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「IS インフィニット・ストラトス ~黒衣の侍~」
銀の福音編
二十五斬 漢には粋な演出も必要だ
炎天下でありながら、広がる景色によってある種の涼しさを感じられる、海と言う場所に臨海学校という行事にて訪れているIS学園一年生の生徒達。
その中でも異色である男子生徒の一人柏木翔と、イギリスの代表候補生であるセシリア・オルコットは、肩を並べて大海原を見ながら釣りに興じ、餌である鯵が切れた為、釣りを切り上げ、砂浜へと向かっていた。
段々と多くの女子生徒達が声を上げる砂浜へ向かってゆったりと歩く翔とセシリア。
ゆったりとした歩みによって揺れるクーラーボックスの中身は、大量の鯵とキスによって埋め尽くされており。
銀色の眩しい大型のスズキ4匹は、下顎に紐に縛られたフックを通され、翔の右手に持たれており、歩みに合わせてその巨体をゆったりと揺らしている。
釣り道具の入った袋と竿の入ったケースを黒のパーカーの生地に包まれた左肩に引っさげ、クーラーボックスを右肩に、フックに吊られたスズキを右手で持ち、と多くの荷物を持っているが、この炎天下の中涼しげな表情でゆったりと翔は歩く。
その隣を陽光に反射する金色の髪を持つセシリアが、水着姿のまま翔の隣を歩いているが、その視線はチラチラと翔を捉えている。
自身の少し上に存在する、翔の精悍な顔つきをチラチラと見るセシリアの様子は、明らかに何か言いたそうな視線であり、その視線に気がつかない翔ではない。
何度目かのセシリアの視線に合わせるようにして、鋭い目はセシリアの視線と交差する。
「何かあるのか?」
「あ、えっと……あのですね……」
急に視線を合わせられたのが恥かしかったのか、問いかけられた翔の質問に直ぐには答える事が出来無いセシリア。
身体の前面で手を組み、組み合わせた手を下に降ろしたまま、もじもじと忙しなく指を動かす。心なしか頬が上気しているのも気の所為ではないだろう。
歩きながらも少し恥かしそうに、と言うか何か遠慮しているように、視線を忙しなく動かす指へと落としながらセシリアは口を開く。
「もし、お時間がまだよろしければ、私とビーチバレーは如何です、か?」
言いながらも視線を翔の顔へと上目気味に流す。
その雰囲気は既に15歳やそこいらの色香ではなく、流し目気味に見上げてくる瞳の色は遠慮気味に、だが少し期待するような色の込められた誘いの瞳。
迷惑になっていないだろうか? 受け入れてもらえるだろうか? そんな感情の篭められたその瞳の色は、普段胸を張って歩いている筈のセシリア・オルコットと言う少女からは考えられない瞳の色だった。
可憐で優美な容姿に、相手の様子を伺いながらも誘う瞳は一種のギャップによってその雰囲気は構成されていた。
無論、普段でも魅力的な少女ではあるが、翔に見せるこの一瞬の表情こそ、セシリアと言う一人の少女としての表情である。
煌く陽光と金色とは裏腹の不安が込められ、それによって揺れる蒼の瞳は、海に揺れる水面を連想させる。
そんな魅力的な瞳を覗かせるセシリアの少女としての表情を他所に、翔の瞳は虚空を数秒泳ぎ、簡潔に答えを出す。
「ふむ、少しぐらいならば別に構わんが」
「そ、そうですか! 良かったですわ」
簡潔に出した翔の答えに、セシリアの瞳は不安そうな色が霧散し、後には夏の太陽の下に咲く金色の美しい花弁が満開となっていた。
そんなセシリアの花が咲いたような表情に翔も、ふっと笑みを浮かべてセシリアを見やる。
「ならば、パラソルの下で少し待っていると良い」
「えっと、翔さんは一緒に行かないんですの?」
「俺はこいつを厨房に預けてくる。すぐに戻るから気にするな」
「そう言う事ですか、分かりましたわ」
クールに笑みを浮かべたまま、スズキを持った手を軽く掲げ、その続きでクーラーボックスを軽く叩く。
翔のアピールする動作に、得心がいったと言う様に、セシリアは花の咲いたような笑顔から、ふわりと言う音が似合う様な微笑を浮かべる。
「では行って来る」
「はい、行ってらっしゃいませ」
近所のコンビニまで行ってくる、とでも言わんばかりに軽くセシリアに声を投げかけ、スズキを持った右手を掲げて体中の筋肉を躍動させる為に、セシリアへ向けている身体を旅館のある方へ向ける。
セシリアからの送り出しの言葉を聞いた瞬間には、既に翔の体中の筋肉は躍動を始めていた。
砂浜の砂が薄く敷かれているアスファルトを蹴りだす力は力強く、サンダルであるにも拘らず、その足裏はしっかりと地を握り締めているかのような音と共に固い地面を蹴り抜く。
鍛えこまれた足腰から発生する筋肉のバネは、しなやかに伸びながらも、着地した足はしっかりと大地を踏みしめ、そして蹴りぬかれる。
そうして全身を躍動させながら身体を前へ動かしている翔。だが、その重心はブレを見せる事無く、クーラーボックスや釣具の入っている袋を揺らす衝撃は最小限に抑えられている。
鍛え上げられた翔の肉体が如何にハイスペックな物なのか、何気ない少しの動作で理解が出来る。
そうして全身を躍動させながら大地を蹴りだす翔の後姿が、セシリアの視界から消えるまで、そう時間は掛からず、数十秒見送っただけでセシリアの視界から翔の後姿はその姿を消した。
銃器を扱う者は眼が良くないと勤まらない。その例に漏れる事無く、セシリアも動体視力はかなり良い方だ。
そのセシリアの目から見た翔の肉体は、やはりハイスペックであり、剣の道を歩んでいるからかはセシリアの知る所ではないが、足腰の強靭さは注目すべき所であるし、その他にももう一つ……。
(身長からは見合わないあのストローク……生身で戦えば幾らでも間合いが誤魔化されますわね……)
瞳を細めて見据えていた翔の肉体は、その身長に見合わないほど足が長い。
それ故に一歩を踏み出すストロークが大きく、全体の体型が分かりにくい胴着等を着用して相対した場合、その身長に誤魔化されて、長いストロークによる一歩で間合いを見誤ると言う事が在り得る。
この様な所でも、翔の肉体は、事戦いに置いては反則的なスペックを持っている事が、また一つ明らかになった。
身長はそう高い方ではない翔だが、肉体を構成する割合と言う意味では、日本人の中で信じられないほど闘いに向いている体型なのだ。
身長に見合わぬ長い足、筋肉の付き易い身体、筋肉は付くだけでなく絞り込まれ、付いた筋肉はしなやかでバネがある。
ある種完成されていると言っても良い翔の肉体にもし、身長が加わっていたのなら……。
「生身の格闘技で世界王者……ありえない話では無いですわ……」
掌で日差しを遮る様に太陽に手を翳し、海と同じく蒼穹の空を見上げながら、セシリアは自分の言ったありえそうなIFに溜め息を漏らす。
そして、翔に対しての考察が終了したセシリアの頭に過ぎるのは一つの考え、必要無いと思いながらも、彼に恋焦がれる乙女としては、しておいても良かったのではないかと言う行動。
「手伝った方が、良かったかもしれませんわね……」
微妙に力なく言葉を発するセシリアは、翔とビーチバレーが出来ると言うだけで浮かれ上がった自身の恋愛経験の無さに、またしても溜め息を溢すのだった。
陰鬱、とはまた違った、ふわふわと雲の上を歩いている様な、そんな幸せなセシリアの悩みとは裏腹に、頭上に輝く太陽は、全てを燃え上がらせ、沸かせ湧かせる様に輝いていた。
クーラーボックスとスズキを、調理許可の出た厨房の一角へ預けて、太陽に温められ、温度が急上昇している砂浜へ舞い戻ってきた翔の視界に入ったのは、かなりの数になる女性達の集まりが、一箇所に集中しているという光景で、翔の記憶が確かならば、そこはビーチバレーのコートがあった場所。
自らの記憶を確かめる為、ゆったりと砂浜の上を歩き、そこへ近付くと、確かに人込みの向こうにビーチバレーに使われるであろうネットが見える。
「しかし、何故集まっているのだ?」
翔の記憶では、こぞって集まる程のイベントがあったような記憶は無い。
解せんな……と静かに呟きながら、ビーチバレーのコートへ向けて歩きつつ、視線を彷徨わせ、一緒にビーチバレーをすると約束した筈のセシリアの姿を探す。
視界に見える限りの範囲内に、蒼の水着がよく似合う少女の姿は確認できず、人込みに囲まれたビーチバレーコートと多くのカップルや友人同士の連れ合いが夏を楽しんでいる砂浜と海しか見えない。
探し人が見当たらないのなら、するべき事は一つ。
ビーチバレーをしようと約束したのだから、ビーチバレーコートに行って、待っていれば良い。
当然の思考をした翔は、特に気負う事無く、女子だらけの人込みに近付いていく。
ビーチサンダルを履いた足が、暖められた砂を巻き上げ、サンダルの間に入るが、特に支障は無い。
ビーチバレーコートに近付き、翔がそこにざっと視線を巡らせる限り、見知った顔がちらほらと見える事から、集まっているのは凡そがIS学園の生徒達らしい。
態々IS学園の生徒達がこぞって集まっている光景に、はて? と首を傾げる翔。
「あ! 柏木君よ!」
「え? ホントだ! ほらほら! 道開けて!」
「頑張ってね! 柏木君!」
「アンタどっち応援すんの?」
「私は断然織斑君!」
「くっ! アンタ織斑君派か……」
「私も織斑君!」
「やっぱり柏木君派って少数派なのね……」
「まぁ、柏木君の性格知ってる子って少ないし」
一人の女子生徒が、翔を発見した瞬間。あちらこちらで女子生徒達からの声が上がりつつ、翔の前にビーチバレーコートまでの道が広がる。
その先には、翔の探し人である蒼の水着が似合う少女と、親友である所の織斑一夏が、ネットを挟んで相対しており、一夏の隣には、翔と一夏共通の幼馴染である鳳鈴音が立っている。
ネットを挟んで相対する三人の内、蒼の水着がよく似合う少女――セシリア・オルコットと織斑一夏は、何とも微妙な表情を浮かべており、対照的に鈴音は挑発的とでも言えば良いのか、釣り気味の瞳を勝気に光らせ、不敵な笑みを浮かべていた。
その微妙な空気と状況から、翔は状況を察して、苦笑を浮かべるが、その歩みは止まる事無く迷う事無く真っ直ぐにコートへと向けられていた。
当然そのまま行けば、IS学園の女子生徒達が並んだ間を通っていく事になるのだが、翔は特に気にした素振りは無い。
コートへ近付いた時と同じ様に、ゆったりと歩を進める翔の耳に、一夏の名前があちらこちらから飛び込んでくる。翔の名前も聞えては来るが、その機会は少ない。
それに、よくよく見れば、翔の名前を出しているのは、比較的翔と話す機会が多い生徒達ばかり。
昔から知っている一夏の人気者っぷりが、ここでも発揮されている事に、翔は少し苦笑を浮かべる。
(人を惹き付けるのは、昔から変わってはいないな)
翔が見ていた昔からそうだった。
織斑一夏と言う人物は、誰にでも平等に接する人物であり、誰とでも短期間の間に仲良くなれる。
知らぬ内に人を惹き付ける魅力が、一夏の特徴であり、それに例外はなく、翔も見事にそれに巻き込まれ、今に至っている。
無論、翔自身に魅力が無いというわけではない。が、しかし、翔の魅力は、知るには少しハードルが高い。
自らの道を真っ直ぐに邁進する鋭く意志の強い瞳、物静かで落ち着いた雰囲気。そんな諸々を越えて話し掛けなければならない。
それは少々年若い者にはハードルが高い、にも拘らず中学時代、翔は圧倒的な人気を誇っていた。
話し掛け辛く、翔の魅力を知る機会が殆ど無い筈、その状況を崩したのが、一夏の存在である。
誰でも惹き付ける一夏が緩衝材となり、翔と話せる機会を誰とでも作り、あらゆる人物が翔の人となりを知る。
そうやって交友を広げていった結果が、中学時代の圧倒的な人気である。
孤高と言っても差し支えない程に、自らの道を邁進する翔を巻き込み、一般よりも一段高い所に存在していた精神を引き落とし、一般と同じ所に落ち着かせる。
一夏がしたのはそう言う事であり、言うなれば、孤高の狼を群れの中に引き込む、それと同じ事をしたのだ。
気高き精神を持つ孤高の狼をも惹き付けた男は、現在コートで微妙な表情を浮かべていたが、翔が来た事によって、幾分か安心したのか、少しホッとした表情へと変化していた。
あからさまとも言える表情の変化を見せた一夏に、翔は苦笑を隠せない。
結局、気高き孤狼が一夏に惹き付けられたように、一夏もまた、孤狼の気高き精神に魅せられていると言う事なのだろう。
「おせーぞ、翔」
「そう言うな。俺は俺でやる事があったのでな」
コート内に翔が入り、一夏とネットを挟んで相対した瞬間、安堵したような表情を浮かべつつも、翔に文句を投げかける。
そんな一夏の文句をさらりと受け流しながら、翔はふっと笑みを浮かべる。
「申し訳ありませんわ。何故か知らぬ間にこの様な事になってしまいまして……」
一夏と翔が軽口を叩き合っていると、翔の隣から、申し訳無さそうに表情を歪め、少し肩を落としたセシリアが、謝罪を入れてくる。
心なしか、陽光の下で眩しく煌く筈の、彼女の金色の髪にも精彩を欠いている様に見える。
申し訳なさが前面に出ており、ぱっと見ただけでは今一分からないだろうが、セシリアの纏うその雰囲気は、少し残念そうな雰囲気も混ざっている。
恐らく彼女は、翔と楽しくビーチバレーをして、少しでも長く同じ時間を共有したかった。と言うささやかな欲求もあったのだろう。
金色の髪が精彩を欠いている様に見えるのは恐らくその為だろうが、申し訳なさが前面に押し出されている事から、結局翔がセシリアに掛けてやれる言葉は、一つしかない。
「まぁ、そう気にするな。こう言うのも偶には悪くない。それに恐らく元凶は本音辺りだろう」
「ぎくぅっ!?」
「その発言でもうバレたぞ? 早いな、謎究明まで5分もなかったぞ? 本音」
周りで騒ぐ女子達の声に掻き消されないような声量で、尚且つ全員に聞える様にそう言った翔の発言に、これ以上無い程に分かりやすいリアクションで応える女子生徒が一人。
バレない様に女子達の垣根の中に紛れ込んでいたのか、その人物は、えへへ~とバツが悪そうに笑い声を上げ、冷や汗を浮かべて翔達の前に姿を現す。
左右の耳の上辺りで結わえた細いツインテールに、余った髪は後ろへ流すという、少し特徴的な髪型に、垂れ眼気味な瞳が印象的な、緩い雰囲気の本音は、何故かこの真夏の海と言う場所にも拘らず、黄色い着ぐるみの様な衣装で、その身体を覆っている。
誰もが明らかに突っ込みを入れざるをえないその光景に、何故か誰も突っ込みを入れない。
真夏の気温に、照りつける日差しは強い。その下にいる一人の女子生徒は、明らかに蒸れそうな着ぐるみを纏っている。
顔が出ている分、普通の着ぐるみよりはマシであろうが、それだけである。
普通ならこの様な場所で着る者はまず居ない。
「えへへ~、ゴメンね? しわぎん」
「別に俺は構わんが、今度から調子に乗って不用意に言いふらさぬ事だ」
「うぅ……何やったのかまでバレてる……わかったよ~」
「と言う事だ、セシリア、俺は気にしていない」
「分かりましたわ……」
困った奴だ、と言うように苦笑を浮かべて、本音の頭に手を置く翔に、セシリアは少し本音へ羨ましそうな視線を向けつつ同意、落ちていた肩も少し持ち上がる。
えへへ~、と少し誤魔化すように笑みを浮かべる本音を諌めるようにして、少し強めにぐりぐりと翔の手が、本音の頭の上を動く。
注意されている筈なのに、何故かその本音の雰囲気は少し嬉しそう。
そんなやり取りをしていると、本音が前へ出て、翔へ絡んでいるのに釣られたのか、数人の人影が女子生徒達を押しのけて翔へと近寄る。
「どうも成り行きみたいだけど……頑張ってね?」
「シャルロットか、まぁ、出るからには勝つつもりでやる。やり過ぎない様にはするつもりだが」
一本の三つ編みにされた金色の髪を揺らし、最初に翔へ声を掛けてきたのは、シャルロットであり、その表情には、翔へ向けての苦笑が刻まれている。
