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「IS インフィニット・ストラトス ~黒衣の侍~」
IS学園入学編
二十二斬 漢でも過去を振り返る事ぐらいある
織斑千冬には両親がいなかった。
不幸があったとかではなく、母親と父親、二人揃って蒸発した。
簡潔に一言で言うならば捨てられたと言えば話は通じる。
織斑千冬には弟がいた。
それも小さな、まだ小学校に通っている小さな弟がいた。
両親の愛を注がれ、一人立ちするまで親に守られるはずだった弟の未来は、両親の蒸発によって、必然的に千冬の双肩に掛かってくる事になる。
その事自体は、千冬にとっても嫌ではなかった。
弟は可愛かったし、家族だから大切だと思っていた。
だからこそ、千冬は思うのだ、家族を裏切り、子供を捨てるような自分勝手な両親のようには絶対にならない、なってはいけない。
その苦く辛い思い出からなのか、千冬は進んで友達を作ろうとしない。
人をあまり信じる気にはなれないのだ。最も、自らの友人である正真正銘の天才ほどに人間不信ではないと声を大にして言い切れるのだが……。
少しばかり人間不信気味な千冬とは対照的に、その弟、織斑一夏は違った。
すぐに人を信じるし、信頼する。誰とでも仲良くなってすぐに友達になる。
そのおかげで、将来女性関係には頭を悩ませそうだが……。
そこまで考えて、家の前へ到着した千冬は、家の鍵を開け、扉を開く、この時間ならば弟はもう帰っているだろう。
「ん?」
千冬が扉を開けた玄関には、弟の靴、これはあって当然。
その他にもう一足、黒を基調とした靴が置かれており、その靴のサイズは弟の靴とそう変わりが無い大きさからして、弟の友達が来ていると察する。
弟である一夏が赤や青と言った歳相応の色を好みのとは対照的なまでに黒と言う色を好む一夏の友達。
千冬の頭の中では一人しか該当しなかった。
「あいつか……」
頭の中でその姿を思い浮かべた千冬は右手で右目を覆うように手を翳し、溜め息を一つ落す。
最近やけに一夏が気に入っているその人物。
一夏曰く『すっげぇ強くて、すっげぇ怖くて、すっげぇ面白い奴』と言う3すっげぇを弟の口からほしいままにしているその人物が、千冬は苦手だった。
小学生とは思えない振る舞いに、その振る舞いが妙に板になっていて生意気な感じがしないその雰囲気。
何より全てを見透かされそうな黒い瞳、その瞳が千冬が一番苦手とする要因だった。
その瞳で見られると、自らの心の中が全て覗かれ、黒い感情の部分すら気付かれていそうな気がして、千冬はそれが苦手……いや、ハッキリ言ってしまえば、怖かったのだ。
そんな人物が今一夏が連れてきている事実に、ふと今から踵を返して玄関の扉を開け、猛烈に外へ散歩に行きたくなる衝動に駆られた。
しかし、玄関の開閉の音を聞きつけたのか、家の奥から軽い足音がパタパタと駆けて来る音が聞えて、その衝動は諦める事にする。
「おかえり! 千冬姉!」
「あぁ、ただいま、一夏」
白のTシャツに、青い半ズボンと言う服装で満面の笑顔を浮かべ、千冬を迎える一夏に、ふっと千冬の頬が緩むが、そのすぐ後に一夏の後ろから音も無く現れた、黒の長袖長ズボンのジャージに身を包む人物に、千冬の表情も少しばかり硬くなる。
「お邪魔してます。千冬さん」
「あぁ、ゆっくりしていけ、と言いたい所だが、そろそろ良い時間だぞ?」
一夏の友達には、それなりに普通の対応を心掛けている千冬だが、どうしてもこの黒を好み、全てを見透かされそうな鋭く黒い瞳を持った、柏木翔と言う名前の男の子には、苦手意識が先行してしまうのか、ぶっきらぼうに帰宅の意を促すような台詞が出てしまう。
そんな千冬の物言いに、特に気分を害した様子も、年上の女性から少し硬い声で言われた事による恐縮なども感じられず、ただいつもの感情を読ませないような無表情に近い表情で、千冬の言葉に一つ頷く。
「心配しなくとも、もうそろそろ帰ります。ロードワークの時間ですから」
静かにそう千冬に言い返す翔の言葉に、一夏があからさまに残念そうな声を上げる。
「えー! もうかえるの? まだもう少しいいじゃん!」
「む、スマンな、一夏、俺にもやる事があってな、また誘ってくれ」
「じゃあ、あした! あしたは!?」
小学生ながらも、用事があると言う翔を強く引き止める事は出来ないと悟ったのか、明日の用事を翔に間髪入れず聞いてくる一夏。
そんな一夏の様子に、翔は少しだけ眉を顰めるが、それも一瞬の事。
次の瞬間にはいつもの感情を読ませない表情へと戻っていた。
「大丈夫だ」
「じゃあじゃあ、あしたやくそくな!」
「あぁ……では、千冬さん、お邪魔しました」
元気良く翔に明日の約束を取り付ける一夏に翔は、仕方のない奴だ、と言うように、明らかに小学生が浮かべるとは思えない苦笑を一つ浮かべて、一夏に応える。
その後、千冬に向かって、軽く頭を下げ、靴を履いて玄関を開けて呼吸を整えると、軽い足取りで走り出し、吸って吸って吐く、と言うリズムの呼吸音と共に、織斑家から姿を消した。
どうやらロードワークと言うのは本当の事らしい。
一夏は気がつかなかった様だが、長袖のジャージに隠されていた手首には軽いウェイトリストを巻き、ロードワークに行った翔が家から去った事で、少し安堵の息を吐いていた。
軽いウェイトリストだったのは、身体が出来上がっていない時期に筋肉を鍛えすぎるのは良くないと知っているからだろう。
そんな歳不相応な知識を使いながら肉体を着実に鍛え上げる柏木翔と言う少年が、千冬はやはり苦手だった。
既に閉まっている玄関を一瞥し、すぐに一夏に向き直る。
「今日も学校は楽しかったか?」
「うん! 翔がさ……」
学校での様子を聞くと開口一番に先程帰って行った少年の事が一夏の口から飛び出し、その勢いのよさに、またあの少年の話をたんまりと聞かされてしまう様だ、と内心そんな一夏の様子に苦笑しつつ、一夏と連れ立って家の奥へと千冬は姿を消した。
早朝、まだ日が完全に昇る少し前の薄暗い時間、刺すような冷たさを含む乾いた空気の中、篠ノ之家にある道場で、空気を切り裂く音が木霊している。
道場、空気を切り裂かんばかりに鋭い音、この二つから導き出されるものは無論、素振りと言うものだが、先程から途切れる事無く続いているこの音は、木刀と言う木製の物を振るよりも、数段鋭い音。
まだ薄暗い道場の中を煌く白銀の剣閃、果たして振られているのは木製の刀ではなく、真剣と呼ばれる刃物だった。
そしてそれを厳しい表情で振るっているのは、織斑千冬、その人物だった。
普段の表情よりも、更に険しい顔をしている千冬の脳裏に浮かぶのは、昨日の一夏の……いや、ここ最近の一夏の話だった。
「…………」
ここ最近一夏の口からは、柏木翔と言う、かなり変わっている少年の話しか聞かない。
やれ翔がテストで良い点を取った。やれ翔が学校にある遊具を回したらそれに掴まっていた友人が50m程宙に投げ出され吹き飛んだ。それを翔がキャッチした。翔が上級生に絡まれていた子を助けた。翔の事が好きな女の子が一杯いる。翔と一緒に鬼ごっこをしたがすぐに掴まった。翔が難しそうな本を読んでいた。翔がよく分からない事を時々口走る。翔が、翔が、翔が……etc.
