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「IS インフィニット・ストラトス ~黒衣の侍~」
銀の福音編
三十一斬 漢なら通すべき筋は通すもんだ
「駄目だ」
静かにそして冷静な声が、無常にも一人の男子生徒へ向けて放たれる。
緊急時の作戦本部へと変貌を遂げた風花の間で、忙しそうに辺りで作業を続ける職員達の動きすら止めてしまう程、その声は冷静で真剣で冷徹にすら聞こえる。
走り回っている職員は女性が多く見受けられる……いや、正確には女性しか存在していない。
畳の床をとたとたと軽く走り回る女性特有の足音も、今の状況ばかりは足を止めざるを得ないのか、誰もが固唾を呑んで様子を見守っている。
そして、そんな職員達の視線を一身に集めているのはたった二人。
IS学園に最近出来た男子の学生服に身を包んだ少年――柏木翔。
IS学園一年一組担任のサマースーツがよく似合う女性教員――織斑千冬。
その二人が、現在の風花の間で今一番視線を集める人物だった。
鋭い瞳を真っ直ぐに千冬へ向ける翔とは違い、千冬の視線は何かから瞳を背ける様に辺りのモニターへ向けられている。
しかして、先ほどの声を出したのは千冬であり、声の調子と様子からは想像もつかない光景。
何かに怯えているのか、胸の下で組まれた腕は我慢するように強く握り締められ、少し震えているようにも見える。
無論、そんな千冬の様子に気がつかない翔ではないが、あえてそれを指摘する事はなく、ただじっと千冬へ視線を向けるだけだ。
「何と言われようが駄目なものは駄目だ……」
冷静で冷徹な声はそのまま、しかし、その声は自分に言い聞かせているようにも聞こえる。
そう言い聞かせなければ何かが壊れてしまいそうな、いつも凛と涼やかな表情の千冬からはおよそ考えもつかない声音が、翔には感じ取れた。
IS学園指定の白を基調とした制服に身を包む翔の首元には、これまた白い包帯が見え隠れしており、その光景がまた痛々しさを感じさせる。
千冬が見ないようにしているのはその傷跡なのかもしれない。
「しかし、今のままでは一夏達が……」
薄く引き締まった唇を開き、千冬へ言葉を投げかける翔。
今目の前に横たわる現実は待ってはくれない。
一夏を含めた一年の代表候補生兼専用機持ち達が無断で出撃した事、今現在その結果の戦況はそう芳しくはない事。
それらの現実は待ってはくれない。
飽くまでも冷静にそれを指摘する翔の言葉と口調に、千冬はひくりと表情を動かし、鋭い瞳をやっと翔へと向ける。
「駄目だと……駄目だと言っている! 一夏達が危ない? このままでは自分の二の舞だ? そんな事はわかっている! 誰よりも私が一番よく知っている!」
柔らかい畳を踏みつけながら振り向いた千冬の視線は、睨んでいると言ってもいい。
鋭く力のある視線は、同じく鋭い瞳を向けている翔を射抜く。
そして放たれた怒声は風花の間に響き渡り、作業を再開していた教員の何人かがその声に肩を竦ませる。
珍しく感情をむき出しにして怒声を放った千冬は一旦言葉を区切り、肩で息をするように肩を上下させているが、まだ言いたい事は終わっていないらしく、翔へと向き直った拍子に解かれた両手は力強く握り締められている。
「知っているんだよ。だが、私にもう一度あの光景を見ろというのか! 力なく海へと吸い込まれるお前の姿を、全身焼け爛れて気を失い、もう目を覚ます事は無いのかもしれないと思うほどに静かに眠るお前の姿を、また私に見ろというのか!」
もう、耐えられないんだ……。
そう力なく続けた千冬は、もう言いたい事は無くなったのか、またしても翔から視線をそらす。
しかし、言いたい事を言った千冬に対して、言いたい事の半分も言えていないこの男が黙っているわけもない。
千冬の怒声と願いすら込めた力ない言葉は、全く届いていないように翔は千冬を見据え、その引き締まった唇を動かす。
「織斑教諭が俺の事を心配してくれている。その事実は痛いほどに理解しました。しかし、納得する事は出来ません……」
「だがっ、それでも……」
「出来ないと言っている!」
千冬の言葉を突っぱねるような翔の言葉に、千冬は鋭い瞳を再度翔へ向け、カッとなった感情のままにまたしても口を開こうとする。
が、その直前でまたしても響き渡る怒声。
果たしてそれは千冬のものではなく、先程まで千冬の怒声を静かに聞いていた翔から発せられていた。
腹に響くような低くも重い怒声は、感情のままに吐き出されたものではない。
その事実は未だ感情を悟らせない何時もの表情の翔を見れば一目瞭然。
白の学生服に身を包んだ翔は、先程まで直立不動で立っていた体勢を解き、静かに腕を組んでいる。
その瞳は鋭く千冬を捉えており、主張を覆さない彼女の鋭い瞳と翔の鋭い瞳が空中で交錯する。
宴会に使われるはずの風花の間が持つ柔らかい雰囲気、そんな独特の雰囲気は微塵もない。
あるのは何処までも張り詰めるような緊張感と、感情と理性のせめぎ合いの空気だけ。
「お前が俺の事を心配してくれるのは嬉しく思う。しかし、お前はそれで尻込みする様な人物なのか? どんな状況でも諦めず、ただ静かに勝機を見出すお前は何処へ行った? 起こった事実を受け止め、そして次の一手が打てるなら迷わない。織斑千冬とはそう言う女だったはずだ」
「違う……私は、私はそこまで冷静に冷徹ではいられない……」
静かに千冬に言葉を投げる翔に、千冬は瞳を背けることでそれに応える。
冷静に事実を受け止め、次の一手が打てるなら迷わず打ち、次の一手が無いならば引き際を見誤らない。
それこそが織斑千冬と言う女性の持つ強みであり、未だ伝説となっている要因だった。
握り締められた拳は硬く、かみ締められた唇は何かを我慢するように強く……。
今の千冬は冷静でクールなIS学園一年一組担任織斑千冬では無く、柏木翔と言う一人の男を心配する年上の幼馴染、織斑千冬だった。
学園の生徒達からすれば想像すらつかない今の千冬の姿は、しかして同僚である教員達も一様に瞳を見開いてその姿を見ている。
誰にも言えず、ただ屹然と冷静に行動していた千冬は、その実誰よりも不安で誰よりも恐怖を感じていたのだ。
焼け爛れ全身から煙を上げて海へと落ちていく翔、引き上げられたその姿を見た時には思わず崩れ落ちそうになるほどの絶望感がその身を包んだ。
誰が声を掛けようとも開く事無く静かに閉じられている瞳を見た時、言い様の無い不安感と恐怖感が襲ってきた。
もう目覚める事はないと思わせるほど痛々しい姿で静かに眠る翔をいつまでも見ていられず、一番最初に部屋を出た。
その時にしなければならない事を淡々とこなしていった千冬だが、実際は受け入れたくない現実から一番最初に瞳を背けたに過ぎない。
風花の間の扉が開かれ、白の制服に身を包んだ翔が二本の足でしっかりと地面を踏みしめて何時もの表情で現れた時は、安心感と不安からの開放感でまたしても崩れ落ちそうになった。
(その時に思ったんだ……もうあんな光景は見たくないと、次は耐えられないと……)
「だから次は俺を閉じ込めるのか?」
――。
その翔からの一言に、千冬は思わず息を呑む。
翔の鋭い瞳が千冬を射抜き、そんな彼に視線を合わせる事が出来ない。
怒鳴るでも責めるでもなく、淡々と千冬が今しようとしている事をしっかりと認識させるようなその声に、嫌でも現実に目を向けさせられる。
「その言葉は俺を信用していないのと同じ事だ」
「違うっ! 私は……」
「同じだ。俺は死なない。まだ死ねない」
「信用していないわけではない……だが、その身体では……それがわからないお前では」
「それに」
静かに現実を見せ付けていく翔の言葉に、千冬は動揺を誘われながらもしっかりと現状を見極めさせようと言葉を続ける。
今の翔を危険な場所へ赴かせたくない。
その一身で紡ぐ言葉も翔には届かず、力強く続けられた翔の言葉に遮られる。
静かな声音の中に宿る荒々しさ。
それを感じ取れるような翔の声音。
珍しくも感情を抑え切れていないような翔の声に、今まで感じていた不安感や恐怖感すら忘れて、千冬は思わず翔へと視線を向ける。
果たしてそこには感情を悟らせない何時もの表情の翔はそこにはいなかった。
口角を吊り上げ、不敵に獰猛に笑みを浮かべる一人の男がそこには存在していた。
冷静沈着、どんな時も慌てる事無く、物事を淡々と進める。何事も無かったかのように障害を潜り抜ける。
およそ代名詞ともいえるそれらの言葉が全く似つかわしくないほどの荒々しさ、それが今の翔の浮かべる表情だ。
日本刀のようにスラリとした涼やかな表情などそこには無く、浮かべるのは牙を剥き出しにした狼のような獰猛さが表に出ているような荒々しい表情。
不敵に獰猛に笑う翔の雰囲気に、千冬は言葉を発する暇も無くただ見据える事しか出来ない。
「俺が二度同じ相手に敗北することは無い。そうだろう?」
誰かに問いかけている事が明白な疑問の言葉を紡ぐ翔に、千冬は首を傾げる。
笑みを浮かべながら問いかける相手は千冬ではない。
その事は声の調子で千冬自身理解出来ている。
しかし、状況的に千冬以外に問いかける相手等いないのも事実。
要領を得ない会話運びをする翔に応えたのは千冬でも、動き回っている教員でもなく、ただただ機械的で冷静な声だった。
『今の疑問は私への同意とみなしますが、よろしいですか?』
「お前以外誰がいると言うのだ?」
『であるのならば私は是と答えましょう』
機械的な声を発するものなどここには存在せず、何処から聞こえてくるのか誰も最初は理解できない。
反響もする事無く風花の間の空気に溶けた声を探れば、それは翔から発せられた……いや、正確には翔の限りなく近くから発せられた事が理解できる。
その事実に千冬の表情は珍しくも驚愕の表情を浮かべている。
「今のは……一体……?」
「俺の相棒だ」
『改めまして、黒衣零式のAIとして生まれました。お好きにお呼びください』
感情の込められていない機械的な女性の言葉に、千冬の視線は自然と翔の制服のポケットに装着されている待機状態の零式へと向けられる。
その視線に込められた感情は、正しく驚愕。
ISに人格が生まれるなど、聞いた事も見た事もない。
前例すらないその事態に驚愕するのは当然であり、千冬だけではなく風花の間に存在する全ての教員の視線は翔へと集中する。
その瞳には漏れる事無く驚愕の色が浮かび、信じられないとばかりに見開かれている。
そんな中、翔だけは動揺も驚きも無く、ただただ視線を受け入れて獰猛に笑みを浮かべている。
が、ふと何かに思い当たったのか、その表情も何時もの感情を悟らせない表情へと戻る。
「そう言えば名がまだ無かったな……」
『今までと同じ様に零式と呼べば問題ないかと思われます。呼称に大した意味はありません』
「味気ない事を言う奴だ。ふむ……」
『誰を呼んでいるのか、何を指しているのか、それが理解できれば呼称としての役割は果たしています』
腕を組みながら額に手を当て何かを考えている翔には、当然ながら零式から発せられる女性の声など届いてはいない。
驚愕の渦から未だ帰ってきていない教員達を放置し、翔は思いついたかのように掌を打つ。
パンッと軽く乾いた音が木霊した瞬間、教員達は驚愕の渦から帰ってきたのか、示し合わせたかのように一斉に動き始める。
しかして、興味は尽きないのか、視線はチラチラと翔へと投げられている。
「零(今)から無限大(未来)を繋ぐ者……零来(れら)」
『……必要ないと思われますが』
「いいから受け取っておけ、いつか理解する時が来る」
『了解しました。では、今より私の事は零来とお呼びください』
「うむ、ではこれからも宜しく頼む。零来」
『承知しました』
周りからの視線など気にする事無く相方とのやり取りに満足している翔。
そんな翔に対して声を掛けられるものなど、この風花の間の中ではただ一人。
「柏木……一体、それは……」
「それではない。零来だ」
「あ、いや、済まない。零来とは、何者だ?」
『それには私自身が返答します。私は自立稼動の人格AIです。機体のサポート及びエネルギー管理、運用が私の担当です』
淡々と感情の篭っていない機械的な女性の声が風花の間に響き渡る。
今までの受け答えからして、自立稼動型の人格AIである事は、周りの教員達も理解出来た。
しかし、最も理解出来ないのは、何故その様なAIが存在しているのか、と言う事。
自らの考えすら受け答え出来ると言う事、それはつまり零来と名づけられたAIは思考力を持っていると言う事に他ならない。
相手の言葉を受け取り、それに対する返答を自らの思考力で持って判断する。
言うなれば、人間と同じようにして会話する事の出来るAIと言う事だ。
そんなAIは世界を見渡しても何処にも存在しない。
人と同じ様に会話し、人と同じ様に考える。
そんな機械は存在してはいないのだ。
それだけでも驚愕に値する事なのであるが、更に驚愕するべき事実が、零来自身から告げられる。
『守秘する義務はないと判断しましたので、明確化しておきます。私と言う人格自体が零式の単一能力として発現しています』
「なん……だと? そんな事が本当に……」
『その疑問に意味はありません。事実そうして私は存在しています』
「そう言うな、零来。人とはそう言うものだ」
『……私には理解出来かねます』
驚愕の声を漏らす千冬に対して、IS学園一年一組の中で間違いなく最強を誇るペアは、のんびりと会話を続けている。