未だに周りの大多数が、一夏への声援で包まれる女子生徒達を、シャルロットの視線がぐるりと巡り、最終的に翔へ視線が固定された時には、なにやらシャルロットは、身体の前面で手を組み合わせ、己の二の腕で谷間を作るように肩を絞り、頬を少し紅潮させて、全体的にもじもじとしている。
そして翔へ固定していた筈の視線は、上目気味に翔を見上げ、直ぐに地面へ落とすと言う動きを繰り返していた。
チラチラと見上げて来る様なシャルロットの様子に、翔は不思議そうに首を傾げる。
「ぼ、僕は翔を、お、応援してるから!」
「? ふむ、わかった。ならばシャルロットの期待に応える為に何としても勝とう」
「う、う、うん! が、頑張ってね!」
貴方だけを、貴方だけに、そう言った意図の込められたシャルロットの言葉に、首を傾げながらも、熱く応える翔。
そんな翔の真摯な態度に、何か限界に達したのか、そ、それだけだから! と叫ぶようにして言い捨てながら、シャルロットはもう一度女子達の中へと戻っていく。
ふむ……? とシャルロットの様子に首を傾げる翔の前に、また人影が現れる。
「ぼ、ボス……そのままプレーなさるのですか?」
「む? まぁ、パーカとサンダルは誰かに預けようと思っているが……」
「で、では! 私にパーカーを預けて頂いても、よ、よろしいですか?」
何処かおずおずと翔に声を掛けてきたラウラに、翔は向き直る。
そしてなにやら意気込んでいながらも、徐々に尻すぼみになっていくラウラの言葉と、見上げるような視線に、一も二もなく、翔は頷く。
「ふむ、こちらから願いたい所だ。預かってもらえるか」
「はい! 是非っ」
必要以上に力んだ様子のラウラは、胸の前で両手の拳を握り、ガッツポーズを連想させるポーズをとりながら翔を見上げ、口元はいつも以上に引き絞られている。
そんなラウラの様子に、首を傾げるが、結局預かってくれると言っているのだから、その善意こそが翔の中では重要だった。
疑問を感じていた表情を正し、何時もの感情を悟らせない表情に戻った翔は、着ていたパーカーの前面に手を掛け、するりと、装飾の無いシンプルなパーカーを脱ぐ。
剣を引き戻し、振り降ろす為に鍛え上げられた肩から二の腕の筋肉。引き絞られた胸筋は分厚い鉄の板を連想させる。その下にある腹直筋は綺麗に6つに割れ、その左右には前据筋と腹斜筋が肌の上からその筋を見せている。
ぎらつく太陽の陽光が突き刺さっている背中も満遍なく鍛え込まれ、肩甲骨付近を覆っている細かな筋肉も、各々の存在を主張するように隆起し、背広筋も絞り込まれ、如何にも強固そうな雰囲気を感じさせる。
今の今まで黒のパーカーに包まれていた翔の肉体は、凡そ男子が鍛えこむ平均を大きく逸脱していた。
15歳……いや、翔の誕生日は春である事を考えると16歳であり、16歳として考えるならば、常識では考えられ無い程に鍛えこまれている。
この海全体を見渡しても、男性の中に翔ほどの肉体を持っている男性は存在していない。
そんな翔の肉体は、男性が憧れを感じる肉体である事は言うまでもなく、周りで見ていたIS学園女子生徒達も、この時ばかりはその肉体に溜め息を漏らさずにはいられなかった。
無論、この男には、周りの事等あまり気にする事ではなく、呑気に手に持った黒のパーカーを、目の前で翔の肉体に思わず眼を奪われているラウラへ向けて差し出す。
「では頼む」
「……」
「ラウラ? どうした?」
「……っ!? は、はい! お預かりします!」
「スマンな、助かる」
翔の声に、思わず我に返ったラウラは慌てて差し出されたパーカーを受け取る。
そしてまたもやその視線を翔の肉体へ固定する。
ラウラは翔の身体を直に見たのは初めての事なので、仕方が無いと言えば仕方が無い事だ。
この平和な日本で、軍事に関わっている訳でも無いにも拘らず、陽光の下に晒されている翔の肉体は、実践的な運用を目的とした絞り込まれた肉体。
明らかにただ漠然と鍛えている肉体ではない、その使用目的が明確にあり、その為に鍛えこまれた筋肉である事が、外から見ただけで一目瞭然。
無駄な筋肉が一切無い事と、どうしても抑えられない筋肉の肥大化を最小限に止めている事がラウラの目を引きつける最大の要因だった。
「ず、随分と鍛えこまれているんですね……」
「む? あぁ、剣を振っていたら勝手にこうなっただけだ、何もおかしな事は無い」
「いや、その肉体が既におかしいだろ」
「そんな事は無い。お前も剣を振り続けてみろ。そう変わらない身体になる」
「何年振ってりゃいいんだよ……大体振れっつったって真剣だろ? それを振るにもある程度筋肉が必要だっての」
「振れなくてもそれなりに振っていれば勝手に付いていく」
「どんなスパルタだよ……」
「成る程……流石はボスです」
翔の発言にツッコミを入れた一夏が、逆にげんなりさせられた所で、ラウラは何でもない様に己の肉体の事を話す翔を、尊敬の眼差しで持って見上げていた。
そのキラキラとした輝きを宿した無垢な表情に、翔は思わず苦笑を浮かべる。
若干16歳で、大の大人でさえ届かないほどの肉体になった翔に、引いた目や気味の悪がる目ではなく、ラウラのように純粋に憧れの目でもって応えられる事に、翔は慣れてはいない。
男は憧れの目が多いが、女性でラウラのように純粋な憧れの目で見られたのはそう多くは無い。
セシリアやシャルロットは関心し、鈴音は少し引き気味、千冬、箒は性別の違いから自分達ではほぼ確実に届かない領域の翔の肉体を、憧れでもって応えた。
束はなにやらくねくねと、自らの身体を抱きしめながら身体をくねらせると言う謎の行動でもって応え、蘭は何やら陶酔するような目で応えていた。
ラウラは、丁度千冬や箒のような目で、翔を見上げている。
今名前を挙げた女性以外では、好意的な目はそう多くないのが本当の所。
「まぁ、そう大した事ではない」
「何が大した事は無いだ、この世界の中でたった一つの目的の為だけに鍛え上げられた肉体だ。お前はもっとその肉体を誇っていい。その領域に届く者が今の世界にどれだけ居る事か……」
何やら翔のパーカーを両手できゅっと握り、もじもじとパーカーと翔に視線を行き来させているラウラに、本当に些細な事だと言う様に、軽く手を振る翔。
そんな翔に掛かる、低めの女性の声。
間違いなくその声は、IS学園1年1組担任、織斑千冬の物であり、その声が聞えた方向に、翔とラウラは同時に目を向ける。
そこには、黒のビキニがよく似合う扇情的な格好の千冬が、仁王立ちで翔の肉体に視線を下から上へ巡らせていた。
剣を握る者として、憧れざるをえないその肉体を、大した事ではないと言い切る翔に、溜め息までついている。
「織斑教諭」
「教官……」
「ボーデヴィッヒ、お前は私の意見が間違っていると思うか?」
「いえ! 思いません! 私としても素晴らしい肉体だと思います!」
「そうだろう」
ラウラの返答に、何故か自信満々に千冬が一つ頷く。
「翔さんの事ですのに、何故織斑先生が自信満々なのか分かりませんわ……」
「何か言ったか? オルコット」
「いえ、何でもありませんわ、おほほほ」
聞えるか聞こえないかと言う声量で、セシリアからのツッコミが入った瞬間、千冬の鋭い視線がセシリアを捉えるが、その視線を、セシリアはさらりと交わす。
まぁいい、と気にしない様にセシリアから翔へと、千冬は視線を移す。
そしてその視線は、翔の足元で固定される。
「サンダルでは動きにくいだろう、私が預かってもいいが?」
「む? 助かりますが……」
「別に構わん、気にせず預けろ。その代わり、確実に勝ってもらう」
「ふむ、承知」
千冬からの提案に、軽く乗った翔は、履いていたビーチサンダルから足を引き抜き、陽光に暖められ、それなりに洒落になっていない暑さの砂浜に、躊躇なく足を下ろす。
熱い砂に足をつけているというのに、翔の表情は一切の歪みを見せずに涼しい顔を保っている。
実際、すり足の多い武道を嗜んでいる翔の足裏の皮は分厚く、そして固くなっており、砂浜の砂くらいではびくともしない。
日々の鍛錬の成果が、この様な場面でも生かされている。
持ち主の足が無くなったサンダルを手に取ろうとしゃがみ込もうとした翔よりも先に、千冬がその細い腰を折り、膝を曲げずに足元にあるサンダルに手を掛ける。
その際に、肉付きが良く健康的なハリのある太ももが悩ましい光景が広がっていたが、周りは女子ばかりなので、そのアングルに声を上げる者は居なかった。
……いや、一部の女子は何やら黄色い声を上げていたような気もするが、恐らく気のせいである。
特に苦もなく千冬は足元にあった翔のサンダルを拾い上げる。
「確かに預かった」
「助かります」
「では私達は観戦に戻るとしよう。行くぞ、ボーデヴィッヒ」
「はい、教官。ではボス、頑張ってください」
「承知」
自らが出てきた用を済ませると、千冬は踵を返し、女子生徒達の集団の中へと足を向ける。
ラウラもそれに続くようにして千冬を追いかけるが、何かを思いついた様にふと立ち止まる。
そして数秒何か悩むように、眼帯の付いていない赤い瞳を虚空へと投げ、彷徨う。
結論が出たのか、何やら少しばかり頬をさっと赤く染めて、ラウラはその小柄でスレンダーな身体に、翔のパーカーを羽織るようにして着込む。
自らの腕をパーカーの袖に差し込むが、その手は袖から出る事無く、袖口が足りない丈に従ってへにゃりと力なく垂れている。
その様子に何やら嬉しそうに、ラウラは袖に隠れている手でもって、自らの口元を隠し、少し浮かれている様子で女子集団の中へ戻る。
「ボスのパーカー……少し、私には大きいな……」
「あー! ラウラ、それずるいよ!」
「何がずるいものか、私だって頑張ってボスに切り出したのだぞ!」
「全く、うまくやったものだ……本当ならそのパーカーは今頃私が着ていたはずなのだがな……」
何やら夢見心地なラウラが女子達の中へ入って行った後、その様な会話が繰り広げられていたが、これから試合の翔には何ら関係無い事である。
再びセシリアの隣に並び、ネットを挟んで一夏と鈴音と対峙する。
パーカーを脱いだ翔の肉体に、一夏はげんなりとした表情を浮かべ、鈴音は更に闘志を燃やしている。
「相変わらず非常識な身体だよなぁ……」
「ですが、ここまで鍛え上げられているという事は評価すべき対象ですわ」
「それもそうだけどなぁ」
「ふむ、別段気にするような事ではあるまい。鍛えているからと言ってスポーツが出来るわけではない」
「中学の時、体育のドッジで鈴が翔の投げたボールに当たって紙の様に吹き飛ばされていった事は忘れてねぇよ」
「あの時の借りをここで返してやるわ!」
「……ふむ、そんな事もあったな」
「同情しますわ……」
ネットを挟んで相変わらずげんなりしている一夏、闘志を燃え上がらせ、何を考えているのかニヤリと、明らかに不穏な事を考えているのが丸分かりな鈴音。
対してセシリアは不憫そうな瞳を鈴音に向け、翔は考え込むように口元に右手を当てている。
主に鈴音が原因で、両チームの間には埋めがたいテンションの差異が見受けられるが、そんな事とは関係なく、陽光が煌く砂浜で、ビーチバレーは進行される。
セシリア・翔のペアからはセシリア、一夏・鈴音のペアからは鈴音、その二人が代表でじゃんけんをした結果、まずサーブ権は一夏・鈴音のペアへ渡る。
サーブは鈴音がするのか、本格的なビーチバレー用と思われるボールが鈴音の手に渡る。
ビーチバレーは2人と言う人数の少なさと、コートがそう広く無い為、明確なポジショニングは存在しない。
故に一夏は鈴音から見て左側に立っており、その位置はネットとエンドラインの丁度中間地点辺りで、最初の立ち位置としては無難な場所といえる。
それとは対照的に、セシリア・翔のチームは明確にポジションが分かれている。
翔が後ろでセシリアが前と言う位置。
鈴音はサーブ位置に立ち、右手の人差し指で器用にボールを回転させながら、明確なポジション分けをされている翔とセシリアを見て、不敵に笑う。
「それで良い訳?」
「問題ない」
「そう言う事ですわ。存分に打って下さいな。鈴さん」
鈴音からの挑発とも取れる表情と声に、翔は冷静に、そして悠然と少し腰を落として構える。
セシリアも、翔を見習い、余裕のある表情と声で持って、鈴音に応えながら少し腰を落として構える。
その際、青のビキニに包まれた豊かな2つの山がふるりと揺れていたのを、鈴音の目は見逃す事はなく、その様子に、鈴音の瞳は更に釣り上がって行く。
「何よ何よ! 何なのよ! その余裕と揺れは! えぇそうよ! 私は揺れませんよー!」
「きゅ、急にどうしたのかしら? 鈴さんは……」
「ふむ、分からんが、やる気は十分のようだな」
「鈴……」
「何よ一夏! その目は! そんな目私に向ける暇があるなら前向きなさい! 前!」
「い、イエッサー!」
困惑したようなセシリアの身体の動きに、豊かな双子山はまたしても悩ましげに揺れ、それに過剰反応する鈴音に、一夏は態々後ろを向いて不憫そうな視線を送る。
そんな一夏の視線に、鈴音は檄を飛ばし、一夏は律儀に直立不動で敬礼を鈴音に送ってから、また気合を入れる様に少し腰を落として構える。
翔だけは、戸惑う事も無く悠然と構えたまま。
睨み付けるような鈴音の瞳に怯む事無く、その全てを受け入れて腰を少し落とし、砂浜を鍛え上げられた足でしっかりと踏みしめる。
悠然と受け止めるような翔の鋭い視線を、何か色々と鬱憤が溜まり、釣り上がった瞳で見返す鈴音。
人差し指の先で回転させていたボールを、少し浮かせて、ふわりと右手で受け止める。
「あの時の私の痛みを思い知れー! ふっ!」
余程ボールをぶつけられた時の痛みが痛かったのか、自らが持っているボールに叫びを篭めて、高く垂直にそのボールを放り投る。
放り投げたボールを視線で追い、空高く煌く太陽の陽光に照らされるボールが、最高到達点まで達したのを見届け、後は重力に従って落下する寸前、小柄な鈴音の身体は、くっと少しばかり沈み込み、その小柄さを生かした、体重を感じさせないふわりとした跳躍。
巻き上げる砂の量も極少量、しかしその高さは、普通の女性では考えられないほどに高い。
鈴音のバネがありしなやかな足に纏わり付く少量の砂が、宙を跳ぶ鈴音の様子を如実に表す小粋な演出を披露する。
落下してくるボールに、小柄な鈴音の身体が近付いた瞬間、振り上げていた手を、ボールへと叩き付ける。その際、空中と言う不安定な状態ながら、腰に捻りを咥えて、その力が向かうベクトルへ更に負荷を掛ける。
肌がボールを弾く小気味良い音を響かせた瞬間、そのボールはそのベクトルに従って飛んで行き、その到達点には腰を入れて構える翔の姿がある。
高速で飛来するボールから片時も目を離さない翔の瞳が、ボールの動きを分析する。
細くしなやかな鈴音の右腕から放たれたとは思えないほどの速度で飛来するボールには、翔から見て若干左に回転が掛かっているのを、翔の鋭い瞳は見逃す事は無い。
ボールの動きを刹那の瞬間に分析し終えた翔は、自らの身体を少しばかり右に動かす、それと同時に、翔が身体を動かした方向へボールが少し曲がる動きを見せ、寸分違わぬ動きで翔がレシーブの為に構えた腕へ吸い込まれるようにして入っていく。
当然の事ながら、高速で飛来したボールは翔の腕へ当たり、かなり良い音を響かせながら、そのボールは速度を殺され、またしても宙へと舞い上がる。
翔の若干前方へ投げ出されたボールを、翔は視線で追うと同時に、身体でも追い、何の問題もなくボールの落下地点へ到達した翔は、両腕を上へと掲げ、落ちてきたボールを、ネット前にふわりとトスを上げる。
その際、ざっとネット前に視線を巡らせる。
トスによって高く持ち上げられたボールを捉えているセシリア、セシリアのブロックの為に、セシリアの正面に構えている一夏、その一夏をカバーする様に一夏の右後ろに構える鈴音。
それらが視界に入ると同時に、相手コートの穴を探すように、ざっと視線を向ける。
「センターの中間に刺せ!」
「了解しましたわ!」
上げられたトスがネット前に到達する頃にはその分析を終え、翔からの指示がセシリアへ飛び、その指示に異議を唱える事無く従ったセシリアが、くっと身体を少し沈ませ、跳躍。
