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「IS インフィニット・ストラトス ~黒衣の侍~」
銀の福音編
二十六斬 漢でも出番が少ない時ぐらいある
夜。夕餉時、IS学園1年生が寝泊りする旅館。花月荘の大宴会場にて、ある一つの事件が勃発していた。
時間通りに生徒達は大宴会場に入り、席に着いた一人一人の前に膳が置かれる。
ここまでは良かった。
問題は、IS学園の例外その2、柏木翔とイギリスの代表候補生、セシリア・オルコット、その2名の膳にだけ、他の生徒とは違ったメニューが置かれていた。
それは、鯵のフライとキスの天麩羅、そして、旅館によって出された刺身とは別の皿に盛られたスズキの刺身。
その事実に、他の生徒達が注目していると、膳が行き渡った後に、生徒達が並んで座るその中央に、大皿に盛られた大量のフライと天麩羅、格皿に分けられた幾つかのスズキの刺身が運ばれてきた。
生徒達がその光景を見守る中、IS学園の教員である織斑千冬が立ち上がり、状況を説明。
「今運ばれてきた物は、柏木が釣って、それを柏木自身が調理したものだ」
簡潔な千冬の説明に、生徒達の間でざわめきが広がり、翔に視線が集中するが、当の本人はそんな視線など気にせず、静かに正座、腕を組んで瞳を軽く伏せている。
その右隣でセシリアが、何かを我慢しているような顔色で正座しているが、それは今問題では無い。
「はい、先生。柏木君は何となく分かりますが、オルコットさんの膳にも料理が増えてるのはどうしてですか?」
千冬の説明に、疑問を感じた1人の女子生徒が手を上げて千冬に質問。
その質問に、千冬は顔色を変える事無く、だが、内心は舌打ちを一つ打ちながら、その質問に回答する。
「オルコットも柏木と共に釣りをしたからだ。釣ってきた者が優遇されるのは当然だろう?」
翔とセシリアが、実は昼間に2人きりで釣りに興じていたと言う事実を放り投げられた生徒達の反応は、当然の事ながら様々。
海で皆と遊んでいたという事実に、今更ながら嘆く者。悔しげに唇を噛み締めながら、羨ましそうにセシリアを見る者。特に2人に対して思う所は無く、目の前に置かれた料理に目を奪われる者。
その反応は様々だが、結局、それは今更言っても仕方の無い事であり、現在生徒達にとって重要な事は、目の前に置かれた料理を、どの様にして確保するかが最重要な事である。
無論、その方法を決める権限が存在するのは、教師と言う職についている千冬が決める所であり、当然生徒達の視線は千冬に集中する。
翔の左隣に座るシャルロットや、少し距離はあるが、翔の正面に座る事になったラウラ、それ以外にも少数ではあるが、他の女子生徒が千冬を見詰める視線は、普通の生徒よりも気合が入っているように感じられる。
それにより、視線を集めている千冬は、自らが、ある方面において警戒しなければならない生徒達の洗い出しに成功し、薄く笑みを浮かべる。
「では、どうやってこの料理を配分するかだが……柏木から聞いた所、恐らく全員に行き渡るほどの量はないと言う事だ、そこで、簡単なじゃんけん勝負によって決めようと思う。これに参加するものはその場で拳を作ったまま手を掲げろ」
千冬の言葉に、当然と言うか何と言うか、既に料理を確保しているセシリアと翔以外の全員が手を上げる。
その事実に千冬は満足そうに一つ頷き、自らも拳を少し上に掲げる。
「よし、これで全員だな? では、私に勝てた奴から料理を取って良し」
この提案により、翔とセシリア以外の全員が、じゃんけんに全身全霊を掛けると言う、今現在の事件が勃発しているというわけだ。
その事件に何ら関係の無い翔とセシリアは、じゃんけんが始まる直前に、食べていても良いと千冬から許しを得ていたため、目の前に置かれた膳に箸をつけている。
この旅館のメニューは、刺身、小鍋、二種類の山菜の和え物に、赤だし、お新香となっている。
どう見ても特殊なのは刺身で、その内容はカワハギの刺身となっている。同じ皿の上にキモまで添えられており、中々お目にかかれない類の刺身である事は確かである。
箸を器用に扱い、キモを潰さないように掴んだまま、身と絡め、少しばかりの醤油に身を浸し、そのまま口に運ぶ。
独特の歯ごたえと臭みの無いキモが絡み合い、さっぱりとした味を楽しむ翔は、夕食を楽しみながらも、千冬の抜け目無い行動に、感心の声を漏らす。
「流石と言うか、織斑教諭は抜け目がないな」
感心したような翔の声に反応したのは、右隣に座るセシリアで、何かを耐える様に言葉を切れさせつつも、翔へと問いかけていた。
左隣に座るシャルロットは、絶賛じゃんけんに夢中である。
「何、が……ですの?」
「む? いや、織斑教諭は自分に勝てたら料理をとって良いとは言ったが、自分は取らないとは一言も言っていない」
「そう、ですわね」
「そして、自分に勝てたら、と言う事は、何人かは織斑教諭に負けるわけだ。確実にな」
「…………あぁ、そう、言う事、ですの」
千冬1人に勝てれば、料理を確保する事が出来る。
しかし、勝てなかったり、負けたりすればもう一度勝負するしかない。だが、逆に千冬のサイドから見てみればどうか?
勝てたら料理を確保できる。その条件ならば、千冬は一度の勝負で負ける事もあればあいこもあり、勝ちもある。
と言う事は、全生徒の何人かには勝てているわけだから、千冬はこの時点で料理を確保できる権利を持っているという事になる。
微妙にズル臭い方法だが、千冬は、自分は料理を取らないとは一言も言っていないため、有効と言えば有効である。
その事に対して感心している翔であり、納得しつつも呆れたような表情のセシリアと言うわけだ。
「所で……正座が辛いのならば、テーブル席に移ればどうだ?」
「そう言う、訳にはまいりませんの」
己が釣って捌いたスズキの淡白な白身に舌鼓を打ちながら、セシリアの様子を見て取る翔。
鋭い瞳が捉えたセシリアの様子は、慣れない正座に冷や汗を浮かべて我慢している様子のセシリアが目に入っていた。
IS学園に在籍する生徒は、世界から集まってくる。
そんな多国籍な人間が集まる事実から、それに配慮されているように、テーブル席が用意されている。
正座が辛いという生徒も珍しくは無い。そして、テーブル席に移るのは簡単で、目の前に置かれた膳を持って、テーブル席に移れば良い。ただそれだけだ。
だと言うのに、何故かセシリアはそれを断固拒否し、正座のまま翔の隣に座り続けている。
ふむ……? と首を傾げている翔だが、その疑問に簡単に答えたのは、翔の左隣に座るシャルロットだった。
「女の子には色々あるんだよ、翔」
「そう言うものか……」
「そう言うものだよ」
にっこりと笑顔を浮かべながら、料理の増えた己の膳を目の前に置きつつ、シャルロットはもう一度正座で翔の隣に落ち着く。
どうやら彼女はじゃんけんに勝った様で、その表情は満面の笑顔を浮かべている。
満足そうな表情のまま席に戻った彼女が一番最初に箸をつけたのは、やはりと言うか、翔の作った料理の一つ、狐色の衣を纏い、からりと揚げられたアジフライであった。
掴みやすいようにあまり太く衣をつけられていないアジフライを掴むと、ソースも何もつけないままに口元へ運び、そのまま小さく口を開けて一齧り。
シャルロットの小さい口元が、もごもごと動き、口の中に入っているアジフライを咀嚼する。
片栗粉を使われて揚げられた衣はさくさくとした軽い歯応えをシャルロットに伝え、少しぴりっとした味がアクセントになり、夏が旬の魚特有のサッパリとした口当たりに良く合っている。
こくり、と小さく喉を動かし、飲み込んだシャルロットの感想は、勿論この言葉しかない。
「うん、これ美味しいよ。ソースつけてないけど、胡椒が良いアクセントになってる」
「そうか、それは何よりだ」
シャルロットから嬉しそうに語られた感想に、表情は感情を悟らせない何時もの表情から変化を見せないものの、満足そうに頷きながら、自らもアジフライを一口。
サクサクとした歯応えと、粗挽き胡椒によるサッパリとした辛さが、脂身の少ない夏の鯵を引き立てている。
醤油を掛けても、ウスターソースでも良く合いそうなアジフライの出来に、翔は満足そうに頷く。
そして、自らの料理に心配の無くなった翔がやはり気になるのは、笑顔で美味しそうに箸を勧めるシャルロットではなく、右隣で痺れる足に耐えながらも食事を続けるセシリアだった。
足の痺れに色々と耐えられなくなってきているのか、冷や汗の量は増すばかりで、顔色も心なしか悪くなってきている。
何時もならば、彼女の優雅で優美な雰囲気と共に輝いている金色の髪も、今ばかりは精彩を欠いているように見えた。
そんなセシリアの様子に、ふむ……と考え込むように箸を置いた右手でもって、口元を隠し眉根を寄せる。
IS学園は、エリート校と言えども、そこに在籍しているのは20歳を超えない学生ばかり、そんな中で1から10まで礼儀を弁えろと言うのは無理な話だ。
それを前提に考えるのならば、日本的な食の場だからと言って、必ず正座で食事をしなければならないと言う事は無い。
日本人であれども、正座が苦手な者はいるし、最近では正座をする状況の方が一般的には少ない。
故に日本人でも正座に慣れているという者は思っているほど多くは無い、武道を嗜んでいる箒や千冬、その弟である一夏等は別としても、生徒の中でも足を崩している者はそれなりにいる。
そんな中でセシリアが足を崩さないのは、恐らくこういった場では正座をしなければならないと言う、固定概念にも似た物に縛られているからだろう。
そして、今実際にその場を見て、足を崩している生徒がいる現状を見ても、今更始めた事を崩すのは、セシリア自身のプライドが許さない。そう言う事だろう。
ざっと考えてこんな所か、と翔は思考を止めて、セシリアへ視線を向ける。
未だに苦しそうにしながらも正座を続け、味噌汁の器を持ち、それを辛うじて啜っているセシリアに、翔は思わず苦笑を浮かべる。
結局は、引っ込みがつかないと、そう言う事だろう。
結論が出た翔は、置いてある箸を掴み、食事を再開させる。
「セシリア」
「何、でしょう?」
「辛いなら足を崩したらどうだ? 他にもそうしている者は多く居る」
「い、いえ、一度、は、始めた事ですし、何より、翔さんにみっともない所を見せる訳には、まいりませんわ」
翔が足を崩せばどうかと提案し、それに対して、答えるセシリアは律儀に、持っていた味噌汁の器を膳に置いてから、翔に答える。
その律儀なセシリアに、ふっとクールな笑みを浮かべ、翔も箸を置いて、フリーになった右手を、徐にセシリアの腰の右側に引っ掛けるようにして置く。
勿論、突然そんな事をされてセシリアが慌てないわけは無く、頬を赤く染めて、わたわたと慌てる。
「えっ? はっ? えっと、翔さん!? な、なな何を!?」
「いや、自分からは折れそうにないのでな、俺が折る事にした」
「えっと、そ、それはどう言う……きゃっ」
どう言う事でしょう? と続けようとした所で、セシリアの身体は自らの意思とは関係なく、ぐっと左側、つまり翔の方へ引き寄せられる。
その際、足の上に乗せられていたお尻が、ぐっと左側に移動し、最終的に足ではなく、敷かれている座布団にその尻が落ち着く事になる。
乗っている物がなくなった足は、セシリアの右側へ投げ出される。
有無を言わさず足を崩される形になったセシリアは、状況的に表すなら、翔に力強く抱き寄せられた様に思えるこの状況に、赤かった頬が更に赤く染まっていく。
前置き無しに引き寄せられた事で、セシリアの手は倒れるのを防ぐ為に身近な物、つまりは翔の横腹辺りと胸板に添えられ、傾きすぎた上体によって、自らの顔は同じく翔の胸板に押し付けられているような状態。
セシリアの崩れた足に表情を変えないまま、一つ頷く翔は冷静そのものだが、セシリアが慌てない筈は無く、想い人の腕の中と言う状況を堪能する前に、その身体をばっと離してしまう。
「も、もも申し訳ありませんわ!」
「何故謝る?」
「い、いえその……何となく、と言いますか、その……」
「ふっ、おかしな奴だ」
「うぅ……」
頬を赤らめ、身体を縮こまらせながらしどろもどろで言葉を紡ぐセシリア、その言葉も段々と尻すぼみになり、消えるようなか細い声になってしまう。
恥かしげに俯きながらも、翔に謝ってくるセシリアがおかしかったのか、翔はふっと笑みを浮かべる。
そんな状況に、益々セシリアは身体を小さくしながらも、足が少し楽になった事で、それを誤魔化すようにセシリアは食事を再開し、箸を咥え口に入れた物と一緒に、その小さな唇をもそもそと動かす。
恥かしそうに、しかし、少しばかり嬉しそうに食事をするセシリアは、小動物を連想させ、非常に可愛らしいが、彼女が幸せそうにしていると、当然機嫌が急降下している人物が居る。
セシリアが翔に腰を引き寄せられ、体勢を元に戻すまで、僅かな時間だったため、その事に気がつかなかった生徒は多く、その事について騒がれるような事は無かったが、一部の人物の視線は、嫌と言うほど突き刺さっている。
その内の一つは、当然の事ながら、翔の左隣に座るシャルロットであり、先程まで機嫌が良さそうに食事をしていた彼女は一体何処へ言ったのかと思うほどに、彼女の頬は、ぷすーっと不機嫌さを露にしている。
他にも、ラウラの眼帯に包まれていない赤い瞳が不機嫌そうに細められていたり、千冬が眉間に皺を寄せ、醸し出している不機嫌オーラに晒されている山田真耶が若干涙目になっていたりと、その他でもちらほらと不機嫌そうな表情をしている生徒や、憂さを晴らすように食事に集中し始める生徒などが居た。
「楽しそうだね。翔……」
「む?」
如何にも不機嫌そうな声が左側から飛んできたため、翔はシャルロットの雰囲気が変化した事を察知したように、状況の変化を確かめるような単音を落としながら、視線をセシリアから、左に座っているシャルロットへ向ける。
横目で捕らえたシャルロットは、頬を、ぷーっと膨らませながら箸を少し口に含み、ジト眼の半眼で少しばかり下から見上げる様に視線を送ってきていた。
シャルロットが現在進行形で不機嫌なのは分かったのだが、何故不機嫌なのか、その原因が理解出来ない翔は、はて? と首を傾げる。
しかし、箸を動かすその手は止まる事無く、ご飯を乗せた箸を、疑問を感じつつ口元へ運び咀嚼。
翔がよくよく視線を巡らせて見れば、ラウラや千冬、他にもその数は多くは無いが、同じ様な視線を向けてきている者が居る事を、今になって自覚する。
「まぁ、誰かと食事をするのは楽しい事だが?」
「いや、そうじゃなくて……はぁ、良いよ、翔だもんね……」
「ふむ……」
翔の返答に、少しばかり肩を落としつつ、溜め息を吐くシャルロットに、やはり翔は首を傾げる。
が、結局、別に良いとシャルロットが言っているのだから、良いのだろうと食事を再開する。
気になってチラリと確認した所、セシリアの顔色も段々と良くなり、箸も良く進んでいるのを確認し、うむ、と一つ頷き、自らも食事を再開。
微妙に殺伐とした視線を浴びても、特に気にした様子の無い翔に、シャルロットが吐いた溜め息と同じ意味の物が聞えてきたのも、仕方の無い事だった。
食事の後、何時もとは違った白い浴衣に身を包んだ、金色の豊かな髪を持つ美少女、セシリア・オルコットは、頭を悩ませるようにして額に手を当て、一つの扉の前を行ったり来たりと、忙しそうに往復を繰り返していた。
既に風呂は済ませたのか、髪は艶やかさが増し、肌も入念に手入れされたのか、張りと艶が何時もより増している様に見える。
セシリアが扉の前を行ったり来たりする度に香る、高級感のある香り、浴衣の裾から覗くしなやかで白い足。
15歳とは思えぬ程に色香の立ち上る姿のセシリアが居る扉には、やはりと言うか、教員室と大きく張り紙がしてあった。
彼女の居る部屋は、2つ並んだ教員室の内の一つ、山田真耶が使っている部屋の前である。
そして、その部屋を使っているのは山田真耶以外にも、もう1人。
当然セシリアのお目当ては、真耶では無く、一緒に部屋を使っているもう一人の方がお目当て。
お目当ての部屋の前まで来て、彼女が悩んでいる理由、普通に考えれば、教員の部屋に入る事を悩んでいると考えられるが、生憎と彼女はそうでは無い。
(翔さんに、ご迷惑では無いかしら……?)