しかし、千冬の反応がこの場合一番正しい。
その証拠に、翔と零来に興味を抱きチラチラと視線を向けながらも、動き回っていた教員達がまたしても動きを止め、漏れる事無く驚愕をその表情に貼り付けている。
単一能力、ワンオフアビリティとも呼ばれるそれは、特殊兵装の様にISに備わっていながらも他のISにも転用可能な物ではない。
一般的にはセカンドシフトを終えたISが使えるIS一つ一つの固有能力のようなものだ。
原則的に単一能力に一つとして同じものはない。
それはISの成長過程からの分岐で得る能力であるため、特殊兵装の様に技術で作り出されたものではないと言うのが主な要因。
搭乗者の戦闘経験や稼動経験などの経験が蓄積して発現する真の能力。
一つ一つのISの搭乗者が違えば、そうして発現する単一能力も同じ物がないのは道理である。
『単一』能力とは正しく正鵠を射ているのだ。
周りが驚愕の表情を浮かべる理由はそこだ。
単一『能力』と言うだけあって、それは分かりやすい能力として発現する場合が多い。
いや、正しく言えば能力として発現する以外に例がなかったのだ。
人格が能力として発現した例など、ただの一度もない。
エネルギーを消費し、なにかしらの効果を目に見える形で具現する。
それが今までの単一能力であり、一夏の白式が持つ零落白夜など正しくその通りの物といえる。
大量のエネルギーを消費するが、相手のエネルギーシールドやエネルギーを消失させる能力を持つ何かを形成する。
単一『能力』として正しい形とも言える。
そこに来て黒衣零式の単一能力は、人と同じ様に思考し判断する人格こそが能力など、単一である事は間違いないが、この場の誰もが聞いた事がない。
「それで? 根拠と覚悟はハッキリしているわけだが……出撃許可は貰えるのか?」
驚愕冷めやまぬ千冬を含めた教員達を置き去りにし、いつもの感情を悟らせない表情。
既にいつも通りと言っても差し支えない態度の翔が、ゆったりと千冬を見返している。
覚悟と強い意志、そして何より、千冬を裏切る事などない。
そう言わんばかりの安心感の篭った瞳に、千冬はかっと身体中が熱くなる感覚と共に、思わず首を縦に振ってしまいそうになる。
しかし、ここが何処かを思い出し、無意識の醜態に流される事を押し止める。
絶対の自信とそれに伴って纏う雰囲気と言うものは厄介なもので、翔のその態度に安心感と信頼を感じてしまえば、その意見に抗える人物はそう多くはない。
根拠はないが、何とかしてくれる。
そう思わせるだけの雰囲気と風格が、柏木翔と言う男にはあるのだ。
「し、しかし、不確定要素が多すぎる。お前の身体の事もそうだ。それに能力として全く前例のない人格系統の単一能力……有用性が未知数だ」
翔の振る舞いと纏う空気に押し流されそうになる意識を押し止め、なんとか反論を紡ぐが、それも最早風前の灯。
正論を言っているのは千冬の方だと言うのは間違いないのだが、回りの心象やその場の空気がそう言っていない。
その証拠に、周りの職員はここから目標ポイントまでの距離を算出し、そのデータを零式に送る準備を整えている者。
前回の白式と紅椿による戦闘、零式による戦闘、そして今繰り広げられている戦闘で得られたデータを纏めている者。
明らかに周りの空気は、翔が出撃する事を前提に動いているものが多い。
今の状態を簡単に言い表すならば、皆呑まれているのだろう。柏木翔と言う男が作り出す独特の安心感を感じるその空気に。
唯一未だ呑まれていない千冬ですら、紡ぐ言葉に焦りが滲んでいる。
焦りと共に絞り出された千冬の言葉に、翔は直様答えを寄越す事なく、千冬に背を向ける。
そして背中を向けたまま、足を動かし、風花の間にある出入り口へ向かうと同時に千冬へ向けた言葉を紡ぐ。
畳を踏み鳴らす重い音と共に語られる声は、やはり自信に満ち溢れ、全てを任せてしまいたくなるような声だった。
「俺の身体ならば心配する事はない。千冬の感じている能力の有用性とやらは……」
人知れず、フッと笑みを浮かべ言葉を切った翔は、風花の間の扉を来た時同様大胆に開け放つ。
『全てが終わった時の結果が証明してくれます』
「そういう事だ」
これでも納得できないか? とでも問い掛ける様に、半身で千冬へと振り返った翔。
惚れた弱み、と言う言葉が千冬の脳内を過ぎる。
結局、織斑千冬と言う女性は、本当の意味で柏木翔と言う人物に抗う事は出来ないのだ。
勿論翔は本当に千冬が拒絶するような事は強行しないし、そもそもしないだろう。
しかし、今の状況ではそれ以外に方法がない。
その事実を本当は千冬もわかっているのだ。
これは千冬個人が感じている願望。我侭と言い替えてもいいそれだ。
想い人に傷ついて欲しくない。傷ついた姿を見たくない。そんな小さく切実な願い。
理性と感情がせめぎ合う苦悩が存在した千冬では、既に強固な覚悟と意志を持った翔を止められない。
わかりきっている事実。だがそれでも、千冬は子供の様にただそれが嫌だと声を上げすにはいられないのだ。
「……私が最後まで嫌だと言っても、お前は行くのだろう?」
「そうだな。今はそれが最善で確実だ」
忠告を聞かぬ生徒ですまぬな。
そう言って苦笑する翔に、千冬はため息と軽く後頭部を掻く仕草でもって応えてみせる。
最早諦めた。そんな感情が前面に出てきている千冬は、無造作に翔の傍へと足を運ぶ。
半身になった翔と、そんな翔を切れ長の瞳で見上げる千冬。
「分かった。分かりたくないが、分かるしかないんだろう……その代わり」
女性にしては薄めの唇から紡がれる言葉は、不満の色が濃い。
しかし、諦めも混じったその声と共に、千冬は徐に翔の片手を己の右手の中に収める。
細くしなやかな千冬の指と、ゴツゴツとして節が目立つ翔の指が絡み合い、一つの繋がりを持つ。
握り締めた翔の手と、翔の手を握った自らの手を、何の迷いもなく包み込むようにして自らの胸元に収める。
かっちりと着込まれたサマースーツ越しでも伝わるふにゃりとした柔らかな感触にも、翔の表情は崩れる事はない。
ただじっと千冬の瞳を見返すだけ。
「きちんと帰ってこい。お前を待つ女がいるんだ。無事で帰ってこねば私は泣くぞ? 恥もプライドも関係なく全力で泣いてみせる」
「変わった脅しだが、女子供を泣かせるのは趣味ではないのでな」
「よし、必ずだぞ……では、行ってこい」
「承知」
最後の念押しと共に、するりと翔の指は千冬の手の中から抜け出し、戦場へ向かう緊張など感じさせない足取りでもって、風花の間を出て行く。
そしてその頃には千冬も、元の凛とした表情に戻っており、切れ長な瞳が作り出す眼光はいつも通り鋭い。
IS学園一年一組担任、織斑千冬としての表情がそこにはあった。
最後まで翔の姿を見送る事なく、くるりと踵を返し風花の間のモニターへ向かおうと千冬の瞳が捉えたもの。
それは何であろう、同僚達のにやにやとして何やら含みのある笑みが並んでいる光景だった。
ひくり、と目元が引き攣る感覚を千冬は確かに自覚していた。
「意外な一面っていうやつですね」
「織斑先生にもあんな所あるんですねぇ……やっぱり女性って事ですよね」
「見てるこっちが恥ずかしかったですよ」
「そう? むしろ私は羨ましかったけど」
にやにやとした笑みを漏れなく浮かべる教員達の間で、そんな言葉が飛び交う。
いつも凛とした表情を崩さず、厳しく、なにより恐ろしい。
そんな評価を生徒達から集めている織斑千冬と言う女性。
同僚である教員達も、そんな千冬以外見た事がなかったし、千冬も見せてはいなかった。
まさに意外と言って差し支えない千冬の一面に、周りの雰囲気は気の抜けない状況にも拘らず、浮き足立っている雰囲気が拭えない。
「私達は応援してますよ! 頑張ってくださいね、織斑先生!」
「……言いたい事はそれだけか? 満足したなら自分の仕事をしろ」
周りからの応援と言う言葉の意味は、この状況では一つしか思い浮かばず、つまりはそういう事なのだろう。
その事が理解できている千冬の表情は、同僚からのからかいの言葉如きでは崩れる事はない。
それどころかその鋭い瞳に宿る温度は冷たく、放つ言葉は空気を凍りつかせる程に寒い。
千冬の弟である一夏ならば、その言葉と瞳に身を固くしながらも、内心ではそれが照れ隠し以外の何者でもないと言う事実に呆れ返っていただろう。
「何やってるの!? 演算処理まだ!?」
「こっちもう終わってます! データ転送準備も完了です!」
「ちょっと! データ解析止まったままじゃない!」
「もう少し……完了です!」
絶対零度、氷河期。
それらを思わせる千冬の表情と声に、教員達は危機を感じたのか、千冬に反応を返す事なく、自らの仕事に全力を注いでいる。
わざとらしく忙しそうに動き回る教員達の姿を視界に収め、千冬も満足そうに一つ頷く。
しかして、その頬は薄く赤色に染まっており、ディスプレイをハッキリと見せる為に光量を最低限に落とした風花の間でなければ隠す事は出来ない。
そんな千冬の視線は、堂々と砂浜に立つ制服姿の翔が映るディスプレイへと向けられていた。
「帰ってこい」
小さく呟かれた一言は、何よりも重く、何よりも大事。
そう言って差し支えない一言だった。
まだ辛うじて空に青が残るそんな時間。
幾重にも重なった白波が発する壮大な音を耳に入れ、自らの握り締めた拳を見据える翔。
白を基調とした制服に身を包み、その下には未だ完全には癒えていないと言う証拠の包帯がいくつも巻かれている。
それでも翔の表情は崩れる事はなく、いつもの感情を悟らせない表情。
精悍とさえ言えるその表情が動きを見せる。
男性的で薄い唇が密かに動き、重く低い声が紡がれる。
「零来。展開だ」
『了解。装甲展開します』
翔の短い言葉に応答し、零来はそれに従う様に復唱。
機械的だが、女性の声だとハッキリわかる声が響いた瞬間、翔の体は黒の光に包まれる。
胴体、腕、足身体の殆どを黒の光に包まれながらも、翔の表情に焦りなどはない。
当然だ。今までずっとやってきた事なのだ。今更焦る要素が見当たらない。
黒の光が覆う部分に、物理的な重さが幾分か加わり、金属的な装甲が次々と展開されていく。
その中で感じていた重さは無くなり、やがて全ての装甲が展開された瞬間、翔の両足はふわりと砂浜から浮かび上がる。
僅かにある日の光に反射する装甲は、前までと変わらず漆黒の装甲。
シルエット的にはあまり前の装甲と変わりはない。
しかし、背面のゴテゴテとした装飾はなくなり、幾分スッキリしたようなシルエット。
装甲のいたる所に詰め込まれていたスラスターは殆どその姿を消し、背面に存在しているスラスターは、背中部分に張り付くように存在している四基のみ。
前までスラスターが存在していた部分は、なめらかな漆黒が覆っている。
スラスター部分が少なくなった事により、更に漆黒へと近づいた事が一番の違いなのかもしれない。
『柏木、問題はないか?』
「制服なので違和感が残りますが、問題ありません」
『そうか……』
完全に展開された装甲と感覚を確かめている翔の目の前に、通信が入り、その人物は当然ながら先程まで問答を繰り広げていた千冬。
いつもの表情で問題はないと言い切る翔に、千冬の形の良い眉が動きを見せるが、それも一瞬の事だ。
『これから目標ポイントの座標とルート、目標の分析データを送る。後の細やかな指示はない。必ず帰ってこい。これだけだ』
「承知」
ただ単純な命令、そして願いを翔へと向ける千冬に、短く返答。
この様な場面でも感情的な表情を見せず、冷静に見える翔の様子に、小さく苦笑を浮かべた千冬の表情がモニター越しに映る。
多分に諦めが含まれた切れ長の瞳は、モニター越しでも美しいと感じるには十分。
鋭いだけでなく、誰かを許す、誰かを心配するその包容力とも言えるそれが備わる千冬の切れ長の瞳は、魅力的と言って差し支えない。
『一夏……あの馬鹿共を引っ張って帰って来い』
「承知。存分に説教してやってくれ」
『わかっているさ……任せたぞ』
それだけで満足なのか、一つ頷き、千冬の方から通信を切る。
通信のウインドウがなくなった事により、少しクリアになった視覚に入ってくる点滅した文字。
堂々と視界の真ん中に入ってきた文字。
――黒衣零式・鉄(くろがね)展開終了。
ただそれだけが大きく主張するように翔の視界を邪魔していた。
その事実を確認した瞬間、文字は綺麗さっぱりと消え去り、後には視界の端に存在する細やかな数値やグラフ。
そして何処までも広がる広大な海が、翔の視界に鎮座していた。
『装甲展開終了。PIC正常稼働確認。理想値より〇.七二%のズレが機体制御率に存在しますが、誤差の範囲です』
「そうか、武装はどうなっている」
『特殊兵装『迅雷』使用可能。接近用武装一件該当。その他に武装は存在しません』
「何? いや、そうか承知した」
『なお、今現在の本機には拡張領域の空きが存在しません』
次々に明らかになる仕様の変更。
シルエットは余り変わらずとも、中身には大幅な違いが見受けられる事を、零来からもたらされる情報により、しっかりと把握する。
「何故無くなった? 以前までは存在していたはずだが」
『セカンドシフトを終えた結果により、スラスターの運用方法に変化が見られました。スラスターを量子化、拡張領域に保存する事により、合計三六基のスラスターが拡張領域に格納されています』
「成程な……必要な時に必要な所へスラスターを構築するのか」