しなやかで美しいラインを保つ足から放たれた跳躍は、セシリアの身体を高く持ち上げ、最高到達点から少し落ちてきたボールを捉える。
「ふっ!」
後ろから上げられたトスを寸分違わず捉えたセシリアが、自らの右腕を鞭の様にしならせ、ボールを若干上方から叩き落す様にして振り抜く。
翔からの指示と、勢い良く振り抜かれたセシリアの右腕から放たれるインパクトの音と同時に、ボールはその指示に従って、相手コートのど真ん中へと高速で打ち落とされる。
無論、それを見ていない鈴音と一夏ではなく、セシリアから放たれるスパイクの向かう先へと既に動いている……同時に。
「あっ!」
「うぉ!?」
コートの真ん中に飛来するボールへ向かって、同時に動いてしまった一夏と鈴音は、当然互いと見合う事になり、一瞬その動きを止めてしまう。
その一瞬で、高速で飛来したボールは、一夏と鈴音の間に突き刺さり、その衝撃に従って、砂浜の砂をふわりと巻き上げる。
地面に衝突した衝撃で、大半の勢いを殺されたボールは、転々と空しく地面を転がり、後には見合った鈴音と一夏だけが残る。
空しい空気が間に流れる一夏と鈴音とは対照的に、セシリアと翔は、クールに片腕でタッチを決めている。
「織斑さんと鈴さんの性格を見抜いた的確な指示、流石ですわ」
「お前の正確なスパイクも流石だな」
クールに互いの右腕同士でタッチを交わし、セシリアは微笑み、翔はふっとクールな笑みと、種類は違うが笑みを交し合うセシリアと翔に、敵側のコートで鈴音が爆発する。
瞳を吊り上げ、両手も拳を握って天高く掲げて、地団駄を踏みながら、がーっと鈴音は一夏に食って掛かる。
「何やってんのよ! 一夏! アンタはタッパあるんだからブロックしなさいよ!」
「んな事言われてもなぁ……あのペア、結構反則だぜ?」
「それでもよ! 負けて悔しくないの!?」
「いや、巻き込まれただけだしな、別段悔しくは無い」
「キーッ! 押しても引いても段々手応えが無くなって来た感じが益々翔を連想させるわ!」
「そ、そうか?」
「褒めてない! 照れるな!」
片や、まるで何かの掛け合いの様なやり取りを繰り広げる凸凹コンビに、片や冷静な眼と正確なスパイクを持つ息の合ったコンビ。
当然その後の試合運びも予想された物で、一夏と鈴音のペアも途中から息が合ってきたのだが、ペアとしての相性が良いのか、翔とセシリアのペアに後一歩届かない。
悠々とセシリアと翔のペアが1セットを先取した所で、コートとサーブ権の交代。
このセットをセシリアと翔のペアが取れば、その時点でセシリアと翔のペアの勝利となる。
サーブ権の渡ったセシリアと翔のペア。その2人の内、サーブ位置に立っているのはセシリアであり、その事からも、サーブを打つのはセシリアである事は明白である。
「行きますわよ」
「来なさい! セシリア!」
軽くボールを右手に持って掲げたセシリアから飛んできた言葉に、鈴音は腰を落とし、構え、気合十分と言った瞳と言葉で持って、それに応える。
チラリとセシリアの鮮やかな蒼が特徴的な瞳が前方に向けられる。
そこには、やはり腰を落とし、悠然と構えて相手を見据える翔が存在し、そんな勝負に手を抜かない姿勢の翔に、軽く笑みを浮かべ、同時にセシリアは持っているボールを、比較的ゆったりとした動作で宙へと放り投げる。
蒼の瞳がボールを追い、それと同時に身体でもボールを追うように軽やかな動作で跳躍、その高さはやはり高く、身長が鈴音より高い分、最高到達点も高い。
鈴音よりも高い位置で捉えられたボールは、しなやかなセシリアの鞭の様にしなる腕によって打ち出される。
「はっ!」
短く吐き出された息と声に呼応する様に打ち出されたボールの勢いは、やはり女性が打ったとは思え無い程に速い速度。
回転の無いフラットに打ち出されたボールは、かなりの速度を保ったまま、鈴音と一夏のコートへと向かい、その着地点は一夏。
大の男でも怯みそうな速度で向かってくるボールに、一夏は慌てる事無くその身体をボールの正面に持って行き、腰を落とし、合わせられた腕で持って受け止める。
「よっ、と……」
軽い声と共に受けられたセシリアのサーブは、一夏の腕によって、容易く宙へと舞い戻る。
ネット前付近へと放物線を描いて飛んでいくボールの落下点には、既に鈴音が待機しており、その両手は上方へと掲げられ、その体勢は既にトスを上げる準備が整っている。
そして、ボールがネットに対して右を向いている鈴音の手に触れた瞬間、ふわりとボールはもう一度宙を舞い、若干右上方へと飛んでいく。
「一夏!」
「おぅ!」
トスを上げた鈴音の激に、一夏は気合を入れながらそれに答える。
声と共に砂を巻き上げながらネット前へ走りこみ、助走をつけたまま、ネット前に舞い上がるボールへ向けて跳躍。
その際、弓形に反らされた背中に、確り背広筋と脊柱起立筋によって構成されている背筋が浮き上がり、収縮している様が見て取れる。
ボールに叩き付ける為に振り上げた右手を、身体をくの字に曲げる要領で背筋を伸ばした瞬間に解放し、勢い良くボールへと叩き付ける。
「っらぁ!」
「ふっ!」
女性のしなやかな腕では、あまり鳴る事の無い、鈍い打撃音が響き渡ると同時に、一夏の前には翔の物と思われる両手が現れる。
だが、右サイドから走りこみ、そのまま右手で打ち出されたボールは、左斜め下へ向かい、翔の右手の端を掠めて、コートへと落ちていく。
無論、相手は翔だけでは無い。
翔の右手の端に当たり、少しばかりその速度を減速させた一夏のスパイクを、確りと蒼の瞳が捉えており、その蒼の瞳を持つセシリアがボールへ向けて走りこんで、そのまま右腕を前方に差し出しながら、スライディング。
偶然なのか確信なのか分からないが、ボールの下へと滑り込んだセシリアの右腕に、スパイクが当たり、ボールは高く宙へと舞い戻る。
その方向は、翔とセシリアのコートで言う、左サイドへと大きく逸れていく。
「翔さん!」
ボールの行く先を見届けながらも、セシリアは翔の名前を呼ぶ。
うっすらと汗を掻いている白い肌に、砂浜の砂が纏わり付いており、普段の彼女ならば、その事を気にしている筈だが、今ばかりは縋るような気持ちで、自らの状態よりも先に声を絞り出す。
「承知」
明らかに明後日の方向へと飛んでいくボールを眼で追いながら、必死に声を絞り出した様子のセシリアに、翔は反射的に声を返し、その足を跳ね上げる。
短距離を走るだけにも拘らず、大量の砂を蹴散らしながら、左に飛んでいくボールを追い越し、向かってくる形になったボールへ向かって、ぐっと深く沈み込み、跳躍。
その際にも、減速の為に巻き上げた大量の砂と、跳躍時に爆発したように舞い上がる砂で、一時的に辺りの視界は砂で埋め尽くされる。
規格外の脚力で砂を巻き上げた跳躍は、普通ならば考えられ無い程に高い。
最高到達点に到達していない筈のボールに、翔の身体が追いついた時には、既に翔の身体はこれ以上無い程に弓形に反っており、背筋が収縮して、ギリギリと音を上げそうなほどに、その形を露にしている。
複雑に浮かび上がる背中周りの筋肉とは裏腹に、前面の腹筋や大胸筋はピンと伸ばされ、収縮を今か今かと待っているようにも見える。
もう既に、全身を使って腕を打ち下ろすしか無い状態になって、翔は何かに気がついた様に、はっとした表情を浮かべ、同時に口を動かす。
「スマン、上手く避けろ」
その短い言葉は誰に向けられた言葉なのか、極薄い砂塵が立ち込める中、翔の見下ろしたコートの中で、その事を正しく理解している人物が、未だに呆然としている表情の鈴音の左手首を掴み、切羽詰ったような声を上げながら、鈴音をぐいっと引き寄せる。
「何やってんだ、鈴! 少し離れるぞ!」
「はっ? えっ? 何?」
「いいから! ここはヤバイ!」
状況を良く理解出来ていない鈴音の表情を、とりあえずスルーし、鈴音の左手首を掴んだ一夏は、鈴音を伴い、コートから少し離れる。
その時には、既に翔の瞳はコートになく、自らの腕の射程圏内に入ったボールに向けられ、複雑な形を取っていた背中周りの筋肉を一気に伸ばし、それと連動して、腹筋と大胸筋を収縮させる。
そうする事によって、体勢は一夏がやったのと同じ様に、くの字に折れ曲がったような体勢になっているが、翔が取っている体勢は、一夏のそれとは訳が違う。
背中の筋肉に篭められた力を解放し、それと連動して、腹筋で上体の全体を振り子の要領で引き起こし、同時に振り下ろしたその手は、大胸筋のサポートもあって、腕だけで打っているのとは訳が違う。
文字通り全身の筋肉を連動させて打つスパイク、それも、翔程に鍛えこまれた肉体でそれをするとどうなるか?
「ふんっ!」
一夏の打ったスパイクよりも数段高い音。空気を入れた袋を破裂させたような破裂音が一つ大きく響いた瞬間、同時に空気を切り裂くような音にならない音も聞える。
そしてその刹那の後、コート内に小規模の爆発が起きた。
明らかにおかしいとしか言い様がない速度で叩き落されたボールは、文字通りコートの砂浜に突き刺さり、そこを中心として大量の砂が辺りに舞い散る。
突如として起こった砂塵に、コート周りに居た学生達は、軽く混乱の渦に巻き込まれている。
あちらこちらから、何が起こったのか? 隕石でも降って来た? などと言った言葉が飛び交っている。
そんな砂塵と混乱が渦巻くコートへ、重力に逆らう事無く落下し着地した翔を待っていたのは、セシリアからの、呆れたような言葉だった。
「流石に、これは非常識だと思いますわ」
「む? スマン。やり過ぎないように気をつけていたのだがな、つい反射的にな」
「だから前のセットはレシーブとトスだけでしたのね……」
「まぁ、そう言う事だ」
コートに着地した翔に声を掛けつつ、隣に並ぶ。
冷静に言葉を交わしていく翔とセシリアの視界は、砂塵が立ち込め、そう良くは無い。
しかし、2人の瞳は、確かに相手のコートへ向けられていた。
視界があまり良く無い中、悲鳴や疑問の声が大きく聞こえ、それに連鎖してどんどんとその声は更に大きくなると言う、負の連鎖が始まっているが、所詮人の作り出した砂塵。
そう長く続く訳は無く、どんどんと視界が良くなってくる。そして、舞い上がっていた砂が地面へと帰還し、視界がクリアになった。
まず最初に見えたのは、女子生徒達の一部が混乱によってもみくちゃになっている映像だった。
その瞬間、翔の視界は何者かによって後ろから遮られる。
「むっ?」
「翔さんは見てはいけませんわ」
「よくわからんが、承知した」
「何見てんのよ!? 一夏ー!」
「うぎゃあぁぁぁ! 目がぁ! 目がぁ!」
「ホラホラ! あんた達! さっさとその状態を何とかしなさいよ!」
「そうですわね、幾らなんでもみっともないですわよ」
翔はセシリアに後ろから視界を塞がれている為、何が起こっているのか現状では理解出来ていないが、鈴音の台詞とその後の一夏から聞えた絶叫に、何かが地面を転がりまわっている音。
それらの音と声から、鈴音が一夏に目潰しを喰らわせ、その痛みに一夏が地面をのた打ち回っている事が理解できる。
その事実から次々と翔の頭の中に予測が展開され、一つの推測に行き着く。
「皆は水着を整え終えたか?」
「見ていましたの?」
「いや、単なる予測だ。鈴音が態々目などと狙いにくい場所を狙って、一夏に見るなと言う台詞。それは視界を塞がなければ鈴音にとって面白く無い事が一夏の目の前に広がっていたからだ。そして鈴音は一夏に好意を抱いている。これだけである程度は予測できようと言うものだ」
「時折翔さんの頭の中がどうなっているのか、私には理解出来ない時がありますわ……」
「ふむ……」
呆れたまでの洞察力と予測力に、セシリアは翔の背中に自身の身体を力なく押し付けながら溜め息を一つ吐き出す。
たった一つの一夏の行動から、目の前で何が起こり、何故自分が視界を塞がれているか理解した翔。
事実、翔の言った通り、翔や一夏の目の前では、先程の混乱によってもみくちゃになった女子生徒達が居り、その格好は凡そ男性には見せられない様な、あられもない格好だった。
ある者は水着の片紐がずれ、ある者は水着の下が片方ずり下がり、またある者は誰かの水着を手に持っていたり、酷い者に至っては水着のブラが無くなり、手で押さえている者まで居る始末。
何が起こったのか理解出来ていなければ、ただの露出好きの変態集団だと思われても仕方が無い。
そんな惨状だった。
だがそれも少しの間の事で、段々と状況が整ってくると、次はセシリアにとって不満とも思える現状が鎌首を持ち上げる。
セシリアの不満、それは、セシリアに視界を塞がれながらも、冷静に事が終わるのを待っている翔の姿だった。
全く動揺した様子のない翔。そんな動揺の浮かんでいない翔が、セシリアにとっての不満点だった。
現在セシリアは翔の視界を塞ぐ為に、翔の後ろから手を伸ばしてその鋭い瞳を覆っている。
翔の瞳を後ろから覆っているセシリアは、翔よりも少し背が低い。
つまり、翔の視界を防ぐ為に、セシリアは自らの身体を押し付けるようにして手を伸ばしているのだ。
そう、水着と言う互いに露出面積が広く、薄い布を身に纏っただけの状態で密着していると言い換えても良いその状況に、翔は動揺していないという事と同義なのである。
同年代の中では、かなり発育した方である豊かなバストを惜しげもなくふにゃりと形が変わるほどに翔の背中に押し付け、括れのある腰も密着し、優美な曲線を描き白く長いしなやかな足も、互いに触れ合っている。
男性ならば、誰もがどうにかなってしまいそうな状況に居るにも拘らず、ふむ、と冷静に一言を漏らしながら腕を組むこの男には、やはり動揺は微塵も無い。
勿論、それが狙いでセシリアはこの体勢になったわけではないし、多少の事で揺らぐ翔ではないと言う事も理解している。
しかし、一人の女として、想い人の動揺している所を見て見たいと思う思いもあれば、下心を欲しているわけではないが、自らの身体で動揺してもらえないと言う事は、一人の女としてみてもらえていないのではないか? と言う不安すら浮かんでくる。
「翔さんは……」
「む?」
「性欲がおありでないのかしら?」
「何を言っている……俺とて16だ、それ相応の意識はある」
「ですが、今のこの状況で同様すら見て取れないというのは……女として自信をなくしますわ」
「心頭滅却すれば火もまた涼し、と言うだろう」
詰まる所、やせ我慢だ。そう言ってふっと笑ったような気配を感じた時、何故だかセシリアは安堵を感じると同時に、やせ我慢だと涼しげに言い切る翔に、女としての情熱が湧いてくるのを感じる。
男はプライドの生き物だと言うし、そんなくだらない物に生きてどうするのか? そう感じている女性も少なくないと聞くが、セシリアは自分なりのプライドを持って生きている究極系とも言える翔が、どうしても格好良く、魅力的に見えた。
自分なりのプライドに生きる翔は、こんなにも格好良いではないか、そう思うと同時に、涼しげにしているこの男を、どうしても自分のものにしたい。自分に振り向かせたい。そんな思いが湧き上がる。
プライドとは、気高さ、高貴さと言っても良い。そしてそれらは、他人に振りかざすものではなく、自分に向けられるものであり、自らを成長させる為の物でもある。
その事が分かっている柏木翔と言う男は、セシリアの中で、間違いなくいい男であった。
そんな事を思いながら、大体収集が付いてきた場を見据えて、翔の瞳を押さえていた手を外す。
「む、もう問題ないのか?」
「えぇ、問題ありませんわ」
セシリアが手を押さえている下で、自らの瞳を閉じていたのか、その鋭い瞳を今開く。
そして隣に視線を動かすと、セシリアが上体を少しばかり前に倒し、自らの身体の後ろで手を組んだまま、下から大きな蒼の瞳で翔を見上げるようにして、翔を覗き込んでいるセシリアを見つける。
陽光を吸収するような蒼の瞳に、その逆の金色の髪を揺らめかせながら、セシリアは、嬉しそうに、楽しそうに翔へと笑顔を送る。
「翔さんは、いい男、ですのね?」