お前は恋する乙女か! と激しく突っ込みたくなるような衝動に駆られた千冬だが、まだ小学生の可愛い弟にそんな事をする千冬ではなかった。
だが、最近の一夏の話にもやもやと嫌な感情を覚えている事は確かだった。
徐々に、だが確実に、柏木翔と言う少年は、一夏にとって無二の親友になりつつある。
その事態は、千冬にとっては見逃せない事だった。
そこまで一夏が心を許している友人に、もし何かのきっかけで裏切られたら? そうなれば一夏は心に消えない傷を負うだろう。
そんな事は千冬にとって見逃す事の出来ない事態だった。
悪い可能性のある芽は早めに摘み取らなければならない……。
「そうだ……摘み取らねばな」
すぅ……と鋭い瞳を細め、刀を鞘に納めたまま腰の横まで持ち、自然体に構える。
途切れる事無く動き回っていた先程の動きとは打って変わって、空気すら停滞したように静まり返る道場の雰囲気。
千冬の細められた鋭い瞳には何かが見えているのか、実際にそこには居ない何かを、もしくは誰かを睨み付けている様にも見える。
その状態でどれだけ居たのか分からないほどに集中している千冬の右足が、すっと動いた瞬間。
白銀の一閃と空気を文字通り切り裂く音が『二つ』道場内に木霊し、千冬は振り抜いた刀を鞘へ納め、カチンと言う金属がぶつかる軽い音を響かせ、残心。
「良い時間だな……ロードワークに行くか」
残心を終えた千冬は、道場から差し込む日の光を目に入れ、そう呟く。
日の光に照らされた千冬の姿は、黒の袴に白の胴着、所謂剣道着と呼ばれるものに酷似している服装に、長細い黒い棒のような物、先程振られていた日本刀が片手に持たれている。
凛々しい表情の千冬は、道場の端に置かれていた自らのスポーツバックへ歩み寄り、中からスポーツタオルを取り出し、刺すような冷たい空気にも拘らず汗ばんでいる額や頬、首から鎖骨と簡単に拭いていく。
その姿は凛々しいと同時に、男性から見れば、非常に魅力的な姿に映るであろう事が良く分かる。
最近成長が著しい身体を、凛とした佇まいを感じさせる剣道着に包まれ、その成長度合いを明らかに隠せていない胸元、逆に成長しているのかどうか分からない細く括れのある腰つきは、絞られている袴を見ればすぐにわかる。
そして顔の造形は、美女と言う評価を付ける以外に選択肢が見当たらない。
今の時間帯は千冬しか道場に居ない為、どうともないが、門下生の男性が居たならば、鍛錬の集中力を大きく削ぐ要因になっていたであろう事は容易に想像がつく。
剣道着を身に纏ったまま拭ける箇所の汗は一通り拭き終わったのを確認して、千冬は息を吐き出し、更衣室へ足を向ける。
「今日は何処を通るか……」
静かに考えにふける一言を呟きつつ、日が差し込む道場の中を一人歩き、千冬は更衣室の中へ消えた。
「はっ、はっ、はっ、はっ……」
道場の更衣室で黒に白のラインがズボンの裾の側面と、上着の袖に一本ずつ通っている簡素なジャージに着替えた千冬は、一旦家へ帰宅し、一夏を起こし、スポーツバックを置いて、家を出てロードワークに向かった。
日が出る前の暗い道でのロードワークが千冬はあまり好きでは無い為、道場で型の確認や素振り等と言った刀を使う鍛錬を先にこなしてから、ロードワークと言う流れが千冬の昔から変わらぬ鍛錬の流れだった。
柔軟を含めたロードワークを先に行い、身体を温めてから、実際の鍛錬に入ると言うのが普通合理的である事はわかっているのだが、朝日を浴びながら、澄んだ空気を己の身体に吸い込み、ただ無心で走る。
これが千冬はたまらなく好きだった。
だから日が昇る時間の遅い冬は、効率的ではないと理解しつつも、この流れを維持しているのだ。
「やはり、朝日の見える、時間の、はっ、ロードワークは、気分がいい……」
朝靄と朝日でいつもより少しばかり白く映る辺りの景色に、千冬はふっと笑みを浮かべ、己の身体で朝靄を切る様に変わらぬリズムで走り続け、少し小高い丘に差し掛かる。
ここを上りきれば、一旦休憩。
上りきった先で、暫く街を眺めてから、家へと帰る。
千冬はこの丘の上から眺める街並みが好きだった。
その為、この丘へ至る道筋が違えども、最終的にはこの丘に着く様に、千冬のロードワークのコースは組まれていた。
丘へと上る坂に差し掛かっても、一定のリズムからその速度を落す事無く走り続ける千冬にとって、丘の頂上へ続く坂を走破する事など容易い事。
5分と掛からず丘の頂上が視界に入り、笑みを浮かべようとする千冬の頬が停止し、代わりに眉が怪訝さを表す様に顰められる。
千冬の視界に入ったのは、誰も居ない丘ではなく、朝靄の中に浮かぶ先客の影だった。
その人影が誰か分からず、眉を顰めていた千冬だったが、段々と近付き、その人影の正体が分かると千冬の眉は益々歪み、苦虫を噛み潰したような表情が出てくる。
この時点で、千冬は踵を返して来た道を引き返そうとも思ったが、いつも見ている景色が見たかったのもあるし、何より、ここで踵を返しては、何となくその人物から逃げた様に思えて癪だったと言うのも大きい。
(そうだ、何故私が逃げなければならないんだ)
そう強く思うと、苦虫を噛み潰したような表情を消し、その人物へと近付き、あえて隣に並んで街並みを共に見下ろす。
「おはようございます。千冬さん」
「あぁ、おはよう」
今日の先客……昨日と同じ黒のジャージに身を包んだ鋭い瞳の少年、柏木翔は千冬が隣に並んだ瞬間に、軽く頭を下げて挨拶はしてきたが、それ以降は何も話そうとはせず、ただいつもの感情を悟らせない表情で街を静かに見下ろしているだけ。
正直な話、千冬は言葉に表せぬ程に落ち着かなさを感じていた。
無論表情には出てないが、何も語ろうとせず、じっとそこに居るだけの翔に、拒絶されているように感じていた。
それほどまでに柏木翔と言う少年の纏う雰囲気は、弟である一夏と同じ年だとは思えなかった。
勿論、翔としては拒絶しているわけではなく、千冬が居る事を認めながらも、これが自分達の今の関係だと受け入れているだけなのだが、千冬にはそんな事分かるわけが無い。
自分でも鋭いと自覚している瞳だけを動かし、自らの左側に立つ翔をチラリと見やるが、何か居心地の悪さを感じている様子は無い。
そこに小さくはあるが、妙な敗北感を千冬は感じる。
だが、今のこの状況は、千冬にとって、それほど悪いわけではない。
剣を振っている最中に考えていた事を警告する良い機会、幸いにも一夏がいない子の状況は、千冬にとって都合が良かった。
「柏木」
「何でしょう?」
静かな千冬の問い掛けに、静かな翔の応答。
二人の視線は未だに、少しの朝靄と溢れんばかりの朝日の光が包み込む街並みへと注がれている。
「単刀直入に言おう、一夏ともう少し距離を取れ」
「……説明をしてもらっても?」
千冬を力強い黒の瞳で見上げてくる翔を、千冬は睨みつけるようにして見下ろすが、翔に怯んだ様子は無く、千冬の眼光をしっかりと受け止めている。
明らかに小学生らしくない翔の振る舞いに、つい流されてしまいそうになるが、正真正銘、柏木翔は弟と同じ小学生。
その事を感じて、千冬は一瞬、大人げないという感情に捕らわれるが、それを振り払い、翔と相対する。
「私達は両親に裏切られた。これ以上大切な者から裏切られれば、一夏の心には消えない傷がつく、お前なら分かるだろう?」
「その可能性のある俺から潰していく、と言う事ですか」
「そうだ、話は分かったな?」
「理解はしました。が、それに従う事は出来ません」
ほぼ予想通りの台詞が翔から返って来た事で、千冬は眉を顰めながら、小さく舌を打つ。
「何故だ? 一夏が傷ついても良いのか?」
「俺は裏切るつもりなど毛頭ありません」
「だが、お前にその気が無くとも、状況が許さない事もある」
「ならばその状況を断ち斬って裏切らないようにするだけ」
自信満々にそう言い切る翔に、訳のわからない苛立ちを覚え、千冬の眉根は更に釣り上がっていくが、翔の表情に波紋は立たず、冷静そのもの。
「一夏は私が守らなければならない……その為には少々痛い目を見てもらうこともあるが?」
「千冬さん、貴方のその考えは、『守る』ではない、ただ檻の中に閉じ込め、誰からも触れられないようにしているだけ」
「触れられなければ、心を許す事も無い、裏切られる事も無い、傷つく事も無い」
「だが、そうして一夏は喜びますか? 駄目だと押さえつけて、一夏がどう思っているか、貴女はそれを知らない」
「知った風な口を!」
一夏の事を理解しているという口ぶりの翔の発言に、思わず千冬は声を荒げて怒鳴るが、それでも翔の表情は崩れる事は無い。
それ所か、千冬の発言を肯定するように静かに頷く。
「勿論、貴女だけが知っている一夏もあるでしょう。ですが、俺達友達に見せる一夏と言うのも確かに存在します」
「お前が、一夏の何を知っていると……」
「知っています。だからこそ、一夏と貴女の間にある差異を埋めなければならない」
千冬の台詞に被せる様にして静かに言い放った翔夜の鋭い眼光に、千冬は思わず怯む。
そんな千冬の様子など知った事ではないと言う様に、翔は静かに言葉を続ける。
「その為にも、一夏から離れる訳にもいかない。そして、貴女にも知ってもらわなければならない。その為に……一度貴女には膝を折ってもらわないとならない」