『それが適切且つ簡潔な言語化です』
零来からの無感動且つ色のない賞賛の言葉。
その事に対して軽くため息を吐き、海と同じ色が少し残っている空を見上げる。
ハイパーセンサーによって強化された視界は、遥か上空を飛んでいる鳥の姿すらハッキリと見る事が出来る。
果のない空のそのまた先まで見据えるような翔の瞳の中に宿る感情を推し量れる人物は、残念ながらここにはいない。
『ため息、ですか。それが呆れた時や疲れている時にとる行動だというのは知っています。ですが、今のタイミングでため息を吐く所があったのでしょうか?』
「それも含めて勉強だ。お前はまだ生まれたばかり、これからも多くの事を知り、その上で考える必要がある」
『何を、でしょうか?』
短く問われる機械的な女性の声。
その声を聞き、翔は空を見上げるのみ。
しかし、その心境は僅かばかりの希望や、望みが見えているかの様に、薄く笑みを浮かべていた。
「そうだな、例えば何故俺がため息をついたか、その意味だとか、という所だろう」
『その答えには何らかの意図があるのでしょうか?』
肉声とも機械音とも取れるが、しかして抑揚がない様に聞こえるその声は、美しく鳴る鈴の様にも聞こえる。
そして何より、その声は本当に疑問の色を帯びているように、翔には聞こえたのだ。
「さてな、だが、色々な事に疑問を持つのはいい事だ。そうしていればいつか理解する」
『理解、ですか?』
「あぁ、感情、と言うものをな」
『……私はAIとは言え、機械に属しています。感情と言うものは本来動物が持つものだと記録されています』
淡々と感情のない鈴が鳴るのを、翔はただ薄く笑みを浮かべ、その音に聞き入る。
視線を空から外し、自らの右手を開き、そして閉じる。
身体の調子を確かめるようにして動かすその動作も、全快の時よりも幾分か緩慢にすら思える。
「機械だろうがなんだろうが、思考力があれば、感情は生まれる。それを理解するのはそう遠い日ではない」
『そう、なのでしょうか?』
機械とは感情を持たず、ただ決められた事を淡々とこなす。
そのように作られ、そのように動くものだ。
AIもその例外ではなく、零来もそれに属し、そういう物の筈だ。
しかし、零来の疑問に、翔は薄く笑みを浮かべたまま、確信を持っているかの様に力強く頷いてみせる。
「あぁ、賭けてもいい。お前はいつか必ず感情を持つ。今もそうだ。小さいながらもその芽はある」
『芽、ですか……しかし、AIの私に対して賭け事が成立するとは思えませんが』
淡々としながらも新鮮な零来の言葉に、翔は少しばかり嬉しそうな、それでいて未だ薄い笑みを浮かべてみせる。
「そういう所だ。さて、そろそろデータは来たか?」
『はい、目標の座標、ルートのデータ、目標の戦闘データの分析結果、全て受信完了です』
お茶を濁すような、普段の翔では考えられない程曖昧に話題を崩す。
そして律儀にも零来はそれに従い、全ての準備が整っている事を翔へと告げる。
その時には既に翔の表情は、いつもの感情を悟らせない表情へと戻っており、その瞳は細められ、目の前に展開されている座標とルートデータへ向けられている。
チラリチラリと目の前に表示されるデータ全てに目を通し、少しばかり眉を顰める。
「成長しているのか……前回相手に付き合いすぎたのが仇になったか」
『それは仕方の無い事です。どうなっても相手せざるを得ない状況でした。それで相手が自らの動きをより高レベルへ消化するのは既に予想済みのはずです』
「承知している。それを超えるには……一瞬でカタを着ける。可能か?」
表示されていく戦闘データに目を通しながら、零来へ問われるその声には、不可能と言う答えが返ってこない。
その事を確信しているような響きがあり、鋭い瞳はただ冷静に羅列されていく福音のデータの上を右往左往。
『無論、可能です』
「だろうな、では往くぞ」
『了解しました。追加スラスター三六基全て背面へ展開』
零来の淡々とした確認の声と共に、黒の粒子が翔の背中から足、その全てに余す事なく殺到していく。
しゅるしゅると粒子が刺々しい形を形成していく。
細々とした粒子が集合し、圧縮され、全ての粒子が散る事なくそのフォルムが明らかになった時、先程まで比較的スッキリとしたシルエットだった零式の姿はなかった。
両肩から背面へせり出す大きな刺のような物は、間違いなくスラスター、いやブースターと言っていような噴射口らしきものが幾つも並ぶ。
それらを覆うような黒の装甲は、まるでそれ自体が大剣のような形を形成している。
背面から見れば、大小幾つもの剣が背中から生えているようにさえ見えるだろう。
『三六基全て展開完了。続いて特殊兵装『迅雷』起動します――メイン、サブ含め四十基全ての『迅雷』の起動を確認』
「セカンドシフトとは、凄まじいものだな」
『簡易処理で算出した結果、従来までにマークした最高速度のおよそ一.三二倍の出力が確定しています』
「シールドは?」
『シールドの出力は従来のままですが、搭乗者へ掛かる負荷の分散配分、空気抵抗の分散等の詳細な計算処理も私の役割です。以前よりも効率面、正確さにおいて以前を上回っている事も確定しています』
PICやエネルギーシールドの出力等は以前のままではあるが、そこに掛かってくる負荷を、零来と言う思考力のある制御人格が入る事により、より正確に、より効率的にその負荷を分散させる事が出来る。
エネルギーの出力や、PICの質など、根本的な面をどうにかするのではなく、効率面と計算の正確さでもって、負荷をシャットアウトする。
機械という面において当てはめるのもおかしな言葉ではあるが、技術で問題を解消するのではなく、技量でもって問題を解消する。
そう理解して問題ない。
「今のスラスターの出力でどれだけの負荷を軽減できる。パーセンテージで示せ」
『無論、一〇〇%です』
「承知、では任せたぞ」
『了解しました』
零来の返答に満足したような声を出す翔は、閲覧し終えた福音のデータを即刻破棄。
その鋭い瞳はただ上空に広がる広大な空を見据えるのみ。
装甲に包まれた両の拳を握り込み、軽く膝を曲げる。
既に両足が地面から浮き上がっているその状況では、足を曲げる事に意味はない。
しかし、やはりその行動には意味がある。
「では、往くぞ。出力最大だ」
『了解。特殊兵装『迅雷』出力最大』
翔の言葉を復唱し、背面に現れた刺々しくもおびただしい量のスラスター全てから金の粒子がチラチラと舞い散る。
その様子は以前よりも数段落ち着いた流出の仕方。
しかし、何かの制御を離れていない様に規則正しく舞い散るような光景は、金色の粒子全てが整列しているようにさえ見える。
そんな控えめで、統制された流出だと言うのに、その粒子は濃く、圧縮された極大の光と言ってもいい程に輝きを増している。
音もなく今の位置から少し足が浮き上がった瞬間――消えた。
そうとしか思えないほどの唐突さで、無骨な黒の装甲を纏った、明らかに目立つ装いの翔の姿は、忽然と消え去った。
舞い上がり、大きく抉れた砂浜と言う惨状が、先程まで翔がそこに居たという物言わぬ証拠だ。
残像すら残さぬ程に忽然と消え去った翔の姿に、緊急の本部として立ち上がった風花の間のモニターでも、その姿は突然消え去ったようにしか見えず、一時風花の間に居る教師全員が騒然とするのは、仕方のない話である。
モニターには映らないが、時折コマ送りの様に動くマーカーを見て、騒然所か、全員が開いた口が塞がらないと言ったように、言葉も発せない事態に陥っていたのは余談だ。
戦況は優勢に運んでいる……筈だった。
セカンドシフトを終えた白式の武装、威力と引き換えにエネルギーを大量に消耗する武装がアダとなりかけた場面もあった。
しかし、それも紅椿によるエネルギー供給によって解消。
絢爛舞踏と言うらしい紅椿のワンオフ・アビリティーは、零落白夜とは逆にエネルギーを生産する物らしい。
無限とも言えるエネルギーを生産する紅椿により、エネルギー不足の問題も解消し、それは火力の面でも際限なく上昇している事を意味する。
エネルギー切れの状態から脱した第四世代IS紅椿。
紅椿の登場により、エネルギー切れの心配も無くなった白式。
二対一、火力も手数も一夏と箒が優勢であり、二人の技量もコンビネーションも問題はない。
だと言うのに……。
(当たらねぇ……っ!)
歯を食いしばり、表情には変化がなく、冷静に攻撃を繰り出し続ける一夏。
エネルギーに余裕がある現在、雪片弐型の刃は最大出力の形を取り、その大きさは一夏が背中を追う男の持つ武器にも劣らない物となっていた。
しかし、エネルギーで形成された刃には重さなどなく、軽々とそれを振り続ける。
大振りにならないようコンパクトに、そして速く、袈裟懸け斬り上げ、突きは強力ではあるが、福音の機動性を鑑みると当たらない確率の方が高い。
突きは出さず、線での攻撃に重きを置く一夏の攻撃は、控えめに言っても中々の物だ。
予測不能な機動で攻撃を仕掛ける紅椿の間をすり抜けるようにして繰り出される斬撃には隙等殆ど存在しない。
今の一夏が繰り出す斬撃の隙を見切る者はいるだろうが、その隙の間に攻撃をねじ込める人物など、そう多くはない。
そう思わせるほどに一夏の攻撃タイミング、隙のなさ、攻撃の種類のチョイスは素晴らしいものだ。
生死の掛かった状況での極限の集中力と、その様な状況でも冷静さを残している賜物と言える。
剣術だけに囚われず、蹴り、射撃を織り交ぜる一夏は、確かに優秀な搭乗者であり、織斑千冬の弟として何ら恥じる事等ない程に強い男なのは間違いない。
「おぉぉっ!」
一夏よりも冷静さを欠いた様な掛け声と共に、紅椿を纏う箒から、展開装甲を駆使した加速の乗った蹴りが繰り出されるが、それすらも見切り、自らの身体を攻撃のこない場所へと置く福音。
ギリギリ爪先の届かない位置を見切り、くるりと身体を縦軸中心で回転させる回避は素晴らしいの一言。
回転と共に少し後方へとズレ、最終的には箒の蹴りが通った外側へと抜け、すぐさま回転を停止させて、箒と一夏を視界に収める所など抜け目がない。
その姿を前にして、明らかに焦りを前面に押し出す箒とは違い、一夏の思考はまだ少し冷静さを残していた。
(あれからだ……)
――『戦闘データ統合完了』
一夏の脳裏をその一言が通りすぎる。
その一言が何かの契機だったかの様に、二人の攻撃が外れていくのが目立ちだした。
そしてそこから少し時間を置いた現在、どんな攻撃も初動で見切られ、全て攻撃の来る位置がわかっているかの様に回避されている。
「くそっ、何故だ!」
悪態を吐きながら福音の追撃を辛うじて脱した箒が一夏の隣に並び、福音を睨みつけている。
そんな箒に、一夏は横目で一瞥。
言葉を掛ける事無く、ただ無言で雪片弐型の刃を、普通の接近ブレードと同じ大きさに戻してみせる。
そして、自らの左腰に添え、まるで鞘に収めた日本刀を構えるような形を取る。
「一夏?」
「試してみよう」
「何を……」
箒の問いかけに短く答えた一夏は、その後に続く疑問等聞かないという様に、自らの機体を一気に加速させ、福音へと肉薄。
そして、ギリギリ今の間合いの一歩外で、一閃。
するりと福音の身体の前を通っていく一撃には、福音は全く反応しない。
一閃が通り過ぎ、福音は隙だらけとさえ言える一夏へ向けて、追撃を加えようとした瞬間、急後退。
勢いよく福音が後ろへ下がってき、そして停止した福音の全面を、刃の伸びた雪片弐型の切っ先が通過していく。
瞳を細め、その光景を見ていた一夏は、何かを確信した様に雪片弐型を片手で青眼の位置へと戻し、左手に存在する雪羅の砲身を隠すように半身で構える。
その瞳は未だに細められ、警戒を解いた様子はない。
「一夏……今のは、何だ?」
「見よう見真似で練習してた千冬姉の技。つっても、全然完成してないから小細工も織り交ぜといた」
呆然と問いかけられた箒からの問いに、一夏は何でも無いと言うように軽く答えてみせる。
油断なく福音を視界に入れる一夏の様子に、箒は陶酔した瞳で一夏を見つめ続ける。
福音から見れば、今の箒等油断の塊であり、隙だらけには違いないのだが、攻撃を加えないのは未だ油断なく福音を見据える一夏の存在が大きい。
惚けた様に一夏の姿へ見惚れる箒。
そんな彼女へ掛けられる一夏の声には、軽さもあり、気負い過ぎていないそんな声。
しかして、力強さも失っていないその声は、この状況において何よりも頼もしい。
「小細工……しかし、あれでも十分な技ではないか」
「小細工には違いねぇよ、千冬姉ならあんな事しなくても当てれたはずさ。でもまぁ、これでようやく確信した」
「何をだ?」
「俺達じゃ絶対に勝てねぇ」
油断なく福音を見据え、未だ警戒を解かない様子の頼もしい一夏の口から出てきたのは、冷静な声でありながらも、敗北を確信した言葉だった。
当然、そんな一夏の言葉に反応するのは箒であり、納得などする事が出来ない。
箒から見た一夏は、今までの鍛錬の成果を遺憾なく発揮し、自ら考えて応用さえしてみせる。
しかして、その実力に溺れる事無く相手に対して油断の欠片も見せず冷静だ。
そんな一夏の姿は何よりも魅力的で、誰よりも頼もしい。
そう見えていた一夏の口から出てきたのは、現状を打破する策も実力もないと言う敗北宣言なのだ。
織斑一夏と言う一人の男に魅力を感じ、今まさにその魅力に取り付かれている箒からすれば、納得など出来ようも無いと言った所だ。
「何故だ! 私と一夏ならばっ」