そう、取り合えず部屋の前まで来たは良いものの、そこまで来て、この部屋の真耶以外のもう1人の人物、柏木翔をこの様な時間に尋ねて迷惑では無いのかと考えたのだ。
彼女の頭の中では、真耶はどうやら、居ても居なくても一緒らしい。中々に酷い話である。
セシリアが延々と悩んでいる時、セシリアしか居なかった筈の廊下に、彼女以外の声が響く。
「セシリア?」
「こんな所で何をやっているのだ?」
「あら? 篠ノ之さんに鈴さん、お2人こそ……って聞くまでもありませんわね」
2人分の声が聞こえた方に視線を向けてみれば、そこには特徴的な形のポニーテールを揺らす篠ノ之箒と、ツインテールと釣り気味な瞳が勝気さを感じさせる、鳳鈴音が連れ立ってセシリアの近くまで来ていた。
そんな2人に、セシリアは何故こんな所にと、疑問を投げようとした瞬間に、目的を察したのか、理解したように静かに頷く。
目的を察したセシリアに、箒と鈴音は同時に頬を赤く染め、セシリアに言い訳を始める。
「い、いや、違うんだ。わ、私達は一夏に会いに来たわけではなく、だな」
「そ、そう! 偶然よ! 偶然通りかかったのよ!」
「私は翔さんに会いに来たのですけれど……」
「うぅ……」
「くぅ……や、やるわね……」
妙に慌てた様子で言い訳を始める箒と鈴音に対し、セシリアは何の恥かしげもなく翔に会いに来たと言い放つ。
その態度の違いに、明確な差を感じたのか、箒と鈴音は少し悔しげに眉根を寄せる。
想い人が居るという事はとても素晴らしい事で、その事実を態々誰かに隠す必要など全く無いし、そんな素敵な気持ちを隠すだけ損、そう言わんばかりのセシリアの雰囲気に、箒と鈴音がたじろぐのも仕方の無い話だった。
そう思っているセシリアが、本人に言えないのは照れと言うご愛嬌と、恋愛経験の無さから来るものである。
とまぁ、セシリアの愛嬌溢れる所は置いておくとしても、セシリアとしては、今目の前に居る2人、セシリアに中てられたのか、さっと頬に赤みが差し、しきりにセシリアと目を合わせようとせず、明後日の方向を向いている箒と鈴音の方が分からなかった。
誰かを好きになると言う事は、恥かしい事でも無いのに、何故2人は一夏が好きだという事をしきりに隠そうとするのか、それがセシリアには分からなかった。
本人に気持ちを隠したいのは、照れがあって本人に言えていない自らの事もあるので、2人の事をとやかく言えないと言う事は分かっている。
しかし、その他でも胸を張って誰かが好きだと言えないのは、少し寂しい事だ。セシリアはそう思う。
左手で口元を覆い、右手で左手の肘辺りに手を添えてしきりに考えているセシリアには、やはり2人の事はあまり理解出来ない。
結局、この事は自らが考えても詮無き事。そう結論を出したのか、セシリアも思考を切り上げる。
「お2人は……」
「んじゃ、行ってくる。って、ん?」
どうしますの? と続けようとした所で、セシリアが居た部屋の隣、その扉が開き、そこから出てきたのは、高い身長に、黒い髪、瞳は優しげと言うか穏やかな色をしている、1人の男。
間違いなくIS学園の教師である織斑千冬の弟、織斑一夏だった。
彼はこれから何処かへ行こうとしていたのか、部屋の中へ向かって、行ってくると言葉を投げかけながら出てきた。
織斑一夏と言う人物は、主婦的思考が強いというか、炊事洗濯と言った家事全般が得意で、昔剣を握っていた事からも、体型はすらりとスマートな体型をしている。
身長もそこそこに高く、手足も長い、そんな彼には、浴衣と言う物があまり似合わないように思えるが、それでも本人の清潔感や、誰かと相対する時の分け隔ての無い態度は、格好云々よりも、余程好感を感じる所である。
顔の造形も、千冬の弟と言うだけあり、中々に整った顔をしているため、女性からの総合的な人気は高い。
そんな一夏が、この旅館内でいける所はそう多くない。
知り合いである箒や鈴音、セシリアの部屋は班部屋であるため、そうほいほいと行ってしまうと落ち着く事などまず出来ない。
他の選択肢は風呂と言う選択肢があるが、どうも風呂は既に入っているのか、さらりとした黒髪が、僅かに艶帯びている様に見える。
となれば、最後の選択肢である、隣の部屋と言う可能性が高い。
暫定として隣の部屋に行くつもりだった一夏は、部屋の前でたむろしていた箒と鈴音、そしてセシリアに、驚いたのか、少し目を見開いている。
扉を開けたまま首を傾げている一夏に疑問を抱いたのか、一夏と同じ部屋の住人が顔を覗かせる。
その住人とは一体誰か、言うまでも無く、一夏と同じ部屋の住人は、一夏の姉、織斑千冬である事など、既に生徒達は確認済みだ。
「どうした……ん? 何やってるんだお前達は?」
「い、いえ! わ、私達は、その……」
「え、えーと……ご、ごめんなさーい!」
ひょっこりと部屋から顔を出した千冬の疑問に、脱兎の如く逃げ出そうとした箒と鈴音だが、当然の如く千冬から逃げられる訳も無く、すぐさま首根っこを掴まれ、確保される。
千冬を目の前に、反射的に逃げ出そうとした箒と鈴音に、セシリアと一夏は揃って溜め息を吐く。
すぐさま千冬に捕まえられた箒と鈴音は、お互いに尻尾を憔悴したように垂れ下げながら、ずるずると旅館の廊下を引きずられて、部屋の前まで連れ戻される。
人の顔を見て逃げるとは何事だ、と不機嫌そうな声を出す千冬を尻目に、セシリアと一夏はそちらを見ないように苦笑を交し合う。
「セシリアは何でこんなとこに?」
「私は翔さんの部屋に遊びに行こうかと思っていましたの。織斑さんは?」
「俺も同じく、なら一緒に……」
行くか? と続けようとした所で、空調の効いた広い廊下の中央で、囚人2人をその手に持っている千冬からの声が割り込む。
「その必要はないな。オルコットは私の部屋に来い」
聞き様によっては冷たく聞えるその声は、当然セシリアへ向けられたもので、元々鋭いその瞳を細め、セシリアへ向けられるその視線に、セシリアも応える様に視線を千冬へと寄越す。
その瞬間、最早お馴染みになったように、空調が効いている筈の高級感溢れる広い廊下に、人間にしか感じる事の出来ない冷たさが辺りを支配する。
明らかに冷たさの原因である千冬とセシリアは、互いに悠然とその視線を交わしあうが、被害者である一夏、鈴音、箒の3人からすれば、堪ったものではない。
3人が3人とも直立不動と言う言葉がぴったりと来るように身体を強張らせ、一様に顔色が悪く、歯を食いしばっている。
流れる冷や汗は滝のような量が流れ落ち、その視線はセシリアと千冬を直視しない様にあちらこちらへと彷徨う。
どれほどの時間が流れたのか、3人にとっては最早分からないが、そう長い時間ではない。
当然、それなりの時間が経ったと言う事は、その場にも状況の変化と言うものが現れる。
鋭い視線を向け、薄く笑みを浮かべる千冬に対して、セシリアがふわりと可憐なまでの笑みを浮かべる。
小さな口元は柔らかな曲線を描き、青く大きな瞳は穏やかに目尻が下がり、豊かで艶やかな金色の髪はふわりと揺れる。
正しく令嬢の浮かべる気品があり、穏やか、そんな魅力溢れる可憐な笑顔だったが、そんなセシリアの表情を見た一夏は、見惚れる所か、更に身体を硬くして、歯を食いしばる力にも更に圧力が掛かる。
既に滝のように流れていた筈の冷や汗は、限界量など無いと言う様に、その勢いを更に強めている。
恐らくナイアガラにも喧嘩を売れるだろう。
「えぇ、分かりましたわ。織斑先生、では織斑さん、私はここで、ごきげんよう」
「あ、あぁ、じゃ、じゃあな、セシリア」
穏やかで魅力的なはずの笑顔を浮かべ、一夏に挨拶をくれるセシリアに、冷や汗の量を更に増加させながらも何とかそれに応える。
セシリアが千冬の部屋に消えた瞬間、あからさまに一夏の表情に安堵の色が広がる。
局地的な冷害に襲われていた広い廊下で、まだその場に居る千冬へと一夏は視線を動かすと、千冬に何かしら耳打ちされた箒と鈴音が、青い顔をしながらしきりに頷き、踵を返して慌てて走り去る所が目に入る。
「一体、何言ったんだ? 千冬姉」
「何、ボーデヴィッヒとデュノアも呼んで来る様に言っただけだ」
ここいらで中間報告会と言うのも悪くない……クック、と笑う千冬は、まるで何かの悪役のような雰囲気だが、その様な笑みを浮かべていても、千冬のシャープさを感じる美貌は損なわれる事はない。
切れ長の瞳は細められ、女性にしてはシャープさが際立つ口元は妖しく吊り上げられる。艶のある長い黒髪は、千冬の笑いに連動するように妖しく揺らめき、何時もの鋭い雰囲気とはまた違ったギャップを感じさせる。
妖しさが際立つその雰囲気は、旅館の浴衣と言う薄い生地に包まれた男ならば誰しも魅力を感じる肢体、組んだ腕に支えられ、強調された豊かで張りがありそうな胸元。
それらの要因が合わさり、妖艶と言える雰囲気へと昇華されていた。
千冬の弟である一夏は、妖しいと言うよりも怪しい、だよなぁ、等と本人に知られれば只では済まない事を考えながらも、美人とは得なものだと結論を出す。
妖しく笑いながら、セシリアの待つ自らの部屋へ消えようとする千冬へ、取り合えず声を掛ける。
「じゃ、俺は翔の部屋に居るから」
「あぁ、帰って来るタイミングは、読めよ?」
「わ、わわわ分かってるって……じゃ!」
部屋に入る直前に、視線を寄越すと共に、ニヤリと何かの意図が込められた笑みを向ける千冬に、忘れていた冷たさが背中を走り回り、ぞわりと立った鳥肌を誤魔化すようにどもりつつも返答を返し、慌てて翔の部屋の扉に飛びつき、脱兎の如く、一夏は部屋へと消える。
冗談も交えて少しプレッシャーを掛けただけだと言うのに、これ以上無い程に慌てて翔の部屋に消えた弟を見送り、如何にも千冬は可笑しそうに笑みを浮かべ、自らもセシリアの待つ部屋へと消えていった。
教員室の一室に集められた5人の女子と1人の女性。
5人の女子が各々座った所で、1人の女性、教員室の住人である織斑千冬が、部屋にある冷蔵庫から、ラムネ、オレンジ、コーヒー、紅茶、スポーツドリンクを各々の前に規則性は無く適当に置く。
自らの目の前に置かれた飲み物に視線を注ぎ、次に千冬へ視線が集まる。
何を意図したのか良く分かっていない5人の女子達の視線に、千冬は、にやりと笑みを浮かべてみせる。
「奢りだ。取り合えず飲め、もし別の物が飲みたかったのなら誰かと交換しろ」
取り合えず飲め、それだけ言った千冬は、にやりと笑うだけ。
このままでは特に話は前には進まないと思ったのか、5人の女子達は、各々いただきますと声をあげ、各自飲み物に口を付ける。
全員が、こくりと小さく喉を動かした所で、千冬は更に笑みを深める。
「飲んだな?」
「はい?」
「確かに飲みましたけれど……何かあったのですか?」
「別に? 軽い口止め料の様なものだ」