「ふむ、俺がいい男かどうか、と言うのには余り興味が無いが、お前がそう思うならばお前の中ではそうなのだろう」
「えぇ、そうですわ」
悟りきったような台詞を静かに腕を組んだままセシリアに言い放ち、それに対して、セシリアはやはり嬉しそうに、その可憐な笑顔を益々深めていくのだった。
「微妙にラブってる所悪いんだけど……」
「ラブってなどいない!」
「そうだよ! そんなのは嘘だ!」
「教官とシャルロットの言う通りだ!」
「はいはい、あんた達はちょっと黙ってて」
呆れた様に翔とセシリアに声を掛けてくる鈴音に、何故か前へ出て来ようとした千冬とラウラ、シャルロットをまたしても女子集団の中へと押し込めて、翔とセシリアに向き直る。
相も変わらず呆れた表情の鈴音に、翔は思わず首をかしげ、数秒の沈黙の後、合点がいったと言うように掌を打ち、何時もの感情を悟らせない表情で鈴音の瞳を見返す。
「バレーの続きだな?」
「アンタはあの惨状を見てから言え!」
「私もその発言だけは無いと思ってしまいましたわ」
翔の発言に、セシリアは呆れ、鈴音はがーっと吼えながら、その指を鈴音と一夏の居たコートへと向けている。
そこには、うぉー、なんだこりゃ……と冷や汗を掻きながら、何かが衝突した後埋まった様に形を変えている砂浜を覗いている一夏の姿があった。
その光景に、ふむ? と首をかしげる翔。
「ボールは何処だ?」
「埋まってんのよ! あの中に! 埋まるって何よ!? 意味がわからないわ、大体あんなの受けたら私のか細い腕なんてばっきり折れちゃうわよ! 複雑骨折よ! 戻らなくなっちゃうわよ!」
「か細い? それにばっきりって言ってるのに複雑骨折って何だよ?」
「一夏五月蝿い!」
「はい!」
「ふむ、つまりどういう事だ?」
鈴音による怒涛の発言に、ビーチバレー用のボールを砂浜に埋める事になった男が首を傾げる。
何故かこんな時だけ言いたい事が伝わらない翔に対して、鈴音は思わず自らの右足で砂浜を固めるように踏みまくる。
ぼすっぼすっ、と何度も埋まっては抜け埋まっては抜けを繰り返す鈴音の足。
「私達の負けで良いって言ってんのよ! あんなボール喰らったらトラウマ物よ」
「ふむ、承知した」
「鈴音さんの発言も中々にトラウマ物だと思いますわ」
鈴音の言葉を悠然と受け入れた翔に、セシリアは呆れすら感じながら、太陽が未だ猛威を振るう空を見上げる。
結局、翔のスパイクを恐れた鈴音によって、鈴音と一夏のペアが試合放棄。
セシリアと翔のペアが勝利と言う結果に終わった。
一般家庭では考えられ無い程に豊富な調理器具と、作業スペース、そして高価なコンロや、油物を揚げる為のフライヤー。
どれも中々お目に掛かる事のない物で溢れている、この場は、IS学園の1年生がお世話になっている花月荘の厨房の一角。
そこに翔の姿はあった。
周りと同じ白い調理服に着替え、布に巻かれた何かを右手に持ち、調理用まな板の敷かれた横のスペースにある流し台に立っていた。
そのまま布に包まれた何かをまな板の上に置き、肩から掛けていたクーラーボックスを下において、蓋を開ける。
むわり、と魚独特の匂いが鼻をつくが、翔の表情は変化を見せず、何時もの感情を悟らせない表情。
鯵とキスが大量に入ったクーラーボックスを眺め、うむ、と満足そうに一つ頷いて、中身を流し台に置いてあった大きなザルの中に中身をぶちまける。
水気を含んだ物がぶちまけられる独特の音と共に、鯵とキスがザルの中を満たしていく。
ザルから零れ落ちるのではないかと思うほどにぶちまけられた所で、その勢いは止まり、最後の1匹がザルの中に入った所で、流し台に付いている水道の蛇口を捻る。
出てきた透明の水をザルの中に一通り通してから、また蛇口をひねり、水流を止める。
そこで一旦流し台から離れると、厨房にある業務用の巨大な冷蔵庫の扉を開け、中から、紐に繋がれた4匹の大きなスズキをずるずると引き出し、紐を掴んだまままな板の前まで戻り、まな板の上にある作業スペースへ、豪快にスズキを置く。
「ふむ、まずはやはり鯵とキスの下処理からか……」
特に何かしらの感情が込められているわけではなく、作業項目の羅列の一文を読むように呟くと、まな板の上に置いてあった布をはらりと開く。
それと同時に、布の中に響く金属音が聞こえ、布が開き、中身が何であったのか、その正体が明らかになる。
布の中身は、まごう事無き包丁であり、どれもそれなりの値段はしそうな一品ばかり。
大小が大雑把ではあるが分かれている出刃包丁に、長さが色々と存在する刺身包丁、見て取れるのはその二種類だけだった。
また、その中には包丁ではないが、木の柄に金属製の頭を持った、鱗取りも大小両方が揃えてある。
その中から小さい鱗取りを手に取り、流し台の前に立ち、もう一つ空のザルを並べて流し台に置く。
そして、魚の入っているザルから適当に魚を1匹手に取り、手に持った鱗取りで魚の身体を撫で付けていく、バリッバリッと特徴的な音を出しながら、魚の鱗を落としていく。
粗方落し終わったと判断したら、水道の蛇口を捻り、出てきた水でもって綺麗に鱗を洗い流し、空のザルへと放り込む。
その作業を飽きる事無く続けていく、その速度は、現在魚の下処理をしている板前の一人とそう変わらない速度。
淡々と、しかし、かなりの速さと集中力でもって終わらせていくその作業は、あっという間に終了し、魚の入っていたはずのザルは、見る見る内にその内容量を減らして行き、遂にその中身を空にする。
ここまで30分は掛かっていない。
「さて、次は……」
空だったザルは中身を一杯にし、中身を埋めていた筈のザルはその中身を空にした後、水で鱗取りをさっと洗い、その鋭い瞳をまな板の上に飛ばし、小出刃を手にとってまな板の前に立つ。
鱗取りを、包んでいた包丁達の中に直すと、布をまな板の脇へと退ける。
そして、先程鱗を取った魚を手に取り、まな板の上に置く、手に取ったのは鯵で、それを見た瞬間、背中を上にして手に持ち、躊躇なく小出刃を頭側の背びれの上から垂直に刃を入れる。
体の側面にある鰭まで刃が到達したら手を止め、左斜め上へと左手を動かす、すると頭と共に内臓も一緒に取れ、頭を流し台へ、内臓と頭の無くなった身体は、ざっと水洗いをして、空になったザルへと放り込む。
次に手に取ったのはキスで、それを視界に入れると、迷い無く小出刃の切っ先を腹へと刺し込み、頭側へ刃をすっと動かし、腹を開く、そして体の側面についている鰭の後ろから頭側へ切り込み、中骨まで到達したら、裏返し、もう一度同じ様に刃を入れ、中骨まで到達したら、そのまま小出刃を起こし、軽く背を叩いて、すとんと頭を落とし、内臓と共に引き抜く。
そうして頭と内臓を失ったキスは、先程の鯵と同じように軽く水洗いされ、鯵を放り込んだザルと同じザルへと放り込まれる。
迷いの無い処理方法とその手際の良さに、厨房からの視線を一身に集めている事に気が付いたが、特に気にせず次に取り掛かる。
何せ今回は数が多い、この全てを調理しようと思えば、視線に構う時間は勿体無い。
そんな事を考えながらも、魚を処理していく動きは止める事無く、その全てを手際良く処理していく。
ザルの中にあった魚を全て処理しきるまでに掛かった時間は1時間程、夕食までにはまだもう少し猶予がある。
ざっと時間を確認した翔は、それでも次の作業へと取り掛かる。
「ふむ、簡単にフライと天麩羅が妥当な所か……天麩羅のだしとフライヤーもあるわけだからな」
キスと鯵を、どういった料理にするか、その最終形を決めている間もその手は動いている。
時折拭いていても、やはり追いつく事の無かった魚の血が広がるまな板を、さっと水で洗い、続いて小出刃も水で洗って、水気を含んだ布巾で軽く刃の部分を拭き、ザルから1匹魚を取り出し背鰭の直ぐ上に小出刃の刃を当てて切り込む。
すっと刃が通ると、そのまま尾まで一気に刃を引く、切れ目を更に大きく切り開き、最終的にお腹側の皮を残して身を開く。
そのまま裏返して、同じ様に刃を入れていく、お腹の皮を残した所でまた身を開き、お腹の鰭から繋がる骨に小出刃の刃を当てて、ゴンッと小出刃の背を叩くと、骨と身が分断される。
身を広げて骨を流し台へと落す。
背開きにされた鯵は、大きいタッパーへと広げられる。
残りの鯵とキスも同じ様に背開きにされ、タッパをどんどんと埋めていき、最終的には何枚になったのか数えるのも億劫になる程の背開きにされた魚の身がタッパの上に並ぶ事となった。
一人で処理しているとは思えないほどの短時間で魚を捌いていく翔に、厨房の視線は完全に集まっていたが、それでも翔は気にする事無く、冷蔵庫から卵を数個取り出し、ボールにその全てを割り入れ、適当に溶いた所で手を止めて作業台の上に置く。
次にパン粉と片栗粉、そして空のタッパーを2つ取り出し、1つのタッパーの上に大量のパン粉を、もう1つのタッパーに片栗粉をぶちまけ、卵を溶いたボールの隣へ置く。
同じ流れで空のボールに天麩羅粉を溶き、それも作業台の上に置き、フライヤーの設定温度を確認、170度に設定されているのを確認し、直ぐに次の作業に取り掛かる。
塩とあらびき胡椒を取り出し、タッパーに敷かれている鯵とキスに、薄く塩を振っていく、粗方全てに振り終わった所で、全てを裏返し、また同じ様に塩を振る。
塩を振り終わったら、タッパを手に取り、その中からキスだけを手にとって、溶いた天麩羅粉にその身をつけて、次々にフラウヤーへと放り込む。
じゅわっと小気味良い音が響くと同時に、油で物が揚がっていく香ばしい香りが辺りを包み、調理音でうるさい筈の厨房で、誰かが生唾を飲み込む音が聞える。
無論、翔が態々それに構うわけも無く、全てのキスをフライヤーに入れ終えると、タッパーを戻し、鯵しか居なくなったタッパにあらびき胡椒を振り掛けていき、満遍なく掛かった所で、また裏返して振っていく。
塩と胡椒を満遍なく掛けられた鯵の尻尾を持って、片栗粉を両面に満遍なく付けて、それを次に卵につけ、最終的にその身をパン粉を纏わせる。
その作業を1匹につき、2サイクルずつ繰り返し、大きく衣を纏った鯵がタッパーに並べられる。
この時のコツは、つけたパン粉を意図的に落とさない事と、パン粉を付ける時、大量のパン粉でその身を包み、本当に軽く押さえるだけと言う事。
こうする事によって、油で揚げた時に衣が立ち、美味しそうに揚がるのだ。
そうして、1匹ずつ素早く確実に作業を終えていくが、その途中にぴくりと肩眉を動かし、徐に作業を中断して、菜箸とクッキングペーパーを敷いたタッパーを持ち、フライヤーの前に立つ。
「そろそろか……」
フライヤーの中を跳ね踊っているキスの1つを菜箸で掴み、タッパーの上へと上げる。
そこにはカラリと揚がった天麩羅の衣を纏った白い身のキスが存在していた。
天麩羅の状態を確認して、うむり、と一つ満足そうに頷くと、天麩羅を次々にタッパーへと上げていき、最終的に大量のキスの天麩羅で埋め尽くされたタッパーを、取り合えず作業台へと置く。
そして大皿を取ってきた翔は、その上にキスの天麩羅をぶちまけ、夕食の為に並べられた膳の近くへと置き、元々やっていた作業へと戻る。
全ての鯵がパン粉を纏い終えると、その全てをもう一度フライヤーの中へと放り込む。
またしても香ばしい香りの漂う厨房に、今度は幾つも生唾を飲み込む音が聞える。が、勿論知った事ではない。
全ての鯵がフライヤーの中で踊っているのを確認した翔は、その鋭い視線を、スズキへと向け、もう一度まな板の前に立ち、包丁や鱗取りが並べられている布の中から、大きな鱗取りを取り出し、躊躇無くそれでスズキの身体を撫で付ける。
鯵やキスと言った比較的小型の魚とは違い、鱗が取れる音も大きく、鱗が取れる量も違う。
大量の鱗が流し台に飛び散り、1匹目が粗方取り終わり、軽く水洗い。
その流れでもう1匹の鱗取りが終了した所で、2匹のスズキをまな板の上に置き、フライヤーの前に菜箸とクッキングペーパーを敷いたタッパーを持って立つ。
パン粉が綺麗なきつねいろに揚がっているのを見て、次々とフライをタッパーの上に放り込んでいき、全てのフライを放り込んだ所で、そのタッパーを作業台の上へ置く。
「ふむ……取り合えず鱗取りを終えるか」
そう一言呟くと、言葉通りに流し台に立ち、鱗取り器を手に持って、残りのスズキの鱗を取り、水洗い。
まな板の上に最後のスズキを置くと、またしても大皿を取り出し、タッパーの中にある鯵のフライを大皿の上に次々と乗せていき、その全てが乗り切った所でキスの天麩羅が置いてある近くに置いておく。
天麩羅とフライ、その二つが山盛りになっている大皿を見て、満足そうに一つ頷き、もう一度まな板の前に立ち、包丁達の中から、先程の小出刃よりも一回り大きな出刃包丁を手に取る。
そして、並んでいるスズキの内、1匹を残して、後は作業台の上に置いて順番待ちをさせる。
まな板の上に横たわる大きな体のスズキの腹に出刃の切っ先を刺し込み、お腹を開き、キスと同じ様に頭を落す。
落とした頭は流し台に落とし、まな板の上を布巾で軽く拭き、血や内臓の切れ端などを綺麗に拭いていく。
頭の無くなった身を持って流し台に移動、蛇口を捻って水を出し、手でもって内臓を引きずり出して、身を軽く水洗い。
綺麗になったスズキの身をまな板の上に置き、その身を軽くクッキングペーパーでふき取り水気を切る。
頭の無くなったスズキは、お腹を翔の体のある方に向けてまな板に横たわっている。
その身は頭が無くとも大きな身体をしている。
大きな身を見て、満足そうに一つ頷くと、裂いたお腹の尻尾側にある鰭の直ぐ上から、出刃包丁の刃を当てて、お腹を裂いた延長戦のような形で刃を入れ、最初は皮だけ切る様に切っ先だけ。
二回目に刃を入れる時は、出刃包丁の腹辺りの刃で、身の中ほどまで刃を入れる感じで尻尾付近まで刃を引く。
三回目に刃を入れて、切っ先が中骨に当たっている感触を感じながら、やはり尻尾付近まで刃を引くと、次は身をくるりと回し、背中を翔の体側に向けるように回転させる。
そして先程キスと鯵を背開きにした様に背鰭の直ぐ上から刃を入れて、やはり三回刃を入れる。
お腹の切れ目と背中の切れ目が貫通した所から、スズキの頭があった方へ刃を向ける形で、出刃の切っ先を潜り込ませ、左手で身を押さえながら一気に刃を頭側へ滑らせ、身が骨から離れると、次は逆に尻尾側へ刃を向けて、同じ様に滑らせる。
すると片側の身は綺麗に骨から離れて身だけになる。
その身を脇にどけて、未だ骨が存在している身を裏返して、先ほどと同じ様に捌き、三枚に下ろされたスズキが完成。
身だけを残し、骨は流し台に落とされる。
残りの二匹も同じようにして下ろされ、まな板の上には6枚のスズキの白身だけが残される。
「さて、後は腹骨を取って、皮を引いて、中骨を取って、造りにするだけだ」
やはり作業項目を確認するようにして言葉にしながらも、その手は止まる事は無い。
身の一つを手に取ると、出刃の刃を身の真ん中からお腹側へと当てて、骨が並んでいる所を見つけると、身と共にそぎ落とすように腹骨を取り除く。
次に、尻尾側の端に刃を当てて、薄く身を切り、そのまま刃を斜めにして頭側に少しだけ切り込む。
そのまま刃は動かさず、尻尾側の身を持って、ぐいぐいと上下に揺らすようにして身を引いていく、すると、ビッビッ、と独特の音を立てながら、皮が身から分断されていき、最終的に皮は身から離れる事になる。
張り付く場所を失い、ひらひらと薄くなってしまった皮は、流し台へと落とされ、最終的には真っ白なスズキの身だけが残る。
その大きな身を翔から見て尻尾側が翔の身体を向く様に回転させる。
右手で身の中心辺りを撫で付けて、骨のある位置を確認すると、骨のある中心から若干右側に出刃の刃を入れて、身を切り分ける。
同じ様に中心から若干左側にも刃を入れて、分断。
最終的には中骨の存在する、細い身は流し台へと直行。
後は身を、造りの形に刺身包丁で切り分けて盛り付けるだけだ。
「ふむ、皆は喜んでくれるだろうか……余計な事で無ければ良いのだが」