「そういう問題じゃねぇんだよ。理屈とか精神論なんかじゃどうにもなんない位今のアイツは最強なんだ。その事を今確信した」
「どう、言う……」
今までの一夏からは考えようもない程に冷静な思考に、冷静な言葉。
今の一夏から、最強のその座に届くだけの雰囲気を感じていた箒は、一夏がまるで別の人物になってしまったかの様な錯覚さえ覚える。
しかし、そんな箒の内心など、冷静さを欠かない一夏には見える事はない。
それ所か、何処までも冷静な思考の一夏から言わせてみれば、精神論でどうにかなる相手は今ここにはいない。
力強くそう判断を下せる程に、その事を確信していた。
普段の一夏ならば、精神論や二対一の今の状況での物量論に同調していたかもしれない。
しかし、今の一夏は極限の状況での集中力、試行錯誤、判断力。
それらが全て一つに混ざり合い、一つの大きな壁を越えた状態にある。
今までの鍛錬の成果が結晶化し、以前までなら届かなかった強さを手に入れた一夏の冷静な思考力が下す判断は、何処までも現実を見ていた。
「戦闘データの統合。それが切っ掛けだった。それを考えれば何かの戦闘データを学習したって考えるのが普通だ。そして、参考になり、急激な強さを手に入れられる程強烈な戦闘データを持つ人物……」
静かにそこまで一夏が言葉を紡いだ所で、箒から何かを確信した様に息を飲んだ空気が一夏へと伝わる。
そして呆然としたような雰囲気の箒から紡がれるのは、絶望すら滲ませた声音。
「師匠……か」
「そういう事。精神論や物量何か軽く吹き飛ばす。先に言っとくけど、俺と箒じゃほぼ確実に勝てないぞ?」
ほぼ間違いない、そう確信している一夏の推測は、全くもって外れていないし、一夏自身外しているとも思っていない。
何故なら、今の回避運動、箒の蹴りを避けてみせた動き、攻撃をねじ込むタイミング。
その全てどれを取っても、一夏自身がよく知る男の姿が重なるのだ。
そして、その戦闘データを統合したという事は、無理やりに攻撃をねじ込む事等せず、確実に当てられるタイミングで攻撃を仕掛けてくる。
今まで攻撃を仕掛けてこなかったのは、一夏と箒を舐めているからではないし、ましてや油断しているわけでもない。
確実に攻撃を当てられるタイミングではないと判断したからこそ、攻撃を仕掛けてこなかっただけの話だ。
油断できない相手だと判断したからこその静観。
そう思えば、常に凪いでいた一夏の胸中に、僅かばかりの歓喜すら浮かんでくる。
(機械的な思考とは言え、擬似的な翔から、油断できない相手だって思わせる事が出来たのと同じだしな……)
薄い笑みが浮かぶのを抑えきれない一夏だが、だからといって現状を打破出来るわけでもない。
奥歯を噛み締め、思考するが、それも長くは持たない。
相手はそこまで甘くはない。擬似的とは言え最強の姿を借りているのだ。
思考が纏まる前に何かしら手を打ってくる確率が高い。
「さぁて、どうするかな……」
ぽつりと一言ぼやきを入れた所で、一夏と箒の目の前で信じがたい出来事が起こる。
唐突とも言えるタイミングで、一夏と箒の前方に存在していた福音の方から大きな金属音が響き、その姿が忽然と消え去っていた。
何の前触れもなく、感知すら出来ない唐突さで消え去った福音の姿。
しかし、その姿は捉えられずとも、今どこにいるのかと言う事は直ぐに知覚出来た。
何故なら一夏と箒の眼下で、大きな水柱が上がっていたからなのは、最早言うまでもない。
轟音とさえ言える程の着水音、白波が大きくうねりながらも重力に反逆する程に巨大な水柱。
そこに何かが落ちた事は明らかで、その正体が目の前にいた福音だと判断するのは言うまでもなく容易だった。
何が起こったのか、福音はどうなったのか、その事に対して冷静に思考を働かせる一夏の耳に、突然男の声が飛び込んでくる。
何処までも冷静で感情を悟らせない声。低く響く低音は一夏のよく知った声で、間違えるはずもない男の声だ。
「ふむ……控えめに殴ったのだが、生きていると思うか?」
『……生存確認。あと数秒で上がってきます』
「そうか、ならば安心だな」
一夏のよく知る男の声、そして全く聞き覚えのない声に、一夏と箒は顔を見合わせるが、視線を前方へ向けるタイミングもまた同じだった。
同時に視線を向けた場所は、先程まで福音が浮いていた場所であり、今は一夏と箒の二人と見合うように福音が浮いていた場所に、別のISが浮かんでいる。
漆黒の装甲はそのままに、背面部は一夏や箒がよく知るフォルムとはかけ離れた形を形成している。
刺々しい背面をくるりと一夏と箒の視界から外すようにして、二人に振り向いた人物は、正しく予想通りの人物。
その人物の名を、一夏と箒は呼ばずにはいられなかった。
「翔!」
「師匠!」
「二人共無事で何よりだ。後は任せてもらおう」
いつもの感情を悟らせない表情で、何事もなかったかの様にそこに佇む男は、間違いなく柏木翔と言う男。
本当ならばまだ寝ている筈の男が、IS学園の制服の上からISを纏うと言う、見事に白黒の出で立ちでそこに存在していた。
腕を組み、一夏と箒を見据える鋭い黒の瞳、首から見える白い包帯が痛々しいが、それでもそこに居る存在感は途方もない。
軽く一夏と箒に挨拶した翔は、その鋭い瞳を海面へと落とし、福音の出方を探る。
「だ、大丈夫なのですか? 起きても」
「問題ない。少々動きが鈍いが、それも想定の内だ」
「翔、そのISは……いや、そんな事より、すまねぇ、俺がもっと」
「気にするな。帰ったら千冬からの説教がお前を待っている。今どうこう言うつもりはない」
軽く気にするなと言う翔の言葉の中に、一夏は無視できない言葉があったのを聞き漏らす事はなかった。
「え、えっと……マジで?」
「何がだ?」
「その、千冬姉からの説教っての」
「マジだ。セシリアにもシャルロットにも鈴音にもラウラにも、勿論箒にもあるだろう」
「そんな……馬鹿な……」
海面から視線を逸らす事なく告げられた翔の言葉に、呆然と頭を項垂れる箒。
その声にも絶望が混じっていながらも、何かを諦めたニュアンスすら感じ取れる。
翔は相も変わらず冷静な声で、一夏と箒へ向けて追い打ちすら掛けてみせる。
「当たり前だろう。無断出撃なのだからな、説教と反省文位は覚悟しておけ。それに普通ならばこれだけでもまだぬるい」
『学生、と言う事で大きな責任を課せられない、と言うのも甘いと思いますが』
「お前にとってはそうなんだろうが、今はそれだけの余裕がある社会という事だ」
帰ってから自らが受ける罰がなんなのか、それが明らかになり項垂れていた一夏と箒の耳に、機械的で抑揚のない女性の声が耳に届く。
その瞬間、先程までの絶望を無理矢理振り切るようにして、一夏と箒の顔が上がり、翔へとその視線は集中する。
視線が集中している事は自覚しているが、海面から視線を外さない翔は、意識を自らの武装の確認へと向けていた。
「っていうか、さっきから聞こえる声は誰なんだ?」
「女性……のようですが」
「誰? 零式だが」
海面から瞳を離さず、意識で武装の確認を終わらせるが、何度確認しても一件しか該当しない武装に、小さく疑問を抱く。
しかし、そんな翔などお構いなしに、箒と一夏は声を揃え「は?」と短く疑問を漏らす。
その間抜けな声に答えたのは、翔ではなく、機械的で抑揚のない女性の声。
『正確には初めまして、ではありませんが、黒衣零式・鉄のAIを務めています。零来と名を頂きました』
「は、はぁ……」
「よ、よろしくお願いする……」
何が何だかわからない。
そう言わんばかりに呆然と返事を返す一夏と箒。
この反応も仕方ないとは言えば仕方がない。何せ全てが急展開過ぎるのだ。
唐突に福音が姿を消し、その原因はこれまた唐突に現れた翔が原因で、その翔は一夏と箒がよく知る零式とは若干フォルムが異なるISに身を包み、極めつけにAIなるものが発現している。
しかも、冷静に挨拶を交わしている事から、思考力や常識などはあると見ていい。
抑揚があまりない事や、機械的な口調がAIだという事を認識させるが、人間でもそれぐらいの抑揚の無い人間もいるし、口調が機械的な者もいないとは言えない。
それらを総合して考えると……。
「えらく人間臭いAIだな」
「思考力があるからな。零来はこれからもっと人間に近付く。つまり、感情を持つだろう」
『私には想像がつきません』
「今はな……さて、お喋りはどうやら終わりらしい」
淡々と状況を説明する翔の言葉と同時に、海面が小さく盛り上がり、そこから一つの影が飛び出し、幾つもの光弾が翔へと迫る。
「くっ!」
その光景を見た者で、一番早く動きを見せたのは、誰であろう織斑一夏だった。
左手の武装の雪羅を直様シールドモードに展開。
翔と箒両方を守ろうと、翔が浮いている場所よりも少し海面寄りへ加速しようとした時には、何故か一夏の視界から、翔の姿が忽然と消えていた。
「え?」
呆然とした声を上げるが、その状態も長くは続かず、目の前に迫る光弾を視界に入れると共に直様シールドを展開。
零落白夜のシールドを前に、例外なく消失していく光弾を凌ぎ切ってまず一夏が瞳を向けたのは、自らの後ろにいる箒だった。
「箒、大丈夫か」
「あ、あぁ、一夏が守ってくれたからな……」
少しばかり嬉しそうに笑みを浮かべ、問題ないと告げる箒を確認した後には勿論、翔の姿を探すため瞳を動かす。
結果として見えたのは、いつの間にか幾度も翔の拳と蹴りに圧倒されている福音の姿だった。
「ふむ……学習したのか。零来、武装展開」
『了解。接近武装『黒虚零式(こっこれいしき)』展開します』
腕を掲げ、ガードしているその上から蹴りを押し込み、無理矢理距離を取らせ、その間に翔は零来に声を掛け、その声に対し忠実に声と行動で応える。
開かれた翔の右腕にしゅるしゅると幾重にも円を描くようにして黒の粒子が収束し、次々とその形状を顕にして行く。
黒色の金属の柄は太く、折れ曲がる事等ない。持ち手の長さにより、掛かる力を分散させる為、姿を現していく柄ですらかなりの長さを誇っている。
そこまでは以前と同じであり、疑問もない所だ。
柄の形成が終わり、鍔の部分が物質化した時、明らかな違いが現れた。
丁度握り込む事で指が下に来る部分、つまり刃の存在する側の鍔には何かを受け止める小さな皿のような機構と、連結部分が存在。
その上には巨大なリボルバーの弾倉。
刃の背が存在する側、つまり弾倉が存在する上側には、剣の柄とはまた違い、伸びる刃と十字を描く形で存在する持ち手。
その持ち手の中にはもう一つレバーのような物が存在し、それらの延長線上。
つまり刀の背に当たる部分に埋め込まれるようにして短めのパイルが存在している。
次々と物質化していく刃の形状は以前と変わりなく、長大で分厚い刃。
形状こそ日本刀と言っていいが、その大きさは最早日本刀の領分を逸脱している。
パイルバンカーと巨大な日本刀の刃を無理矢理くっつけたようなその形状に、翔は思わず苦笑を漏らす。
「ふっ……これも今までの戦闘データの蓄積から得られた結果、か?」
『無論その通りです。虚鉄と政宗零式、どちらも同時に使用していた率が非常に高いのでこうなりました』
「ふむ……悪くない」
体制を立て直している福音に対し、警戒を解かないまでも、自然なやり取りを交わす翔と零来。
気負ってもいない上に、少しばかりの余裕すら感じられる。
右手で握った感触を更に確かめるため、左手も柄を握り込ませる。
そして幾度か空を斬るようにして、白銀が煌くが、その剣閃は軽く振られているように見えて、その実その一撃一撃は素晴らしい。
切り裂いた空気が再生していきそうな一閃一閃は、剣の道を歩く箒は勿論、最近またその道を歩き出した一夏ですら見惚れずにはいられない。
数度振り抜いた感触に満足したのか、チラリとその視線を、本来ならば鍔が存在する部分へと向ける。
明らかに刃部分が根元からぼっきりと折れる事を前提にしているその機構を一瞥し、納得したのか一つ頷く。
「バンカーと刃は、もう同時には使えんか」
『ですが、その都度物質化する手間はいりません』
「悪いわけではない。そう不満そうにするな」
『不満と言う言葉は知っています。ですが、私がそう考える事はありません』
「不満に思うではなく、不満と考える、か……中々に面白い表現だ」
『……』
少しばかり面白そうな色を滲ませた翔の声に、零来は沈黙で答えてみせる。
その様子がまたおかしかったのか、苦笑を浮かべ、許せ。と軽く一言。
浮かべていた苦笑も、直様霧散し、いつもの感情を悟らせない表情が浮上する。
いつもの表情で鋭い視線を向ける先は、勿論の事今まで翔を警戒していた福音の姿。
「知らぬ内に見慣れない姿になっているが……二幕が終わり、最終幕の幕引きは一瞬だ」
『予想戦闘終了時間は一分半です』
「では、一瞬の幕引きとしよう」
いつもの表情のまま両手で巨大な獲物を握り締め、青眼に構える姿は正に威風堂々。
余裕の溢れたその言葉と相まって、その姿はより大きく見える。
福音と呼ばれる災厄を目の前にしての最終幕。
翔曰く一瞬の幕引きは、風の音のみが支配する海の上の青いステージで、幕を開けた。
静かにそして冷静な声が、無常にも一人の男子生徒へ向けて放たれる。
緊急時の作戦本部へと変貌を遂げた風花の間で、忙しそうに辺りで作業を続ける職員達の動きすら止めてしまう程、その声は冷静で真剣で冷徹にすら聞こえる。
走り回っている職員は女性が多く見受けられる……いや、正確には女性しか存在していない。