鈴音の意味の無い疑問の音に、セシリアの探るような言葉、その二つに対して、それほど重い意味など無いと軽く答えながら、千冬は冷蔵庫からビールを一本取り出してくる。
プルタブを一気に引き、小気味良く、軽い音と共に飲み口から少し飛び出した少量の白い泡に、黄金色の液体、ラベルに書いてあるとおり、紛れもないビールだった。
飲み口の開いたアルミの缶を少しばかり機嫌よさ気に、ぐっと煽り、ごくりと聞いていて気持ちの良い音を喉から響かせる。
ビールの缶を幾度か煽りながら、ベッドに腰掛け、スプリングの効きに任せるようにして腰を沈ませる。
「一夏が居れば何か一品作らせる所だが……まぁ、この場に居られても困るか」
そう言って、くっく、と笑う千冬の様子に、女子達は開いた口が塞がらない、と言うか、言葉が出てこない様子。
と言うのも無理はない。
彼女達が知っている織斑千冬と言う人物は、規則や規律に厳しく、仕事中は私情などは差し挟まないと言う姿が脳裏に刻まれている。
それがここに来て、機嫌よさ気にビール煽る千冬と言う姿を見てしまい、普段の彼女とどうしても重ならないのも分かる話だ。
そんな女子達の心中を察しながらも千冬は軽く笑うその声をやめる事はない。
どうも女子達全員が、開いた口が塞がらないと言った面持ちだったのが面白かったらしい。
特にラウラなど、ある種の憧れが強かった分、女性としてはしてはいけないような表情をしており、今にも顎が外れそうな勢いだった。
「まぁ、そんな顔をするな。私だって人間だ、酒ぐらい飲む。それとも何か? 私はオイルでも飲むような人間にでも見えていたか?」
女子達が千冬の意外な一面に驚き、言葉が出ないのをいい事に、くつくつと笑いながら捲くし立てるように一気に言葉を言い切る。
あからさまに表情が生徒達の反応を楽しむかの様な表情を浮かべているが、千冬は特にそれを隠すつもりは無いようだ。
千冬の言葉に、驚きから立ち直ったものから順々に言葉を紡いでいく。
「い、いえ、そう言うわけでは……」
「ないのですけれど……」
「でもそぉ~、今は……」
「仕事中なんじゃあ?」
驚きから立ち直った、箒、セシリア、鈴音、シャルロットが言葉を続けていくが、ラウラは未だに驚きから立ち直れていないのか、口は開いているのにそこから言葉が出てくる事はない。
妙に息が合った4人と未だに口を大きく開けているラウラが可笑しかったのか、千冬は未だにくつくつと静かに笑い声を上げているが、その口はアルコールが入っている事もあるのか、軽く開き、声の調子も何時もより色がある。
「そう堅い事を言うな。それに、口止め料は既に飲んだだろ?」
にやりと笑みを浮かべながら、軽く言われた言葉に、5人はようやく渡された飲み物の意図を悟る。
千冬の奢りで、口止め料だと言う言葉と共に手渡された飲み物の、口止め料と言う意味は、つまりそう言う事だったわけだ。
5人は互いに探りあうように一度視線を合わし、もう一度自らの持っている飲み物に視線を落す。
間取り的には広いのだが、調度品や6人と言う人口密度から比較的狭く感じてしまう部屋に、一瞬、微妙な沈黙が舞い降りる。
「ボーデヴィッヒ、新しいのを取れ」
「は、はい!」
微妙な沈黙も、千冬にとっては何のその、ラウラに新しいビールを取る事を指示する。
驚きの連続で一杯一杯だったラウラは、千冬の指示に直立不動の体勢を取り、その指示に従い、部屋の入り口付近に設置されている冷蔵庫を開き、そこから冷えたビールを取り出し、千冬へと手渡す。
軽くラウラに礼を言い、2本目のビールのプルタブを躊躇なく引く、またしても小気味良く軽い音と共に、泡が吹き出し、次は中の液体が飛び出す前に飲み口に口を付けて、ぐいっと缶を煽る。
零れる事のない量まで中身を煽ると、缶から口を離し、ふぅ、と小さく息を吐き改めて5人の女子を見渡し、その視線を、箒と鈴音に固定する。
視線を合わせられた箒と鈴音は、視線を固定すると同時に浮かべられた千冬の、にやり、とした笑みに嫌な予感しか感じず、思わず2人してたじろぐ。
「な、何でしょう……」
「あ、アタシ達が、ど、どうかしましたか?」
「いや、何、今回の本題。それの一つに入ろうと思ってな」
「ほ、本題……?」
「そうだ」
箒が問いかけても、にやりと笑うその笑みを消さない千冬。
そんな千冬に、箒と鈴音は、やはり嫌な予感を隠せないのか、びくびくと千冬から出てくる言葉にびくつく事しか出来ない。
「お前等、あいつの何処がいいんだ?」
にやり、と言うよりも、既に、にやにやと表現した方がいい笑みに変わっていた千冬から聞かれた言葉、その言葉の中のあいつと言う言葉が指す人物。
問いかけている人物が箒と鈴音と言う事で、当然その人物は千冬の弟、織斑一夏の事に他ならない。
千冬から問いかけられた内容に、箒は必死で憮然としたような表情を作り、鈴音は何も気にしていませんと言う様な、ツンと澄ましたような表情を作っている。
2人とも共通しているのは、一夏を気に掛けていないような表情を作りながらも、額に浮かぶ一筋の汗が共通点で、それはつまり、隠そうとしていても何も隠せていないのと同じ事だった。
憮然とした表情で瞳を閉じ、凛とした面を押し出そうとしている箒には見えなかったが、澄まし顔を必死に取り繕っている鈴音の瞳には、しっかりと映っていた。
にやにやと笑みを浮かべる千冬以外にも、セシリアとシャルロットが同じ様に、にんまりと笑みを浮かべる様子を、鈴音の瞳はしっかりと捉えていた。
「わ、私は何処が良いとかではなく……た、単純に昔よりも腕が鈍っているのが気に入らないと言うか、それだけです」
憮然とした表情で、未だその鋭い瞳を閉じたまま、ちびりと持っているラムネに口を付けながら箒がそう答える。
しかし、額に一筋の汗を浮かべながら、頬をうっすらと赤に染めている箒のその言葉は、非常に説得力がなく、千冬の浮かべる、にやにやとした笑みや、にんまりと笑みを浮かべる、セシリアとシャルロットの表情は、益々深まっていく。
その光景を遂に直視できなくなったのか、鈴音もそのツンと澄ました瞳を、逃げるように閉じてしまう。
「あ、アタシは、腐れ縁なだけだし……」
澄ました表情を取り繕いつつ、スポーツドリンクの縁を、何かを誤魔化すようにしきりになぞりながら、鈴音は苦し紛れだと思いつつも、そう答える。
夏と言う季節故に、各部屋の空調は冷房に設定されている筈だが、空調が壊れているのではないかと思うほどに、箒と鈴音の頬の赤さは増していくばかり。
そんな箒と鈴音に、千冬は相変わらずにやにやとからかう様に笑みを浮かべ、セシリアとシャルロットは2人の様子を楽しむように、にんまりと笑みを浮かべている。
ラウラは、この様な場でも素直でない2人に、呆れたような溜め息を吐く。
何とか誤魔化しきったと言う様な雰囲気すら漂わせている箒と鈴音に、にんまりと笑みを浮かべたシャルロットの口が開く。
「所でさぁ、2人共……」
「な、何だ?」
「な、何よ?」
からかうようなシャルロットの口調に、箒と鈴音は声を揃え、呻くように声を絞り出す。
如何にも今の状況を楽しんでいますよ、と主張するように弾んだシャルロットの声に、2人は完全に嫌な予感しか感じなかった。
「あいつって、誰の事かな?」
「な、何を……一夏の事に決まって……」
「篠ノ之ッ!」
「はっ!?」
ぽんっと問われたシャルロットの疑問に、何を言ってるのかと拍子抜けしたように、一夏の名前を出す箒。
そんな迂闊な発言をしてしまった箒を嗜めるように、鈴音は声を張り上げるが、その時は既に遅い。
箒の口から一夏の名前が出た瞬間、シャルロットとセシリアのにんまりとした笑みが、更に深まっていく。
「おかしいですわねぇ? 織斑先生はあいつとは言いましたけど、それが織斑さんだとは一言も仰っていませんわよ?」
これはおかしな事を言う、と如何にもわざとらしく、セシリアは何か疑問を感じているように左手を口元に当て、眉を顰める。
この話の流れで、尚且つ問われているのが箒と鈴音なのだから、あいつと呼ばれる人物は一夏しかいない。
それが分かっていながら、惚けた様な態度のセシリアやシャルロット。
話を投げた筈の千冬は、相変わらずにやにやと笑みを浮かべながら、持っている缶を煽っている。
普段は確実にあまりそりが合わない千冬とセシリアであるが、何故かこんな時ばかりは息が合う。
厄介極まりない畳み掛けに、箒と鈴音は最早呻く事しかできない。
そんな様子の箒と鈴音に、ある意味止めを刺すような言葉が、ラウラから放たれる。
「素直にならんからそう言う事になるのだ。そもそも隠そうとする意味が私には分からない」
短い溜め息とともに放たれたラウラの一言は、箒と鈴音の心にぐっさりと杭を刺した様に突き刺さる。
やれやれ、と言うように、赤い瞳を伏せながら肩を竦めるラウラは、畳み掛けられ素直になれない箒や鈴音より大人びて見える。
ドイツ人でありながら、白い浴衣はそのスレンダーな体型も相まって良く似合う。
元々は軍属であった事を表すように、悪い所をさらりと指摘して切って捨てるその雰囲気も加算して考えると、鈴音や箒よりも大人びて見えるのは仕方の無い事かもしれない。
そして、ラウラの呆れたような声音で紡がれた言葉が止めとなったのか、箒と鈴音はがっくりと肩を落とす。
しかし、手負いの獣は最後の抵抗を試みる事は良くある事である。
このケースもどうやら同じだったようで、手負いの獣、鈴音が我慢し切れなくなった様に、ガーっと立ち上がり、セシリア、シャルロット、ラウラを半分涙目の瞳で、キッ、と睨みと付け、声を上げる。
「そう言うアンタ達はどうなのよ! 翔の奴から何の反応もないんじゃないの!?」
手負いの獣から繰り出される最後の抵抗と言うものは、痛烈なものが大半だ。
それは何故か? 手負いの獣にとっては相打ち覚悟の抵抗であり、文字通り最後の抵抗。
抵抗しなければ何も出来ずに絶命するだけ、抵抗しても負っている傷が致命傷ならばどの道絶命は避けられない。
そんな獣から繰り出される一撃、当然それは重い物になるし、当たり所が悪ければ狩る者と狩られる者が逆転する場合もある。
所謂、背水の陣と言うものと同じだ。
背水の陣とは後が無い者、つまり追い詰められた者が、追い詰めた者と相対した時の事を言ったりもする。
進むも戻るも茨の道、後ろに下がれば崖の下、前へ進めば敵軍が、この時生存率はどちらの方が高いか、それを考え、決死の覚悟をした者は前へと進む。
相手を追い詰めた事に油断した敵軍を破れば、その場を生き抜く事が出来る。
この様に、後ろに道はなく、追い詰められた者と言うのは、時として個人の力よりも大きな力となる場合がある。
しかし、もしその一撃で相手に致命傷を負わせられなければ? 背水の陣が失敗したら? その後は一体どうなるのか?