腕を組みながら、威風堂々、目上であるはずの千冬に臆した様子も無くそう言い放つ翔の姿に、思わず千冬は、はっと空気の抜けるような音と共に笑い声が漏れる。
今目の前の少年は何と言った? 千冬の膝を折る、それはつまり、千冬に対して堂々と勝利宣言をしたと言ってもいいだろう。
その事を理解した千冬は、笑っていた声を止め、底冷えのするような視線で、腕を組んで威風堂々と立つ翔夜を捕らえる。
「あまり調子に乗るなよ? ガキが」
ハードボイルドな台詞を恥ずかしげも無く小学生に言い切る千冬だが、無論その表情はこれ以上無いほどに真剣、と言うよりも、完全に翔を睨んでいる。
その言葉を悠然と受け入れる様にして仁王立ちの翔も、明らかに普通の小学生では無いほどに、表情が引き締まり、その鋭い瞳で、千冬を見上げている。
「やってみなければわかりませんよ、もし俺が勝ったら、しっかりと一夏の言葉を聞いてあげてください」
「私は普段から一夏の言葉を真摯に受け止めているが……まぁ、いいだろう」
釈然としない表情を浮かべる千冬だが、翔の出した条件に悠然と頷く。
勿論、千冬は一夏が自分に隠している気持ちが無いと思っているからこその表情であるが、翔はどうもそう思っていないらしく、決闘の提案を取り下げるつもりが無いようだ。
「俺が負けた時は千冬さんの言葉を受け入れます」
「わかった、それで良い、勝負方法は?」
「無論、剣で」
「無謀と言わざるを得ないと思うが?」
千冬の忠告とも取れる言葉に、翔は軽く首を横に振る。
「心配ありません、俺も剣を嗜んでいます」
「……いいだろう、では得物は木刀、場所は篠ノ之道場、時間は明日の夕刻。これでどうだ?」
「承知」
千冬からの条件にゆったりと頷く翔を確認した瞬間。
一夏の姉と、一夏の親友による、一夏の為の決闘がここに決定された。
お前の姉と決着をつける事になった。と静かに言われた翔の言葉に、学校が終わった後の夕刻、一夏は、千冬と翔が木刀を持って互いに向き合う篠ノ之道場に居た。
一夏の様子は尋常ではない翔と千冬の様子にオロオロと慌てるばかり、この二人を止めようと思っていないわけではなく、止めても止まらない二人だと朧気ながら理解しているからこそ、どうして良いのかわからないのだ。
「千冬姉も翔も、や、やめよ? なっ?」
「否、どうせいつか通る道だった」
小学生とは思えないほどに引き締まった顔つきで千冬を見据える翔に、緊張と言うものは無かった。
ただ、右手に木刀の刃の部分を下にするように持ち、そこに佇んでいる。
「柏木の言う通り、いつかは通る道だった。お前は黙ってみていろ」
「うっ……わ、わかったよ」
少々高圧的な物言いで、鋭い視線に捕らえられた一夏は、しゅんとしたように顔をうつむかせ、肩を落す。
そんな一夏の様子を横目で見ていた翔は、珍しい事に溜め息を一つ吐き出し、剣を正眼に構えると同時に誰にも聞えぬ声でそっと呟く。
「誰かが、断ち斬るしかない……」
翔が木刀を正眼に構えるのを見て、千冬も正眼へ、ひゅっと互いの木刀が軽く空気を裂く音が聞え、互いにぴたりと正眼の位置で止められる。
互いに戦う者として、合図などいらない事を理解している。
剣を向け合ったその瞬間から、戦いは既に始まっているのだ。
身の引き締まるような寒さと張り詰めた空気が支配する静かな道場の中心で、互いに視線を交わしあいながら、読み合う千冬と翔の静かな攻防戦は、まず翔から破られる事になる。
翔の構える木刀の切っ先が、よくよく見てみれば分からない程度にだが、ゆらりゆらりと揺れている。
(小細工を……)
集中力が限界まで高まり、相手の動作の一挙一動を見逃さないような状況の場合、相手の行動と言うのは、どれ程小さな動きでも察知してしまう。
そんな状況において、自らの動体視力を頼りに相手の動きを追う様な人物には、今翔が行っているような切っ先を揺らすという小さな行動がどうしても相手の目を引き付ける。
だが、相手の全体を満遍なく見渡し、色々な場所の身体の動きから、相手の行動を予測すると言う技術を持った相手には、この技術は所詮は小手先の技術でしかない。
そんなものを今のこの状況で使ってくる翔に、少しばかり落胆の感情を感じる千冬だったが、その状況はすぐさま破られる事になる。
「な……に? ぐっ!」
千冬が翔に落胆を感じた瞬間に、軽く道場の床が軋みを上げる音が聞えた刹那の後、木を踏み抜くような大きな音が響き、その音が道場に響くと同時と言っても良いような時間で、千冬の視界には木刀を振り上げている翔の姿が映る。
その信じられない光景に、呆然とした声を上げる千冬だが、身体が勝手に反応し、翔の真っ直ぐ振り下ろされる木刀を、自らの木刀の腹で逸らす様にしていなし、すぐさま距離を取る。
翔にも追撃するつもりは無いらしく、後方へ跳んだ千冬を追う事無く、その場で千冬を見据え、正眼の構えを解いていない。
油断無く千冬を見る翔を見据えながらも、千冬は、先程の上段振り下ろしを木刀を横にして上段に掲げる等と言った愚考で受けなかった事に対して自ら賞賛していた。
もしあの振り下ろしを上段に木刀を掲げて受けていれば、わき腹に痛烈な蹴りが入っていただろう。
千冬の目を持ってしても一瞬姿を見失うほどの踏み込みが可能な脚力を保有する足からの蹴りなど、当たった時の事を考えると想像したくない事態が待っているのは間違いない。
「とんだペテン師だな、小細工を仕掛けたのはブラフか?」
相変わらず睨みつけるような眼光ではあるが、声の色は少し翔を見直した様な感情が見て取れる。
それに対し、翔は正眼を解かず、注意深く千冬の全体の動きに気を配りながら、千冬の見直したような声の疑問に、静かに答える。
「そう言う意図が無いとは言いませんが、自分はまだ未熟、0から1に移る瞬間の予備動作がまだ消せていないというだけです」
「なるほど……自分の欠点すら相手を惑わす為の手段に使うか……」
「未熟ゆえに……」
静かにそう応える翔に、千冬は、この戦いが始まる前にはまだ少しばかり残っていた翔に対しての侮りや油断、そう言ったものを完全に捨て去る。
油断して良い相手ではない……千冬自身の勘がそう伝えていた。
そして、そんな千冬の雰囲気や眼光の色の移り変わりを見て、翔は少しばかり眉を動かすが、その瞳の色は少し安堵したような色が浮かんでいた。
「では次はこちらからだ」
油断の消えた千冬が静かに呟いた瞬間。
彼女の利き足が床を擦る翔にして滑り、翔へと一歩静かに踏み込む。
翔の脚力から繰り出される神速の踏み込みとは違い派手さは無いが、洗練された流れを感じる動き、決して速くは無いのに、気がつけば間合いを詰められているような歩法。
人間の目を錯覚させる為の足取りで、普通のものであれば……いや、それなりの剣の使い手ですら、千冬の歩法に気がついた時にはその間合いの詰め方に対処する間も無く斬り捨てられているであろう。
そして、その動きで今着実に翔との距離を詰め、完全に千冬の間合いに入った翔。
瞬間、千冬の手首が翻り、翔の右肩口に袈裟懸けが吸い込まれる、無論、翔の鋭い瞳はその斬撃を捉えていた。
千冬のコンパクトな振りからの袈裟懸けを、千冬の木刀にクロスする形で当てて、防ごうと手を動かす……。
「がっ!?」
だが、その袈裟懸けは受ける事は叶わず、いや、受けようと思った瞬間には剣は振り切られ、何故か翔の身体はわき腹に衝撃を受け、そのまま道場の中を右に吹き飛び、床に身体がついた後は勢い良く床の上を転がり、その反動でくるりと身体を転がし、足を突いて回転の勢いを止める。
そんな事になっても手放してはいない木刀を千冬へ向き直りながら構える。
が、その時には千冬は翔の目の前に居り、右からの胴をなぎ払う様な鋭い一撃、それを上から打ち落とす為、右から胴を狙った水平軌道の斬撃に対してコンパクトに木刀を振り下ろす。
しかし、気がつけば、翔の身体はまたもや吹き飛んでいる。
方向としては右に、これは非常におかしな話だ、右から確かに斬撃が来たのに、気がつけば右に吹き飛ばされていた。
その答えは単純にして明快、左から斬撃が迫り、それに当たっただけの事。
受身を取って一回転、床に膝をついて、立ち上がりながら、千冬を見据える。
「素晴らしい返し手の速度ですね」
「二断一閃と言う、もうこれで二回私の斬撃を受けたわけだが、真剣だったならもうお前の身体は二つに分かれているぞ?」
「だとしても、持っているのは真剣ではなく木刀。それに何より俺はまだ剣を手放してはいません」
「そうか……」
暗に実践ならば既に死んでいると言っている千冬に対して、翔が言ったのは勝負続行の意思。
左のわき腹と左腕の上から痛烈な斬撃を貰った翔だが、その表情は相変わらず感情を悟らせない表情のまま、すくっと立ち上がり、足元もしっかりとしている。
その様子からして、内臓を揺さぶられたような様子も無い。
そんな様子の翔を目の当たりにして、千冬は瞳を細めて油断していない表情をしながらも、呆れたように溜め息を一つ吐き出す。
「呆れるほどに頑丈だな」
「取り柄の一つですから」
静かに言葉を重ねあう翔と千冬。
冷静なのはその二人だけで、道場の端に座っていた一夏はその限りではなく、親友が打ちのめされる姿を見て、驚愕の表情を浮かべていた。