同じ様に後3匹のスズキも同じ様に下ろしながら、料理を出した時の皆の反応を予想しながら、翔は手を動かしていくのだった。
その中でも異色である男子生徒の一人柏木翔と、イギリスの代表候補生であるセシリア・オルコットは、肩を並べて大海原を見ながら釣りに興じ、餌である鯵が切れた為、釣りを切り上げ、砂浜へと向かっていた。
段々と多くの女子生徒達が声を上げる砂浜へ向かってゆったりと歩く翔とセシリア。
ゆったりとした歩みによって揺れるクーラーボックスの中身は、大量の鯵とキスによって埋め尽くされており。
銀色の眩しい大型のスズキ4匹は、下顎に紐に縛られたフックを通され、翔の右手に持たれており、歩みに合わせてその巨体をゆったりと揺らしている。
釣り道具の入った袋と竿の入ったケースを黒のパーカーの生地に包まれた左肩に引っさげ、クーラーボックスを右肩に、フックに吊られたスズキを右手で持ち、と多くの荷物を持っているが、この炎天下の中涼しげな表情でゆったりと翔は歩く。
その隣を陽光に反射する金色の髪を持つセシリアが、水着姿のまま翔の隣を歩いているが、その視線はチラチラと翔を捉えている。
自身の少し上に存在する、翔の精悍な顔つきをチラチラと見るセシリアの様子は、明らかに何か言いたそうな視線であり、その視線に気がつかない翔ではない。
何度目かのセシリアの視線に合わせるようにして、鋭い目はセシリアの視線と交差する。
「何かあるのか?」
「あ、えっと……あのですね……」
急に視線を合わせられたのが恥かしかったのか、問いかけられた翔の質問に直ぐには答える事が出来無いセシリア。
身体の前面で手を組み、組み合わせた手を下に降ろしたまま、もじもじと忙しなく指を動かす。心なしか頬が上気しているのも気の所為ではないだろう。
歩きながらも少し恥かしそうに、と言うか何か遠慮しているように、視線を忙しなく動かす指へと落としながらセシリアは口を開く。
「もし、お時間がまだよろしければ、私とビーチバレーは如何です、か?」
言いながらも視線を翔の顔へと上目気味に流す。
その雰囲気は既に15歳やそこいらの色香ではなく、流し目気味に見上げてくる瞳の色は遠慮気味に、だが少し期待するような色の込められた誘いの瞳。
迷惑になっていないだろうか? 受け入れてもらえるだろうか? そんな感情の篭められたその瞳の色は、普段胸を張って歩いている筈のセシリア・オルコットと言う少女からは考えられない瞳の色だった。
可憐で優美な容姿に、相手の様子を伺いながらも誘う瞳は一種のギャップによってその雰囲気は構成されていた。
無論、普段でも魅力的な少女ではあるが、翔に見せるこの一瞬の表情こそ、セシリアと言う一人の少女としての表情である。
煌く陽光と金色とは裏腹の不安が込められ、それによって揺れる蒼の瞳は、海に揺れる水面を連想させる。
そんな魅力的な瞳を覗かせるセシリアの少女としての表情を他所に、翔の瞳は虚空を数秒泳ぎ、簡潔に答えを出す。
「ふむ、少しぐらいならば別に構わんが」
「そ、そうですか! 良かったですわ」
簡潔に出した翔の答えに、セシリアの瞳は不安そうな色が霧散し、後には夏の太陽の下に咲く金色の美しい花弁が満開となっていた。
そんなセシリアの花が咲いたような表情に翔も、ふっと笑みを浮かべてセシリアを見やる。
「ならば、パラソルの下で少し待っていると良い」
「えっと、翔さんは一緒に行かないんですの?」
「俺はこいつを厨房に預けてくる。すぐに戻るから気にするな」
「そう言う事ですか、分かりましたわ」
クールに笑みを浮かべたまま、スズキを持った手を軽く掲げ、その続きでクーラーボックスを軽く叩く。
翔のアピールする動作に、得心がいったと言う様に、セシリアは花の咲いたような笑顔から、ふわりと言う音が似合う様な微笑を浮かべる。
「では行って来る」
「はい、行ってらっしゃいませ」
近所のコンビニまで行ってくる、とでも言わんばかりに軽くセシリアに声を投げかけ、スズキを持った右手を掲げて体中の筋肉を躍動させる為に、セシリアへ向けている身体を旅館のある方へ向ける。
セシリアからの送り出しの言葉を聞いた瞬間には、既に翔の体中の筋肉は躍動を始めていた。
砂浜の砂が薄く敷かれているアスファルトを蹴りだす力は力強く、サンダルであるにも拘らず、その足裏はしっかりと地を握り締めているかのような音と共に固い地面を蹴り抜く。
鍛えこまれた足腰から発生する筋肉のバネは、しなやかに伸びながらも、着地した足はしっかりと大地を踏みしめ、そして蹴りぬかれる。
そうして全身を躍動させながら身体を前へ動かしている翔。だが、その重心はブレを見せる事無く、クーラーボックスや釣具の入っている袋を揺らす衝撃は最小限に抑えられている。
鍛え上げられた翔の肉体が如何にハイスペックな物なのか、何気ない少しの動作で理解が出来る。
そうして全身を躍動させながら大地を蹴りだす翔の後姿が、セシリアの視界から消えるまで、そう時間は掛からず、数十秒見送っただけでセシリアの視界から翔の後姿はその姿を消した。
銃器を扱う者は眼が良くないと勤まらない。その例に漏れる事無く、セシリアも動体視力はかなり良い方だ。
そのセシリアの目から見た翔の肉体は、やはりハイスペックであり、剣の道を歩んでいるからかはセシリアの知る所ではないが、足腰の強靭さは注目すべき所であるし、その他にももう一つ……。
(身長からは見合わないあのストローク……生身で戦えば幾らでも間合いが誤魔化されますわね……)
瞳を細めて見据えていた翔の肉体は、その身長に見合わないほど足が長い。
それ故に一歩を踏み出すストロークが大きく、全体の体型が分かりにくい胴着等を着用して相対した場合、その身長に誤魔化されて、長いストロークによる一歩で間合いを見誤ると言う事が在り得る。
この様な所でも、翔の肉体は、事戦いに置いては反則的なスペックを持っている事が、また一つ明らかになった。
身長はそう高い方ではない翔だが、肉体を構成する割合と言う意味では、日本人の中で信じられないほど闘いに向いている体型なのだ。
身長に見合わぬ長い足、筋肉の付き易い身体、筋肉は付くだけでなく絞り込まれ、付いた筋肉はしなやかでバネがある。
ある種完成されていると言っても良い翔の肉体にもし、身長が加わっていたのなら……。
「生身の格闘技で世界王者……ありえない話では無いですわ……」
掌で日差しを遮る様に太陽に手を翳し、海と同じく蒼穹の空を見上げながら、セシリアは自分の言ったありえそうなIFに溜め息を漏らす。
そして、翔に対しての考察が終了したセシリアの頭に過ぎるのは一つの考え、必要無いと思いながらも、彼に恋焦がれる乙女としては、しておいても良かったのではないかと言う行動。
「手伝った方が、良かったかもしれませんわね……」
微妙に力なく言葉を発するセシリアは、翔とビーチバレーが出来ると言うだけで浮かれ上がった自身の恋愛経験の無さに、またしても溜め息を溢すのだった。
陰鬱、とはまた違った、ふわふわと雲の上を歩いている様な、そんな幸せなセシリアの悩みとは裏腹に、頭上に輝く太陽は、全てを燃え上がらせ、沸かせ湧かせる様に輝いていた。
クーラーボックスとスズキを、調理許可の出た厨房の一角へ預けて、太陽に温められ、温度が急上昇している砂浜へ舞い戻ってきた翔の視界に入ったのは、かなりの数になる女性達の集まりが、一箇所に集中しているという光景で、翔の記憶が確かならば、そこはビーチバレーのコートがあった場所。
自らの記憶を確かめる為、ゆったりと砂浜の上を歩き、そこへ近付くと、確かに人込みの向こうにビーチバレーに使われるであろうネットが見える。
「しかし、何故集まっているのだ?」
翔の記憶では、こぞって集まる程のイベントがあったような記憶は無い。
解せんな……と静かに呟きながら、ビーチバレーのコートへ向けて歩きつつ、視線を彷徨わせ、一緒にビーチバレーをすると約束した筈のセシリアの姿を探す。
視界に見える限りの範囲内に、蒼の水着がよく似合う少女の姿は確認できず、人込みに囲まれたビーチバレーコートと多くのカップルや友人同士の連れ合いが夏を楽しんでいる砂浜と海しか見えない。
探し人が見当たらないのなら、するべき事は一つ。
ビーチバレーをしようと約束したのだから、ビーチバレーコートに行って、待っていれば良い。
当然の思考をした翔は、特に気負う事無く、女子だらけの人込みに近付いていく。
ビーチサンダルを履いた足が、暖められた砂を巻き上げ、サンダルの間に入るが、特に支障は無い。
ビーチバレーコートに近付き、翔がそこにざっと視線を巡らせる限り、見知った顔がちらほらと見える事から、集まっているのは凡そがIS学園の生徒達らしい。
態々IS学園の生徒達がこぞって集まっている光景に、はて? と首を傾げる翔。
「あ! 柏木君よ!」
「え? ホントだ! ほらほら! 道開けて!」
「頑張ってね! 柏木君!」
「アンタどっち応援すんの?」
「私は断然織斑君!」
「くっ! アンタ織斑君派か……」
「私も織斑君!」
「やっぱり柏木君派って少数派なのね……」
「まぁ、柏木君の性格知ってる子って少ないし」
一人の女子生徒が、翔を発見した瞬間。あちらこちらで女子生徒達からの声が上がりつつ、翔の前にビーチバレーコートまでの道が広がる。
その先には、翔の探し人である蒼の水着が似合う少女と、親友である所の織斑一夏が、ネットを挟んで相対しており、一夏の隣には、翔と一夏共通の幼馴染である鳳鈴音が立っている。
ネットを挟んで相対する三人の内、蒼の水着がよく似合う少女――セシリア・オルコットと織斑一夏は、何とも微妙な表情を浮かべており、対照的に鈴音は挑発的とでも言えば良いのか、釣り気味の瞳を勝気に光らせ、不敵な笑みを浮かべていた。
その微妙な空気と状況から、翔は状況を察して、苦笑を浮かべるが、その歩みは止まる事無く迷う事無く真っ直ぐにコートへと向けられていた。
当然そのまま行けば、IS学園の女子生徒達が並んだ間を通っていく事になるのだが、翔は特に気にした素振りは無い。
コートへ近付いた時と同じ様に、ゆったりと歩を進める翔の耳に、一夏の名前があちらこちらから飛び込んでくる。翔の名前も聞えては来るが、その機会は少ない。
それに、よくよく見れば、翔の名前を出しているのは、比較的翔と話す機会が多い生徒達ばかり。
昔から知っている一夏の人気者っぷりが、ここでも発揮されている事に、翔は少し苦笑を浮かべる。
(人を惹き付けるのは、昔から変わってはいないな)
翔が見ていた昔からそうだった。
織斑一夏と言う人物は、誰にでも平等に接する人物であり、誰とでも短期間の間に仲良くなれる。
知らぬ内に人を惹き付ける魅力が、一夏の特徴であり、それに例外はなく、翔も見事にそれに巻き込まれ、今に至っている。
無論、翔自身に魅力が無いというわけではない。が、しかし、翔の魅力は、知るには少しハードルが高い。
自らの道を真っ直ぐに邁進する鋭く意志の強い瞳、物静かで落ち着いた雰囲気。そんな諸々を越えて話し掛けなければならない。
それは少々年若い者にはハードルが高い、にも拘らず中学時代、翔は圧倒的な人気を誇っていた。
話し掛け辛く、翔の魅力を知る機会が殆ど無い筈、その状況を崩したのが、一夏の存在である。
誰でも惹き付ける一夏が緩衝材となり、翔と話せる機会を誰とでも作り、あらゆる人物が翔の人となりを知る。
そうやって交友を広げていった結果が、中学時代の圧倒的な人気である。
孤高と言っても差し支えない程に、自らの道を邁進する翔を巻き込み、一般よりも一段高い所に存在していた精神を引き落とし、一般と同じ所に落ち着かせる。
一夏がしたのはそう言う事であり、言うなれば、孤高の狼を群れの中に引き込む、それと同じ事をしたのだ。
気高き精神を持つ孤高の狼をも惹き付けた男は、現在コートで微妙な表情を浮かべていたが、翔が来た事によって、幾分か安心したのか、少しホッとした表情へと変化していた。
あからさまとも言える表情の変化を見せた一夏に、翔は苦笑を隠せない。
結局、気高き孤狼が一夏に惹き付けられたように、一夏もまた、孤狼の気高き精神に魅せられていると言う事なのだろう。
「おせーぞ、翔」
「そう言うな。俺は俺でやる事があったのでな」
コート内に翔が入り、一夏とネットを挟んで相対した瞬間、安堵したような表情を浮かべつつも、翔に文句を投げかける。
そんな一夏の文句をさらりと受け流しながら、翔はふっと笑みを浮かべる。
「申し訳ありませんわ。何故か知らぬ間にこの様な事になってしまいまして……」
一夏と翔が軽口を叩き合っていると、翔の隣から、申し訳無さそうに表情を歪め、少し肩を落としたセシリアが、謝罪を入れてくる。
心なしか、陽光の下で眩しく煌く筈の、彼女の金色の髪にも精彩を欠いている様に見える。
申し訳なさが前面に出ており、ぱっと見ただけでは今一分からないだろうが、セシリアの纏うその雰囲気は、少し残念そうな雰囲気も混ざっている。
恐らく彼女は、翔と楽しくビーチバレーをして、少しでも長く同じ時間を共有したかった。と言うささやかな欲求もあったのだろう。
金色の髪が精彩を欠いている様に見えるのは恐らくその為だろうが、申し訳なさが前面に押し出されている事から、結局翔がセシリアに掛けてやれる言葉は、一つしかない。
「まぁ、そう気にするな。こう言うのも偶には悪くない。それに恐らく元凶は本音辺りだろう」
「ぎくぅっ!?」
「その発言でもうバレたぞ? 早いな、謎究明まで5分もなかったぞ? 本音」
周りで騒ぐ女子達の声に掻き消されないような声量で、尚且つ全員に聞える様にそう言った翔の発言に、これ以上無い程に分かりやすいリアクションで応える女子生徒が一人。
バレない様に女子達の垣根の中に紛れ込んでいたのか、その人物は、えへへ~とバツが悪そうに笑い声を上げ、冷や汗を浮かべて翔達の前に姿を現す。
左右の耳の上辺りで結わえた細いツインテールに、余った髪は後ろへ流すという、少し特徴的な髪型に、垂れ眼気味な瞳が印象的な、緩い雰囲気の本音は、何故かこの真夏の海と言う場所にも拘らず、黄色い着ぐるみの様な衣装で、その身体を覆っている。
誰もが明らかに突っ込みを入れざるをえないその光景に、何故か誰も突っ込みを入れない。
真夏の気温に、照りつける日差しは強い。その下にいる一人の女子生徒は、明らかに蒸れそうな着ぐるみを纏っている。
顔が出ている分、普通の着ぐるみよりはマシであろうが、それだけである。
普通ならこの様な場所で着る者はまず居ない。
「えへへ~、ゴメンね? しわぎん」
「別に俺は構わんが、今度から調子に乗って不用意に言いふらさぬ事だ」
「うぅ……何やったのかまでバレてる……わかったよ~」
「と言う事だ、セシリア、俺は気にしていない」
「分かりましたわ……」
困った奴だ、と言うように苦笑を浮かべて、本音の頭に手を置く翔に、セシリアは少し本音へ羨ましそうな視線を向けつつ同意、落ちていた肩も少し持ち上がる。
えへへ~、と少し誤魔化すように笑みを浮かべる本音を諌めるようにして、少し強めにぐりぐりと翔の手が、本音の頭の上を動く。
注意されている筈なのに、何故かその本音の雰囲気は少し嬉しそう。
そんなやり取りをしていると、本音が前へ出て、翔へ絡んでいるのに釣られたのか、数人の人影が女子生徒達を押しのけて翔へと近寄る。
「どうも成り行きみたいだけど……頑張ってね?」
「シャルロットか、まぁ、出るからには勝つつもりでやる。やり過ぎない様にはするつもりだが」
一本の三つ編みにされた金色の髪を揺らし、最初に翔へ声を掛けてきたのは、シャルロットであり、その表情には、翔へ向けての苦笑が刻まれている。
未だに周りの大多数が、一夏への声援で包まれる女子生徒達を、シャルロットの視線がぐるりと巡り、最終的に翔へ視線が固定された時には、なにやらシャルロットは、身体の前面で手を組み合わせ、己の二の腕で谷間を作るように肩を絞り、頬を少し紅潮させて、全体的にもじもじとしている。
