の背景を考えてみるのも興味深いと思います。





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さて、このブログについてのことなのですが、私も仕事を始めてしばらく経ちまして、勉強の必要性を強く感じる様になりました。あと読書もしたい。
現在ブログを毎日更新しておりますが、この頻度を減らしてその分を勉強時間に当てようと考えております。と言うてもきっと2、3日に1度は更新するだろうけどな!ガハハ!


実は継続日数100日到達を目指していたんですけど、仕事の都合上でしたり、まぁ今のブログの流れから、ここで一旦区切りをつけてもいいのではないかと、今がちょうど良いのではないかと思いました。

みんな鯖じゃなくて鯵だとすぐ見分けられたり、こってりを食べたり、ソフトクリームを巻いたり、ブリブリしたり、その指摘をみて電車内で一人でにやけたりする時間もとても楽しいんですよ。だからブログをやめる気はさらさらないのだけど、ちょっと勉強する時間を作ったほうがいいなって思いまして、そして私は不器用なので両方を上手く両立させるにはまだまだ実力不足ということもあります。なので100日に届かないのはちょっとさみしいのですが、更新頻度多分減っちゃうよ報告でした。


(でも多分だから...)




これからも心がよろけそうなときに読むポンコツ日記をよろしくお願いしますm(_ _)m




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読んでくださってありがとうございます。


ポンコつっ子