一夏にとって、勿論最強の像は自らの姉だったのだが、柏木翔と言う男が目の前に現れてから、姉にも勝るとも劣らない人物が出てきて、一夏の憧れを千冬が独占していた状況から、翔も憧れの対象として見つめ、いつしか、姉と同等の憧れを抱くようになっていた。
そんな憧れの極みの片方が、もう一方の憧れによって打ちのめされつつある。
その現実に、一夏は内心、これ以上無いほどに慌てていた。一夏自身も幼馴染の箒がいた時に剣を嗜んでいたが、それも二人の腕に割って入れるほどでは無い事も自覚していた。
だからこそ、今の自分が無力だと、どうにかしたいと思いながらも、道場の端でじっとしているしかなかった。
悔しさに震える一夏を横目で見ながら、翔はほんの一瞬の間、ふっと笑みを浮かべるが、それはすぐに消え、またしても真剣な眼差しで、千冬を見据える。
(そうだ、悔しさを感じろ、そうして何も出来なかった自分を終わらせろ、一夏)
瞳と意識の大半を目の前に立つ千冬に向けながらも、翔は一夏に対してそう思う。
そうしている間にも、千冬はじりじりと間合いを詰め、またしても翔が千冬の間合いに入った。
先程と同じ様に千冬の手首が翻り、翔の身体を完全に捉える。
次は翔の左肩口を狙う袈裟懸けが吸い込まれる、しかし、今度は翔は木刀を動かす気配は無く、そのまますっと左足を後ろに大きく引き、身体を半身にずらす。
その瞬間、翔の身体にギリギリ当たらない程度の斬撃が、一閃、だが空気を切り裂く音は二度発生している。
振り下ろされた袈裟懸けの軌道をぴたりとなぞる形で切り上げた逆袈裟は、まさしく神速の斬り返しと言える。
二断一閃、とはよく言ったものだと、翔は冷静な頭の片隅で考えるが、身体はその間も勝手に動き始めている。
翔の瞳が捕らえている千冬の動きは、避けられた斬撃を更に斬り返す為に手首を捻っている瞬間を取れえており、その刹那の瞬間に、引いていた左足を一歩千冬へと踏み込ませ、千冬の手首が完全に返り、柄尻が振り下ろす腕の内側に隠れる瞬間、翔は木刀を跳ね上げ、その刀身を的確に柄尻へ吸い込ませる。
翔の剣の軌道を鋭い瞳で捉えていた千冬の表情が驚愕の色を浮かべるが、もう既に腕の力は千冬から見て左斜め下へとベクトルを向けており、もう止める事は出来ない。
振り上げた翔の木刀の刀身と、振り下ろした千冬の木刀の柄尻が触れ合った瞬間。
道場の中に硬い木と木が反発しあう音が響き、千冬の手から木刀は離れ、道場の宙を舞う、それでも翔の動きは止まらず、もう一歩、次は右足を千冬の軽く開かれている足の間に割り込ませるように踏み込み、振り上げていた腕をすぐさま折りたたみ、そのまま柄尻を前へ押し出すようにしてコンパクトに腕を押し出す。
押し出された柄尻は、寸分違わず、千冬の水月へと吸い込まれ、千冬の口から息が強制的に吐き出される音が聞える。
「かはっ……」
その瞬間、千冬の意識は遠のき、目の前を闇が支配する寸前に見たのは、相変わらず、全てを見透かしそうな黒い瞳を持つ弟と同じ年代の男の子の姿だった。
黒の少年の持つ瞳は、全てを見透かされそうだと思いながらも、何故か、その瞳を見ていると、肩の荷が下りたように感じられる。
そんな感情と共に、千冬の意識は闇へと沈んだ。
千冬が瞳を開けた瞬間、飛び込んできたのは人口の光だと分かる眩しい蛍光灯の光。
意識があった時はまだ、夕日が道場の中を照らしていた為、つけなかったのだが、これが点いているという事は、もう既に辺りは闇に包まれているのだろう。
締め切られた道場の扉を見やりながらそう考え、千冬はゆっくりと辺りへ視線を配る。
するとすぐに見つかったのが、心配そうに見つめて千冬の傍に座り込む一夏の姿だ、千冬はどうやら現在、壁際に寝かされているようで、瞳を動かすだけではもう一人の黒の少年の姿を見つかる事は出来なかったが、上体を起こすと、その姿はすぐに視界へ入ってきた。
翔は千冬が寝かされていた壁際の壁に腕を組みながら背をもたれさせて立っていた。
その瞳は静かに閉じられ、何を考えているのか分からないが、相変わらず小学生らしくない表情と雰囲気である。
そんな翔をぼうっと、見詰めていると、一夏から声が掛かる。
「千冬姉、だ、だいじょうぶなの?」
「あぁ、大丈夫だ」
「そっか、良かった……」
かなり心配していたのだろう、千冬が軽く笑みを浮かべて、問題ないと言うまで一夏の表情の強張りは解けなかった。
が、今は心底安心したように笑顔を浮かべている。
千冬は穏やかな目で思わず一夏の頭を撫でる。
一夏はそんな千冬の様子を不思議そうに首を捻っている。
軽く一夏の頭を撫で終えると、千冬は視線を翔へと向ける。
翔の方も、話を進めようと思っていたのか、壁から背を離し、瞳を閉じる事で隠されていた鋭い瞳を開き、一夏の隣に座り込む。
「で? お前が勝ったら一夏の気持ちを聞くと言う事だが、何かあるのか?」
翔が勝った時の条件を確認しながら、翔から一夏へと視線を移すが、一夏は怯んだように、視線をついっと横にずらし、翔へとすがるような視線を向ける。
そんな一夏に、困った奴だと言うように苦笑を浮かべながら、一夏の後頭部を軽くはたく。
「千冬さんが気持ちを聞いてくれると言っている。それに今なら大丈夫だ、千冬さんも、そしてお前も」
そうだな? と念を押すように言葉を投げる翔の声に、一夏は先程の気持ちを思い出す。
(そうだ、何も出来ないのはいやなんだ、千冬姉にこれぐらい言えなかったら、俺はこれからも何も出来ない)
意を決したように翔は顔を上げ、千冬の顔を見つめ、静かに自分の心情を吐露する為に口を開く。
「千冬姉、俺、翔やみんなともっとなかよくなりたい、楽しくあそびたい。千冬姉が俺を守るために色々言ってくれるのは嬉しいけど、でも、俺はみんなをもっと信じてみたいんだ、うらぎられるのが怖くても、でもみんなを信じて仲良くなりたいんだ」
信じたい、力強くそう千冬に言い放った一夏の姿に、千冬は軽く目を見開き、そして自嘲するようにして声を吐き出す。
「一夏は、強いんだな?」
「ちがうよ、強くなる事を決めたんだ」
そう言って笑いながら翔を見る一夏に釣られて、千冬も翔へと視線を動かし、相変わらず小学生だと思えないような少年を見据える。
一夏の素直な心情を聞けた千冬は、ふと、翔の考えていた事を悟る。
今まで千冬は誰にも負けた事が無かった。
それは無論男も女も関係なくと言う意味で、そして、強さを手に入れた千冬にとって、一夏はまだ守らなければならない弱者だった。
両親に守ってもらえなかった千冬は、両親に代わって一夏を守らなければならない、その義務感に囚われ、気がつけば、外へ出たい、遊びたい、そんな一夏の自由な意思を押さえつけ、誰の手も届かない檻の中へ閉じ込めるという状況になっていた。
それは男にも負けなかった自分への過剰な自信と、信じたものからの裏切りへの恐怖、そして自分は一夏を裏切らないと言う、絶対の自信等が重なり起こった事だった。
翔はそれを理解しながら、一つ一つ解いていったのではないのか?
自身の強さに対する過剰な自信を断ち斬り、外へ出たいと手を伸ばす一夏の意思を知り、千冬の恐怖を知り、最終的にはその全てを斬り払う為のきっかけを、視野狭窄に陥っていた千冬と、檻から出たくとも、自分を守ろうとする千冬を理解していたからこそ言い出せなかった一夏に与えたのかもしれない。
「そうか、ならばお前の好きにしろ。私はそれを見守るさ」
「うん!」
眩しいまでの一夏の笑顔を見た千冬の耳には、一夏の元気な返事の他に、翔の小さな呟きも聞き取っていた。
「二人とも、前へ進んだか……」
その一言で、千冬は自分が感じた翔に対する考えが間違っていないと益々確信を高めていた。
同時に、やはり千冬は思ってしまう事がある。
(こいつ、本当に小学生なのか?)
今ここで翔が、実は発育が異常に悪い28歳だと言われても、多分何の違和感も無く受け入れるであろう自信が、千冬にはあった。
気がつけば、千冬の中にあった翔に対する苦手意識は、綺麗さっぱりとなくなっていた。
それすらも、柏木翔と言う少年は断ち斬ったのかもしれない、そう考えた千冬は、根拠は無いが、あながち否定できない考えに、笑みを浮かべながら口を開く。
「翔、今日は遅い、家に泊まっていくか?」
「えっ!? いいの!?」
「あぁ、私は構わん」
「では、お邪魔する事にします」
驚きつつも嬉しそうに笑顔を浮かべる一夏と、静かに千冬の提案に同意の意を示す翔。
二人の温度差に何処かおかしさを覚えながらも、千冬は立ち上がり、一夏とその親友、柏木翔と共に篠ノ之道場の戸締りをし、剣道着の上から、持ってきていたジャンバーを羽織り、道場を後にして、岐路へとつく。
何をしようかと嬉しそうに翔へ相談を持ちかける一夏と、それに静かに相槌を打ちながら話を聞いている剣道着姿の翔に向かって、千冬は声を掛ける。
「翔、家には連絡を入れるんだぞ?」
「承知」
この冬の寒い夜空の下、寒そうな態度を欠片も見せない剣道着姿の少年と、千冬の関係は、刺すような寒い空気が当たり前の季節に始まったのだ。
目の前に置かれていたコーヒーカップの中にはもう既に入っていたブルーマウンテンはなくなっており、あの冬の日にまだ少年だった柏木翔は、今青年となって、こうして静かに千冬の前に座っている。
その事実に少し嬉しくなった千冬は笑みを浮かべ、翔に話し掛ける。