そして翔へ固定していた筈の視線は、上目気味に翔を見上げ、直ぐに地面へ落とすと言う動きを繰り返していた。
チラチラと見上げて来る様なシャルロットの様子に、翔は不思議そうに首を傾げる。
「ぼ、僕は翔を、お、応援してるから!」
「? ふむ、わかった。ならばシャルロットの期待に応える為に何としても勝とう」
「う、う、うん! が、頑張ってね!」
貴方だけを、貴方だけに、そう言った意図の込められたシャルロットの言葉に、首を傾げながらも、熱く応える翔。
そんな翔の真摯な態度に、何か限界に達したのか、そ、それだけだから! と叫ぶようにして言い捨てながら、シャルロットはもう一度女子達の中へと戻っていく。
ふむ……? とシャルロットの様子に首を傾げる翔の前に、また人影が現れる。
「ぼ、ボス……そのままプレーなさるのですか?」
「む? まぁ、パーカとサンダルは誰かに預けようと思っているが……」
「で、では! 私にパーカーを預けて頂いても、よ、よろしいですか?」
何処かおずおずと翔に声を掛けてきたラウラに、翔は向き直る。
そしてなにやら意気込んでいながらも、徐々に尻すぼみになっていくラウラの言葉と、見上げるような視線に、一も二もなく、翔は頷く。
「ふむ、こちらから願いたい所だ。預かってもらえるか」
「はい! 是非っ」
必要以上に力んだ様子のラウラは、胸の前で両手の拳を握り、ガッツポーズを連想させるポーズをとりながら翔を見上げ、口元はいつも以上に引き絞られている。
そんなラウラの様子に、首を傾げるが、結局預かってくれると言っているのだから、その善意こそが翔の中では重要だった。
疑問を感じていた表情を正し、何時もの感情を悟らせない表情に戻った翔は、着ていたパーカーの前面に手を掛け、するりと、装飾の無いシンプルなパーカーを脱ぐ。
剣を引き戻し、振り降ろす為に鍛え上げられた肩から二の腕の筋肉。引き絞られた胸筋は分厚い鉄の板を連想させる。その下にある腹直筋は綺麗に6つに割れ、その左右には前据筋と腹斜筋が肌の上からその筋を見せている。
ぎらつく太陽の陽光が突き刺さっている背中も満遍なく鍛え込まれ、肩甲骨付近を覆っている細かな筋肉も、各々の存在を主張するように隆起し、背広筋も絞り込まれ、如何にも強固そうな雰囲気を感じさせる。
今の今まで黒のパーカーに包まれていた翔の肉体は、凡そ男子が鍛えこむ平均を大きく逸脱していた。
15歳……いや、翔の誕生日は春である事を考えると16歳であり、16歳として考えるならば、常識では考えられ無い程に鍛えこまれている。
この海全体を見渡しても、男性の中に翔ほどの肉体を持っている男性は存在していない。
そんな翔の肉体は、男性が憧れを感じる肉体である事は言うまでもなく、周りで見ていたIS学園女子生徒達も、この時ばかりはその肉体に溜め息を漏らさずにはいられなかった。
無論、この男には、周りの事等あまり気にする事ではなく、呑気に手に持った黒のパーカーを、目の前で翔の肉体に思わず眼を奪われているラウラへ向けて差し出す。
「では頼む」
「……」
「ラウラ? どうした?」
「……っ!? は、はい! お預かりします!」
「スマンな、助かる」
翔の声に、思わず我に返ったラウラは慌てて差し出されたパーカーを受け取る。
そしてまたもやその視線を翔の肉体へ固定する。
ラウラは翔の身体を直に見たのは初めての事なので、仕方が無いと言えば仕方が無い事だ。
この平和な日本で、軍事に関わっている訳でも無いにも拘らず、陽光の下に晒されている翔の肉体は、実践的な運用を目的とした絞り込まれた肉体。
明らかにただ漠然と鍛えている肉体ではない、その使用目的が明確にあり、その為に鍛えこまれた筋肉である事が、外から見ただけで一目瞭然。
無駄な筋肉が一切無い事と、どうしても抑えられない筋肉の肥大化を最小限に止めている事がラウラの目を引きつける最大の要因だった。
「ず、随分と鍛えこまれているんですね……」
「む? あぁ、剣を振っていたら勝手にこうなっただけだ、何もおかしな事は無い」
「いや、その肉体が既におかしいだろ」
「そんな事は無い。お前も剣を振り続けてみろ。そう変わらない身体になる」
「何年振ってりゃいいんだよ……大体振れっつったって真剣だろ? それを振るにもある程度筋肉が必要だっての」
「振れなくてもそれなりに振っていれば勝手に付いていく」
「どんなスパルタだよ……」
「成る程……流石はボスです」
翔の発言にツッコミを入れた一夏が、逆にげんなりさせられた所で、ラウラは何でもない様に己の肉体の事を話す翔を、尊敬の眼差しで持って見上げていた。
そのキラキラとした輝きを宿した無垢な表情に、翔は思わず苦笑を浮かべる。
若干16歳で、大の大人でさえ届かないほどの肉体になった翔に、引いた目や気味の悪がる目ではなく、ラウラのように純粋に憧れの目でもって応えられる事に、翔は慣れてはいない。
男は憧れの目が多いが、女性でラウラのように純粋な憧れの目で見られたのはそう多くは無い。
セシリアやシャルロットは関心し、鈴音は少し引き気味、千冬、箒は性別の違いから自分達ではほぼ確実に届かない領域の翔の肉体を、憧れでもって応えた。
束はなにやらくねくねと、自らの身体を抱きしめながら身体をくねらせると言う謎の行動でもって応え、蘭は何やら陶酔するような目で応えていた。
ラウラは、丁度千冬や箒のような目で、翔を見上げている。
今名前を挙げた女性以外では、好意的な目はそう多くないのが本当の所。
「まぁ、そう大した事ではない」
「何が大した事は無いだ、この世界の中でたった一つの目的の為だけに鍛え上げられた肉体だ。お前はもっとその肉体を誇っていい。その領域に届く者が今の世界にどれだけ居る事か……」
何やら翔のパーカーを両手できゅっと握り、もじもじとパーカーと翔に視線を行き来させているラウラに、本当に些細な事だと言う様に、軽く手を振る翔。
そんな翔に掛かる、低めの女性の声。
間違いなくその声は、IS学園1年1組担任、織斑千冬の物であり、その声が聞えた方向に、翔とラウラは同時に目を向ける。
そこには、黒のビキニがよく似合う扇情的な格好の千冬が、仁王立ちで翔の肉体に視線を下から上へ巡らせていた。
剣を握る者として、憧れざるをえないその肉体を、大した事ではないと言い切る翔に、溜め息までついている。
「織斑教諭」
「教官……」
「ボーデヴィッヒ、お前は私の意見が間違っていると思うか?」
「いえ! 思いません! 私としても素晴らしい肉体だと思います!」
「そうだろう」
ラウラの返答に、何故か自信満々に千冬が一つ頷く。
「翔さんの事ですのに、何故織斑先生が自信満々なのか分かりませんわ……」
「何か言ったか? オルコット」
「いえ、何でもありませんわ、おほほほ」
聞えるか聞こえないかと言う声量で、セシリアからのツッコミが入った瞬間、千冬の鋭い視線がセシリアを捉えるが、その視線を、セシリアはさらりと交わす。
まぁいい、と気にしない様にセシリアから翔へと、千冬は視線を移す。
そしてその視線は、翔の足元で固定される。
「サンダルでは動きにくいだろう、私が預かってもいいが?」
「む? 助かりますが……」
「別に構わん、気にせず預けろ。その代わり、確実に勝ってもらう」
「ふむ、承知」
千冬からの提案に、軽く乗った翔は、履いていたビーチサンダルから足を引き抜き、陽光に暖められ、それなりに洒落になっていない暑さの砂浜に、躊躇なく足を下ろす。
熱い砂に足をつけているというのに、翔の表情は一切の歪みを見せずに涼しい顔を保っている。
実際、すり足の多い武道を嗜んでいる翔の足裏の皮は分厚く、そして固くなっており、砂浜の砂くらいではびくともしない。
日々の鍛錬の成果が、この様な場面でも生かされている。
持ち主の足が無くなったサンダルを手に取ろうとしゃがみ込もうとした翔よりも先に、千冬がその細い腰を折り、膝を曲げずに足元にあるサンダルに手を掛ける。
その際に、肉付きが良く健康的なハリのある太ももが悩ましい光景が広がっていたが、周りは女子ばかりなので、そのアングルに声を上げる者は居なかった。
……いや、一部の女子は何やら黄色い声を上げていたような気もするが、恐らく気のせいである。
特に苦もなく千冬は足元にあった翔のサンダルを拾い上げる。
「確かに預かった」
「助かります」
「では私達は観戦に戻るとしよう。行くぞ、ボーデヴィッヒ」
「はい、教官。ではボス、頑張ってください」
「承知」
自らが出てきた用を済ませると、千冬は踵を返し、女子生徒達の集団の中へと足を向ける。
ラウラもそれに続くようにして千冬を追いかけるが、何かを思いついた様にふと立ち止まる。
そして数秒何か悩むように、眼帯の付いていない赤い瞳を虚空へと投げ、彷徨う。
結論が出たのか、何やら少しばかり頬をさっと赤く染めて、ラウラはその小柄でスレンダーな身体に、翔のパーカーを羽織るようにして着込む。
自らの腕をパーカーの袖に差し込むが、その手は袖から出る事無く、袖口が足りない丈に従ってへにゃりと力なく垂れている。
その様子に何やら嬉しそうに、ラウラは袖に隠れている手でもって、自らの口元を隠し、少し浮かれている様子で女子集団の中へ戻る。
「ボスのパーカー……少し、私には大きいな……」
「あー! ラウラ、それずるいよ!」
「何がずるいものか、私だって頑張ってボスに切り出したのだぞ!」
「全く、うまくやったものだ……本当ならそのパーカーは今頃私が着ていたはずなのだがな……」
何やら夢見心地なラウラが女子達の中へ入って行った後、その様な会話が繰り広げられていたが、これから試合の翔には何ら関係無い事である。
再びセシリアの隣に並び、ネットを挟んで一夏と鈴音と対峙する。
パーカーを脱いだ翔の肉体に、一夏はげんなりとした表情を浮かべ、鈴音は更に闘志を燃やしている。
「相変わらず非常識な身体だよなぁ……」
「ですが、ここまで鍛え上げられているという事は評価すべき対象ですわ」
「それもそうだけどなぁ」
「ふむ、別段気にするような事ではあるまい。鍛えているからと言ってスポーツが出来るわけではない」
「中学の時、体育のドッジで鈴が翔の投げたボールに当たって紙の様に吹き飛ばされていった事は忘れてねぇよ」
「あの時の借りをここで返してやるわ!」
「……ふむ、そんな事もあったな」
「同情しますわ……」
ネットを挟んで相変わらずげんなりしている一夏、闘志を燃え上がらせ、何を考えているのかニヤリと、明らかに不穏な事を考えているのが丸分かりな鈴音。
対してセシリアは不憫そうな瞳を鈴音に向け、翔は考え込むように口元に右手を当てている。
主に鈴音が原因で、両チームの間には埋めがたいテンションの差異が見受けられるが、そんな事とは関係なく、陽光が煌く砂浜で、ビーチバレーは進行される。
セシリア・翔のペアからはセシリア、一夏・鈴音のペアからは鈴音、その二人が代表でじゃんけんをした結果、まずサーブ権は一夏・鈴音のペアへ渡る。
サーブは鈴音がするのか、本格的なビーチバレー用と思われるボールが鈴音の手に渡る。
ビーチバレーは2人と言う人数の少なさと、コートがそう広く無い為、明確なポジショニングは存在しない。
故に一夏は鈴音から見て左側に立っており、その位置はネットとエンドラインの丁度中間地点辺りで、最初の立ち位置としては無難な場所といえる。
それとは対照的に、セシリア・翔のチームは明確にポジションが分かれている。
翔が後ろでセシリアが前と言う位置。
鈴音はサーブ位置に立ち、右手の人差し指で器用にボールを回転させながら、明確なポジション分けをされている翔とセシリアを見て、不敵に笑う。
「それで良い訳?」
「問題ない」
「そう言う事ですわ。存分に打って下さいな。鈴さん」
鈴音からの挑発とも取れる表情と声に、翔は冷静に、そして悠然と少し腰を落として構える。
セシリアも、翔を見習い、余裕のある表情と声で持って、鈴音に応えながら少し腰を落として構える。
その際、青のビキニに包まれた豊かな2つの山がふるりと揺れていたのを、鈴音の目は見逃す事はなく、その様子に、鈴音の瞳は更に釣り上がって行く。
「何よ何よ! 何なのよ! その余裕と揺れは! えぇそうよ! 私は揺れませんよー!」
「きゅ、急にどうしたのかしら? 鈴さんは……」
「ふむ、分からんが、やる気は十分のようだな」
「鈴……」
「何よ一夏! その目は! そんな目私に向ける暇があるなら前向きなさい! 前!」
「い、イエッサー!」
困惑したようなセシリアの身体の動きに、豊かな双子山はまたしても悩ましげに揺れ、それに過剰反応する鈴音に、一夏は態々後ろを向いて不憫そうな視線を送る。
そんな一夏の視線に、鈴音は檄を飛ばし、一夏は律儀に直立不動で敬礼を鈴音に送ってから、また気合を入れる様に少し腰を落として構える。
翔だけは、戸惑う事も無く悠然と構えたまま。
睨み付けるような鈴音の瞳に怯む事無く、その全てを受け入れて腰を少し落とし、砂浜を鍛え上げられた足でしっかりと踏みしめる。
悠然と受け止めるような翔の鋭い視線を、何か色々と鬱憤が溜まり、釣り上がった瞳で見返す鈴音。
人差し指の先で回転させていたボールを、少し浮かせて、ふわりと右手で受け止める。
「あの時の私の痛みを思い知れー! ふっ!」
余程ボールをぶつけられた時の痛みが痛かったのか、自らが持っているボールに叫びを篭めて、高く垂直にそのボールを放り投る。
放り投げたボールを視線で追い、空高く煌く太陽の陽光に照らされるボールが、最高到達点まで達したのを見届け、後は重力に従って落下する寸前、小柄な鈴音の身体は、くっと少しばかり沈み込み、その小柄さを生かした、体重を感じさせないふわりとした跳躍。
巻き上げる砂の量も極少量、しかしその高さは、普通の女性では考えられないほどに高い。
鈴音のバネがありしなやかな足に纏わり付く少量の砂が、宙を跳ぶ鈴音の様子を如実に表す小粋な演出を披露する。
落下してくるボールに、小柄な鈴音の身体が近付いた瞬間、振り上げていた手を、ボールへと叩き付ける。その際、空中と言う不安定な状態ながら、腰に捻りを咥えて、その力が向かうベクトルへ更に負荷を掛ける。
肌がボールを弾く小気味良い音を響かせた瞬間、そのボールはそのベクトルに従って飛んで行き、その到達点には腰を入れて構える翔の姿がある。
高速で飛来するボールから片時も目を離さない翔の瞳が、ボールの動きを分析する。
細くしなやかな鈴音の右腕から放たれたとは思えないほどの速度で飛来するボールには、翔から見て若干左に回転が掛かっているのを、翔の鋭い瞳は見逃す事は無い。
ボールの動きを刹那の瞬間に分析し終えた翔は、自らの身体を少しばかり右に動かす、それと同時に、翔が身体を動かした方向へボールが少し曲がる動きを見せ、寸分違わぬ動きで翔がレシーブの為に構えた腕へ吸い込まれるようにして入っていく。
当然の事ながら、高速で飛来したボールは翔の腕へ当たり、かなり良い音を響かせながら、そのボールは速度を殺され、またしても宙へと舞い上がる。
翔の若干前方へ投げ出されたボールを、翔は視線で追うと同時に、身体でも追い、何の問題もなくボールの落下地点へ到達した翔は、両腕を上へと掲げ、落ちてきたボールを、ネット前にふわりとトスを上げる。
その際、ざっとネット前に視線を巡らせる。
トスによって高く持ち上げられたボールを捉えているセシリア、セシリアのブロックの為に、セシリアの正面に構えている一夏、その一夏をカバーする様に一夏の右後ろに構える鈴音。
それらが視界に入ると同時に、相手コートの穴を探すように、ざっと視線を向ける。
「センターの中間に刺せ!」
「了解しましたわ!」
上げられたトスがネット前に到達する頃にはその分析を終え、翔からの指示がセシリアへ飛び、その指示に異議を唱える事無く従ったセシリアが、くっと身体を少し沈ませ、跳躍。
しなやかで美しいラインを保つ足から放たれた跳躍は、セシリアの身体を高く持ち上げ、最高到達点から少し落ちてきたボールを捉える。
「ふっ!」