畳の床をとたとたと軽く走り回る女性特有の足音も、今の状況ばかりは足を止めざるを得ないのか、誰もが固唾を呑んで様子を見守っている。
そして、そんな職員達の視線を一身に集めているのはたった二人。
IS学園に最近出来た男子の学生服に身を包んだ少年――柏木翔。
IS学園一年一組担任のサマースーツがよく似合う女性教員――織斑千冬。
その二人が、現在の風花の間で今一番視線を集める人物だった。
鋭い瞳を真っ直ぐに千冬へ向ける翔とは違い、千冬の視線は何かから瞳を背ける様に辺りのモニターへ向けられている。
しかして、先ほどの声を出したのは千冬であり、声の調子と様子からは想像もつかない光景。
何かに怯えているのか、胸の下で組まれた腕は我慢するように強く握り締められ、少し震えているようにも見える。
無論、そんな千冬の様子に気がつかない翔ではないが、あえてそれを指摘する事はなく、ただじっと千冬へ視線を向けるだけだ。
「何と言われようが駄目なものは駄目だ……」
冷静で冷徹な声はそのまま、しかし、その声は自分に言い聞かせているようにも聞こえる。
そう言い聞かせなければ何かが壊れてしまいそうな、いつも凛と涼やかな表情の千冬からはおよそ考えもつかない声音が、翔には感じ取れた。
IS学園指定の白を基調とした制服に身を包む翔の首元には、これまた白い包帯が見え隠れしており、その光景がまた痛々しさを感じさせる。
千冬が見ないようにしているのはその傷跡なのかもしれない。
「しかし、今のままでは一夏達が……」
薄く引き締まった唇を開き、千冬へ言葉を投げかける翔。
今目の前に横たわる現実は待ってはくれない。
一夏を含めた一年の代表候補生兼専用機持ち達が無断で出撃した事、今現在その結果の戦況はそう芳しくはない事。
それらの現実は待ってはくれない。
飽くまでも冷静にそれを指摘する翔の言葉と口調に、千冬はひくりと表情を動かし、鋭い瞳をやっと翔へと向ける。
「駄目だと……駄目だと言っている! 一夏達が危ない? このままでは自分の二の舞だ? そんな事はわかっている! 誰よりも私が一番よく知っている!」
柔らかい畳を踏みつけながら振り向いた千冬の視線は、睨んでいると言ってもいい。
鋭く力のある視線は、同じく鋭い瞳を向けている翔を射抜く。
そして放たれた怒声は風花の間に響き渡り、作業を再開していた教員の何人かがその声に肩を竦ませる。
珍しく感情をむき出しにして怒声を放った千冬は一旦言葉を区切り、肩で息をするように肩を上下させているが、まだ言いたい事は終わっていないらしく、翔へと向き直った拍子に解かれた両手は力強く握り締められている。
「知っているんだよ。だが、私にもう一度あの光景を見ろというのか! 力なく海へと吸い込まれるお前の姿を、全身焼け爛れて気を失い、もう目を覚ます事は無いのかもしれないと思うほどに静かに眠るお前の姿を、また私に見ろというのか!」
もう、耐えられないんだ……。
そう力なく続けた千冬は、もう言いたい事は無くなったのか、またしても翔から視線をそらす。
しかし、言いたい事を言った千冬に対して、言いたい事の半分も言えていないこの男が黙っているわけもない。
千冬の怒声と願いすら込めた力ない言葉は、全く届いていないように翔は千冬を見据え、その引き締まった唇を動かす。
「織斑教諭が俺の事を心配してくれている。その事実は痛いほどに理解しました。しかし、納得する事は出来ません……」
「だがっ、それでも……」
「出来ないと言っている!」
千冬の言葉を突っぱねるような翔の言葉に、千冬は鋭い瞳を再度翔へ向け、カッとなった感情のままにまたしても口を開こうとする。
が、その直前でまたしても響き渡る怒声。
果たしてそれは千冬のものではなく、先程まで千冬の怒声を静かに聞いていた翔から発せられていた。
腹に響くような低くも重い怒声は、感情のままに吐き出されたものではない。
その事実は未だ感情を悟らせない何時もの表情の翔を見れば一目瞭然。
白の学生服に身を包んだ翔は、先程まで直立不動で立っていた体勢を解き、静かに腕を組んでいる。
その瞳は鋭く千冬を捉えており、主張を覆さない彼女の鋭い瞳と翔の鋭い瞳が空中で交錯する。
宴会に使われるはずの風花の間が持つ柔らかい雰囲気、そんな独特の雰囲気は微塵もない。
あるのは何処までも張り詰めるような緊張感と、感情と理性のせめぎ合いの空気だけ。
「お前が俺の事を心配してくれるのは嬉しく思う。しかし、お前はそれで尻込みする様な人物なのか? どんな状況でも諦めず、ただ静かに勝機を見出すお前は何処へ行った? 起こった事実を受け止め、そして次の一手が打てるなら迷わない。織斑千冬とはそう言う女だったはずだ」
「違う……私は、私はそこまで冷静に冷徹ではいられない……」
静かに千冬に言葉を投げる翔に、千冬は瞳を背けることでそれに応える。
冷静に事実を受け止め、次の一手が打てるなら迷わず打ち、次の一手が無いならば引き際を見誤らない。
それこそが織斑千冬と言う女性の持つ強みであり、未だ伝説となっている要因だった。
握り締められた拳は硬く、かみ締められた唇は何かを我慢するように強く……。
今の千冬は冷静でクールなIS学園一年一組担任織斑千冬では無く、柏木翔と言う一人の男を心配する年上の幼馴染、織斑千冬だった。
学園の生徒達からすれば想像すらつかない今の千冬の姿は、しかして同僚である教員達も一様に瞳を見開いてその姿を見ている。
誰にも言えず、ただ屹然と冷静に行動していた千冬は、その実誰よりも不安で誰よりも恐怖を感じていたのだ。
焼け爛れ全身から煙を上げて海へと落ちていく翔、引き上げられたその姿を見た時には思わず崩れ落ちそうになるほどの絶望感がその身を包んだ。
誰が声を掛けようとも開く事無く静かに閉じられている瞳を見た時、言い様の無い不安感と恐怖感が襲ってきた。
もう目覚める事はないと思わせるほど痛々しい姿で静かに眠る翔をいつまでも見ていられず、一番最初に部屋を出た。
その時にしなければならない事を淡々とこなしていった千冬だが、実際は受け入れたくない現実から一番最初に瞳を背けたに過ぎない。
風花の間の扉が開かれ、白の制服に身を包んだ翔が二本の足でしっかりと地面を踏みしめて何時もの表情で現れた時は、安心感と不安からの開放感でまたしても崩れ落ちそうになった。
(その時に思ったんだ……もうあんな光景は見たくないと、次は耐えられないと……)
「だから次は俺を閉じ込めるのか?」
――。
その翔からの一言に、千冬は思わず息を呑む。
翔の鋭い瞳が千冬を射抜き、そんな彼に視線を合わせる事が出来ない。
怒鳴るでも責めるでもなく、淡々と千冬が今しようとしている事をしっかりと認識させるようなその声に、嫌でも現実に目を向けさせられる。
「その言葉は俺を信用していないのと同じ事だ」
「違うっ! 私は……」
「同じだ。俺は死なない。まだ死ねない」
「信用していないわけではない……だが、その身体では……それがわからないお前では」
「それに」
静かに現実を見せ付けていく翔の言葉に、千冬は動揺を誘われながらもしっかりと現状を見極めさせようと言葉を続ける。
今の翔を危険な場所へ赴かせたくない。
その一身で紡ぐ言葉も翔には届かず、力強く続けられた翔の言葉に遮られる。
静かな声音の中に宿る荒々しさ。
それを感じ取れるような翔の声音。
珍しくも感情を抑え切れていないような翔の声に、今まで感じていた不安感や恐怖感すら忘れて、千冬は思わず翔へと視線を向ける。
果たしてそこには感情を悟らせない何時もの表情の翔はそこにはいなかった。
口角を吊り上げ、不敵に獰猛に笑みを浮かべる一人の男がそこには存在していた。
冷静沈着、どんな時も慌てる事無く、物事を淡々と進める。何事も無かったかのように障害を潜り抜ける。
およそ代名詞ともいえるそれらの言葉が全く似つかわしくないほどの荒々しさ、それが今の翔の浮かべる表情だ。
日本刀のようにスラリとした涼やかな表情などそこには無く、浮かべるのは牙を剥き出しにした狼のような獰猛さが表に出ているような荒々しい表情。
不敵に獰猛に笑う翔の雰囲気に、千冬は言葉を発する暇も無くただ見据える事しか出来ない。
「俺が二度同じ相手に敗北することは無い。そうだろう?」
誰かに問いかけている事が明白な疑問の言葉を紡ぐ翔に、千冬は首を傾げる。
笑みを浮かべながら問いかける相手は千冬ではない。
その事は声の調子で千冬自身理解出来ている。
しかし、状況的に千冬以外に問いかける相手等いないのも事実。
要領を得ない会話運びをする翔に応えたのは千冬でも、動き回っている教員でもなく、ただただ機械的で冷静な声だった。
『今の疑問は私への同意とみなしますが、よろしいですか?』
「お前以外誰がいると言うのだ?」
『であるのならば私は是と答えましょう』
機械的な声を発するものなどここには存在せず、何処から聞こえてくるのか誰も最初は理解できない。
反響もする事無く風花の間の空気に溶けた声を探れば、それは翔から発せられた……いや、正確には翔の限りなく近くから発せられた事が理解できる。
その事実に千冬の表情は珍しくも驚愕の表情を浮かべている。
「今のは……一体……?」
「俺の相棒だ」
『改めまして、黒衣零式のAIとして生まれました。お好きにお呼びください』
感情の込められていない機械的な女性の言葉に、千冬の視線は自然と翔の制服のポケットに装着されている待機状態の零式へと向けられる。
その視線に込められた感情は、正しく驚愕。
ISに人格が生まれるなど、聞いた事も見た事もない。
前例すらないその事態に驚愕するのは当然であり、千冬だけではなく風花の間に存在する全ての教員の視線は翔へと集中する。
その瞳には漏れる事無く驚愕の色が浮かび、信じられないとばかりに見開かれている。
そんな中、翔だけは動揺も驚きも無く、ただただ視線を受け入れて獰猛に笑みを浮かべている。
が、ふと何かに思い当たったのか、その表情も何時もの感情を悟らせない表情へと戻る。
「そう言えば名がまだ無かったな……」
『今までと同じ様に零式と呼べば問題ないかと思われます。呼称に大した意味はありません』
「味気ない事を言う奴だ。ふむ……」
『誰を呼んでいるのか、何を指しているのか、それが理解できれば呼称としての役割は果たしています』
腕を組みながら額に手を当て何かを考えている翔には、当然ながら零式から発せられる女性の声など届いてはいない。
驚愕の渦から未だ帰ってきていない教員達を放置し、翔は思いついたかのように掌を打つ。
パンッと軽く乾いた音が木霊した瞬間、教員達は驚愕の渦から帰ってきたのか、示し合わせたかのように一斉に動き始める。
しかして、興味は尽きないのか、視線はチラチラと翔へと投げられている。
「零(今)から無限大(未来)を繋ぐ者……零来(れら)」
『……必要ないと思われますが』
「いいから受け取っておけ、いつか理解する時が来る」
『了解しました。では、今より私の事は零来とお呼びください』
「うむ、ではこれからも宜しく頼む。零来」
『承知しました』
周りからの視線など気にする事無く相方とのやり取りに満足している翔。
そんな翔に対して声を掛けられるものなど、この風花の間の中ではただ一人。
「柏木……一体、それは……」
「それではない。零来だ」
「あ、いや、済まない。零来とは、何者だ?」
『それには私自身が返答します。私は自立稼動の人格AIです。機体のサポート及びエネルギー管理、運用が私の担当です』
淡々と感情の篭っていない機械的な女性の声が風花の間に響き渡る。
今までの受け答えからして、自立稼動型の人格AIである事は、周りの教員達も理解出来た。
しかし、最も理解出来ないのは、何故その様なAIが存在しているのか、と言う事。
自らの考えすら受け答え出来ると言う事、それはつまり零来と名づけられたAIは思考力を持っていると言う事に他ならない。
相手の言葉を受け取り、それに対する返答を自らの思考力で持って判断する。
言うなれば、人間と同じようにして会話する事の出来るAIと言う事だ。
そんなAIは世界を見渡しても何処にも存在しない。
人と同じ様に会話し、人と同じ様に考える。
そんな機械は存在してはいないのだ。
それだけでも驚愕に値する事なのであるが、更に驚愕するべき事実が、零来自身から告げられる。
『守秘する義務はないと判断しましたので、明確化しておきます。私と言う人格自体が零式の単一能力として発現しています』
「なん……だと? そんな事が本当に……」
『その疑問に意味はありません。事実そうして私は存在しています』
「そう言うな、零来。人とはそう言うものだ」
『……私には理解出来かねます』
驚愕の声を漏らす千冬に対して、IS学園一年一組の中で間違いなく最強を誇るペアは、のんびりと会話を続けている。
しかし、千冬の反応がこの場合一番正しい。
その証拠に、翔と零来に興味を抱きチラチラと視線を向けながらも、動き回っていた教員達がまたしても動きを止め、漏れる事無く驚愕をその表情に貼り付けている。
単一能力、ワンオフアビリティとも呼ばれるそれは、特殊兵装の様にISに備わっていながらも他のISにも転用可能な物ではない。
一般的にはセカンドシフトを終えたISが使えるIS一つ一つの固有能力のようなものだ。
原則的に単一能力に一つとして同じものはない。