「あの冬の日、私はお前に負けた」
「今思えば俺もあの時はまだ未熟だったな……」
過去を反復するように瞳を閉じて、一つ頷く翔。
そんな翔に、楽しそうに、だがクールに笑う千冬。
今の千冬なら、あの時の翔には恐らく勝てる。が、今の性別の違いから来る能力差が決定的に開いてしまった今は、逆立ちしても千冬が翔に勝てる事は無い。
柔よく剛を制す。それは両者が拮抗している場合か、柔が剛より強かっただけだ。
今の翔は、強靭すぎる剛、それを制する事の出来る柔など、それは既に柔ではない。
「次の日のロードワークで私が翔に弟子入りしたいと言った時の、お前の顔は傑作だった」
「む……やはりあの時はまだまだ未熟だったと言う事か」
そう静かに、そしてしみじみそう語る翔の様子は、過去より洗練されてはいるが、その根本が変わっているわけではなく、千冬と一夏を前に進ませたあの頃と同じ。
そのことを察した千冬は益々嬉しそうに笑みを深め、満足したように一つ頷くと、席を立ち、翔の隣へと立ち、あの頃から比べると成長して、大きく、更に皮膚が硬くなった翔の手をそっと握る。
「未熟だったとしても、お前はあの頃から変わっていない、手もその瞳も、その魅力はあの頃から何も変わっていない」
熱の篭った様な千冬の台詞にも、やはり翔は表情を動かさず、ふむ? と呑気に首を捻っている。
千冬からの褒め言葉の意図を察する事の無いまま、褒め言葉は素直に受け取っておこうと考えを一区切りした翔は千冬の手を握り返し、翔自身も立ち上がり、伝票を持つ。
「そろそろ帰るか、千冬」
あの時とは違い、低くなった声で千冬の事を軽く呼び捨てる翔の姿に、無性に嬉しさのこみ上げてきた千冬は、珍しく柔らかい微笑を浮かべ、静かに翔の言葉に応える。
「あぁ……」
過去も振り返るが、それでも現在を、前を見続ける翔の姿に頬を綻ばせながら、千冬は内心、翔のその姿勢に同意を示す。
(あの頃もよかったが、今のお前はもっと魅力的だ)
妙に陶酔した様な表情のIS学園1年1組担任の織斑千冬は、クール、厳しい教官、等と言われており誰にも知られていないが、実はかなりの乙女である。
そんな乙女な彼女の心を魅了し続けているのは、昔も今も、そして恐らくこれからも、柏木翔と言う千冬の隣を静かに歩く黒の男だけである。
不幸があったとかではなく、母親と父親、二人揃って蒸発した。
簡潔に一言で言うならば捨てられたと言えば話は通じる。
織斑千冬には弟がいた。
それも小さな、まだ小学校に通っている小さな弟がいた。
両親の愛を注がれ、一人立ちするまで親に守られるはずだった弟の未来は、両親の蒸発によって、必然的に千冬の双肩に掛かってくる事になる。
その事自体は、千冬にとっても嫌ではなかった。
弟は可愛かったし、家族だから大切だと思っていた。
だからこそ、千冬は思うのだ、家族を裏切り、子供を捨てるような自分勝手な両親のようには絶対にならない、なってはいけない。
その苦く辛い思い出からなのか、千冬は進んで友達を作ろうとしない。
人をあまり信じる気にはなれないのだ。最も、自らの友人である正真正銘の天才ほどに人間不信ではないと声を大にして言い切れるのだが……。
少しばかり人間不信気味な千冬とは対照的に、その弟、織斑一夏は違った。
すぐに人を信じるし、信頼する。誰とでも仲良くなってすぐに友達になる。
そのおかげで、将来女性関係には頭を悩ませそうだが……。
そこまで考えて、家の前へ到着した千冬は、家の鍵を開け、扉を開く、この時間ならば弟はもう帰っているだろう。
「ん?」
千冬が扉を開けた玄関には、弟の靴、これはあって当然。
その他にもう一足、黒を基調とした靴が置かれており、その靴のサイズは弟の靴とそう変わりが無い大きさからして、弟の友達が来ていると察する。
弟である一夏が赤や青と言った歳相応の色を好みのとは対照的なまでに黒と言う色を好む一夏の友達。
千冬の頭の中では一人しか該当しなかった。
「あいつか……」
頭の中でその姿を思い浮かべた千冬は右手で右目を覆うように手を翳し、溜め息を一つ落す。
最近やけに一夏が気に入っているその人物。
一夏曰く『すっげぇ強くて、すっげぇ怖くて、すっげぇ面白い奴』と言う3すっげぇを弟の口からほしいままにしているその人物が、千冬は苦手だった。
小学生とは思えない振る舞いに、その振る舞いが妙に板になっていて生意気な感じがしないその雰囲気。
何より全てを見透かされそうな黒い瞳、その瞳が千冬が一番苦手とする要因だった。
その瞳で見られると、自らの心の中が全て覗かれ、黒い感情の部分すら気付かれていそうな気がして、千冬はそれが苦手……いや、ハッキリ言ってしまえば、怖かったのだ。
そんな人物が今一夏が連れてきている事実に、ふと今から踵を返して玄関の扉を開け、猛烈に外へ散歩に行きたくなる衝動に駆られた。
しかし、玄関の開閉の音を聞きつけたのか、家の奥から軽い足音がパタパタと駆けて来る音が聞えて、その衝動は諦める事にする。
「おかえり! 千冬姉!」
「あぁ、ただいま、一夏」
白のTシャツに、青い半ズボンと言う服装で満面の笑顔を浮かべ、千冬を迎える一夏に、ふっと千冬の頬が緩むが、そのすぐ後に一夏の後ろから音も無く現れた、黒の長袖長ズボンのジャージに身を包む人物に、千冬の表情も少しばかり硬くなる。
「お邪魔してます。千冬さん」
「あぁ、ゆっくりしていけ、と言いたい所だが、そろそろ良い時間だぞ?」
一夏の友達には、それなりに普通の対応を心掛けている千冬だが、どうしてもこの黒を好み、全てを見透かされそうな鋭く黒い瞳を持った、柏木翔と言う名前の男の子には、苦手意識が先行してしまうのか、ぶっきらぼうに帰宅の意を促すような台詞が出てしまう。
そんな千冬の物言いに、特に気分を害した様子も、年上の女性から少し硬い声で言われた事による恐縮なども感じられず、ただいつもの感情を読ませないような無表情に近い表情で、千冬の言葉に一つ頷く。
「心配しなくとも、もうそろそろ帰ります。ロードワークの時間ですから」
静かにそう千冬に言い返す翔の言葉に、一夏があからさまに残念そうな声を上げる。
「えー! もうかえるの? まだもう少しいいじゃん!」
「む、スマンな、一夏、俺にもやる事があってな、また誘ってくれ」
「じゃあ、あした! あしたは!?」
小学生ながらも、用事があると言う翔を強く引き止める事は出来ないと悟ったのか、明日の用事を翔に間髪入れず聞いてくる一夏。
そんな一夏の様子に、翔は少しだけ眉を顰めるが、それも一瞬の事。
次の瞬間にはいつもの感情を読ませない表情へと戻っていた。
「大丈夫だ」
「じゃあじゃあ、あしたやくそくな!」
「あぁ……では、千冬さん、お邪魔しました」
元気良く翔に明日の約束を取り付ける一夏に翔は、仕方のない奴だ、と言うように、明らかに小学生が浮かべるとは思えない苦笑を一つ浮かべて、一夏に応える。
その後、千冬に向かって、軽く頭を下げ、靴を履いて玄関を開けて呼吸を整えると、軽い足取りで走り出し、吸って吸って吐く、と言うリズムの呼吸音と共に、織斑家から姿を消した。
どうやらロードワークと言うのは本当の事らしい。
一夏は気がつかなかった様だが、長袖のジャージに隠されていた手首には軽いウェイトリストを巻き、ロードワークに行った翔が家から去った事で、少し安堵の息を吐いていた。
軽いウェイトリストだったのは、身体が出来上がっていない時期に筋肉を鍛えすぎるのは良くないと知っているからだろう。
そんな歳不相応な知識を使いながら肉体を着実に鍛え上げる柏木翔と言う少年が、千冬はやはり苦手だった。
既に閉まっている玄関を一瞥し、すぐに一夏に向き直る。
「今日も学校は楽しかったか?」
「うん! 翔がさ……」
学校での様子を聞くと開口一番に先程帰って行った少年の事が一夏の口から飛び出し、その勢いのよさに、またあの少年の話をたんまりと聞かされてしまう様だ、と内心そんな一夏の様子に苦笑しつつ、一夏と連れ立って家の奥へと千冬は姿を消した。
早朝、まだ日が完全に昇る少し前の薄暗い時間、刺すような冷たさを含む乾いた空気の中、篠ノ之家にある道場で、空気を切り裂く音が木霊している。
道場、空気を切り裂かんばかりに鋭い音、この二つから導き出されるものは無論、素振りと言うものだが、先程から途切れる事無く続いているこの音は、木刀と言う木製の物を振るよりも、数段鋭い音。
まだ薄暗い道場の中を煌く白銀の剣閃、果たして振られているのは木製の刀ではなく、真剣と呼ばれる刃物だった。
そしてそれを厳しい表情で振るっているのは、織斑千冬、その人物だった。
普段の表情よりも、更に険しい顔をしている千冬の脳裏に浮かぶのは、昨日の一夏の……いや、ここ最近の一夏の話だった。
「…………」
ここ最近一夏の口からは、柏木翔と言う、かなり変わっている少年の話しか聞かない。
やれ翔がテストで良い点を取った。やれ翔が学校にある遊具を回したらそれに掴まっていた友人が50m程宙に投げ出され吹き飛んだ。それを翔がキャッチした。翔が上級生に絡まれていた子を助けた。翔の事が好きな女の子が一杯いる。翔と一緒に鬼ごっこをしたがすぐに掴まった。翔が難しそうな本を読んでいた。翔がよく分からない事を時々口走る。翔が、翔が、翔が……etc.