鈴音の放った一言は、正にその体現だった様で、手負いの獣からの痛烈な一撃は相手側に致命傷を与えられなかった。
それ所か、ある意味相手を怒らせてしまった様で、その怒りは鈴音と箒には向かなかった様だが、代わりに、部屋に効いている空調以上の寒さが、鈴音と箒を襲った。
「さて……本題であるもう一つの話に移ろうか」
「そうですわね……」
「望む所だよ……」
「やっと私にとっての本題か、待ちくたびれた……」
鈴音の放った言葉に、千冬、セシリア、シャルロット、ラウラがゆらりと身体を揺らめかせ、互いに視線を交わし合う。
千冬は悠然と不敵な笑みを浮かべ、セシリアは不自然なまでににこやかな笑顔。
シャルロットは三日月の形のように変化した口元とは裏腹に、目元は全く笑っていない。
眼帯に覆われていない赤い瞳を光らしそうな勢いのラウラは、部屋中が明かりで明るい筈なのに、顔の半分を影で覆われ、その中から覗かせている表情は、やはり、不敵に笑みを浮かべていた。
先程までの、同級生や生徒をからかって遊んでいた和やかな空気は何処へ行ったのかと言うほどに、今この部屋は局地的氷河期が訪れていた。
その寒さに、部屋の隅で箒と鈴音が身を寄せ合い、ガタガタと震えている。
「な、何て事をするんだ。お前は……」
「し、仕方ないじゃない! あそこで言い返さないなんて、女が廃るわよ!」
「鳳、篠ノ之、五月蝿いぞ。静かにしろ」
「は、はい!」
「す、済みませんでした!」
身を寄せ合いつつも、互いに言い合う箒と鈴音に、底冷えのする声音で、千冬から声が飛んでくる。
その声は、訓練で聞く声より、何倍も恐怖を感じる声音だった。
今の千冬の前では、恐らく閻魔すら跪くに違いない。
割と本気で、箒と鈴音はそう信じていた。
部屋の端で震えている鈴音と箒を尻目に、セシリア、シャルロット、ラウラはベッドに腰掛ける千冬を中心に、額を突き合わせるようにして腰を落ち着ける。
陣形が整ったのを見て取り、千冬は言葉を紡ぐ為の勢いをつける様に、持っていた缶を、ぐっと煽り、それを勢い良く握り潰す。
アルミ缶が軽くクシャクシャになる音を響かせると共に、鈴音と箒も、ビクゥ! と身体を強張らせる。
「さて、この4人は、柏木翔に惹かれている。その事実は間違いないな?」
「間違いありませんわ」
「うん、間違いありません」
「はい、私はボスに惹かれています」
千冬の確かめるようにして問われた言葉に、セシリア、シャルロット、ラウラは神妙な表情で頷き、その答えに、千冬は重々しく、そうか……と頷く。
ベッドの下に降ろしている両足の膝に、肘を置き、握りつぶした缶を更に潰そうとするかのように両手を組み、それでもって口元を隠すような体勢を取る。
「では各自、柏木……いや、翔に惹かれた理由を挙げてみろ」
誤魔化しや曖昧な意見は絶対に許さない。そう言うかのように細められた鋭い瞳に、セシリア、シャルロット、ラウラの3人に、怯んだ様子はない。
視線でもって、誰が最初に話すかどうか牽制しているだけで、幾つかの視線のやり取りを経て、千冬の正面に座るセシリアが、ゆらりと長く艶のある金色の髪を揺らしながら手を上げる。
「では私から。翔さんの何処に惹かれているか、具体的に表すのは難しいですが、やはり、愚直なまでに前へ進むあの瞳でしょうか……己の道を進み、それによって輝くあの瞳に私はどうしようもなく魅力を感じていますわ」
恥かしげもなく、真剣な面持ちで、それ所か誇らしさすら感じるその雰囲気に、千冬は納得したように頷く。
セシリアがこう言ったのは、恐らく一番最初に翔と相対したあの試合の時の事が大きく関連している。
あの時に見た、金色の光を纏った黒の侍が持つ、前へ進むと、前へ進めと言っている様な真っ直ぐな輝きを宿したあの瞳。
そんな愚直なまでに真っ直ぐで眩しい輝きを放つあの瞳を見た時から、セシリア・オルコットと言う少女は、柏木翔と言う男に捕らわれてしまったのだ。
どんな宝石よりも、どんな光よりも、翔の瞳は力強く眩しい輝きを放っていた。
そしてそれは、どんな物よりも価値のある輝きだと、セシリアはそう思う。
「成る程、分からないでもない。では次だ」
「あ、じゃあ、僕……あ、いや、私が……」
「構わん」
「有難うございます。じゃあ、次は僕が」
セシリアに続いて、シャルロットが手を上げ、次を話そうとするが、律儀に一人称を言い直したシャルロット。
そんな彼女に、千冬は苦笑を浮かべ、いつも通りで構わないと言う様に手を軽く振る。
千冬の気遣いに、シャルロットも苦笑を浮かべ、気を取り直したように、穏やかな笑みに表情を変え、口を開く。
「僕は……そうですね……やっぱり、手が好きです。誰かの背中を押して、自分の為に剣を握って、誰かを包み込んでくれる。そんな翔が持ってる手に、一番魅力を感じてます」
何かを思い出すように言葉を紡ぐシャルロットの脳裏には、やはり自分の事を話したあの夜の事が思い出されていた。
安易に助けるでもなく、知った事かと突き放すでもなく、言葉によって一歩を踏み出させるように、軽くシャルロットの背中を言葉によって押したあの夜。
実際に手で背中を押されたわけではないが、シャルロットは、あの手は誰かを前へと進ませ、自らも前へ進む為の象徴のような物だと思っている。
そして彼女は、言葉によって背中を押してもらったあの時、その手に救われ、その言葉に救われた。
だからこそ彼女は、誰かを幸せにするあの手が、どうしようもなく好きだった。
「ふむ、では、ボーデヴィッヒはどうだ?」
やはり、確固とした理由のあったシャルロットの言にも、納得したように頷き、千冬はラウラへと視線を送る。
自らの番が回ってきたラウラは、恥ずべき事など何もないとでも言う様に、ぐっと胸を張る。
「私はやはり、ボスの背中です。私の強さを易々と追い越し、その時に見えた背中は広く、力強く、安心を感じる背中で、思わずその背中に身を任せてしまいそうになる。そんなボスの背中に、私は惚れました」
惚れたと言い切るラウラの表情は、言いたい事を言い切ったと言う様な満足ささえ感じる。
小柄な身体ながら、胸を張って言い切るラウラの雰囲気は、確かに自信に満ち溢れ、恥ずべき事等ない様に感じる。
そんなラウラが思い浮かべるのは、当然と言うか、翔が立ち塞がったあの時の試合。
自身が思っていた最強を、手に持つ一本の剣で易々と切り裂き、悠然と見せた背中に、ラウラはその時、己の追いかけるべき物を感じた。
翔の背中とは、ラウラにとって追いかけるべき象徴であり、追いかけるに値する背中であり、追いつかなければならない物だった。
そして、追いついた先には、翔と肩を並べる自分が居る。
その未来を、空想で終わらせたくない。だが、そう易々と追いつける背中ではなく、しかして何処までもその背中を追いかけたい。
そう感じるほどに、ラウラにとって翔の背中は魅力ある物だった。
セシリア、シャルロット、ラウラと続き、その誰もが恥かしげもなく、自信に満ち溢れた表情で言い切る様子に、千冬は溜め息を付きながらも納得したように一つ頷く。
「全く……お前等が意味もなく一夏に熱を上げる馬鹿共の様に、一時の熱だけの者ならどれだけ楽だったか……」
言葉と共に、千冬は疲れた様な溜め息を吐き、左手を米神に当て、揉みこむように指を動かす。
揃いも揃って、翔に惚れる確固とした理由があり、惹かれた事に対して、自信すら感じている節の見受けられる3人に、千冬は頭が痛くなる思いだった。
今まで目立った恋敵と言えば、千冬の友人である束と、一夏に聞く限りでは、一夏と翔の友人である人物の妹位だった。
しかし、ここに来て一気にその数は倍まで膨れ上がった。
実際の話、千冬が確認していないだけで、他にも居るかもしれない。
そう考えると、千冬の頭は痛くなるばかりだった。
恋敵が増えたと言う事実はさて置き、とりあえず3本目のビールを冷蔵庫から取り出し、また元の位置に腰掛け、ビールのプルタブを引いた千冬を待っていたのは、興味津々とばかりに瞳を輝かせるセシリア、シャルロット、ラウラだった。
「何だ?」
「織斑先生は、翔さんの何処に惹かれましたの?」
「僕もそれ、気になります」
「教官、是非お答え貰えないでしょうか……」
期待に瞳を輝かせる3人。
その瞳の色は三者三様だが、その根本は、千冬が翔の何処が好きになったのかと言う興味だった。
今にも身を乗り出してきそうな3人の様子に、千冬は缶を煽り、にやりと笑みを浮かべてみせる。
心なしか胸を張っている様な姿勢は、やはり3人と同じ様に、恥など感じている様子は全くなく、寧ろ翔に惹かれていると言う事に自信すら感じ取れる。
「そんなもの決まっているだろう? 全てだ」
「……何処がと聞いたのは織斑先生だった様な気がしましたけれど」
「そうですよ、僕達はちゃんと答えたんですよ?」
「教官……」
3人からの非難が集中しても、千冬は悠然とした笑みを崩す事はない。
それ所か、もっと非難してみろと言ったような余裕さえ感じられる。
ぶーぶーとぶーたれる3人に、変わらず笑みを浮かべ、千冬はゆったりと口を開く。
「年季が違うんだよ。今まで想ってきた年季がな」
にやりと笑みを浮かべながら言い放たれた千冬の台詞は、確かに、と納得しそうになるほどに重々しく、ある種の情熱が篭っていた。
「って言うか何これ、アタシ、砂糖吐きそうなんだけど……」
「心配するな、私もだ……」
千冬の台詞を切欠に、自分もそうだと主張し合うような、言い合いに発展している4人を見て、胸焼けを起こしたような表情の鈴音と箒が、部屋の隅にて、胸に手を当てて蹲っていた。
結局、この場は想い人の何処に惹かれたかと言う話題だけで終わってしまい、翔や一夏を振り向かせる為にはどうすれば良いかと言った、具体的な話は欠片も出てこなかった。
「なぁ、翔?」
「何だ、一夏」
静かに会話を交わす翔と一夏は、現在露天風呂にて、満点の星空を視界に収めながら、肩を並べて露天風呂の湯船に浸かっていた。
互いに頭に畳んだタオルを乗せ、翔は鋭い瞳を星空へと注ぎ、一夏もそれに習ったように星空へとその目を向けている。
一夏と翔以外誰もいない露天風呂は静かな物で、夏の夜風と虫の鳴き声以外は、翔と一夏の声しか聞こえない。
そんな中での一夏の声は、そう大きくなくとも翔の耳の届き、それに翔も応える。
「俺、ちゃんと強くなってるのかな?」
「何だ? 唐突に」
「いや、幾ら進んでも、翔の背中が見えねぇ気がして、少し、な?」
ちゃぷり、と湯船に満たされたお湯から、右手を出し、人差し指で軽く頬を掻く一夏の表情は、困ったように苦笑を浮かべているが、その雰囲気は、少し落ち込んだような雰囲気が感じられる。
翔は横目で一夏の様子を確認し、直ぐにまた星空へとその視線を戻す。
視界に移った夜空は、月と星が煌き、その高さを如実に感じる。
「心配するな。お前はきちんと成長している」
「そうかな?」
「あぁ」
一夏の問いかけに、特に気分を悪くすることもなく、自らの思ったままに言葉を紡ぐ翔に、一夏は顔を向けながら念を押すように問いかける。
何時もの感情を悟らせない表情のままに、力強く頷く翔に、一夏は少し嬉しそうに笑みを浮かべる。
ふわりと露天風呂に吹いた夏の夜風が、ゆらりと揺らめく湯気を攫い、夜空へと溶けていくその様を、翔の瞳が追いかけるように動く。
「そっか……へへっ、お前にそう言われると、少し自信湧いてきたぜ」
「それならば何よりだ」
「いつか絶対に追いついてみせるからさ、見てろよ?」
「あぁ、その時を楽しみにしておこう」
ゆらりと立ち上る湯気が無くなった露天風呂で、決意した様に一夏が翔へ顔を向けたとき、映った翔の表情は、夜空を見上げ、珍しく、ふっと自然な笑みを浮かべていた。
そんな、珍しい翔の表情に、一夏は言葉を失い。
同時に、何か良く分からない、言い様の無い嫌な予感が、一夏の胸中に過ぎる。
「翔は……」
「ん?」
「……いや、なんでもねぇ」
「そうか」
言い様の無い不安を感じた一夏の声に応えた翔が聞き返すも、一夏は頭を振り、なんでもないと主張し、己の不安を振り払う。
しかし、一夏の感じた不安は全く持って晴れてはくれなかった。
見上げた夜空は、月と星が煌き、美しい筈なのに、一夏の目には、夜空の闇だけが際立つように見え、己の不安を増大させるような、そんな風に感じていた……。
転機となる事件まで、もう後僅か……。
時間通りに生徒達は大宴会場に入り、席に着いた一人一人の前に膳が置かれる。
ここまでは良かった。
問題は、IS学園の例外その2、柏木翔とイギリスの代表候補生、セシリア・オルコット、その2名の膳にだけ、他の生徒とは違ったメニューが置かれていた。
それは、鯵のフライとキスの天麩羅、そして、旅館によって出された刺身とは別の皿に盛られたスズキの刺身。
その事実に、他の生徒達が注目していると、膳が行き渡った後に、生徒達が並んで座るその中央に、大皿に盛られた大量のフライと天麩羅、格皿に分けられた幾つかのスズキの刺身が運ばれてきた。
生徒達がその光景を見守る中、IS学園の教員である織斑千冬が立ち上がり、状況を説明。
「今運ばれてきた物は、柏木が釣って、それを柏木自身が調理したものだ」
簡潔な千冬の説明に、生徒達の間でざわめきが広がり、翔に視線が集中するが、当の本人はそんな視線など気にせず、静かに正座、腕を組んで瞳を軽く伏せている。
その右隣でセシリアが、何かを我慢しているような顔色で正座しているが、それは今問題では無い。
「はい、先生。柏木君は何となく分かりますが、オルコットさんの膳にも料理が増えてるのはどうしてですか?」
千冬の説明に、疑問を感じた1人の女子生徒が手を上げて千冬に質問。
その質問に、千冬は顔色を変える事無く、だが、内心は舌打ちを一つ打ちながら、その質問に回答する。
「オルコットも柏木と共に釣りをしたからだ。釣ってきた者が優遇されるのは当然だろう?」
翔とセシリアが、実は昼間に2人きりで釣りに興じていたと言う事実を放り投げられた生徒達の反応は、当然の事ながら様々。
海で皆と遊んでいたという事実に、今更ながら嘆く者。悔しげに唇を噛み締めながら、羨ましそうにセシリアを見る者。特に2人に対して思う所は無く、目の前に置かれた料理に目を奪われる者。