それはISの成長過程からの分岐で得る能力であるため、特殊兵装の様に技術で作り出されたものではないと言うのが主な要因。
搭乗者の戦闘経験や稼動経験などの経験が蓄積して発現する真の能力。
一つ一つのISの搭乗者が違えば、そうして発現する単一能力も同じ物がないのは道理である。
『単一』能力とは正しく正鵠を射ているのだ。
周りが驚愕の表情を浮かべる理由はそこだ。
単一『能力』と言うだけあって、それは分かりやすい能力として発現する場合が多い。
いや、正しく言えば能力として発現する以外に例がなかったのだ。
人格が能力として発現した例など、ただの一度もない。
エネルギーを消費し、なにかしらの効果を目に見える形で具現する。
それが今までの単一能力であり、一夏の白式が持つ零落白夜など正しくその通りの物といえる。
大量のエネルギーを消費するが、相手のエネルギーシールドやエネルギーを消失させる能力を持つ何かを形成する。
単一『能力』として正しい形とも言える。
そこに来て黒衣零式の単一能力は、人と同じ様に思考し判断する人格こそが能力など、単一である事は間違いないが、この場の誰もが聞いた事がない。
「それで? 根拠と覚悟はハッキリしているわけだが……出撃許可は貰えるのか?」
驚愕冷めやまぬ千冬を含めた教員達を置き去りにし、いつもの感情を悟らせない表情。
既にいつも通りと言っても差し支えない態度の翔が、ゆったりと千冬を見返している。
覚悟と強い意志、そして何より、千冬を裏切る事などない。
そう言わんばかりの安心感の篭った瞳に、千冬はかっと身体中が熱くなる感覚と共に、思わず首を縦に振ってしまいそうになる。
しかし、ここが何処かを思い出し、無意識の醜態に流される事を押し止める。
絶対の自信とそれに伴って纏う雰囲気と言うものは厄介なもので、翔のその態度に安心感と信頼を感じてしまえば、その意見に抗える人物はそう多くはない。
根拠はないが、何とかしてくれる。
そう思わせるだけの雰囲気と風格が、柏木翔と言う男にはあるのだ。
「し、しかし、不確定要素が多すぎる。お前の身体の事もそうだ。それに能力として全く前例のない人格系統の単一能力……有用性が未知数だ」
翔の振る舞いと纏う空気に押し流されそうになる意識を押し止め、なんとか反論を紡ぐが、それも最早風前の灯。
正論を言っているのは千冬の方だと言うのは間違いないのだが、回りの心象やその場の空気がそう言っていない。
その証拠に、周りの職員はここから目標ポイントまでの距離を算出し、そのデータを零式に送る準備を整えている者。
前回の白式と紅椿による戦闘、零式による戦闘、そして今繰り広げられている戦闘で得られたデータを纏めている者。
明らかに周りの空気は、翔が出撃する事を前提に動いているものが多い。
今の状態を簡単に言い表すならば、皆呑まれているのだろう。柏木翔と言う男が作り出す独特の安心感を感じるその空気に。
唯一未だ呑まれていない千冬ですら、紡ぐ言葉に焦りが滲んでいる。
焦りと共に絞り出された千冬の言葉に、翔は直様答えを寄越す事なく、千冬に背を向ける。
そして背中を向けたまま、足を動かし、風花の間にある出入り口へ向かうと同時に千冬へ向けた言葉を紡ぐ。
畳を踏み鳴らす重い音と共に語られる声は、やはり自信に満ち溢れ、全てを任せてしまいたくなるような声だった。
「俺の身体ならば心配する事はない。千冬の感じている能力の有用性とやらは……」
人知れず、フッと笑みを浮かべ言葉を切った翔は、風花の間の扉を来た時同様大胆に開け放つ。
『全てが終わった時の結果が証明してくれます』
「そういう事だ」
これでも納得できないか? とでも問い掛ける様に、半身で千冬へと振り返った翔。
惚れた弱み、と言う言葉が千冬の脳内を過ぎる。
結局、織斑千冬と言う女性は、本当の意味で柏木翔と言う人物に抗う事は出来ないのだ。
勿論翔は本当に千冬が拒絶するような事は強行しないし、そもそもしないだろう。
しかし、今の状況ではそれ以外に方法がない。
その事実を本当は千冬もわかっているのだ。
これは千冬個人が感じている願望。我侭と言い替えてもいいそれだ。
想い人に傷ついて欲しくない。傷ついた姿を見たくない。そんな小さく切実な願い。
理性と感情がせめぎ合う苦悩が存在した千冬では、既に強固な覚悟と意志を持った翔を止められない。
わかりきっている事実。だがそれでも、千冬は子供の様にただそれが嫌だと声を上げすにはいられないのだ。
「……私が最後まで嫌だと言っても、お前は行くのだろう?」
「そうだな。今はそれが最善で確実だ」
忠告を聞かぬ生徒ですまぬな。
そう言って苦笑する翔に、千冬はため息と軽く後頭部を掻く仕草でもって応えてみせる。
最早諦めた。そんな感情が前面に出てきている千冬は、無造作に翔の傍へと足を運ぶ。
半身になった翔と、そんな翔を切れ長の瞳で見上げる千冬。
「分かった。分かりたくないが、分かるしかないんだろう……その代わり」
女性にしては薄めの唇から紡がれる言葉は、不満の色が濃い。
しかし、諦めも混じったその声と共に、千冬は徐に翔の片手を己の右手の中に収める。
細くしなやかな千冬の指と、ゴツゴツとして節が目立つ翔の指が絡み合い、一つの繋がりを持つ。
握り締めた翔の手と、翔の手を握った自らの手を、何の迷いもなく包み込むようにして自らの胸元に収める。
かっちりと着込まれたサマースーツ越しでも伝わるふにゃりとした柔らかな感触にも、翔の表情は崩れる事はない。
ただじっと千冬の瞳を見返すだけ。
「きちんと帰ってこい。お前を待つ女がいるんだ。無事で帰ってこねば私は泣くぞ? 恥もプライドも関係なく全力で泣いてみせる」
「変わった脅しだが、女子供を泣かせるのは趣味ではないのでな」
「よし、必ずだぞ……では、行ってこい」
「承知」
最後の念押しと共に、するりと翔の指は千冬の手の中から抜け出し、戦場へ向かう緊張など感じさせない足取りでもって、風花の間を出て行く。
そしてその頃には千冬も、元の凛とした表情に戻っており、切れ長な瞳が作り出す眼光はいつも通り鋭い。
IS学園一年一組担任、織斑千冬としての表情がそこにはあった。
最後まで翔の姿を見送る事なく、くるりと踵を返し風花の間のモニターへ向かおうと千冬の瞳が捉えたもの。
それは何であろう、同僚達のにやにやとして何やら含みのある笑みが並んでいる光景だった。
ひくり、と目元が引き攣る感覚を千冬は確かに自覚していた。
「意外な一面っていうやつですね」
「織斑先生にもあんな所あるんですねぇ……やっぱり女性って事ですよね」
「見てるこっちが恥ずかしかったですよ」
「そう? むしろ私は羨ましかったけど」
にやにやとした笑みを漏れなく浮かべる教員達の間で、そんな言葉が飛び交う。
いつも凛とした表情を崩さず、厳しく、なにより恐ろしい。
そんな評価を生徒達から集めている織斑千冬と言う女性。
同僚である教員達も、そんな千冬以外見た事がなかったし、千冬も見せてはいなかった。
まさに意外と言って差し支えない千冬の一面に、周りの雰囲気は気の抜けない状況にも拘らず、浮き足立っている雰囲気が拭えない。
「私達は応援してますよ! 頑張ってくださいね、織斑先生!」
「……言いたい事はそれだけか? 満足したなら自分の仕事をしろ」
周りからの応援と言う言葉の意味は、この状況では一つしか思い浮かばず、つまりはそういう事なのだろう。
その事が理解できている千冬の表情は、同僚からのからかいの言葉如きでは崩れる事はない。
それどころかその鋭い瞳に宿る温度は冷たく、放つ言葉は空気を凍りつかせる程に寒い。
千冬の弟である一夏ならば、その言葉と瞳に身を固くしながらも、内心ではそれが照れ隠し以外の何者でもないと言う事実に呆れ返っていただろう。
「何やってるの!? 演算処理まだ!?」
「こっちもう終わってます! データ転送準備も完了です!」
「ちょっと! データ解析止まったままじゃない!」
「もう少し……完了です!」
絶対零度、氷河期。
それらを思わせる千冬の表情と声に、教員達は危機を感じたのか、千冬に反応を返す事なく、自らの仕事に全力を注いでいる。
わざとらしく忙しそうに動き回る教員達の姿を視界に収め、千冬も満足そうに一つ頷く。
しかして、その頬は薄く赤色に染まっており、ディスプレイをハッキリと見せる為に光量を最低限に落とした風花の間でなければ隠す事は出来ない。
そんな千冬の視線は、堂々と砂浜に立つ制服姿の翔が映るディスプレイへと向けられていた。
「帰ってこい」
小さく呟かれた一言は、何よりも重く、何よりも大事。
そう言って差し支えない一言だった。
まだ辛うじて空に青が残るそんな時間。
幾重にも重なった白波が発する壮大な音を耳に入れ、自らの握り締めた拳を見据える翔。
白を基調とした制服に身を包み、その下には未だ完全には癒えていないと言う証拠の包帯がいくつも巻かれている。
それでも翔の表情は崩れる事はなく、いつもの感情を悟らせない表情。
精悍とさえ言えるその表情が動きを見せる。
男性的で薄い唇が密かに動き、重く低い声が紡がれる。
「零来。展開だ」
『了解。装甲展開します』
翔の短い言葉に応答し、零来はそれに従う様に復唱。
機械的だが、女性の声だとハッキリわかる声が響いた瞬間、翔の体は黒の光に包まれる。
胴体、腕、足身体の殆どを黒の光に包まれながらも、翔の表情に焦りなどはない。
当然だ。今までずっとやってきた事なのだ。今更焦る要素が見当たらない。
黒の光が覆う部分に、物理的な重さが幾分か加わり、金属的な装甲が次々と展開されていく。
その中で感じていた重さは無くなり、やがて全ての装甲が展開された瞬間、翔の両足はふわりと砂浜から浮かび上がる。
僅かにある日の光に反射する装甲は、前までと変わらず漆黒の装甲。
シルエット的にはあまり前の装甲と変わりはない。
しかし、背面のゴテゴテとした装飾はなくなり、幾分スッキリしたようなシルエット。
装甲のいたる所に詰め込まれていたスラスターは殆どその姿を消し、背面に存在しているスラスターは、背中部分に張り付くように存在している四基のみ。
前までスラスターが存在していた部分は、なめらかな漆黒が覆っている。
スラスター部分が少なくなった事により、更に漆黒へと近づいた事が一番の違いなのかもしれない。
『柏木、問題はないか?』
「制服なので違和感が残りますが、問題ありません」
『そうか……』
完全に展開された装甲と感覚を確かめている翔の目の前に、通信が入り、その人物は当然ながら先程まで問答を繰り広げていた千冬。
いつもの表情で問題はないと言い切る翔に、千冬の形の良い眉が動きを見せるが、それも一瞬の事だ。
『これから目標ポイントの座標とルート、目標の分析データを送る。後の細やかな指示はない。必ず帰ってこい。これだけだ』
「承知」
ただ単純な命令、そして願いを翔へと向ける千冬に、短く返答。
この様な場面でも感情的な表情を見せず、冷静に見える翔の様子に、小さく苦笑を浮かべた千冬の表情がモニター越しに映る。
多分に諦めが含まれた切れ長の瞳は、モニター越しでも美しいと感じるには十分。
鋭いだけでなく、誰かを許す、誰かを心配するその包容力とも言えるそれが備わる千冬の切れ長の瞳は、魅力的と言って差し支えない。
『一夏……あの馬鹿共を引っ張って帰って来い』
「承知。存分に説教してやってくれ」
『わかっているさ……任せたぞ』
それだけで満足なのか、一つ頷き、千冬の方から通信を切る。
通信のウインドウがなくなった事により、少しクリアになった視覚に入ってくる点滅した文字。
堂々と視界の真ん中に入ってきた文字。
――黒衣零式・鉄(くろがね)展開終了。
ただそれだけが大きく主張するように翔の視界を邪魔していた。
その事実を確認した瞬間、文字は綺麗さっぱりと消え去り、後には視界の端に存在する細やかな数値やグラフ。
そして何処までも広がる広大な海が、翔の視界に鎮座していた。
『装甲展開終了。PIC正常稼働確認。理想値より〇.七二%のズレが機体制御率に存在しますが、誤差の範囲です』
「そうか、武装はどうなっている」
『特殊兵装『迅雷』使用可能。接近用武装一件該当。その他に武装は存在しません』
「何? いや、そうか承知した」
『なお、今現在の本機には拡張領域の空きが存在しません』
次々に明らかになる仕様の変更。
シルエットは余り変わらずとも、中身には大幅な違いが見受けられる事を、零来からもたらされる情報により、しっかりと把握する。
「何故無くなった? 以前までは存在していたはずだが」
『セカンドシフトを終えた結果により、スラスターの運用方法に変化が見られました。スラスターを量子化、拡張領域に保存する事により、合計三六基のスラスターが拡張領域に格納されています』
「成程な……必要な時に必要な所へスラスターを構築するのか」
『それが適切且つ簡潔な言語化です』
零来からの無感動且つ色のない賞賛の言葉。
その事に対して軽くため息を吐き、海と同じ色が少し残っている空を見上げる。
ハイパーセンサーによって強化された視界は、遥か上空を飛んでいる鳥の姿すらハッキリと見る事が出来る。
果のない空のそのまた先まで見据えるような翔の瞳の中に宿る感情を推し量れる人物は、残念ながらここにはいない。
『ため息、ですか。それが呆れた時や疲れている時にとる行動だというのは知っています。ですが、今のタイミングでため息を吐く所があったのでしょうか?』