お前は恋する乙女か! と激しく突っ込みたくなるような衝動に駆られた千冬だが、まだ小学生の可愛い弟にそんな事をする千冬ではなかった。
だが、最近の一夏の話にもやもやと嫌な感情を覚えている事は確かだった。
徐々に、だが確実に、柏木翔と言う少年は、一夏にとって無二の親友になりつつある。
その事態は、千冬にとっては見逃せない事だった。
そこまで一夏が心を許している友人に、もし何かのきっかけで裏切られたら? そうなれば一夏は心に消えない傷を負うだろう。
そんな事は千冬にとって見逃す事の出来ない事態だった。
悪い可能性のある芽は早めに摘み取らなければならない……。
「そうだ……摘み取らねばな」
すぅ……と鋭い瞳を細め、刀を鞘に納めたまま腰の横まで持ち、自然体に構える。
途切れる事無く動き回っていた先程の動きとは打って変わって、空気すら停滞したように静まり返る道場の雰囲気。
千冬の細められた鋭い瞳には何かが見えているのか、実際にそこには居ない何かを、もしくは誰かを睨み付けている様にも見える。
その状態でどれだけ居たのか分からないほどに集中している千冬の右足が、すっと動いた瞬間。
白銀の一閃と空気を文字通り切り裂く音が『二つ』道場内に木霊し、千冬は振り抜いた刀を鞘へ納め、カチンと言う金属がぶつかる軽い音を響かせ、残心。
「良い時間だな……ロードワークに行くか」
残心を終えた千冬は、道場から差し込む日の光を目に入れ、そう呟く。
日の光に照らされた千冬の姿は、黒の袴に白の胴着、所謂剣道着と呼ばれるものに酷似している服装に、長細い黒い棒のような物、先程振られていた日本刀が片手に持たれている。
凛々しい表情の千冬は、道場の端に置かれていた自らのスポーツバックへ歩み寄り、中からスポーツタオルを取り出し、刺すような冷たい空気にも拘らず汗ばんでいる額や頬、首から鎖骨と簡単に拭いていく。
その姿は凛々しいと同時に、男性から見れば、非常に魅力的な姿に映るであろう事が良く分かる。
最近成長が著しい身体を、凛とした佇まいを感じさせる剣道着に包まれ、その成長度合いを明らかに隠せていない胸元、逆に成長しているのかどうか分からない細く括れのある腰つきは、絞られている袴を見ればすぐにわかる。
そして顔の造形は、美女と言う評価を付ける以外に選択肢が見当たらない。
今の時間帯は千冬しか道場に居ない為、どうともないが、門下生の男性が居たならば、鍛錬の集中力を大きく削ぐ要因になっていたであろう事は容易に想像がつく。
剣道着を身に纏ったまま拭ける箇所の汗は一通り拭き終わったのを確認して、千冬は息を吐き出し、更衣室へ足を向ける。
「今日は何処を通るか……」
静かに考えにふける一言を呟きつつ、日が差し込む道場の中を一人歩き、千冬は更衣室の中へ消えた。
「はっ、はっ、はっ、はっ……」
道場の更衣室で黒に白のラインがズボンの裾の側面と、上着の袖に一本ずつ通っている簡素なジャージに着替えた千冬は、一旦家へ帰宅し、一夏を起こし、スポーツバックを置いて、家を出てロードワークに向かった。
日が出る前の暗い道でのロードワークが千冬はあまり好きでは無い為、道場で型の確認や素振り等と言った刀を使う鍛錬を先にこなしてから、ロードワークと言う流れが千冬の昔から変わらぬ鍛錬の流れだった。
柔軟を含めたロードワークを先に行い、身体を温めてから、実際の鍛錬に入ると言うのが普通合理的である事はわかっているのだが、朝日を浴びながら、澄んだ空気を己の身体に吸い込み、ただ無心で走る。
これが千冬はたまらなく好きだった。
だから日が昇る時間の遅い冬は、効率的ではないと理解しつつも、この流れを維持しているのだ。
「やはり、朝日の見える、時間の、はっ、ロードワークは、気分がいい……」
朝靄と朝日でいつもより少しばかり白く映る辺りの景色に、千冬はふっと笑みを浮かべ、己の身体で朝靄を切る様に変わらぬリズムで走り続け、少し小高い丘に差し掛かる。
ここを上りきれば、一旦休憩。
上りきった先で、暫く街を眺めてから、家へと帰る。
千冬はこの丘の上から眺める街並みが好きだった。
その為、この丘へ至る道筋が違えども、最終的にはこの丘に着く様に、千冬のロードワークのコースは組まれていた。
丘へと上る坂に差し掛かっても、一定のリズムからその速度を落す事無く走り続ける千冬にとって、丘の頂上へ続く坂を走破する事など容易い事。
5分と掛からず丘の頂上が視界に入り、笑みを浮かべようとする千冬の頬が停止し、代わりに眉が怪訝さを表す様に顰められる。
千冬の視界に入ったのは、誰も居ない丘ではなく、朝靄の中に浮かぶ先客の影だった。
その人影が誰か分からず、眉を顰めていた千冬だったが、段々と近付き、その人影の正体が分かると千冬の眉は益々歪み、苦虫を噛み潰したような表情が出てくる。
この時点で、千冬は踵を返して来た道を引き返そうとも思ったが、いつも見ている景色が見たかったのもあるし、何より、ここで踵を返しては、何となくその人物から逃げた様に思えて癪だったと言うのも大きい。
(そうだ、何故私が逃げなければならないんだ)
そう強く思うと、苦虫を噛み潰したような表情を消し、その人物へと近付き、あえて隣に並んで街並みを共に見下ろす。
「おはようございます。千冬さん」
「あぁ、おはよう」
今日の先客……昨日と同じ黒のジャージに身を包んだ鋭い瞳の少年、柏木翔は千冬が隣に並んだ瞬間に、軽く頭を下げて挨拶はしてきたが、それ以降は何も話そうとはせず、ただいつもの感情を悟らせない表情で街を静かに見下ろしているだけ。
正直な話、千冬は言葉に表せぬ程に落ち着かなさを感じていた。
無論表情には出てないが、何も語ろうとせず、じっとそこに居るだけの翔に、拒絶されているように感じていた。
それほどまでに柏木翔と言う少年の纏う雰囲気は、弟である一夏と同じ年だとは思えなかった。
勿論、翔としては拒絶しているわけではなく、千冬が居る事を認めながらも、これが自分達の今の関係だと受け入れているだけなのだが、千冬にはそんな事分かるわけが無い。
自分でも鋭いと自覚している瞳だけを動かし、自らの左側に立つ翔をチラリと見やるが、何か居心地の悪さを感じている様子は無い。
そこに小さくはあるが、妙な敗北感を千冬は感じる。
だが、今のこの状況は、千冬にとって、それほど悪いわけではない。
剣を振っている最中に考えていた事を警告する良い機会、幸いにも一夏がいない子の状況は、千冬にとって都合が良かった。
「柏木」
「何でしょう?」
静かな千冬の問い掛けに、静かな翔の応答。
二人の視線は未だに、少しの朝靄と溢れんばかりの朝日の光が包み込む街並みへと注がれている。
「単刀直入に言おう、一夏ともう少し距離を取れ」
「……説明をしてもらっても?」
千冬を力強い黒の瞳で見上げてくる翔を、千冬は睨みつけるようにして見下ろすが、翔に怯んだ様子は無く、千冬の眼光をしっかりと受け止めている。
明らかに小学生らしくない翔の振る舞いに、つい流されてしまいそうになるが、正真正銘、柏木翔は弟と同じ小学生。
その事を感じて、千冬は一瞬、大人げないという感情に捕らわれるが、それを振り払い、翔と相対する。
「私達は両親に裏切られた。これ以上大切な者から裏切られれば、一夏の心には消えない傷がつく、お前なら分かるだろう?」
「その可能性のある俺から潰していく、と言う事ですか」
「そうだ、話は分かったな?」
「理解はしました。が、それに従う事は出来ません」
ほぼ予想通りの台詞が翔から返って来た事で、千冬は眉を顰めながら、小さく舌を打つ。
「何故だ? 一夏が傷ついても良いのか?」
「俺は裏切るつもりなど毛頭ありません」
「だが、お前にその気が無くとも、状況が許さない事もある」
「ならばその状況を断ち斬って裏切らないようにするだけ」
自信満々にそう言い切る翔に、訳のわからない苛立ちを覚え、千冬の眉根は更に釣り上がっていくが、翔の表情に波紋は立たず、冷静そのもの。
「一夏は私が守らなければならない……その為には少々痛い目を見てもらうこともあるが?」
「千冬さん、貴方のその考えは、『守る』ではない、ただ檻の中に閉じ込め、誰からも触れられないようにしているだけ」
「触れられなければ、心を許す事も無い、裏切られる事も無い、傷つく事も無い」
「だが、そうして一夏は喜びますか? 駄目だと押さえつけて、一夏がどう思っているか、貴女はそれを知らない」
「知った風な口を!」
一夏の事を理解しているという口ぶりの翔の発言に、思わず千冬は声を荒げて怒鳴るが、それでも翔の表情は崩れる事は無い。
それ所か、千冬の発言を肯定するように静かに頷く。
「勿論、貴女だけが知っている一夏もあるでしょう。ですが、俺達友達に見せる一夏と言うのも確かに存在します」
「お前が、一夏の何を知っていると……」
「知っています。だからこそ、一夏と貴女の間にある差異を埋めなければならない」
千冬の台詞に被せる様にして静かに言い放った翔夜の鋭い眼光に、千冬は思わず怯む。
そんな千冬の様子など知った事ではないと言う様に、翔は静かに言葉を続ける。
「その為にも、一夏から離れる訳にもいかない。そして、貴女にも知ってもらわなければならない。その為に……一度貴女には膝を折ってもらわないとならない」
腕を組みながら、威風堂々、目上であるはずの千冬に臆した様子も無くそう言い放つ翔の姿に、思わず千冬は、はっと空気の抜けるような音と共に笑い声が漏れる。
今目の前の少年は何と言った? 千冬の膝を折る、それはつまり、千冬に対して堂々と勝利宣言をしたと言ってもいいだろう。
その事を理解した千冬は、笑っていた声を止め、底冷えのするような視線で、腕を組んで威風堂々と立つ翔夜を捕らえる。