その反応は様々だが、結局、それは今更言っても仕方の無い事であり、現在生徒達にとって重要な事は、目の前に置かれた料理を、どの様にして確保するかが最重要な事である。
無論、その方法を決める権限が存在するのは、教師と言う職についている千冬が決める所であり、当然生徒達の視線は千冬に集中する。
翔の左隣に座るシャルロットや、少し距離はあるが、翔の正面に座る事になったラウラ、それ以外にも少数ではあるが、他の女子生徒が千冬を見詰める視線は、普通の生徒よりも気合が入っているように感じられる。
それにより、視線を集めている千冬は、自らが、ある方面において警戒しなければならない生徒達の洗い出しに成功し、薄く笑みを浮かべる。
「では、どうやってこの料理を配分するかだが……柏木から聞いた所、恐らく全員に行き渡るほどの量はないと言う事だ、そこで、簡単なじゃんけん勝負によって決めようと思う。これに参加するものはその場で拳を作ったまま手を掲げろ」
千冬の言葉に、当然と言うか何と言うか、既に料理を確保しているセシリアと翔以外の全員が手を上げる。
その事実に千冬は満足そうに一つ頷き、自らも拳を少し上に掲げる。
「よし、これで全員だな? では、私に勝てた奴から料理を取って良し」
この提案により、翔とセシリア以外の全員が、じゃんけんに全身全霊を掛けると言う、今現在の事件が勃発しているというわけだ。
その事件に何ら関係の無い翔とセシリアは、じゃんけんが始まる直前に、食べていても良いと千冬から許しを得ていたため、目の前に置かれた膳に箸をつけている。
この旅館のメニューは、刺身、小鍋、二種類の山菜の和え物に、赤だし、お新香となっている。
どう見ても特殊なのは刺身で、その内容はカワハギの刺身となっている。同じ皿の上にキモまで添えられており、中々お目にかかれない類の刺身である事は確かである。
箸を器用に扱い、キモを潰さないように掴んだまま、身と絡め、少しばかりの醤油に身を浸し、そのまま口に運ぶ。
独特の歯ごたえと臭みの無いキモが絡み合い、さっぱりとした味を楽しむ翔は、夕食を楽しみながらも、千冬の抜け目無い行動に、感心の声を漏らす。
「流石と言うか、織斑教諭は抜け目がないな」
感心したような翔の声に反応したのは、右隣に座るセシリアで、何かを耐える様に言葉を切れさせつつも、翔へと問いかけていた。
左隣に座るシャルロットは、絶賛じゃんけんに夢中である。
「何、が……ですの?」
「む? いや、織斑教諭は自分に勝てたら料理をとって良いとは言ったが、自分は取らないとは一言も言っていない」
「そう、ですわね」
「そして、自分に勝てたら、と言う事は、何人かは織斑教諭に負けるわけだ。確実にな」
「…………あぁ、そう、言う事、ですの」
千冬1人に勝てれば、料理を確保する事が出来る。
しかし、勝てなかったり、負けたりすればもう一度勝負するしかない。だが、逆に千冬のサイドから見てみればどうか?
勝てたら料理を確保できる。その条件ならば、千冬は一度の勝負で負ける事もあればあいこもあり、勝ちもある。
と言う事は、全生徒の何人かには勝てているわけだから、千冬はこの時点で料理を確保できる権利を持っているという事になる。
微妙にズル臭い方法だが、千冬は、自分は料理を取らないとは一言も言っていないため、有効と言えば有効である。
その事に対して感心している翔であり、納得しつつも呆れたような表情のセシリアと言うわけだ。
「所で……正座が辛いのならば、テーブル席に移ればどうだ?」
「そう言う、訳にはまいりませんの」
己が釣って捌いたスズキの淡白な白身に舌鼓を打ちながら、セシリアの様子を見て取る翔。
鋭い瞳が捉えたセシリアの様子は、慣れない正座に冷や汗を浮かべて我慢している様子のセシリアが目に入っていた。
IS学園に在籍する生徒は、世界から集まってくる。
そんな多国籍な人間が集まる事実から、それに配慮されているように、テーブル席が用意されている。
正座が辛いという生徒も珍しくは無い。そして、テーブル席に移るのは簡単で、目の前に置かれた膳を持って、テーブル席に移れば良い。ただそれだけだ。
だと言うのに、何故かセシリアはそれを断固拒否し、正座のまま翔の隣に座り続けている。
ふむ……? と首を傾げている翔だが、その疑問に簡単に答えたのは、翔の左隣に座るシャルロットだった。
「女の子には色々あるんだよ、翔」
「そう言うものか……」
「そう言うものだよ」
にっこりと笑顔を浮かべながら、料理の増えた己の膳を目の前に置きつつ、シャルロットはもう一度正座で翔の隣に落ち着く。
どうやら彼女はじゃんけんに勝った様で、その表情は満面の笑顔を浮かべている。
満足そうな表情のまま席に戻った彼女が一番最初に箸をつけたのは、やはりと言うか、翔の作った料理の一つ、狐色の衣を纏い、からりと揚げられたアジフライであった。
掴みやすいようにあまり太く衣をつけられていないアジフライを掴むと、ソースも何もつけないままに口元へ運び、そのまま小さく口を開けて一齧り。
シャルロットの小さい口元が、もごもごと動き、口の中に入っているアジフライを咀嚼する。
片栗粉を使われて揚げられた衣はさくさくとした軽い歯応えをシャルロットに伝え、少しぴりっとした味がアクセントになり、夏が旬の魚特有のサッパリとした口当たりに良く合っている。
こくり、と小さく喉を動かし、飲み込んだシャルロットの感想は、勿論この言葉しかない。
「うん、これ美味しいよ。ソースつけてないけど、胡椒が良いアクセントになってる」
「そうか、それは何よりだ」
シャルロットから嬉しそうに語られた感想に、表情は感情を悟らせない何時もの表情から変化を見せないものの、満足そうに頷きながら、自らもアジフライを一口。
サクサクとした歯応えと、粗挽き胡椒によるサッパリとした辛さが、脂身の少ない夏の鯵を引き立てている。
醤油を掛けても、ウスターソースでも良く合いそうなアジフライの出来に、翔は満足そうに頷く。
そして、自らの料理に心配の無くなった翔がやはり気になるのは、笑顔で美味しそうに箸を勧めるシャルロットではなく、右隣で痺れる足に耐えながらも食事を続けるセシリアだった。
足の痺れに色々と耐えられなくなってきているのか、冷や汗の量は増すばかりで、顔色も心なしか悪くなってきている。
何時もならば、彼女の優雅で優美な雰囲気と共に輝いている金色の髪も、今ばかりは精彩を欠いているように見えた。
そんなセシリアの様子に、ふむ……と考え込むように箸を置いた右手でもって、口元を隠し眉根を寄せる。
IS学園は、エリート校と言えども、そこに在籍しているのは20歳を超えない学生ばかり、そんな中で1から10まで礼儀を弁えろと言うのは無理な話だ。
それを前提に考えるのならば、日本的な食の場だからと言って、必ず正座で食事をしなければならないと言う事は無い。
日本人であれども、正座が苦手な者はいるし、最近では正座をする状況の方が一般的には少ない。
故に日本人でも正座に慣れているという者は思っているほど多くは無い、武道を嗜んでいる箒や千冬、その弟である一夏等は別としても、生徒の中でも足を崩している者はそれなりにいる。
そんな中でセシリアが足を崩さないのは、恐らくこういった場では正座をしなければならないと言う、固定概念にも似た物に縛られているからだろう。
そして、今実際にその場を見て、足を崩している生徒がいる現状を見ても、今更始めた事を崩すのは、セシリア自身のプライドが許さない。そう言う事だろう。
ざっと考えてこんな所か、と翔は思考を止めて、セシリアへ視線を向ける。
未だに苦しそうにしながらも正座を続け、味噌汁の器を持ち、それを辛うじて啜っているセシリアに、翔は思わず苦笑を浮かべる。
結局は、引っ込みがつかないと、そう言う事だろう。
結論が出た翔は、置いてある箸を掴み、食事を再開させる。
「セシリア」
「何、でしょう?」
「辛いなら足を崩したらどうだ? 他にもそうしている者は多く居る」
「い、いえ、一度、は、始めた事ですし、何より、翔さんにみっともない所を見せる訳には、まいりませんわ」
翔が足を崩せばどうかと提案し、それに対して、答えるセシリアは律儀に、持っていた味噌汁の器を膳に置いてから、翔に答える。
その律儀なセシリアに、ふっとクールな笑みを浮かべ、翔も箸を置いて、フリーになった右手を、徐にセシリアの腰の右側に引っ掛けるようにして置く。
勿論、突然そんな事をされてセシリアが慌てないわけは無く、頬を赤く染めて、わたわたと慌てる。
「えっ? はっ? えっと、翔さん!? な、なな何を!?」
「いや、自分からは折れそうにないのでな、俺が折る事にした」
「えっと、そ、それはどう言う……きゃっ」
どう言う事でしょう? と続けようとした所で、セシリアの身体は自らの意思とは関係なく、ぐっと左側、つまり翔の方へ引き寄せられる。
その際、足の上に乗せられていたお尻が、ぐっと左側に移動し、最終的に足ではなく、敷かれている座布団にその尻が落ち着く事になる。
乗っている物がなくなった足は、セシリアの右側へ投げ出される。
有無を言わさず足を崩される形になったセシリアは、状況的に表すなら、翔に力強く抱き寄せられた様に思えるこの状況に、赤かった頬が更に赤く染まっていく。
前置き無しに引き寄せられた事で、セシリアの手は倒れるのを防ぐ為に身近な物、つまりは翔の横腹辺りと胸板に添えられ、傾きすぎた上体によって、自らの顔は同じく翔の胸板に押し付けられているような状態。
セシリアの崩れた足に表情を変えないまま、一つ頷く翔は冷静そのものだが、セシリアが慌てない筈は無く、想い人の腕の中と言う状況を堪能する前に、その身体をばっと離してしまう。
「も、もも申し訳ありませんわ!」
「何故謝る?」
「い、いえその……何となく、と言いますか、その……」
「ふっ、おかしな奴だ」
「うぅ……」
頬を赤らめ、身体を縮こまらせながらしどろもどろで言葉を紡ぐセシリア、その言葉も段々と尻すぼみになり、消えるようなか細い声になってしまう。
恥かしげに俯きながらも、翔に謝ってくるセシリアがおかしかったのか、翔はふっと笑みを浮かべる。
そんな状況に、益々セシリアは身体を小さくしながらも、足が少し楽になった事で、それを誤魔化すようにセシリアは食事を再開し、箸を咥え口に入れた物と一緒に、その小さな唇をもそもそと動かす。
恥かしそうに、しかし、少しばかり嬉しそうに食事をするセシリアは、小動物を連想させ、非常に可愛らしいが、彼女が幸せそうにしていると、当然機嫌が急降下している人物が居る。
セシリアが翔に腰を引き寄せられ、体勢を元に戻すまで、僅かな時間だったため、その事に気がつかなかった生徒は多く、その事について騒がれるような事は無かったが、一部の人物の視線は、嫌と言うほど突き刺さっている。
その内の一つは、当然の事ながら、翔の左隣に座るシャルロットであり、先程まで機嫌が良さそうに食事をしていた彼女は一体何処へ言ったのかと思うほどに、彼女の頬は、ぷすーっと不機嫌さを露にしている。
他にも、ラウラの眼帯に包まれていない赤い瞳が不機嫌そうに細められていたり、千冬が眉間に皺を寄せ、醸し出している不機嫌オーラに晒されている山田真耶が若干涙目になっていたりと、その他でもちらほらと不機嫌そうな表情をしている生徒や、憂さを晴らすように食事に集中し始める生徒などが居た。
「楽しそうだね。翔……」
「む?」
如何にも不機嫌そうな声が左側から飛んできたため、翔はシャルロットの雰囲気が変化した事を察知したように、状況の変化を確かめるような単音を落としながら、視線をセシリアから、左に座っているシャルロットへ向ける。
横目で捕らえたシャルロットは、頬を、ぷーっと膨らませながら箸を少し口に含み、ジト眼の半眼で少しばかり下から見上げる様に視線を送ってきていた。
シャルロットが現在進行形で不機嫌なのは分かったのだが、何故不機嫌なのか、その原因が理解出来ない翔は、はて? と首を傾げる。
しかし、箸を動かすその手は止まる事無く、ご飯を乗せた箸を、疑問を感じつつ口元へ運び咀嚼。
翔がよくよく視線を巡らせて見れば、ラウラや千冬、他にもその数は多くは無いが、同じ様な視線を向けてきている者が居る事を、今になって自覚する。
「まぁ、誰かと食事をするのは楽しい事だが?」
「いや、そうじゃなくて……はぁ、良いよ、翔だもんね……」
「ふむ……」
翔の返答に、少しばかり肩を落としつつ、溜め息を吐くシャルロットに、やはり翔は首を傾げる。
が、結局、別に良いとシャルロットが言っているのだから、良いのだろうと食事を再開する。
気になってチラリと確認した所、セシリアの顔色も段々と良くなり、箸も良く進んでいるのを確認し、うむ、と一つ頷き、自らも食事を再開。
微妙に殺伐とした視線を浴びても、特に気にした様子の無い翔に、シャルロットが吐いた溜め息と同じ意味の物が聞えてきたのも、仕方の無い事だった。
食事の後、何時もとは違った白い浴衣に身を包んだ、金色の豊かな髪を持つ美少女、セシリア・オルコットは、頭を悩ませるようにして額に手を当て、一つの扉の前を行ったり来たりと、忙しそうに往復を繰り返していた。
既に風呂は済ませたのか、髪は艶やかさが増し、肌も入念に手入れされたのか、張りと艶が何時もより増している様に見える。
セシリアが扉の前を行ったり来たりする度に香る、高級感のある香り、浴衣の裾から覗くしなやかで白い足。
15歳とは思えぬ程に色香の立ち上る姿のセシリアが居る扉には、やはりと言うか、教員室と大きく張り紙がしてあった。
彼女の居る部屋は、2つ並んだ教員室の内の一つ、山田真耶が使っている部屋の前である。
そして、その部屋を使っているのは山田真耶以外にも、もう1人。
当然セシリアのお目当ては、真耶では無く、一緒に部屋を使っているもう一人の方がお目当て。
お目当ての部屋の前まで来て、彼女が悩んでいる理由、普通に考えれば、教員の部屋に入る事を悩んでいると考えられるが、生憎と彼女はそうでは無い。
(翔さんに、ご迷惑では無いかしら……?)