「それも含めて勉強だ。お前はまだ生まれたばかり、これからも多くの事を知り、その上で考える必要がある」
『何を、でしょうか?』
短く問われる機械的な女性の声。
その声を聞き、翔は空を見上げるのみ。
しかし、その心境は僅かばかりの希望や、望みが見えているかの様に、薄く笑みを浮かべていた。
「そうだな、例えば何故俺がため息をついたか、その意味だとか、という所だろう」
『その答えには何らかの意図があるのでしょうか?』
肉声とも機械音とも取れるが、しかして抑揚がない様に聞こえるその声は、美しく鳴る鈴の様にも聞こえる。
そして何より、その声は本当に疑問の色を帯びているように、翔には聞こえたのだ。
「さてな、だが、色々な事に疑問を持つのはいい事だ。そうしていればいつか理解する」
『理解、ですか?』
「あぁ、感情、と言うものをな」
『……私はAIとは言え、機械に属しています。感情と言うものは本来動物が持つものだと記録されています』
淡々と感情のない鈴が鳴るのを、翔はただ薄く笑みを浮かべ、その音に聞き入る。
視線を空から外し、自らの右手を開き、そして閉じる。
身体の調子を確かめるようにして動かすその動作も、全快の時よりも幾分か緩慢にすら思える。
「機械だろうがなんだろうが、思考力があれば、感情は生まれる。それを理解するのはそう遠い日ではない」
『そう、なのでしょうか?』
機械とは感情を持たず、ただ決められた事を淡々とこなす。
そのように作られ、そのように動くものだ。
AIもその例外ではなく、零来もそれに属し、そういう物の筈だ。
しかし、零来の疑問に、翔は薄く笑みを浮かべたまま、確信を持っているかの様に力強く頷いてみせる。
「あぁ、賭けてもいい。お前はいつか必ず感情を持つ。今もそうだ。小さいながらもその芽はある」
『芽、ですか……しかし、AIの私に対して賭け事が成立するとは思えませんが』
淡々としながらも新鮮な零来の言葉に、翔は少しばかり嬉しそうな、それでいて未だ薄い笑みを浮かべてみせる。
「そういう所だ。さて、そろそろデータは来たか?」
『はい、目標の座標、ルートのデータ、目標の戦闘データの分析結果、全て受信完了です』
お茶を濁すような、普段の翔では考えられない程曖昧に話題を崩す。
そして律儀にも零来はそれに従い、全ての準備が整っている事を翔へと告げる。
その時には既に翔の表情は、いつもの感情を悟らせない表情へと戻っており、その瞳は細められ、目の前に展開されている座標とルートデータへ向けられている。
チラリチラリと目の前に表示されるデータ全てに目を通し、少しばかり眉を顰める。
「成長しているのか……前回相手に付き合いすぎたのが仇になったか」
『それは仕方の無い事です。どうなっても相手せざるを得ない状況でした。それで相手が自らの動きをより高レベルへ消化するのは既に予想済みのはずです』
「承知している。それを超えるには……一瞬でカタを着ける。可能か?」
表示されていく戦闘データに目を通しながら、零来へ問われるその声には、不可能と言う答えが返ってこない。
その事を確信しているような響きがあり、鋭い瞳はただ冷静に羅列されていく福音のデータの上を右往左往。
『無論、可能です』
「だろうな、では往くぞ」
『了解しました。追加スラスター三六基全て背面へ展開』
零来の淡々とした確認の声と共に、黒の粒子が翔の背中から足、その全てに余す事なく殺到していく。
しゅるしゅると粒子が刺々しい形を形成していく。
細々とした粒子が集合し、圧縮され、全ての粒子が散る事なくそのフォルムが明らかになった時、先程まで比較的スッキリとしたシルエットだった零式の姿はなかった。
両肩から背面へせり出す大きな刺のような物は、間違いなくスラスター、いやブースターと言っていような噴射口らしきものが幾つも並ぶ。
それらを覆うような黒の装甲は、まるでそれ自体が大剣のような形を形成している。
背面から見れば、大小幾つもの剣が背中から生えているようにさえ見えるだろう。
『三六基全て展開完了。続いて特殊兵装『迅雷』起動します――メイン、サブ含め四十基全ての『迅雷』の起動を確認』
「セカンドシフトとは、凄まじいものだな」
『簡易処理で算出した結果、従来までにマークした最高速度のおよそ一.三二倍の出力が確定しています』
「シールドは?」
『シールドの出力は従来のままですが、搭乗者へ掛かる負荷の分散配分、空気抵抗の分散等の詳細な計算処理も私の役割です。以前よりも効率面、正確さにおいて以前を上回っている事も確定しています』
PICやエネルギーシールドの出力等は以前のままではあるが、そこに掛かってくる負荷を、零来と言う思考力のある制御人格が入る事により、より正確に、より効率的にその負荷を分散させる事が出来る。
エネルギーの出力や、PICの質など、根本的な面をどうにかするのではなく、効率面と計算の正確さでもって、負荷をシャットアウトする。
機械という面において当てはめるのもおかしな言葉ではあるが、技術で問題を解消するのではなく、技量でもって問題を解消する。
そう理解して問題ない。
「今のスラスターの出力でどれだけの負荷を軽減できる。パーセンテージで示せ」
『無論、一〇〇%です』
「承知、では任せたぞ」
『了解しました』
零来の返答に満足したような声を出す翔は、閲覧し終えた福音のデータを即刻破棄。
その鋭い瞳はただ上空に広がる広大な空を見据えるのみ。
装甲に包まれた両の拳を握り込み、軽く膝を曲げる。
既に両足が地面から浮き上がっているその状況では、足を曲げる事に意味はない。
しかし、やはりその行動には意味がある。
「では、往くぞ。出力最大だ」
『了解。特殊兵装『迅雷』出力最大』
翔の言葉を復唱し、背面に現れた刺々しくもおびただしい量のスラスター全てから金の粒子がチラチラと舞い散る。
その様子は以前よりも数段落ち着いた流出の仕方。
しかし、何かの制御を離れていない様に規則正しく舞い散るような光景は、金色の粒子全てが整列しているようにさえ見える。
そんな控えめで、統制された流出だと言うのに、その粒子は濃く、圧縮された極大の光と言ってもいい程に輝きを増している。
音もなく今の位置から少し足が浮き上がった瞬間――消えた。
そうとしか思えないほどの唐突さで、無骨な黒の装甲を纏った、明らかに目立つ装いの翔の姿は、忽然と消え去った。
舞い上がり、大きく抉れた砂浜と言う惨状が、先程まで翔がそこに居たという物言わぬ証拠だ。
残像すら残さぬ程に忽然と消え去った翔の姿に、緊急の本部として立ち上がった風花の間のモニターでも、その姿は突然消え去ったようにしか見えず、一時風花の間に居る教師全員が騒然とするのは、仕方のない話である。
モニターには映らないが、時折コマ送りの様に動くマーカーを見て、騒然所か、全員が開いた口が塞がらないと言ったように、言葉も発せない事態に陥っていたのは余談だ。
戦況は優勢に運んでいる……筈だった。
セカンドシフトを終えた白式の武装、威力と引き換えにエネルギーを大量に消耗する武装がアダとなりかけた場面もあった。
しかし、それも紅椿によるエネルギー供給によって解消。
絢爛舞踏と言うらしい紅椿のワンオフ・アビリティーは、零落白夜とは逆にエネルギーを生産する物らしい。
無限とも言えるエネルギーを生産する紅椿により、エネルギー不足の問題も解消し、それは火力の面でも際限なく上昇している事を意味する。
エネルギー切れの状態から脱した第四世代IS紅椿。
紅椿の登場により、エネルギー切れの心配も無くなった白式。
二対一、火力も手数も一夏と箒が優勢であり、二人の技量もコンビネーションも問題はない。
だと言うのに……。
(当たらねぇ……っ!)
歯を食いしばり、表情には変化がなく、冷静に攻撃を繰り出し続ける一夏。
エネルギーに余裕がある現在、雪片弐型の刃は最大出力の形を取り、その大きさは一夏が背中を追う男の持つ武器にも劣らない物となっていた。
しかし、エネルギーで形成された刃には重さなどなく、軽々とそれを振り続ける。
大振りにならないようコンパクトに、そして速く、袈裟懸け斬り上げ、突きは強力ではあるが、福音の機動性を鑑みると当たらない確率の方が高い。
突きは出さず、線での攻撃に重きを置く一夏の攻撃は、控えめに言っても中々の物だ。
予測不能な機動で攻撃を仕掛ける紅椿の間をすり抜けるようにして繰り出される斬撃には隙等殆ど存在しない。
今の一夏が繰り出す斬撃の隙を見切る者はいるだろうが、その隙の間に攻撃をねじ込める人物など、そう多くはない。
そう思わせるほどに一夏の攻撃タイミング、隙のなさ、攻撃の種類のチョイスは素晴らしいものだ。
生死の掛かった状況での極限の集中力と、その様な状況でも冷静さを残している賜物と言える。
剣術だけに囚われず、蹴り、射撃を織り交ぜる一夏は、確かに優秀な搭乗者であり、織斑千冬の弟として何ら恥じる事等ない程に強い男なのは間違いない。
「おぉぉっ!」
一夏よりも冷静さを欠いた様な掛け声と共に、紅椿を纏う箒から、展開装甲を駆使した加速の乗った蹴りが繰り出されるが、それすらも見切り、自らの身体を攻撃のこない場所へと置く福音。
ギリギリ爪先の届かない位置を見切り、くるりと身体を縦軸中心で回転させる回避は素晴らしいの一言。
回転と共に少し後方へとズレ、最終的には箒の蹴りが通った外側へと抜け、すぐさま回転を停止させて、箒と一夏を視界に収める所など抜け目がない。
その姿を前にして、明らかに焦りを前面に押し出す箒とは違い、一夏の思考はまだ少し冷静さを残していた。
(あれからだ……)
――『戦闘データ統合完了』
一夏の脳裏をその一言が通りすぎる。
その一言が何かの契機だったかの様に、二人の攻撃が外れていくのが目立ちだした。
そしてそこから少し時間を置いた現在、どんな攻撃も初動で見切られ、全て攻撃の来る位置がわかっているかの様に回避されている。
「くそっ、何故だ!」
悪態を吐きながら福音の追撃を辛うじて脱した箒が一夏の隣に並び、福音を睨みつけている。
そんな箒に、一夏は横目で一瞥。
言葉を掛ける事無く、ただ無言で雪片弐型の刃を、普通の接近ブレードと同じ大きさに戻してみせる。
そして、自らの左腰に添え、まるで鞘に収めた日本刀を構えるような形を取る。
「一夏?」
「試してみよう」
「何を……」
箒の問いかけに短く答えた一夏は、その後に続く疑問等聞かないという様に、自らの機体を一気に加速させ、福音へと肉薄。
そして、ギリギリ今の間合いの一歩外で、一閃。
するりと福音の身体の前を通っていく一撃には、福音は全く反応しない。
一閃が通り過ぎ、福音は隙だらけとさえ言える一夏へ向けて、追撃を加えようとした瞬間、急後退。
勢いよく福音が後ろへ下がってき、そして停止した福音の全面を、刃の伸びた雪片弐型の切っ先が通過していく。
瞳を細め、その光景を見ていた一夏は、何かを確信した様に雪片弐型を片手で青眼の位置へと戻し、左手に存在する雪羅の砲身を隠すように半身で構える。
その瞳は未だに細められ、警戒を解いた様子はない。
「一夏……今のは、何だ?」
「見よう見真似で練習してた千冬姉の技。つっても、全然完成してないから小細工も織り交ぜといた」
呆然と問いかけられた箒からの問いに、一夏は何でも無いと言うように軽く答えてみせる。
油断なく福音を視界に入れる一夏の様子に、箒は陶酔した瞳で一夏を見つめ続ける。
福音から見れば、今の箒等油断の塊であり、隙だらけには違いないのだが、攻撃を加えないのは未だ油断なく福音を見据える一夏の存在が大きい。
惚けた様に一夏の姿へ見惚れる箒。
そんな彼女へ掛けられる一夏の声には、軽さもあり、気負い過ぎていないそんな声。
しかして、力強さも失っていないその声は、この状況において何よりも頼もしい。
「小細工……しかし、あれでも十分な技ではないか」
「小細工には違いねぇよ、千冬姉ならあんな事しなくても当てれたはずさ。でもまぁ、これでようやく確信した」
「何をだ?」
「俺達じゃ絶対に勝てねぇ」
油断なく福音を見据え、未だ警戒を解かない様子の頼もしい一夏の口から出てきたのは、冷静な声でありながらも、敗北を確信した言葉だった。
当然、そんな一夏の言葉に反応するのは箒であり、納得などする事が出来ない。
箒から見た一夏は、今までの鍛錬の成果を遺憾なく発揮し、自ら考えて応用さえしてみせる。
しかして、その実力に溺れる事無く相手に対して油断の欠片も見せず冷静だ。
そんな一夏の姿は何よりも魅力的で、誰よりも頼もしい。
そう見えていた一夏の口から出てきたのは、現状を打破する策も実力もないと言う敗北宣言なのだ。
織斑一夏と言う一人の男に魅力を感じ、今まさにその魅力に取り付かれている箒からすれば、納得など出来ようも無いと言った所だ。
「何故だ! 私と一夏ならばっ」
「そういう問題じゃねぇんだよ。理屈とか精神論なんかじゃどうにもなんない位今のアイツは最強なんだ。その事を今確信した」
「どう、言う……」
今までの一夏からは考えようもない程に冷静な思考に、冷静な言葉。
今の一夏から、最強のその座に届くだけの雰囲気を感じていた箒は、一夏がまるで別の人物になってしまったかの様な錯覚さえ覚える。
しかし、そんな箒の内心など、冷静さを欠かない一夏には見える事はない。
それ所か、何処までも冷静な思考の一夏から言わせてみれば、精神論でどうにかなる相手は今ここにはいない。