「あまり調子に乗るなよ? ガキが」
ハードボイルドな台詞を恥ずかしげも無く小学生に言い切る千冬だが、無論その表情はこれ以上無いほどに真剣、と言うよりも、完全に翔を睨んでいる。
その言葉を悠然と受け入れる様にして仁王立ちの翔も、明らかに普通の小学生では無いほどに、表情が引き締まり、その鋭い瞳で、千冬を見上げている。
「やってみなければわかりませんよ、もし俺が勝ったら、しっかりと一夏の言葉を聞いてあげてください」
「私は普段から一夏の言葉を真摯に受け止めているが……まぁ、いいだろう」
釈然としない表情を浮かべる千冬だが、翔の出した条件に悠然と頷く。
勿論、千冬は一夏が自分に隠している気持ちが無いと思っているからこその表情であるが、翔はどうもそう思っていないらしく、決闘の提案を取り下げるつもりが無いようだ。
「俺が負けた時は千冬さんの言葉を受け入れます」
「わかった、それで良い、勝負方法は?」
「無論、剣で」
「無謀と言わざるを得ないと思うが?」
千冬の忠告とも取れる言葉に、翔は軽く首を横に振る。
「心配ありません、俺も剣を嗜んでいます」
「……いいだろう、では得物は木刀、場所は篠ノ之道場、時間は明日の夕刻。これでどうだ?」
「承知」
千冬からの条件にゆったりと頷く翔を確認した瞬間。
一夏の姉と、一夏の親友による、一夏の為の決闘がここに決定された。
お前の姉と決着をつける事になった。と静かに言われた翔の言葉に、学校が終わった後の夕刻、一夏は、千冬と翔が木刀を持って互いに向き合う篠ノ之道場に居た。
一夏の様子は尋常ではない翔と千冬の様子にオロオロと慌てるばかり、この二人を止めようと思っていないわけではなく、止めても止まらない二人だと朧気ながら理解しているからこそ、どうして良いのかわからないのだ。
「千冬姉も翔も、や、やめよ? なっ?」
「否、どうせいつか通る道だった」
小学生とは思えないほどに引き締まった顔つきで千冬を見据える翔に、緊張と言うものは無かった。
ただ、右手に木刀の刃の部分を下にするように持ち、そこに佇んでいる。
「柏木の言う通り、いつかは通る道だった。お前は黙ってみていろ」
「うっ……わ、わかったよ」
少々高圧的な物言いで、鋭い視線に捕らえられた一夏は、しゅんとしたように顔をうつむかせ、肩を落す。
そんな一夏の様子を横目で見ていた翔は、珍しい事に溜め息を一つ吐き出し、剣を正眼に構えると同時に誰にも聞えぬ声でそっと呟く。
「誰かが、断ち斬るしかない……」
翔が木刀を正眼に構えるのを見て、千冬も正眼へ、ひゅっと互いの木刀が軽く空気を裂く音が聞え、互いにぴたりと正眼の位置で止められる。
互いに戦う者として、合図などいらない事を理解している。
剣を向け合ったその瞬間から、戦いは既に始まっているのだ。
身の引き締まるような寒さと張り詰めた空気が支配する静かな道場の中心で、互いに視線を交わしあいながら、読み合う千冬と翔の静かな攻防戦は、まず翔から破られる事になる。
翔の構える木刀の切っ先が、よくよく見てみれば分からない程度にだが、ゆらりゆらりと揺れている。
(小細工を……)
集中力が限界まで高まり、相手の動作の一挙一動を見逃さないような状況の場合、相手の行動と言うのは、どれ程小さな動きでも察知してしまう。
そんな状況において、自らの動体視力を頼りに相手の動きを追う様な人物には、今翔が行っているような切っ先を揺らすという小さな行動がどうしても相手の目を引き付ける。
だが、相手の全体を満遍なく見渡し、色々な場所の身体の動きから、相手の行動を予測すると言う技術を持った相手には、この技術は所詮は小手先の技術でしかない。
そんなものを今のこの状況で使ってくる翔に、少しばかり落胆の感情を感じる千冬だったが、その状況はすぐさま破られる事になる。
「な……に? ぐっ!」
千冬が翔に落胆を感じた瞬間に、軽く道場の床が軋みを上げる音が聞えた刹那の後、木を踏み抜くような大きな音が響き、その音が道場に響くと同時と言っても良いような時間で、千冬の視界には木刀を振り上げている翔の姿が映る。
その信じられない光景に、呆然とした声を上げる千冬だが、身体が勝手に反応し、翔の真っ直ぐ振り下ろされる木刀を、自らの木刀の腹で逸らす様にしていなし、すぐさま距離を取る。
翔にも追撃するつもりは無いらしく、後方へ跳んだ千冬を追う事無く、その場で千冬を見据え、正眼の構えを解いていない。
油断無く千冬を見る翔を見据えながらも、千冬は、先程の上段振り下ろしを木刀を横にして上段に掲げる等と言った愚考で受けなかった事に対して自ら賞賛していた。
もしあの振り下ろしを上段に木刀を掲げて受けていれば、わき腹に痛烈な蹴りが入っていただろう。
千冬の目を持ってしても一瞬姿を見失うほどの踏み込みが可能な脚力を保有する足からの蹴りなど、当たった時の事を考えると想像したくない事態が待っているのは間違いない。
「とんだペテン師だな、小細工を仕掛けたのはブラフか?」
相変わらず睨みつけるような眼光ではあるが、声の色は少し翔を見直した様な感情が見て取れる。
それに対し、翔は正眼を解かず、注意深く千冬の全体の動きに気を配りながら、千冬の見直したような声の疑問に、静かに答える。
「そう言う意図が無いとは言いませんが、自分はまだ未熟、0から1に移る瞬間の予備動作がまだ消せていないというだけです」
「なるほど……自分の欠点すら相手を惑わす為の手段に使うか……」
「未熟ゆえに……」
静かにそう応える翔に、千冬は、この戦いが始まる前にはまだ少しばかり残っていた翔に対しての侮りや油断、そう言ったものを完全に捨て去る。
油断して良い相手ではない……千冬自身の勘がそう伝えていた。
そして、そんな千冬の雰囲気や眼光の色の移り変わりを見て、翔は少しばかり眉を動かすが、その瞳の色は少し安堵したような色が浮かんでいた。
「では次はこちらからだ」
油断の消えた千冬が静かに呟いた瞬間。
彼女の利き足が床を擦る翔にして滑り、翔へと一歩静かに踏み込む。
翔の脚力から繰り出される神速の踏み込みとは違い派手さは無いが、洗練された流れを感じる動き、決して速くは無いのに、気がつけば間合いを詰められているような歩法。
人間の目を錯覚させる為の足取りで、普通のものであれば……いや、それなりの剣の使い手ですら、千冬の歩法に気がついた時にはその間合いの詰め方に対処する間も無く斬り捨てられているであろう。
そして、その動きで今着実に翔との距離を詰め、完全に千冬の間合いに入った翔。
瞬間、千冬の手首が翻り、翔の右肩口に袈裟懸けが吸い込まれる、無論、翔の鋭い瞳はその斬撃を捉えていた。
千冬のコンパクトな振りからの袈裟懸けを、千冬の木刀にクロスする形で当てて、防ごうと手を動かす……。
「がっ!?」
だが、その袈裟懸けは受ける事は叶わず、いや、受けようと思った瞬間には剣は振り切られ、何故か翔の身体はわき腹に衝撃を受け、そのまま道場の中を右に吹き飛び、床に身体がついた後は勢い良く床の上を転がり、その反動でくるりと身体を転がし、足を突いて回転の勢いを止める。
そんな事になっても手放してはいない木刀を千冬へ向き直りながら構える。
が、その時には千冬は翔の目の前に居り、右からの胴をなぎ払う様な鋭い一撃、それを上から打ち落とす為、右から胴を狙った水平軌道の斬撃に対してコンパクトに木刀を振り下ろす。
しかし、気がつけば、翔の身体はまたもや吹き飛んでいる。
方向としては右に、これは非常におかしな話だ、右から確かに斬撃が来たのに、気がつけば右に吹き飛ばされていた。
その答えは単純にして明快、左から斬撃が迫り、それに当たっただけの事。
受身を取って一回転、床に膝をついて、立ち上がりながら、千冬を見据える。
「素晴らしい返し手の速度ですね」
「二断一閃と言う、もうこれで二回私の斬撃を受けたわけだが、真剣だったならもうお前の身体は二つに分かれているぞ?」
「だとしても、持っているのは真剣ではなく木刀。それに何より俺はまだ剣を手放してはいません」
「そうか……」
暗に実践ならば既に死んでいると言っている千冬に対して、翔が言ったのは勝負続行の意思。
左のわき腹と左腕の上から痛烈な斬撃を貰った翔だが、その表情は相変わらず感情を悟らせない表情のまま、すくっと立ち上がり、足元もしっかりとしている。
その様子からして、内臓を揺さぶられたような様子も無い。
そんな様子の翔を目の当たりにして、千冬は瞳を細めて油断していない表情をしながらも、呆れたように溜め息を一つ吐き出す。
「呆れるほどに頑丈だな」
「取り柄の一つですから」
静かに言葉を重ねあう翔と千冬。
冷静なのはその二人だけで、道場の端に座っていた一夏はその限りではなく、親友が打ちのめされる姿を見て、驚愕の表情を浮かべていた。
一夏にとって、勿論最強の像は自らの姉だったのだが、柏木翔と言う男が目の前に現れてから、姉にも勝るとも劣らない人物が出てきて、一夏の憧れを千冬が独占していた状況から、翔も憧れの対象として見つめ、いつしか、姉と同等の憧れを抱くようになっていた。
そんな憧れの極みの片方が、もう一方の憧れによって打ちのめされつつある。
その現実に、一夏は内心、これ以上無いほどに慌てていた。一夏自身も幼馴染の箒がいた時に剣を嗜んでいたが、それも二人の腕に割って入れるほどでは無い事も自覚していた。
だからこそ、今の自分が無力だと、どうにかしたいと思いながらも、道場の端でじっとしているしかなかった。
悔しさに震える一夏を横目で見ながら、翔はほんの一瞬の間、ふっと笑みを浮かべるが、それはすぐに消え、またしても真剣な眼差しで、千冬を見据える。
(そうだ、悔しさを感じろ、そうして何も出来なかった自分を終わらせろ、一夏)