後ろから上げられたトスを寸分違わず捉えたセシリアが、自らの右腕を鞭の様にしならせ、ボールを若干上方から叩き落す様にして振り抜く。
翔からの指示と、勢い良く振り抜かれたセシリアの右腕から放たれるインパクトの音と同時に、ボールはその指示に従って、相手コートのど真ん中へと高速で打ち落とされる。
無論、それを見ていない鈴音と一夏ではなく、セシリアから放たれるスパイクの向かう先へと既に動いている……同時に。
「あっ!」
「うぉ!?」
コートの真ん中に飛来するボールへ向かって、同時に動いてしまった一夏と鈴音は、当然互いと見合う事になり、一瞬その動きを止めてしまう。
その一瞬で、高速で飛来したボールは、一夏と鈴音の間に突き刺さり、その衝撃に従って、砂浜の砂をふわりと巻き上げる。
地面に衝突した衝撃で、大半の勢いを殺されたボールは、転々と空しく地面を転がり、後には見合った鈴音と一夏だけが残る。
空しい空気が間に流れる一夏と鈴音とは対照的に、セシリアと翔は、クールに片腕でタッチを決めている。
「織斑さんと鈴さんの性格を見抜いた的確な指示、流石ですわ」
「お前の正確なスパイクも流石だな」
クールに互いの右腕同士でタッチを交わし、セシリアは微笑み、翔はふっとクールな笑みと、種類は違うが笑みを交し合うセシリアと翔に、敵側のコートで鈴音が爆発する。
瞳を吊り上げ、両手も拳を握って天高く掲げて、地団駄を踏みながら、がーっと鈴音は一夏に食って掛かる。
「何やってんのよ! 一夏! アンタはタッパあるんだからブロックしなさいよ!」
「んな事言われてもなぁ……あのペア、結構反則だぜ?」
「それでもよ! 負けて悔しくないの!?」
「いや、巻き込まれただけだしな、別段悔しくは無い」
「キーッ! 押しても引いても段々手応えが無くなって来た感じが益々翔を連想させるわ!」
「そ、そうか?」
「褒めてない! 照れるな!」
片や、まるで何かの掛け合いの様なやり取りを繰り広げる凸凹コンビに、片や冷静な眼と正確なスパイクを持つ息の合ったコンビ。
当然その後の試合運びも予想された物で、一夏と鈴音のペアも途中から息が合ってきたのだが、ペアとしての相性が良いのか、翔とセシリアのペアに後一歩届かない。
悠々とセシリアと翔のペアが1セットを先取した所で、コートとサーブ権の交代。
このセットをセシリアと翔のペアが取れば、その時点でセシリアと翔のペアの勝利となる。
サーブ権の渡ったセシリアと翔のペア。その2人の内、サーブ位置に立っているのはセシリアであり、その事からも、サーブを打つのはセシリアである事は明白である。
「行きますわよ」
「来なさい! セシリア!」
軽くボールを右手に持って掲げたセシリアから飛んできた言葉に、鈴音は腰を落とし、構え、気合十分と言った瞳と言葉で持って、それに応える。
チラリとセシリアの鮮やかな蒼が特徴的な瞳が前方に向けられる。
そこには、やはり腰を落とし、悠然と構えて相手を見据える翔が存在し、そんな勝負に手を抜かない姿勢の翔に、軽く笑みを浮かべ、同時にセシリアは持っているボールを、比較的ゆったりとした動作で宙へと放り投げる。
蒼の瞳がボールを追い、それと同時に身体でもボールを追うように軽やかな動作で跳躍、その高さはやはり高く、身長が鈴音より高い分、最高到達点も高い。
鈴音よりも高い位置で捉えられたボールは、しなやかなセシリアの鞭の様にしなる腕によって打ち出される。
「はっ!」
短く吐き出された息と声に呼応する様に打ち出されたボールの勢いは、やはり女性が打ったとは思え無い程に速い速度。
回転の無いフラットに打ち出されたボールは、かなりの速度を保ったまま、鈴音と一夏のコートへと向かい、その着地点は一夏。
大の男でも怯みそうな速度で向かってくるボールに、一夏は慌てる事無くその身体をボールの正面に持って行き、腰を落とし、合わせられた腕で持って受け止める。
「よっ、と……」
軽い声と共に受けられたセシリアのサーブは、一夏の腕によって、容易く宙へと舞い戻る。
ネット前付近へと放物線を描いて飛んでいくボールの落下点には、既に鈴音が待機しており、その両手は上方へと掲げられ、その体勢は既にトスを上げる準備が整っている。
そして、ボールがネットに対して右を向いている鈴音の手に触れた瞬間、ふわりとボールはもう一度宙を舞い、若干右上方へと飛んでいく。
「一夏!」
「おぅ!」
トスを上げた鈴音の激に、一夏は気合を入れながらそれに答える。
声と共に砂を巻き上げながらネット前へ走りこみ、助走をつけたまま、ネット前に舞い上がるボールへ向けて跳躍。
その際、弓形に反らされた背中に、確り背広筋と脊柱起立筋によって構成されている背筋が浮き上がり、収縮している様が見て取れる。
ボールに叩き付ける為に振り上げた右手を、身体をくの字に曲げる要領で背筋を伸ばした瞬間に解放し、勢い良くボールへと叩き付ける。
「っらぁ!」
「ふっ!」
女性のしなやかな腕では、あまり鳴る事の無い、鈍い打撃音が響き渡ると同時に、一夏の前には翔の物と思われる両手が現れる。
だが、右サイドから走りこみ、そのまま右手で打ち出されたボールは、左斜め下へ向かい、翔の右手の端を掠めて、コートへと落ちていく。
無論、相手は翔だけでは無い。
翔の右手の端に当たり、少しばかりその速度を減速させた一夏のスパイクを、確りと蒼の瞳が捉えており、その蒼の瞳を持つセシリアがボールへ向けて走りこんで、そのまま右腕を前方に差し出しながら、スライディング。
偶然なのか確信なのか分からないが、ボールの下へと滑り込んだセシリアの右腕に、スパイクが当たり、ボールは高く宙へと舞い戻る。
その方向は、翔とセシリアのコートで言う、左サイドへと大きく逸れていく。
「翔さん!」
ボールの行く先を見届けながらも、セシリアは翔の名前を呼ぶ。
うっすらと汗を掻いている白い肌に、砂浜の砂が纏わり付いており、普段の彼女ならば、その事を気にしている筈だが、今ばかりは縋るような気持ちで、自らの状態よりも先に声を絞り出す。
「承知」
明らかに明後日の方向へと飛んでいくボールを眼で追いながら、必死に声を絞り出した様子のセシリアに、翔は反射的に声を返し、その足を跳ね上げる。
短距離を走るだけにも拘らず、大量の砂を蹴散らしながら、左に飛んでいくボールを追い越し、向かってくる形になったボールへ向かって、ぐっと深く沈み込み、跳躍。
その際にも、減速の為に巻き上げた大量の砂と、跳躍時に爆発したように舞い上がる砂で、一時的に辺りの視界は砂で埋め尽くされる。
規格外の脚力で砂を巻き上げた跳躍は、普通ならば考えられ無い程に高い。
最高到達点に到達していない筈のボールに、翔の身体が追いついた時には、既に翔の身体はこれ以上無い程に弓形に反っており、背筋が収縮して、ギリギリと音を上げそうなほどに、その形を露にしている。
複雑に浮かび上がる背中周りの筋肉とは裏腹に、前面の腹筋や大胸筋はピンと伸ばされ、収縮を今か今かと待っているようにも見える。
もう既に、全身を使って腕を打ち下ろすしか無い状態になって、翔は何かに気がついた様に、はっとした表情を浮かべ、同時に口を動かす。
「スマン、上手く避けろ」
その短い言葉は誰に向けられた言葉なのか、極薄い砂塵が立ち込める中、翔の見下ろしたコートの中で、その事を正しく理解している人物が、未だに呆然としている表情の鈴音の左手首を掴み、切羽詰ったような声を上げながら、鈴音をぐいっと引き寄せる。
「何やってんだ、鈴! 少し離れるぞ!」
「はっ? えっ? 何?」
「いいから! ここはヤバイ!」
状況を良く理解出来ていない鈴音の表情を、とりあえずスルーし、鈴音の左手首を掴んだ一夏は、鈴音を伴い、コートから少し離れる。
その時には、既に翔の瞳はコートになく、自らの腕の射程圏内に入ったボールに向けられ、複雑な形を取っていた背中周りの筋肉を一気に伸ばし、それと連動して、腹筋と大胸筋を収縮させる。
そうする事によって、体勢は一夏がやったのと同じ様に、くの字に折れ曲がったような体勢になっているが、翔が取っている体勢は、一夏のそれとは訳が違う。
背中の筋肉に篭められた力を解放し、それと連動して、腹筋で上体の全体を振り子の要領で引き起こし、同時に振り下ろしたその手は、大胸筋のサポートもあって、腕だけで打っているのとは訳が違う。
文字通り全身の筋肉を連動させて打つスパイク、それも、翔程に鍛えこまれた肉体でそれをするとどうなるか?
「ふんっ!」
一夏の打ったスパイクよりも数段高い音。空気を入れた袋を破裂させたような破裂音が一つ大きく響いた瞬間、同時に空気を切り裂くような音にならない音も聞える。
そしてその刹那の後、コート内に小規模の爆発が起きた。
明らかにおかしいとしか言い様がない速度で叩き落されたボールは、文字通りコートの砂浜に突き刺さり、そこを中心として大量の砂が辺りに舞い散る。
突如として起こった砂塵に、コート周りに居た学生達は、軽く混乱の渦に巻き込まれている。
あちらこちらから、何が起こったのか? 隕石でも降って来た? などと言った言葉が飛び交っている。
そんな砂塵と混乱が渦巻くコートへ、重力に逆らう事無く落下し着地した翔を待っていたのは、セシリアからの、呆れたような言葉だった。
「流石に、これは非常識だと思いますわ」
「む? スマン。やり過ぎないように気をつけていたのだがな、つい反射的にな」
「だから前のセットはレシーブとトスだけでしたのね……」
「まぁ、そう言う事だ」
コートに着地した翔に声を掛けつつ、隣に並ぶ。
冷静に言葉を交わしていく翔とセシリアの視界は、砂塵が立ち込め、そう良くは無い。
しかし、2人の瞳は、確かに相手のコートへ向けられていた。
視界があまり良く無い中、悲鳴や疑問の声が大きく聞こえ、それに連鎖してどんどんとその声は更に大きくなると言う、負の連鎖が始まっているが、所詮人の作り出した砂塵。
そう長く続く訳は無く、どんどんと視界が良くなってくる。そして、舞い上がっていた砂が地面へと帰還し、視界がクリアになった。
まず最初に見えたのは、女子生徒達の一部が混乱によってもみくちゃになっている映像だった。
その瞬間、翔の視界は何者かによって後ろから遮られる。
「むっ?」
「翔さんは見てはいけませんわ」
「よくわからんが、承知した」
「何見てんのよ!? 一夏ー!」
「うぎゃあぁぁぁ! 目がぁ! 目がぁ!」
「ホラホラ! あんた達! さっさとその状態を何とかしなさいよ!」
「そうですわね、幾らなんでもみっともないですわよ」
翔はセシリアに後ろから視界を塞がれている為、何が起こっているのか現状では理解出来ていないが、鈴音の台詞とその後の一夏から聞えた絶叫に、何かが地面を転がりまわっている音。
それらの音と声から、鈴音が一夏に目潰しを喰らわせ、その痛みに一夏が地面をのた打ち回っている事が理解できる。
その事実から次々と翔の頭の中に予測が展開され、一つの推測に行き着く。
「皆は水着を整え終えたか?」
「見ていましたの?」
「いや、単なる予測だ。鈴音が態々目などと狙いにくい場所を狙って、一夏に見るなと言う台詞。それは視界を塞がなければ鈴音にとって面白く無い事が一夏の目の前に広がっていたからだ。そして鈴音は一夏に好意を抱いている。これだけである程度は予測できようと言うものだ」
「時折翔さんの頭の中がどうなっているのか、私には理解出来ない時がありますわ……」
「ふむ……」
呆れたまでの洞察力と予測力に、セシリアは翔の背中に自身の身体を力なく押し付けながら溜め息を一つ吐き出す。
たった一つの一夏の行動から、目の前で何が起こり、何故自分が視界を塞がれているか理解した翔。
事実、翔の言った通り、翔や一夏の目の前では、先程の混乱によってもみくちゃになった女子生徒達が居り、その格好は凡そ男性には見せられない様な、あられもない格好だった。
ある者は水着の片紐がずれ、ある者は水着の下が片方ずり下がり、またある者は誰かの水着を手に持っていたり、酷い者に至っては水着のブラが無くなり、手で押さえている者まで居る始末。
何が起こったのか理解出来ていなければ、ただの露出好きの変態集団だと思われても仕方が無い。
そんな惨状だった。
だがそれも少しの間の事で、段々と状況が整ってくると、次はセシリアにとって不満とも思える現状が鎌首を持ち上げる。
セシリアの不満、それは、セシリアに視界を塞がれながらも、冷静に事が終わるのを待っている翔の姿だった。
全く動揺した様子のない翔。そんな動揺の浮かんでいない翔が、セシリアにとっての不満点だった。
現在セシリアは翔の視界を塞ぐ為に、翔の後ろから手を伸ばしてその鋭い瞳を覆っている。
翔の瞳を後ろから覆っているセシリアは、翔よりも少し背が低い。
つまり、翔の視界を防ぐ為に、セシリアは自らの身体を押し付けるようにして手を伸ばしているのだ。
そう、水着と言う互いに露出面積が広く、薄い布を身に纏っただけの状態で密着していると言い換えても良いその状況に、翔は動揺していないという事と同義なのである。
同年代の中では、かなり発育した方である豊かなバストを惜しげもなくふにゃりと形が変わるほどに翔の背中に押し付け、括れのある腰も密着し、優美な曲線を描き白く長いしなやかな足も、互いに触れ合っている。
男性ならば、誰もがどうにかなってしまいそうな状況に居るにも拘らず、ふむ、と冷静に一言を漏らしながら腕を組むこの男には、やはり動揺は微塵も無い。
勿論、それが狙いでセシリアはこの体勢になったわけではないし、多少の事で揺らぐ翔ではないと言う事も理解している。
しかし、一人の女として、想い人の動揺している所を見て見たいと思う思いもあれば、下心を欲しているわけではないが、自らの身体で動揺してもらえないと言う事は、一人の女としてみてもらえていないのではないか? と言う不安すら浮かんでくる。
「翔さんは……」
「む?」
「性欲がおありでないのかしら?」
「何を言っている……俺とて16だ、それ相応の意識はある」
「ですが、今のこの状況で同様すら見て取れないというのは……女として自信をなくしますわ」
「心頭滅却すれば火もまた涼し、と言うだろう」
詰まる所、やせ我慢だ。そう言ってふっと笑ったような気配を感じた時、何故だかセシリアは安堵を感じると同時に、やせ我慢だと涼しげに言い切る翔に、女としての情熱が湧いてくるのを感じる。
男はプライドの生き物だと言うし、そんなくだらない物に生きてどうするのか? そう感じている女性も少なくないと聞くが、セシリアは自分なりのプライドを持って生きている究極系とも言える翔が、どうしても格好良く、魅力的に見えた。
自分なりのプライドに生きる翔は、こんなにも格好良いではないか、そう思うと同時に、涼しげにしているこの男を、どうしても自分のものにしたい。自分に振り向かせたい。そんな思いが湧き上がる。
プライドとは、気高さ、高貴さと言っても良い。そしてそれらは、他人に振りかざすものではなく、自分に向けられるものであり、自らを成長させる為の物でもある。
その事が分かっている柏木翔と言う男は、セシリアの中で、間違いなくいい男であった。
そんな事を思いながら、大体収集が付いてきた場を見据えて、翔の瞳を押さえていた手を外す。
「む、もう問題ないのか?」
「えぇ、問題ありませんわ」
セシリアが手を押さえている下で、自らの瞳を閉じていたのか、その鋭い瞳を今開く。
そして隣に視線を動かすと、セシリアが上体を少しばかり前に倒し、自らの身体の後ろで手を組んだまま、下から大きな蒼の瞳で翔を見上げるようにして、翔を覗き込んでいるセシリアを見つける。
陽光を吸収するような蒼の瞳に、その逆の金色の髪を揺らめかせながら、セシリアは、嬉しそうに、楽しそうに翔へと笑顔を送る。
「翔さんは、いい男、ですのね?」
「ふむ、俺がいい男かどうか、と言うのには余り興味が無いが、お前がそう思うならばお前の中ではそうなのだろう」
「えぇ、そうですわ」
悟りきったような台詞を静かに腕を組んだままセシリアに言い放ち、それに対して、セシリアはやはり嬉しそうに、その可憐な笑顔を益々深めていくのだった。