力強くそう判断を下せる程に、その事を確信していた。
普段の一夏ならば、精神論や二対一の今の状況での物量論に同調していたかもしれない。
しかし、今の一夏は極限の状況での集中力、試行錯誤、判断力。
それらが全て一つに混ざり合い、一つの大きな壁を越えた状態にある。
今までの鍛錬の成果が結晶化し、以前までなら届かなかった強さを手に入れた一夏の冷静な思考力が下す判断は、何処までも現実を見ていた。
「戦闘データの統合。それが切っ掛けだった。それを考えれば何かの戦闘データを学習したって考えるのが普通だ。そして、参考になり、急激な強さを手に入れられる程強烈な戦闘データを持つ人物……」
静かにそこまで一夏が言葉を紡いだ所で、箒から何かを確信した様に息を飲んだ空気が一夏へと伝わる。
そして呆然としたような雰囲気の箒から紡がれるのは、絶望すら滲ませた声音。
「師匠……か」
「そういう事。精神論や物量何か軽く吹き飛ばす。先に言っとくけど、俺と箒じゃほぼ確実に勝てないぞ?」
ほぼ間違いない、そう確信している一夏の推測は、全くもって外れていないし、一夏自身外しているとも思っていない。
何故なら、今の回避運動、箒の蹴りを避けてみせた動き、攻撃をねじ込むタイミング。
その全てどれを取っても、一夏自身がよく知る男の姿が重なるのだ。
そして、その戦闘データを統合したという事は、無理やりに攻撃をねじ込む事等せず、確実に当てられるタイミングで攻撃を仕掛けてくる。
今まで攻撃を仕掛けてこなかったのは、一夏と箒を舐めているからではないし、ましてや油断しているわけでもない。
確実に攻撃を当てられるタイミングではないと判断したからこそ、攻撃を仕掛けてこなかっただけの話だ。
油断できない相手だと判断したからこその静観。
そう思えば、常に凪いでいた一夏の胸中に、僅かばかりの歓喜すら浮かんでくる。
(機械的な思考とは言え、擬似的な翔から、油断できない相手だって思わせる事が出来たのと同じだしな……)
薄い笑みが浮かぶのを抑えきれない一夏だが、だからといって現状を打破出来るわけでもない。
奥歯を噛み締め、思考するが、それも長くは持たない。
相手はそこまで甘くはない。擬似的とは言え最強の姿を借りているのだ。
思考が纏まる前に何かしら手を打ってくる確率が高い。
「さぁて、どうするかな……」
ぽつりと一言ぼやきを入れた所で、一夏と箒の目の前で信じがたい出来事が起こる。
唐突とも言えるタイミングで、一夏と箒の前方に存在していた福音の方から大きな金属音が響き、その姿が忽然と消え去っていた。
何の前触れもなく、感知すら出来ない唐突さで消え去った福音の姿。
しかし、その姿は捉えられずとも、今どこにいるのかと言う事は直ぐに知覚出来た。
何故なら一夏と箒の眼下で、大きな水柱が上がっていたからなのは、最早言うまでもない。
轟音とさえ言える程の着水音、白波が大きくうねりながらも重力に反逆する程に巨大な水柱。
そこに何かが落ちた事は明らかで、その正体が目の前にいた福音だと判断するのは言うまでもなく容易だった。
何が起こったのか、福音はどうなったのか、その事に対して冷静に思考を働かせる一夏の耳に、突然男の声が飛び込んでくる。
何処までも冷静で感情を悟らせない声。低く響く低音は一夏のよく知った声で、間違えるはずもない男の声だ。
「ふむ……控えめに殴ったのだが、生きていると思うか?」
『……生存確認。あと数秒で上がってきます』
「そうか、ならば安心だな」
一夏のよく知る男の声、そして全く聞き覚えのない声に、一夏と箒は顔を見合わせるが、視線を前方へ向けるタイミングもまた同じだった。
同時に視線を向けた場所は、先程まで福音が浮いていた場所であり、今は一夏と箒の二人と見合うように福音が浮いていた場所に、別のISが浮かんでいる。
漆黒の装甲はそのままに、背面部は一夏や箒がよく知るフォルムとはかけ離れた形を形成している。
刺々しい背面をくるりと一夏と箒の視界から外すようにして、二人に振り向いた人物は、正しく予想通りの人物。
その人物の名を、一夏と箒は呼ばずにはいられなかった。
「翔!」
「師匠!」
「二人共無事で何よりだ。後は任せてもらおう」
いつもの感情を悟らせない表情で、何事もなかったかの様にそこに佇む男は、間違いなく柏木翔と言う男。
本当ならばまだ寝ている筈の男が、IS学園の制服の上からISを纏うと言う、見事に白黒の出で立ちでそこに存在していた。
腕を組み、一夏と箒を見据える鋭い黒の瞳、首から見える白い包帯が痛々しいが、それでもそこに居る存在感は途方もない。
軽く一夏と箒に挨拶した翔は、その鋭い瞳を海面へと落とし、福音の出方を探る。
「だ、大丈夫なのですか? 起きても」
「問題ない。少々動きが鈍いが、それも想定の内だ」
「翔、そのISは……いや、そんな事より、すまねぇ、俺がもっと」
「気にするな。帰ったら千冬からの説教がお前を待っている。今どうこう言うつもりはない」
軽く気にするなと言う翔の言葉の中に、一夏は無視できない言葉があったのを聞き漏らす事はなかった。
「え、えっと……マジで?」
「何がだ?」
「その、千冬姉からの説教っての」
「マジだ。セシリアにもシャルロットにも鈴音にもラウラにも、勿論箒にもあるだろう」
「そんな……馬鹿な……」
海面から視線を逸らす事なく告げられた翔の言葉に、呆然と頭を項垂れる箒。
その声にも絶望が混じっていながらも、何かを諦めたニュアンスすら感じ取れる。
翔は相も変わらず冷静な声で、一夏と箒へ向けて追い打ちすら掛けてみせる。
「当たり前だろう。無断出撃なのだからな、説教と反省文位は覚悟しておけ。それに普通ならばこれだけでもまだぬるい」
『学生、と言う事で大きな責任を課せられない、と言うのも甘いと思いますが』
「お前にとってはそうなんだろうが、今はそれだけの余裕がある社会という事だ」
帰ってから自らが受ける罰がなんなのか、それが明らかになり項垂れていた一夏と箒の耳に、機械的で抑揚のない女性の声が耳に届く。
その瞬間、先程までの絶望を無理矢理振り切るようにして、一夏と箒の顔が上がり、翔へとその視線は集中する。
視線が集中している事は自覚しているが、海面から視線を外さない翔は、意識を自らの武装の確認へと向けていた。
「っていうか、さっきから聞こえる声は誰なんだ?」
「女性……のようですが」
「誰? 零式だが」
海面から瞳を離さず、意識で武装の確認を終わらせるが、何度確認しても一件しか該当しない武装に、小さく疑問を抱く。
しかし、そんな翔などお構いなしに、箒と一夏は声を揃え「は?」と短く疑問を漏らす。
その間抜けな声に答えたのは、翔ではなく、機械的で抑揚のない女性の声。
『正確には初めまして、ではありませんが、黒衣零式・鉄のAIを務めています。零来と名を頂きました』
「は、はぁ……」
「よ、よろしくお願いする……」
何が何だかわからない。
そう言わんばかりに呆然と返事を返す一夏と箒。
この反応も仕方ないとは言えば仕方がない。何せ全てが急展開過ぎるのだ。
唐突に福音が姿を消し、その原因はこれまた唐突に現れた翔が原因で、その翔は一夏と箒がよく知る零式とは若干フォルムが異なるISに身を包み、極めつけにAIなるものが発現している。
しかも、冷静に挨拶を交わしている事から、思考力や常識などはあると見ていい。
抑揚があまりない事や、機械的な口調がAIだという事を認識させるが、人間でもそれぐらいの抑揚の無い人間もいるし、口調が機械的な者もいないとは言えない。
それらを総合して考えると……。
「えらく人間臭いAIだな」
「思考力があるからな。零来はこれからもっと人間に近付く。つまり、感情を持つだろう」
『私には想像がつきません』
「今はな……さて、お喋りはどうやら終わりらしい」
淡々と状況を説明する翔の言葉と同時に、海面が小さく盛り上がり、そこから一つの影が飛び出し、幾つもの光弾が翔へと迫る。
「くっ!」
その光景を見た者で、一番早く動きを見せたのは、誰であろう織斑一夏だった。
左手の武装の雪羅を直様シールドモードに展開。
翔と箒両方を守ろうと、翔が浮いている場所よりも少し海面寄りへ加速しようとした時には、何故か一夏の視界から、翔の姿が忽然と消えていた。
「え?」
呆然とした声を上げるが、その状態も長くは続かず、目の前に迫る光弾を視界に入れると共に直様シールドを展開。
零落白夜のシールドを前に、例外なく消失していく光弾を凌ぎ切ってまず一夏が瞳を向けたのは、自らの後ろにいる箒だった。
「箒、大丈夫か」
「あ、あぁ、一夏が守ってくれたからな……」
少しばかり嬉しそうに笑みを浮かべ、問題ないと告げる箒を確認した後には勿論、翔の姿を探すため瞳を動かす。
結果として見えたのは、いつの間にか幾度も翔の拳と蹴りに圧倒されている福音の姿だった。
「ふむ……学習したのか。零来、武装展開」
『了解。接近武装『黒虚零式(こっこれいしき)』展開します』
腕を掲げ、ガードしているその上から蹴りを押し込み、無理矢理距離を取らせ、その間に翔は零来に声を掛け、その声に対し忠実に声と行動で応える。
開かれた翔の右腕にしゅるしゅると幾重にも円を描くようにして黒の粒子が収束し、次々とその形状を顕にして行く。
黒色の金属の柄は太く、折れ曲がる事等ない。持ち手の長さにより、掛かる力を分散させる為、姿を現していく柄ですらかなりの長さを誇っている。
そこまでは以前と同じであり、疑問もない所だ。
柄の形成が終わり、鍔の部分が物質化した時、明らかな違いが現れた。
丁度握り込む事で指が下に来る部分、つまり刃の存在する側の鍔には何かを受け止める小さな皿のような機構と、連結部分が存在。
その上には巨大なリボルバーの弾倉。
刃の背が存在する側、つまり弾倉が存在する上側には、剣の柄とはまた違い、伸びる刃と十字を描く形で存在する持ち手。
その持ち手の中にはもう一つレバーのような物が存在し、それらの延長線上。
つまり刀の背に当たる部分に埋め込まれるようにして短めのパイルが存在している。
次々と物質化していく刃の形状は以前と変わりなく、長大で分厚い刃。
形状こそ日本刀と言っていいが、その大きさは最早日本刀の領分を逸脱している。
パイルバンカーと巨大な日本刀の刃を無理矢理くっつけたようなその形状に、翔は思わず苦笑を漏らす。
「ふっ……これも今までの戦闘データの蓄積から得られた結果、か?」
『無論その通りです。虚鉄と政宗零式、どちらも同時に使用していた率が非常に高いのでこうなりました』
「ふむ……悪くない」
体制を立て直している福音に対し、警戒を解かないまでも、自然なやり取りを交わす翔と零来。
気負ってもいない上に、少しばかりの余裕すら感じられる。
右手で握った感触を更に確かめるため、左手も柄を握り込ませる。
そして幾度か空を斬るようにして、白銀が煌くが、その剣閃は軽く振られているように見えて、その実その一撃一撃は素晴らしい。
切り裂いた空気が再生していきそうな一閃一閃は、剣の道を歩く箒は勿論、最近またその道を歩き出した一夏ですら見惚れずにはいられない。
数度振り抜いた感触に満足したのか、チラリとその視線を、本来ならば鍔が存在する部分へと向ける。
明らかに刃部分が根元からぼっきりと折れる事を前提にしているその機構を一瞥し、納得したのか一つ頷く。
「バンカーと刃は、もう同時には使えんか」
『ですが、その都度物質化する手間はいりません』
「悪いわけではない。そう不満そうにするな」
『不満と言う言葉は知っています。ですが、私がそう考える事はありません』
「不満に思うではなく、不満と考える、か……中々に面白い表現だ」
『……』
少しばかり面白そうな色を滲ませた翔の声に、零来は沈黙で答えてみせる。
その様子がまたおかしかったのか、苦笑を浮かべ、許せ。と軽く一言。
浮かべていた苦笑も、直様霧散し、いつもの感情を悟らせない表情が浮上する。
いつもの表情で鋭い視線を向ける先は、勿論の事今まで翔を警戒していた福音の姿。
「知らぬ内に見慣れない姿になっているが……二幕が終わり、最終幕の幕引きは一瞬だ」
『予想戦闘終了時間は一分半です』
「では、一瞬の幕引きとしよう」
いつもの表情のまま両手で巨大な獲物を握り締め、青眼に構える姿は正に威風堂々。
余裕の溢れたその言葉と相まって、その姿はより大きく見える。
福音と呼ばれる災厄を目の前にしての最終幕。
翔曰く一瞬の幕引きは、風の音のみが支配する海の上の青いステージで、幕を開けた。
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最新話待ってました!
この作品はめっちゃ好きです
これからもゆっくりでいいので更新頑張ってください
NoTitle
こういう千冬さんもいいなぁ
同じく『小説になろう』から見ていました。更新されない間もなんども読み返してました!
そして、遂に最新話が更新された!!
これからも応援してます!ゆっくりでもいいので執筆がんばってください♪
NoTitle
久々の更新でとても嬉しいです。
これからも自分のペースで書き進めてくださいな。
応援しております。
NoTitle
これからも遅くても良いので更新よろしくお願いします
黒式
今後も頑張ってください
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