そう、取り合えず部屋の前まで来たは良いものの、そこまで来て、この部屋の真耶以外のもう1人の人物、柏木翔をこの様な時間に尋ねて迷惑では無いのかと考えたのだ。
彼女の頭の中では、真耶はどうやら、居ても居なくても一緒らしい。中々に酷い話である。
セシリアが延々と悩んでいる時、セシリアしか居なかった筈の廊下に、彼女以外の声が響く。
「セシリア?」
「こんな所で何をやっているのだ?」
「あら? 篠ノ之さんに鈴さん、お2人こそ……って聞くまでもありませんわね」
2人分の声が聞こえた方に視線を向けてみれば、そこには特徴的な形のポニーテールを揺らす篠ノ之箒と、ツインテールと釣り気味な瞳が勝気さを感じさせる、鳳鈴音が連れ立ってセシリアの近くまで来ていた。
そんな2人に、セシリアは何故こんな所にと、疑問を投げようとした瞬間に、目的を察したのか、理解したように静かに頷く。
目的を察したセシリアに、箒と鈴音は同時に頬を赤く染め、セシリアに言い訳を始める。
「い、いや、違うんだ。わ、私達は一夏に会いに来たわけではなく、だな」
「そ、そう! 偶然よ! 偶然通りかかったのよ!」
「私は翔さんに会いに来たのですけれど……」
「うぅ……」
「くぅ……や、やるわね……」
妙に慌てた様子で言い訳を始める箒と鈴音に対し、セシリアは何の恥かしげもなく翔に会いに来たと言い放つ。
その態度の違いに、明確な差を感じたのか、箒と鈴音は少し悔しげに眉根を寄せる。
想い人が居るという事はとても素晴らしい事で、その事実を態々誰かに隠す必要など全く無いし、そんな素敵な気持ちを隠すだけ損、そう言わんばかりのセシリアの雰囲気に、箒と鈴音がたじろぐのも仕方の無い話だった。
そう思っているセシリアが、本人に言えないのは照れと言うご愛嬌と、恋愛経験の無さから来るものである。
とまぁ、セシリアの愛嬌溢れる所は置いておくとしても、セシリアとしては、今目の前に居る2人、セシリアに中てられたのか、さっと頬に赤みが差し、しきりにセシリアと目を合わせようとせず、明後日の方向を向いている箒と鈴音の方が分からなかった。
誰かを好きになると言う事は、恥かしい事でも無いのに、何故2人は一夏が好きだという事をしきりに隠そうとするのか、それがセシリアには分からなかった。
本人に気持ちを隠したいのは、照れがあって本人に言えていない自らの事もあるので、2人の事をとやかく言えないと言う事は分かっている。
しかし、その他でも胸を張って誰かが好きだと言えないのは、少し寂しい事だ。セシリアはそう思う。
左手で口元を覆い、右手で左手の肘辺りに手を添えてしきりに考えているセシリアには、やはり2人の事はあまり理解出来ない。
結局、この事は自らが考えても詮無き事。そう結論を出したのか、セシリアも思考を切り上げる。
「お2人は……」
「んじゃ、行ってくる。って、ん?」
どうしますの? と続けようとした所で、セシリアが居た部屋の隣、その扉が開き、そこから出てきたのは、高い身長に、黒い髪、瞳は優しげと言うか穏やかな色をしている、1人の男。
間違いなくIS学園の教師である織斑千冬の弟、織斑一夏だった。
彼はこれから何処かへ行こうとしていたのか、部屋の中へ向かって、行ってくると言葉を投げかけながら出てきた。
織斑一夏と言う人物は、主婦的思考が強いというか、炊事洗濯と言った家事全般が得意で、昔剣を握っていた事からも、体型はすらりとスマートな体型をしている。
身長もそこそこに高く、手足も長い、そんな彼には、浴衣と言う物があまり似合わないように思えるが、それでも本人の清潔感や、誰かと相対する時の分け隔ての無い態度は、格好云々よりも、余程好感を感じる所である。
顔の造形も、千冬の弟と言うだけあり、中々に整った顔をしているため、女性からの総合的な人気は高い。
そんな一夏が、この旅館内でいける所はそう多くない。
知り合いである箒や鈴音、セシリアの部屋は班部屋であるため、そうほいほいと行ってしまうと落ち着く事などまず出来ない。
他の選択肢は風呂と言う選択肢があるが、どうも風呂は既に入っているのか、さらりとした黒髪が、僅かに艶帯びている様に見える。
となれば、最後の選択肢である、隣の部屋と言う可能性が高い。
暫定として隣の部屋に行くつもりだった一夏は、部屋の前でたむろしていた箒と鈴音、そしてセシリアに、驚いたのか、少し目を見開いている。
扉を開けたまま首を傾げている一夏に疑問を抱いたのか、一夏と同じ部屋の住人が顔を覗かせる。
その住人とは一体誰か、言うまでも無く、一夏と同じ部屋の住人は、一夏の姉、織斑千冬である事など、既に生徒達は確認済みだ。
「どうした……ん? 何やってるんだお前達は?」
「い、いえ! わ、私達は、その……」
「え、えーと……ご、ごめんなさーい!」
ひょっこりと部屋から顔を出した千冬の疑問に、脱兎の如く逃げ出そうとした箒と鈴音だが、当然の如く千冬から逃げられる訳も無く、すぐさま首根っこを掴まれ、確保される。
千冬を目の前に、反射的に逃げ出そうとした箒と鈴音に、セシリアと一夏は揃って溜め息を吐く。
すぐさま千冬に捕まえられた箒と鈴音は、お互いに尻尾を憔悴したように垂れ下げながら、ずるずると旅館の廊下を引きずられて、部屋の前まで連れ戻される。
人の顔を見て逃げるとは何事だ、と不機嫌そうな声を出す千冬を尻目に、セシリアと一夏はそちらを見ないように苦笑を交し合う。
「セシリアは何でこんなとこに?」
「私は翔さんの部屋に遊びに行こうかと思っていましたの。織斑さんは?」
「俺も同じく、なら一緒に……」
行くか? と続けようとした所で、空調の効いた広い廊下の中央で、囚人2人をその手に持っている千冬からの声が割り込む。
「その必要はないな。オルコットは私の部屋に来い」
聞き様によっては冷たく聞えるその声は、当然セシリアへ向けられたもので、元々鋭いその瞳を細め、セシリアへ向けられるその視線に、セシリアも応える様に視線を千冬へと寄越す。
その瞬間、最早お馴染みになったように、空調が効いている筈の高級感溢れる広い廊下に、人間にしか感じる事の出来ない冷たさが辺りを支配する。
明らかに冷たさの原因である千冬とセシリアは、互いに悠然とその視線を交わしあうが、被害者である一夏、鈴音、箒の3人からすれば、堪ったものではない。
3人が3人とも直立不動と言う言葉がぴったりと来るように身体を強張らせ、一様に顔色が悪く、歯を食いしばっている。
流れる冷や汗は滝のような量が流れ落ち、その視線はセシリアと千冬を直視しない様にあちらこちらへと彷徨う。
どれほどの時間が流れたのか、3人にとっては最早分からないが、そう長い時間ではない。
当然、それなりの時間が経ったと言う事は、その場にも状況の変化と言うものが現れる。
鋭い視線を向け、薄く笑みを浮かべる千冬に対して、セシリアがふわりと可憐なまでの笑みを浮かべる。
小さな口元は柔らかな曲線を描き、青く大きな瞳は穏やかに目尻が下がり、豊かで艶やかな金色の髪はふわりと揺れる。
正しく令嬢の浮かべる気品があり、穏やか、そんな魅力溢れる可憐な笑顔だったが、そんなセシリアの表情を見た一夏は、見惚れる所か、更に身体を硬くして、歯を食いしばる力にも更に圧力が掛かる。
既に滝のように流れていた筈の冷や汗は、限界量など無いと言う様に、その勢いを更に強めている。
恐らくナイアガラにも喧嘩を売れるだろう。
「えぇ、分かりましたわ。織斑先生、では織斑さん、私はここで、ごきげんよう」
「あ、あぁ、じゃ、じゃあな、セシリア」
穏やかで魅力的なはずの笑顔を浮かべ、一夏に挨拶をくれるセシリアに、冷や汗の量を更に増加させながらも何とかそれに応える。
セシリアが千冬の部屋に消えた瞬間、あからさまに一夏の表情に安堵の色が広がる。
局地的な冷害に襲われていた広い廊下で、まだその場に居る千冬へと一夏は視線を動かすと、千冬に何かしら耳打ちされた箒と鈴音が、青い顔をしながらしきりに頷き、踵を返して慌てて走り去る所が目に入る。
「一体、何言ったんだ? 千冬姉」
「何、ボーデヴィッヒとデュノアも呼んで来る様に言っただけだ」
ここいらで中間報告会と言うのも悪くない……クック、と笑う千冬は、まるで何かの悪役のような雰囲気だが、その様な笑みを浮かべていても、千冬のシャープさを感じる美貌は損なわれる事はない。
切れ長の瞳は細められ、女性にしてはシャープさが際立つ口元は妖しく吊り上げられる。艶のある長い黒髪は、千冬の笑いに連動するように妖しく揺らめき、何時もの鋭い雰囲気とはまた違ったギャップを感じさせる。
妖しさが際立つその雰囲気は、旅館の浴衣と言う薄い生地に包まれた男ならば誰しも魅力を感じる肢体、組んだ腕に支えられ、強調された豊かで張りがありそうな胸元。
それらの要因が合わさり、妖艶と言える雰囲気へと昇華されていた。
千冬の弟である一夏は、妖しいと言うよりも怪しい、だよなぁ、等と本人に知られれば只では済まない事を考えながらも、美人とは得なものだと結論を出す。
妖しく笑いながら、セシリアの待つ自らの部屋へ消えようとする千冬へ、取り合えず声を掛ける。
「じゃ、俺は翔の部屋に居るから」
「あぁ、帰って来るタイミングは、読めよ?」
「わ、わわわ分かってるって……じゃ!」
部屋に入る直前に、視線を寄越すと共に、ニヤリと何かの意図が込められた笑みを向ける千冬に、忘れていた冷たさが背中を走り回り、ぞわりと立った鳥肌を誤魔化すようにどもりつつも返答を返し、慌てて翔の部屋の扉に飛びつき、脱兎の如く、一夏は部屋へと消える。
冗談も交えて少しプレッシャーを掛けただけだと言うのに、これ以上無い程に慌てて翔の部屋に消えた弟を見送り、如何にも千冬は可笑しそうに笑みを浮かべ、自らもセシリアの待つ部屋へと消えていった。
教員室の一室に集められた5人の女子と1人の女性。
5人の女子が各々座った所で、1人の女性、教員室の住人である織斑千冬が、部屋にある冷蔵庫から、ラムネ、オレンジ、コーヒー、紅茶、スポーツドリンクを各々の前に規則性は無く適当に置く。
自らの目の前に置かれた飲み物に視線を注ぎ、次に千冬へ視線が集まる。
何を意図したのか良く分かっていない5人の女子達の視線に、千冬は、にやりと笑みを浮かべてみせる。
「奢りだ。取り合えず飲め、もし別の物が飲みたかったのなら誰かと交換しろ」
取り合えず飲め、それだけ言った千冬は、にやりと笑うだけ。
このままでは特に話は前には進まないと思ったのか、5人の女子達は、各々いただきますと声をあげ、各自飲み物に口を付ける。
全員が、こくりと小さく喉を動かした所で、千冬は更に笑みを深める。
「飲んだな?」
「はい?」
「確かに飲みましたけれど……何かあったのですか?」
「別に? 軽い口止め料の様なものだ」