「微妙にラブってる所悪いんだけど……」
「ラブってなどいない!」
「そうだよ! そんなのは嘘だ!」
「教官とシャルロットの言う通りだ!」
「はいはい、あんた達はちょっと黙ってて」
呆れた様に翔とセシリアに声を掛けてくる鈴音に、何故か前へ出て来ようとした千冬とラウラ、シャルロットをまたしても女子集団の中へと押し込めて、翔とセシリアに向き直る。
相も変わらず呆れた表情の鈴音に、翔は思わず首をかしげ、数秒の沈黙の後、合点がいったと言うように掌を打ち、何時もの感情を悟らせない表情で鈴音の瞳を見返す。
「バレーの続きだな?」
「アンタはあの惨状を見てから言え!」
「私もその発言だけは無いと思ってしまいましたわ」
翔の発言に、セシリアは呆れ、鈴音はがーっと吼えながら、その指を鈴音と一夏の居たコートへと向けている。
そこには、うぉー、なんだこりゃ……と冷や汗を掻きながら、何かが衝突した後埋まった様に形を変えている砂浜を覗いている一夏の姿があった。
その光景に、ふむ? と首をかしげる翔。
「ボールは何処だ?」
「埋まってんのよ! あの中に! 埋まるって何よ!? 意味がわからないわ、大体あんなの受けたら私のか細い腕なんてばっきり折れちゃうわよ! 複雑骨折よ! 戻らなくなっちゃうわよ!」
「か細い? それにばっきりって言ってるのに複雑骨折って何だよ?」
「一夏五月蝿い!」
「はい!」
「ふむ、つまりどういう事だ?」
鈴音による怒涛の発言に、ビーチバレー用のボールを砂浜に埋める事になった男が首を傾げる。
何故かこんな時だけ言いたい事が伝わらない翔に対して、鈴音は思わず自らの右足で砂浜を固めるように踏みまくる。
ぼすっぼすっ、と何度も埋まっては抜け埋まっては抜けを繰り返す鈴音の足。
「私達の負けで良いって言ってんのよ! あんなボール喰らったらトラウマ物よ」
「ふむ、承知した」
「鈴音さんの発言も中々にトラウマ物だと思いますわ」
鈴音の言葉を悠然と受け入れた翔に、セシリアは呆れすら感じながら、太陽が未だ猛威を振るう空を見上げる。
結局、翔のスパイクを恐れた鈴音によって、鈴音と一夏のペアが試合放棄。
セシリアと翔のペアが勝利と言う結果に終わった。
一般家庭では考えられ無い程に豊富な調理器具と、作業スペース、そして高価なコンロや、油物を揚げる為のフライヤー。
どれも中々お目に掛かる事のない物で溢れている、この場は、IS学園の1年生がお世話になっている花月荘の厨房の一角。
そこに翔の姿はあった。
周りと同じ白い調理服に着替え、布に巻かれた何かを右手に持ち、調理用まな板の敷かれた横のスペースにある流し台に立っていた。
そのまま布に包まれた何かをまな板の上に置き、肩から掛けていたクーラーボックスを下において、蓋を開ける。
むわり、と魚独特の匂いが鼻をつくが、翔の表情は変化を見せず、何時もの感情を悟らせない表情。
鯵とキスが大量に入ったクーラーボックスを眺め、うむ、と満足そうに一つ頷いて、中身を流し台に置いてあった大きなザルの中に中身をぶちまける。
水気を含んだ物がぶちまけられる独特の音と共に、鯵とキスがザルの中を満たしていく。
ザルから零れ落ちるのではないかと思うほどにぶちまけられた所で、その勢いは止まり、最後の1匹がザルの中に入った所で、流し台に付いている水道の蛇口を捻る。
出てきた透明の水をザルの中に一通り通してから、また蛇口をひねり、水流を止める。
そこで一旦流し台から離れると、厨房にある業務用の巨大な冷蔵庫の扉を開け、中から、紐に繋がれた4匹の大きなスズキをずるずると引き出し、紐を掴んだまままな板の前まで戻り、まな板の上にある作業スペースへ、豪快にスズキを置く。
「ふむ、まずはやはり鯵とキスの下処理からか……」
特に何かしらの感情が込められているわけではなく、作業項目の羅列の一文を読むように呟くと、まな板の上に置いてあった布をはらりと開く。
それと同時に、布の中に響く金属音が聞こえ、布が開き、中身が何であったのか、その正体が明らかになる。
布の中身は、まごう事無き包丁であり、どれもそれなりの値段はしそうな一品ばかり。
大小が大雑把ではあるが分かれている出刃包丁に、長さが色々と存在する刺身包丁、見て取れるのはその二種類だけだった。
また、その中には包丁ではないが、木の柄に金属製の頭を持った、鱗取りも大小両方が揃えてある。
その中から小さい鱗取りを手に取り、流し台の前に立ち、もう一つ空のザルを並べて流し台に置く。
そして、魚の入っているザルから適当に魚を1匹手に取り、手に持った鱗取りで魚の身体を撫で付けていく、バリッバリッと特徴的な音を出しながら、魚の鱗を落としていく。
粗方落し終わったと判断したら、水道の蛇口を捻り、出てきた水でもって綺麗に鱗を洗い流し、空のザルへと放り込む。
その作業を飽きる事無く続けていく、その速度は、現在魚の下処理をしている板前の一人とそう変わらない速度。
淡々と、しかし、かなりの速さと集中力でもって終わらせていくその作業は、あっという間に終了し、魚の入っていたはずのザルは、見る見る内にその内容量を減らして行き、遂にその中身を空にする。
ここまで30分は掛かっていない。
「さて、次は……」
空だったザルは中身を一杯にし、中身を埋めていた筈のザルはその中身を空にした後、水で鱗取りをさっと洗い、その鋭い瞳をまな板の上に飛ばし、小出刃を手にとってまな板の前に立つ。
鱗取りを、包んでいた包丁達の中に直すと、布をまな板の脇へと退ける。
そして、先程鱗を取った魚を手に取り、まな板の上に置く、手に取ったのは鯵で、それを見た瞬間、背中を上にして手に持ち、躊躇なく小出刃を頭側の背びれの上から垂直に刃を入れる。
体の側面にある鰭まで刃が到達したら手を止め、左斜め上へと左手を動かす、すると頭と共に内臓も一緒に取れ、頭を流し台へ、内臓と頭の無くなった身体は、ざっと水洗いをして、空になったザルへと放り込む。
次に手に取ったのはキスで、それを視界に入れると、迷い無く小出刃の切っ先を腹へと刺し込み、頭側へ刃をすっと動かし、腹を開く、そして体の側面についている鰭の後ろから頭側へ切り込み、中骨まで到達したら、裏返し、もう一度同じ様に刃を入れ、中骨まで到達したら、そのまま小出刃を起こし、軽く背を叩いて、すとんと頭を落とし、内臓と共に引き抜く。
そうして頭と内臓を失ったキスは、先程の鯵と同じように軽く水洗いされ、鯵を放り込んだザルと同じザルへと放り込まれる。
迷いの無い処理方法とその手際の良さに、厨房からの視線を一身に集めている事に気が付いたが、特に気にせず次に取り掛かる。
何せ今回は数が多い、この全てを調理しようと思えば、視線に構う時間は勿体無い。
そんな事を考えながらも、魚を処理していく動きは止める事無く、その全てを手際良く処理していく。
ザルの中にあった魚を全て処理しきるまでに掛かった時間は1時間程、夕食までにはまだもう少し猶予がある。
ざっと時間を確認した翔は、それでも次の作業へと取り掛かる。
「ふむ、簡単にフライと天麩羅が妥当な所か……天麩羅のだしとフライヤーもあるわけだからな」
キスと鯵を、どういった料理にするか、その最終形を決めている間もその手は動いている。
時折拭いていても、やはり追いつく事の無かった魚の血が広がるまな板を、さっと水で洗い、続いて小出刃も水で洗って、水気を含んだ布巾で軽く刃の部分を拭き、ザルから1匹魚を取り出し背鰭の直ぐ上に小出刃の刃を当てて切り込む。
すっと刃が通ると、そのまま尾まで一気に刃を引く、切れ目を更に大きく切り開き、最終的にお腹側の皮を残して身を開く。
そのまま裏返して、同じ様に刃を入れていく、お腹の皮を残した所でまた身を開き、お腹の鰭から繋がる骨に小出刃の刃を当てて、ゴンッと小出刃の背を叩くと、骨と身が分断される。
身を広げて骨を流し台へと落す。
背開きにされた鯵は、大きいタッパーへと広げられる。
残りの鯵とキスも同じ様に背開きにされ、タッパをどんどんと埋めていき、最終的には何枚になったのか数えるのも億劫になる程の背開きにされた魚の身がタッパの上に並ぶ事となった。
一人で処理しているとは思えないほどの短時間で魚を捌いていく翔に、厨房の視線は完全に集まっていたが、それでも翔は気にする事無く、冷蔵庫から卵を数個取り出し、ボールにその全てを割り入れ、適当に溶いた所で手を止めて作業台の上に置く。
次にパン粉と片栗粉、そして空のタッパーを2つ取り出し、1つのタッパーの上に大量のパン粉を、もう1つのタッパーに片栗粉をぶちまけ、卵を溶いたボールの隣へ置く。
同じ流れで空のボールに天麩羅粉を溶き、それも作業台の上に置き、フライヤーの設定温度を確認、170度に設定されているのを確認し、直ぐに次の作業に取り掛かる。
塩とあらびき胡椒を取り出し、タッパーに敷かれている鯵とキスに、薄く塩を振っていく、粗方全てに振り終わった所で、全てを裏返し、また同じ様に塩を振る。
塩を振り終わったら、タッパを手に取り、その中からキスだけを手にとって、溶いた天麩羅粉にその身をつけて、次々にフラウヤーへと放り込む。
じゅわっと小気味良い音が響くと同時に、油で物が揚がっていく香ばしい香りが辺りを包み、調理音でうるさい筈の厨房で、誰かが生唾を飲み込む音が聞える。
無論、翔が態々それに構うわけも無く、全てのキスをフライヤーに入れ終えると、タッパーを戻し、鯵しか居なくなったタッパにあらびき胡椒を振り掛けていき、満遍なく掛かった所で、また裏返して振っていく。
塩と胡椒を満遍なく掛けられた鯵の尻尾を持って、片栗粉を両面に満遍なく付けて、それを次に卵につけ、最終的にその身をパン粉を纏わせる。
その作業を1匹につき、2サイクルずつ繰り返し、大きく衣を纏った鯵がタッパーに並べられる。
この時のコツは、つけたパン粉を意図的に落とさない事と、パン粉を付ける時、大量のパン粉でその身を包み、本当に軽く押さえるだけと言う事。
こうする事によって、油で揚げた時に衣が立ち、美味しそうに揚がるのだ。
そうして、1匹ずつ素早く確実に作業を終えていくが、その途中にぴくりと肩眉を動かし、徐に作業を中断して、菜箸とクッキングペーパーを敷いたタッパーを持ち、フライヤーの前に立つ。
「そろそろか……」
フライヤーの中を跳ね踊っているキスの1つを菜箸で掴み、タッパーの上へと上げる。
そこにはカラリと揚がった天麩羅の衣を纏った白い身のキスが存在していた。
天麩羅の状態を確認して、うむり、と一つ満足そうに頷くと、天麩羅を次々にタッパーへと上げていき、最終的に大量のキスの天麩羅で埋め尽くされたタッパーを、取り合えず作業台へと置く。
そして大皿を取ってきた翔は、その上にキスの天麩羅をぶちまけ、夕食の為に並べられた膳の近くへと置き、元々やっていた作業へと戻る。
全ての鯵がパン粉を纏い終えると、その全てをもう一度フライヤーの中へと放り込む。
またしても香ばしい香りの漂う厨房に、今度は幾つも生唾を飲み込む音が聞える。が、勿論知った事ではない。
全ての鯵がフライヤーの中で踊っているのを確認した翔は、その鋭い視線を、スズキへと向け、もう一度まな板の前に立ち、包丁や鱗取りが並べられている布の中から、大きな鱗取りを取り出し、躊躇無くそれでスズキの身体を撫で付ける。
鯵やキスと言った比較的小型の魚とは違い、鱗が取れる音も大きく、鱗が取れる量も違う。
大量の鱗が流し台に飛び散り、1匹目が粗方取り終わり、軽く水洗い。
その流れでもう1匹の鱗取りが終了した所で、2匹のスズキをまな板の上に置き、フライヤーの前に菜箸とクッキングペーパーを敷いたタッパーを持って立つ。
パン粉が綺麗なきつねいろに揚がっているのを見て、次々とフライをタッパーの上に放り込んでいき、全てのフライを放り込んだ所で、そのタッパーを作業台の上へ置く。
「ふむ……取り合えず鱗取りを終えるか」
そう一言呟くと、言葉通りに流し台に立ち、鱗取り器を手に持って、残りのスズキの鱗を取り、水洗い。
まな板の上に最後のスズキを置くと、またしても大皿を取り出し、タッパーの中にある鯵のフライを大皿の上に次々と乗せていき、その全てが乗り切った所でキスの天麩羅が置いてある近くに置いておく。
天麩羅とフライ、その二つが山盛りになっている大皿を見て、満足そうに一つ頷き、もう一度まな板の前に立ち、包丁達の中から、先程の小出刃よりも一回り大きな出刃包丁を手に取る。
そして、並んでいるスズキの内、1匹を残して、後は作業台の上に置いて順番待ちをさせる。
まな板の上に横たわる大きな体のスズキの腹に出刃の切っ先を刺し込み、お腹を開き、キスと同じ様に頭を落す。
落とした頭は流し台に落とし、まな板の上を布巾で軽く拭き、血や内臓の切れ端などを綺麗に拭いていく。
頭の無くなった身を持って流し台に移動、蛇口を捻って水を出し、手でもって内臓を引きずり出して、身を軽く水洗い。
綺麗になったスズキの身をまな板の上に置き、その身を軽くクッキングペーパーでふき取り水気を切る。
頭の無くなったスズキは、お腹を翔の体のある方に向けてまな板に横たわっている。
その身は頭が無くとも大きな身体をしている。
大きな身を見て、満足そうに一つ頷くと、裂いたお腹の尻尾側にある鰭の直ぐ上から、出刃包丁の刃を当てて、お腹を裂いた延長戦のような形で刃を入れ、最初は皮だけ切る様に切っ先だけ。
二回目に刃を入れる時は、出刃包丁の腹辺りの刃で、身の中ほどまで刃を入れる感じで尻尾付近まで刃を引く。
三回目に刃を入れて、切っ先が中骨に当たっている感触を感じながら、やはり尻尾付近まで刃を引くと、次は身をくるりと回し、背中を翔の体側に向けるように回転させる。
そして先程キスと鯵を背開きにした様に背鰭の直ぐ上から刃を入れて、やはり三回刃を入れる。
お腹の切れ目と背中の切れ目が貫通した所から、スズキの頭があった方へ刃を向ける形で、出刃の切っ先を潜り込ませ、左手で身を押さえながら一気に刃を頭側へ滑らせ、身が骨から離れると、次は逆に尻尾側へ刃を向けて、同じ様に滑らせる。
すると片側の身は綺麗に骨から離れて身だけになる。
その身を脇にどけて、未だ骨が存在している身を裏返して、先ほどと同じ様に捌き、三枚に下ろされたスズキが完成。
身だけを残し、骨は流し台に落とされる。
残りの二匹も同じようにして下ろされ、まな板の上には6枚のスズキの白身だけが残される。
「さて、後は腹骨を取って、皮を引いて、中骨を取って、造りにするだけだ」
やはり作業項目を確認するようにして言葉にしながらも、その手は止まる事は無い。
身の一つを手に取ると、出刃の刃を身の真ん中からお腹側へと当てて、骨が並んでいる所を見つけると、身と共にそぎ落とすように腹骨を取り除く。
次に、尻尾側の端に刃を当てて、薄く身を切り、そのまま刃を斜めにして頭側に少しだけ切り込む。
そのまま刃は動かさず、尻尾側の身を持って、ぐいぐいと上下に揺らすようにして身を引いていく、すると、ビッビッ、と独特の音を立てながら、皮が身から分断されていき、最終的に皮は身から離れる事になる。
張り付く場所を失い、ひらひらと薄くなってしまった皮は、流し台へと落とされ、最終的には真っ白なスズキの身だけが残る。
その大きな身を翔から見て尻尾側が翔の身体を向く様に回転させる。
右手で身の中心辺りを撫で付けて、骨のある位置を確認すると、骨のある中心から若干右側に出刃の刃を入れて、身を切り分ける。
同じ様に中心から若干左側にも刃を入れて、分断。
最終的には中骨の存在する、細い身は流し台へと直行。
後は身を、造りの形に刺身包丁で切り分けて盛り付けるだけだ。
「ふむ、皆は喜んでくれるだろうか……余計な事で無ければ良いのだが」
同じ様に後3匹のスズキも同じ様に下ろしながら、料理を出した時の皆の反応を予想しながら、翔は手を動かしていくのだった。
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