鈴音の意味の無い疑問の音に、セシリアの探るような言葉、その二つに対して、それほど重い意味など無いと軽く答えながら、千冬は冷蔵庫からビールを一本取り出してくる。
プルタブを一気に引き、小気味良く、軽い音と共に飲み口から少し飛び出した少量の白い泡に、黄金色の液体、ラベルに書いてあるとおり、紛れもないビールだった。
飲み口の開いたアルミの缶を少しばかり機嫌よさ気に、ぐっと煽り、ごくりと聞いていて気持ちの良い音を喉から響かせる。
ビールの缶を幾度か煽りながら、ベッドに腰掛け、スプリングの効きに任せるようにして腰を沈ませる。
「一夏が居れば何か一品作らせる所だが……まぁ、この場に居られても困るか」
そう言って、くっく、と笑う千冬の様子に、女子達は開いた口が塞がらない、と言うか、言葉が出てこない様子。
と言うのも無理はない。
彼女達が知っている織斑千冬と言う人物は、規則や規律に厳しく、仕事中は私情などは差し挟まないと言う姿が脳裏に刻まれている。
それがここに来て、機嫌よさ気にビール煽る千冬と言う姿を見てしまい、普段の彼女とどうしても重ならないのも分かる話だ。
そんな女子達の心中を察しながらも千冬は軽く笑うその声をやめる事はない。
どうも女子達全員が、開いた口が塞がらないと言った面持ちだったのが面白かったらしい。
特にラウラなど、ある種の憧れが強かった分、女性としてはしてはいけないような表情をしており、今にも顎が外れそうな勢いだった。
「まぁ、そんな顔をするな。私だって人間だ、酒ぐらい飲む。それとも何か? 私はオイルでも飲むような人間にでも見えていたか?」
女子達が千冬の意外な一面に驚き、言葉が出ないのをいい事に、くつくつと笑いながら捲くし立てるように一気に言葉を言い切る。
あからさまに表情が生徒達の反応を楽しむかの様な表情を浮かべているが、千冬は特にそれを隠すつもりは無いようだ。
千冬の言葉に、驚きから立ち直ったものから順々に言葉を紡いでいく。
「い、いえ、そう言うわけでは……」
「ないのですけれど……」
「でもそぉ~、今は……」
「仕事中なんじゃあ?」
驚きから立ち直った、箒、セシリア、鈴音、シャルロットが言葉を続けていくが、ラウラは未だに驚きから立ち直れていないのか、口は開いているのにそこから言葉が出てくる事はない。
妙に息が合った4人と未だに口を大きく開けているラウラが可笑しかったのか、千冬は未だにくつくつと静かに笑い声を上げているが、その口はアルコールが入っている事もあるのか、軽く開き、声の調子も何時もより色がある。
「そう堅い事を言うな。それに、口止め料は既に飲んだだろ?」
にやりと笑みを浮かべながら、軽く言われた言葉に、5人はようやく渡された飲み物の意図を悟る。
千冬の奢りで、口止め料だと言う言葉と共に手渡された飲み物の、口止め料と言う意味は、つまりそう言う事だったわけだ。
5人は互いに探りあうように一度視線を合わし、もう一度自らの持っている飲み物に視線を落す。
間取り的には広いのだが、調度品や6人と言う人口密度から比較的狭く感じてしまう部屋に、一瞬、微妙な沈黙が舞い降りる。
「ボーデヴィッヒ、新しいのを取れ」
「は、はい!」
微妙な沈黙も、千冬にとっては何のその、ラウラに新しいビールを取る事を指示する。
驚きの連続で一杯一杯だったラウラは、千冬の指示に直立不動の体勢を取り、その指示に従い、部屋の入り口付近に設置されている冷蔵庫を開き、そこから冷えたビールを取り出し、千冬へと手渡す。
軽くラウラに礼を言い、2本目のビールのプルタブを躊躇なく引く、またしても小気味良く軽い音と共に、泡が吹き出し、次は中の液体が飛び出す前に飲み口に口を付けて、ぐいっと缶を煽る。
零れる事のない量まで中身を煽ると、缶から口を離し、ふぅ、と小さく息を吐き改めて5人の女子を見渡し、その視線を、箒と鈴音に固定する。
視線を合わせられた箒と鈴音は、視線を固定すると同時に浮かべられた千冬の、にやり、とした笑みに嫌な予感しか感じず、思わず2人してたじろぐ。
「な、何でしょう……」
「あ、アタシ達が、ど、どうかしましたか?」
「いや、何、今回の本題。それの一つに入ろうと思ってな」
「ほ、本題……?」
「そうだ」
箒が問いかけても、にやりと笑うその笑みを消さない千冬。
そんな千冬に、箒と鈴音は、やはり嫌な予感を隠せないのか、びくびくと千冬から出てくる言葉にびくつく事しか出来ない。
「お前等、あいつの何処がいいんだ?」
にやり、と言うよりも、既に、にやにやと表現した方がいい笑みに変わっていた千冬から聞かれた言葉、その言葉の中のあいつと言う言葉が指す人物。
問いかけている人物が箒と鈴音と言う事で、当然その人物は千冬の弟、織斑一夏の事に他ならない。
千冬から問いかけられた内容に、箒は必死で憮然としたような表情を作り、鈴音は何も気にしていませんと言う様な、ツンと澄ましたような表情を作っている。
2人とも共通しているのは、一夏を気に掛けていないような表情を作りながらも、額に浮かぶ一筋の汗が共通点で、それはつまり、隠そうとしていても何も隠せていないのと同じ事だった。
憮然とした表情で瞳を閉じ、凛とした面を押し出そうとしている箒には見えなかったが、澄まし顔を必死に取り繕っている鈴音の瞳には、しっかりと映っていた。
にやにやと笑みを浮かべる千冬以外にも、セシリアとシャルロットが同じ様に、にんまりと笑みを浮かべる様子を、鈴音の瞳はしっかりと捉えていた。
「わ、私は何処が良いとかではなく……た、単純に昔よりも腕が鈍っているのが気に入らないと言うか、それだけです」
憮然とした表情で、未だその鋭い瞳を閉じたまま、ちびりと持っているラムネに口を付けながら箒がそう答える。
しかし、額に一筋の汗を浮かべながら、頬をうっすらと赤に染めている箒のその言葉は、非常に説得力がなく、千冬の浮かべる、にやにやとした笑みや、にんまりと笑みを浮かべる、セシリアとシャルロットの表情は、益々深まっていく。
その光景を遂に直視できなくなったのか、鈴音もそのツンと澄ました瞳を、逃げるように閉じてしまう。
「あ、アタシは、腐れ縁なだけだし……」
澄ました表情を取り繕いつつ、スポーツドリンクの縁を、何かを誤魔化すようにしきりになぞりながら、鈴音は苦し紛れだと思いつつも、そう答える。
夏と言う季節故に、各部屋の空調は冷房に設定されている筈だが、空調が壊れているのではないかと思うほどに、箒と鈴音の頬の赤さは増していくばかり。
そんな箒と鈴音に、千冬は相変わらずにやにやとからかう様に笑みを浮かべ、セシリアとシャルロットは2人の様子を楽しむように、にんまりと笑みを浮かべている。
ラウラは、この様な場でも素直でない2人に、呆れたような溜め息を吐く。
何とか誤魔化しきったと言う様な雰囲気すら漂わせている箒と鈴音に、にんまりと笑みを浮かべたシャルロットの口が開く。
「所でさぁ、2人共……」
「な、何だ?」
「な、何よ?」
からかうようなシャルロットの口調に、箒と鈴音は声を揃え、呻くように声を絞り出す。
如何にも今の状況を楽しんでいますよ、と主張するように弾んだシャルロットの声に、2人は完全に嫌な予感しか感じなかった。
「あいつって、誰の事かな?」
「な、何を……一夏の事に決まって……」
「篠ノ之ッ!」
「はっ!?」
ぽんっと問われたシャルロットの疑問に、何を言ってるのかと拍子抜けしたように、一夏の名前を出す箒。
そんな迂闊な発言をしてしまった箒を嗜めるように、鈴音は声を張り上げるが、その時は既に遅い。
箒の口から一夏の名前が出た瞬間、シャルロットとセシリアのにんまりとした笑みが、更に深まっていく。
「おかしいですわねぇ? 織斑先生はあいつとは言いましたけど、それが織斑さんだとは一言も仰っていませんわよ?」
これはおかしな事を言う、と如何にもわざとらしく、セシリアは何か疑問を感じているように左手を口元に当て、眉を顰める。
この話の流れで、尚且つ問われているのが箒と鈴音なのだから、あいつと呼ばれる人物は一夏しかいない。
それが分かっていながら、惚けた様な態度のセシリアやシャルロット。
話を投げた筈の千冬は、相変わらずにやにやと笑みを浮かべながら、持っている缶を煽っている。
普段は確実にあまりそりが合わない千冬とセシリアであるが、何故かこんな時ばかりは息が合う。
厄介極まりない畳み掛けに、箒と鈴音は最早呻く事しかできない。
そんな様子の箒と鈴音に、ある意味止めを刺すような言葉が、ラウラから放たれる。
「素直にならんからそう言う事になるのだ。そもそも隠そうとする意味が私には分からない」
短い溜め息とともに放たれたラウラの一言は、箒と鈴音の心にぐっさりと杭を刺した様に突き刺さる。
やれやれ、と言うように、赤い瞳を伏せながら肩を竦めるラウラは、畳み掛けられ素直になれない箒や鈴音より大人びて見える。
ドイツ人でありながら、白い浴衣はそのスレンダーな体型も相まって良く似合う。
元々は軍属であった事を表すように、悪い所をさらりと指摘して切って捨てるその雰囲気も加算して考えると、鈴音や箒よりも大人びて見えるのは仕方の無い事かもしれない。
そして、ラウラの呆れたような声音で紡がれた言葉が止めとなったのか、箒と鈴音はがっくりと肩を落とす。
しかし、手負いの獣は最後の抵抗を試みる事は良くある事である。
このケースもどうやら同じだったようで、手負いの獣、鈴音が我慢し切れなくなった様に、ガーっと立ち上がり、セシリア、シャルロット、ラウラを半分涙目の瞳で、キッ、と睨みと付け、声を上げる。
「そう言うアンタ達はどうなのよ! 翔の奴から何の反応もないんじゃないの!?」
手負いの獣から繰り出される最後の抵抗と言うものは、痛烈なものが大半だ。
それは何故か? 手負いの獣にとっては相打ち覚悟の抵抗であり、文字通り最後の抵抗。
抵抗しなければ何も出来ずに絶命するだけ、抵抗しても負っている傷が致命傷ならばどの道絶命は避けられない。
そんな獣から繰り出される一撃、当然それは重い物になるし、当たり所が悪ければ狩る者と狩られる者が逆転する場合もある。
所謂、背水の陣と言うものと同じだ。
背水の陣とは後が無い者、つまり追い詰められた者が、追い詰めた者と相対した時の事を言ったりもする。
進むも戻るも茨の道、後ろに下がれば崖の下、前へ進めば敵軍が、この時生存率はどちらの方が高いか、それを考え、決死の覚悟をした者は前へと進む。
相手を追い詰めた事に油断した敵軍を破れば、その場を生き抜く事が出来る。
この様に、後ろに道はなく、追い詰められた者と言うのは、時として個人の力よりも大きな力となる場合がある。
しかし、もしその一撃で相手に致命傷を負わせられなければ? 背水の陣が失敗したら? その後は一体どうなるのか?
鈴音の放った一言は、正にその体現だった様で、手負いの獣からの痛烈な一撃は相手側に致命傷を与えられなかった。
それ所か、ある意味相手を怒らせてしまった様で、その怒りは鈴音と箒には向かなかった様だが、代わりに、部屋に効いている空調以上の寒さが、鈴音と箒を襲った。
「さて……本題であるもう一つの話に移ろうか」
「そうですわね……」
「望む所だよ……」
「やっと私にとっての本題か、待ちくたびれた……」
鈴音の放った言葉に、千冬、セシリア、シャルロット、ラウラがゆらりと身体を揺らめかせ、互いに視線を交わし合う。
千冬は悠然と不敵な笑みを浮かべ、セシリアは不自然なまでににこやかな笑顔。
シャルロットは三日月の形のように変化した口元とは裏腹に、目元は全く笑っていない。
眼帯に覆われていない赤い瞳を光らしそうな勢いのラウラは、部屋中が明かりで明るい筈なのに、顔の半分を影で覆われ、その中から覗かせている表情は、やはり、不敵に笑みを浮かべていた。
先程までの、同級生や生徒をからかって遊んでいた和やかな空気は何処へ行ったのかと言うほどに、今この部屋は局地的氷河期が訪れていた。
その寒さに、部屋の隅で箒と鈴音が身を寄せ合い、ガタガタと震えている。
「な、何て事をするんだ。お前は……」
「し、仕方ないじゃない! あそこで言い返さないなんて、女が廃るわよ!」
「鳳、篠ノ之、五月蝿いぞ。静かにしろ」
「は、はい!」
「す、済みませんでした!」
身を寄せ合いつつも、互いに言い合う箒と鈴音に、底冷えのする声音で、千冬から声が飛んでくる。
その声は、訓練で聞く声より、何倍も恐怖を感じる声音だった。
今の千冬の前では、恐らく閻魔すら跪くに違いない。
割と本気で、箒と鈴音はそう信じていた。
部屋の端で震えている鈴音と箒を尻目に、セシリア、シャルロット、ラウラはベッドに腰掛ける千冬を中心に、額を突き合わせるようにして腰を落ち着ける。
陣形が整ったのを見て取り、千冬は言葉を紡ぐ為の勢いをつける様に、持っていた缶を、ぐっと煽り、それを勢い良く握り潰す。
アルミ缶が軽くクシャクシャになる音を響かせると共に、鈴音と箒も、ビクゥ! と身体を強張らせる。
「さて、この4人は、柏木翔に惹かれている。その事実は間違いないな?」
「間違いありませんわ」
「うん、間違いありません」
「はい、私はボスに惹かれています」
千冬の確かめるようにして問われた言葉に、セシリア、シャルロット、ラウラは神妙な表情で頷き、その答えに、千冬は重々しく、そうか……と頷く。
ベッドの下に降ろしている両足の膝に、肘を置き、握りつぶした缶を更に潰そうとするかのように両手を組み、それでもって口元を隠すような体勢を取る。
「では各自、柏木……いや、翔に惹かれた理由を挙げてみろ」
誤魔化しや曖昧な意見は絶対に許さない。そう言うかのように細められた鋭い瞳に、セシリア、シャルロット、ラウラの3人に、怯んだ様子はない。
視線でもって、誰が最初に話すかどうか牽制しているだけで、幾つかの視線のやり取りを経て、千冬の正面に座るセシリアが、ゆらりと長く艶のある金色の髪を揺らしながら手を上げる。
「では私から。翔さんの何処に惹かれているか、具体的に表すのは難しいですが、やはり、愚直なまでに前へ進むあの瞳でしょうか……己の道を進み、それによって輝くあの瞳に私はどうしようもなく魅力を感じていますわ」
恥かしげもなく、真剣な面持ちで、それ所か誇らしさすら感じるその雰囲気に、千冬は納得したように頷く。
セシリアがこう言ったのは、恐らく一番最初に翔と相対したあの試合の時の事が大きく関連している。
あの時に見た、金色の光を纏った黒の侍が持つ、前へ進むと、前へ進めと言っている様な真っ直ぐな輝きを宿したあの瞳。
そんな愚直なまでに真っ直ぐで眩しい輝きを放つあの瞳を見た時から、セシリア・オルコットと言う少女は、柏木翔と言う男に捕らわれてしまったのだ。
どんな宝石よりも、どんな光よりも、翔の瞳は力強く眩しい輝きを放っていた。
そしてそれは、どんな物よりも価値のある輝きだと、セシリアはそう思う。
「成る程、分からないでもない。では次だ」
「あ、じゃあ、僕……あ、いや、私が……」
「構わん」
「有難うございます。じゃあ、次は僕が」
セシリアに続いて、シャルロットが手を上げ、次を話そうとするが、律儀に一人称を言い直したシャルロット。
そんな彼女に、千冬は苦笑を浮かべ、いつも通りで構わないと言う様に手を軽く振る。
千冬の気遣いに、シャルロットも苦笑を浮かべ、気を取り直したように、穏やかな笑みに表情を変え、口を開く。
「僕は……そうですね……やっぱり、手が好きです。誰かの背中を押して、自分の為に剣を握って、誰かを包み込んでくれる。そんな翔が持ってる手に、一番魅力を感じてます」
何かを思い出すように言葉を紡ぐシャルロットの脳裏には、やはり自分の事を話したあの夜の事が思い出されていた。
安易に助けるでもなく、知った事かと突き放すでもなく、言葉によって一歩を踏み出させるように、軽くシャルロットの背中を言葉によって押したあの夜。
実際に手で背中を押されたわけではないが、シャルロットは、あの手は誰かを前へと進ませ、自らも前へ進む為の象徴のような物だと思っている。
そして彼女は、言葉によって背中を押してもらったあの時、その手に救われ、その言葉に救われた。
だからこそ彼女は、誰かを幸せにするあの手が、どうしようもなく好きだった。
「ふむ、では、ボーデヴィッヒはどうだ?」
やはり、確固とした理由のあったシャルロットの言にも、納得したように頷き、千冬はラウラへと視線を送る。
自らの番が回ってきたラウラは、恥ずべき事など何もないとでも言う様に、ぐっと胸を張る。
「私はやはり、ボスの背中です。私の強さを易々と追い越し、その時に見えた背中は広く、力強く、安心を感じる背中で、思わずその背中に身を任せてしまいそうになる。そんなボスの背中に、私は惚れました」
惚れたと言い切るラウラの表情は、言いたい事を言い切ったと言う様な満足ささえ感じる。
小柄な身体ながら、胸を張って言い切るラウラの雰囲気は、確かに自信に満ち溢れ、恥ずべき事等ない様に感じる。
そんなラウラが思い浮かべるのは、当然と言うか、翔が立ち塞がったあの時の試合。
自身が思っていた最強を、手に持つ一本の剣で易々と切り裂き、悠然と見せた背中に、ラウラはその時、己の追いかけるべき物を感じた。
翔の背中とは、ラウラにとって追いかけるべき象徴であり、追いかけるに値する背中であり、追いつかなければならない物だった。
そして、追いついた先には、翔と肩を並べる自分が居る。
その未来を、空想で終わらせたくない。だが、そう易々と追いつける背中ではなく、しかして何処までもその背中を追いかけたい。
そう感じるほどに、ラウラにとって翔の背中は魅力ある物だった。
セシリア、シャルロット、ラウラと続き、その誰もが恥かしげもなく、自信に満ち溢れた表情で言い切る様子に、千冬は溜め息を付きながらも納得したように一つ頷く。
「全く……お前等が意味もなく一夏に熱を上げる馬鹿共の様に、一時の熱だけの者ならどれだけ楽だったか……」
言葉と共に、千冬は疲れた様な溜め息を吐き、左手を米神に当て、揉みこむように指を動かす。
揃いも揃って、翔に惚れる確固とした理由があり、惹かれた事に対して、自信すら感じている節の見受けられる3人に、千冬は頭が痛くなる思いだった。
今まで目立った恋敵と言えば、千冬の友人である束と、一夏に聞く限りでは、一夏と翔の友人である人物の妹位だった。
しかし、ここに来て一気にその数は倍まで膨れ上がった。
実際の話、千冬が確認していないだけで、他にも居るかもしれない。
そう考えると、千冬の頭は痛くなるばかりだった。
恋敵が増えたと言う事実はさて置き、とりあえず3本目のビールを冷蔵庫から取り出し、また元の位置に腰掛け、ビールのプルタブを引いた千冬を待っていたのは、興味津々とばかりに瞳を輝かせるセシリア、シャルロット、ラウラだった。
「何だ?」
「織斑先生は、翔さんの何処に惹かれましたの?」
「僕もそれ、気になります」
「教官、是非お答え貰えないでしょうか……」
期待に瞳を輝かせる3人。
その瞳の色は三者三様だが、その根本は、千冬が翔の何処が好きになったのかと言う興味だった。
今にも身を乗り出してきそうな3人の様子に、千冬は缶を煽り、にやりと笑みを浮かべてみせる。
心なしか胸を張っている様な姿勢は、やはり3人と同じ様に、恥など感じている様子は全くなく、寧ろ翔に惹かれていると言う事に自信すら感じ取れる。
「そんなもの決まっているだろう? 全てだ」
「……何処がと聞いたのは織斑先生だった様な気がしましたけれど」
「そうですよ、僕達はちゃんと答えたんですよ?」
「教官……」
3人からの非難が集中しても、千冬は悠然とした笑みを崩す事はない。
それ所か、もっと非難してみろと言ったような余裕さえ感じられる。
ぶーぶーとぶーたれる3人に、変わらず笑みを浮かべ、千冬はゆったりと口を開く。
「年季が違うんだよ。今まで想ってきた年季がな」
にやりと笑みを浮かべながら言い放たれた千冬の台詞は、確かに、と納得しそうになるほどに重々しく、ある種の情熱が篭っていた。
「って言うか何これ、アタシ、砂糖吐きそうなんだけど……」
「心配するな、私もだ……」
千冬の台詞を切欠に、自分もそうだと主張し合うような、言い合いに発展している4人を見て、胸焼けを起こしたような表情の鈴音と箒が、部屋の隅にて、胸に手を当てて蹲っていた。
結局、この場は想い人の何処に惹かれたかと言う話題だけで終わってしまい、翔や一夏を振り向かせる為にはどうすれば良いかと言った、具体的な話は欠片も出てこなかった。
「なぁ、翔?」
「何だ、一夏」
静かに会話を交わす翔と一夏は、現在露天風呂にて、満点の星空を視界に収めながら、肩を並べて露天風呂の湯船に浸かっていた。
互いに頭に畳んだタオルを乗せ、翔は鋭い瞳を星空へと注ぎ、一夏もそれに習ったように星空へとその目を向けている。
一夏と翔以外誰もいない露天風呂は静かな物で、夏の夜風と虫の鳴き声以外は、翔と一夏の声しか聞こえない。
そんな中での一夏の声は、そう大きくなくとも翔の耳の届き、それに翔も応える。
「俺、ちゃんと強くなってるのかな?」
「何だ? 唐突に」
「いや、幾ら進んでも、翔の背中が見えねぇ気がして、少し、な?」
ちゃぷり、と湯船に満たされたお湯から、右手を出し、人差し指で軽く頬を掻く一夏の表情は、困ったように苦笑を浮かべているが、その雰囲気は、少し落ち込んだような雰囲気が感じられる。
翔は横目で一夏の様子を確認し、直ぐにまた星空へとその視線を戻す。
視界に移った夜空は、月と星が煌き、その高さを如実に感じる。
「心配するな。お前はきちんと成長している」
「そうかな?」
「あぁ」
一夏の問いかけに、特に気分を悪くすることもなく、自らの思ったままに言葉を紡ぐ翔に、一夏は顔を向けながら念を押すように問いかける。
何時もの感情を悟らせない表情のままに、力強く頷く翔に、一夏は少し嬉しそうに笑みを浮かべる。
ふわりと露天風呂に吹いた夏の夜風が、ゆらりと揺らめく湯気を攫い、夜空へと溶けていくその様を、翔の瞳が追いかけるように動く。
「そっか……へへっ、お前にそう言われると、少し自信湧いてきたぜ」
「それならば何よりだ」
「いつか絶対に追いついてみせるからさ、見てろよ?」
「あぁ、その時を楽しみにしておこう」
ゆらりと立ち上る湯気が無くなった露天風呂で、決意した様に一夏が翔へ顔を向けたとき、映った翔の表情は、夜空を見上げ、珍しく、ふっと自然な笑みを浮かべていた。
そんな、珍しい翔の表情に、一夏は言葉を失い。
同時に、何か良く分からない、言い様の無い嫌な予感が、一夏の胸中に過ぎる。
「翔は……」
「ん?」
「……いや、なんでもねぇ」
「そうか」
言い様の無い不安を感じた一夏の声に応えた翔が聞き返すも、一夏は頭を振り、なんでもないと主張し、己の不安を振り払う。
しかし、一夏の感じた不安は全く持って晴れてはくれなかった。
見上げた夜空は、月と星が煌き、美しい筈なのに、一夏の目には、夜空の闇だけが際立つように見え、己の不安を増大させるような、そんな風に感じていた……。
転機となる事件まで、もう後僅か……。
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