瞳と意識の大半を目の前に立つ千冬に向けながらも、翔は一夏に対してそう思う。
そうしている間にも、千冬はじりじりと間合いを詰め、またしても翔が千冬の間合いに入った。
先程と同じ様に千冬の手首が翻り、翔の身体を完全に捉える。
次は翔の左肩口を狙う袈裟懸けが吸い込まれる、しかし、今度は翔は木刀を動かす気配は無く、そのまますっと左足を後ろに大きく引き、身体を半身にずらす。
その瞬間、翔の身体にギリギリ当たらない程度の斬撃が、一閃、だが空気を切り裂く音は二度発生している。
振り下ろされた袈裟懸けの軌道をぴたりとなぞる形で切り上げた逆袈裟は、まさしく神速の斬り返しと言える。
二断一閃、とはよく言ったものだと、翔は冷静な頭の片隅で考えるが、身体はその間も勝手に動き始めている。
翔の瞳が捕らえている千冬の動きは、避けられた斬撃を更に斬り返す為に手首を捻っている瞬間を取れえており、その刹那の瞬間に、引いていた左足を一歩千冬へと踏み込ませ、千冬の手首が完全に返り、柄尻が振り下ろす腕の内側に隠れる瞬間、翔は木刀を跳ね上げ、その刀身を的確に柄尻へ吸い込ませる。
翔の剣の軌道を鋭い瞳で捉えていた千冬の表情が驚愕の色を浮かべるが、もう既に腕の力は千冬から見て左斜め下へとベクトルを向けており、もう止める事は出来ない。
振り上げた翔の木刀の刀身と、振り下ろした千冬の木刀の柄尻が触れ合った瞬間。
道場の中に硬い木と木が反発しあう音が響き、千冬の手から木刀は離れ、道場の宙を舞う、それでも翔の動きは止まらず、もう一歩、次は右足を千冬の軽く開かれている足の間に割り込ませるように踏み込み、振り上げていた腕をすぐさま折りたたみ、そのまま柄尻を前へ押し出すようにしてコンパクトに腕を押し出す。
押し出された柄尻は、寸分違わず、千冬の水月へと吸い込まれ、千冬の口から息が強制的に吐き出される音が聞える。
「かはっ……」
その瞬間、千冬の意識は遠のき、目の前を闇が支配する寸前に見たのは、相変わらず、全てを見透かしそうな黒い瞳を持つ弟と同じ年代の男の子の姿だった。
黒の少年の持つ瞳は、全てを見透かされそうだと思いながらも、何故か、その瞳を見ていると、肩の荷が下りたように感じられる。
そんな感情と共に、千冬の意識は闇へと沈んだ。
千冬が瞳を開けた瞬間、飛び込んできたのは人口の光だと分かる眩しい蛍光灯の光。
意識があった時はまだ、夕日が道場の中を照らしていた為、つけなかったのだが、これが点いているという事は、もう既に辺りは闇に包まれているのだろう。
締め切られた道場の扉を見やりながらそう考え、千冬はゆっくりと辺りへ視線を配る。
するとすぐに見つかったのが、心配そうに見つめて千冬の傍に座り込む一夏の姿だ、千冬はどうやら現在、壁際に寝かされているようで、瞳を動かすだけではもう一人の黒の少年の姿を見つかる事は出来なかったが、上体を起こすと、その姿はすぐに視界へ入ってきた。
翔は千冬が寝かされていた壁際の壁に腕を組みながら背をもたれさせて立っていた。
その瞳は静かに閉じられ、何を考えているのか分からないが、相変わらず小学生らしくない表情と雰囲気である。
そんな翔をぼうっと、見詰めていると、一夏から声が掛かる。
「千冬姉、だ、だいじょうぶなの?」
「あぁ、大丈夫だ」
「そっか、良かった……」
かなり心配していたのだろう、千冬が軽く笑みを浮かべて、問題ないと言うまで一夏の表情の強張りは解けなかった。
が、今は心底安心したように笑顔を浮かべている。
千冬は穏やかな目で思わず一夏の頭を撫でる。
一夏はそんな千冬の様子を不思議そうに首を捻っている。
軽く一夏の頭を撫で終えると、千冬は視線を翔へと向ける。
翔の方も、話を進めようと思っていたのか、壁から背を離し、瞳を閉じる事で隠されていた鋭い瞳を開き、一夏の隣に座り込む。
「で? お前が勝ったら一夏の気持ちを聞くと言う事だが、何かあるのか?」
翔が勝った時の条件を確認しながら、翔から一夏へと視線を移すが、一夏は怯んだように、視線をついっと横にずらし、翔へとすがるような視線を向ける。
そんな一夏に、困った奴だと言うように苦笑を浮かべながら、一夏の後頭部を軽くはたく。
「千冬さんが気持ちを聞いてくれると言っている。それに今なら大丈夫だ、千冬さんも、そしてお前も」
そうだな? と念を押すように言葉を投げる翔の声に、一夏は先程の気持ちを思い出す。
(そうだ、何も出来ないのはいやなんだ、千冬姉にこれぐらい言えなかったら、俺はこれからも何も出来ない)
意を決したように翔は顔を上げ、千冬の顔を見つめ、静かに自分の心情を吐露する為に口を開く。
「千冬姉、俺、翔やみんなともっとなかよくなりたい、楽しくあそびたい。千冬姉が俺を守るために色々言ってくれるのは嬉しいけど、でも、俺はみんなをもっと信じてみたいんだ、うらぎられるのが怖くても、でもみんなを信じて仲良くなりたいんだ」
信じたい、力強くそう千冬に言い放った一夏の姿に、千冬は軽く目を見開き、そして自嘲するようにして声を吐き出す。
「一夏は、強いんだな?」
「ちがうよ、強くなる事を決めたんだ」
そう言って笑いながら翔を見る一夏に釣られて、千冬も翔へと視線を動かし、相変わらず小学生だと思えないような少年を見据える。
一夏の素直な心情を聞けた千冬は、ふと、翔の考えていた事を悟る。
今まで千冬は誰にも負けた事が無かった。
それは無論男も女も関係なくと言う意味で、そして、強さを手に入れた千冬にとって、一夏はまだ守らなければならない弱者だった。
両親に守ってもらえなかった千冬は、両親に代わって一夏を守らなければならない、その義務感に囚われ、気がつけば、外へ出たい、遊びたい、そんな一夏の自由な意思を押さえつけ、誰の手も届かない檻の中へ閉じ込めるという状況になっていた。
それは男にも負けなかった自分への過剰な自信と、信じたものからの裏切りへの恐怖、そして自分は一夏を裏切らないと言う、絶対の自信等が重なり起こった事だった。
翔はそれを理解しながら、一つ一つ解いていったのではないのか?
自身の強さに対する過剰な自信を断ち斬り、外へ出たいと手を伸ばす一夏の意思を知り、千冬の恐怖を知り、最終的にはその全てを斬り払う為のきっかけを、視野狭窄に陥っていた千冬と、檻から出たくとも、自分を守ろうとする千冬を理解していたからこそ言い出せなかった一夏に与えたのかもしれない。
「そうか、ならばお前の好きにしろ。私はそれを見守るさ」
「うん!」
眩しいまでの一夏の笑顔を見た千冬の耳には、一夏の元気な返事の他に、翔の小さな呟きも聞き取っていた。
「二人とも、前へ進んだか……」
その一言で、千冬は自分が感じた翔に対する考えが間違っていないと益々確信を高めていた。
同時に、やはり千冬は思ってしまう事がある。
(こいつ、本当に小学生なのか?)
今ここで翔が、実は発育が異常に悪い28歳だと言われても、多分何の違和感も無く受け入れるであろう自信が、千冬にはあった。
気がつけば、千冬の中にあった翔に対する苦手意識は、綺麗さっぱりとなくなっていた。
それすらも、柏木翔と言う少年は断ち斬ったのかもしれない、そう考えた千冬は、根拠は無いが、あながち否定できない考えに、笑みを浮かべながら口を開く。
「翔、今日は遅い、家に泊まっていくか?」
「えっ!? いいの!?」
「あぁ、私は構わん」
「では、お邪魔する事にします」
驚きつつも嬉しそうに笑顔を浮かべる一夏と、静かに千冬の提案に同意の意を示す翔。
二人の温度差に何処かおかしさを覚えながらも、千冬は立ち上がり、一夏とその親友、柏木翔と共に篠ノ之道場の戸締りをし、剣道着の上から、持ってきていたジャンバーを羽織り、道場を後にして、岐路へとつく。
何をしようかと嬉しそうに翔へ相談を持ちかける一夏と、それに静かに相槌を打ちながら話を聞いている剣道着姿の翔に向かって、千冬は声を掛ける。
「翔、家には連絡を入れるんだぞ?」
「承知」
この冬の寒い夜空の下、寒そうな態度を欠片も見せない剣道着姿の少年と、千冬の関係は、刺すような寒い空気が当たり前の季節に始まったのだ。
目の前に置かれていたコーヒーカップの中にはもう既に入っていたブルーマウンテンはなくなっており、あの冬の日にまだ少年だった柏木翔は、今青年となって、こうして静かに千冬の前に座っている。
その事実に少し嬉しくなった千冬は笑みを浮かべ、翔に話し掛ける。
「あの冬の日、私はお前に負けた」
「今思えば俺もあの時はまだ未熟だったな……」
過去を反復するように瞳を閉じて、一つ頷く翔。
そんな翔に、楽しそうに、だがクールに笑う千冬。
今の千冬なら、あの時の翔には恐らく勝てる。が、今の性別の違いから来る能力差が決定的に開いてしまった今は、逆立ちしても千冬が翔に勝てる事は無い。
柔よく剛を制す。それは両者が拮抗している場合か、柔が剛より強かっただけだ。
今の翔は、強靭すぎる剛、それを制する事の出来る柔など、それは既に柔ではない。
「次の日のロードワークで私が翔に弟子入りしたいと言った時の、お前の顔は傑作だった」
「む……やはりあの時はまだまだ未熟だったと言う事か」
そう静かに、そしてしみじみそう語る翔の様子は、過去より洗練されてはいるが、その根本が変わっているわけではなく、千冬と一夏を前に進ませたあの頃と同じ。
そのことを察した千冬は益々嬉しそうに笑みを深め、満足したように一つ頷くと、席を立ち、翔の隣へと立ち、あの頃から比べると成長して、大きく、更に皮膚が硬くなった翔の手をそっと握る。
「未熟だったとしても、お前はあの頃から変わっていない、手もその瞳も、その魅力はあの頃から何も変わっていない」
熱の篭った様な千冬の台詞にも、やはり翔は表情を動かさず、ふむ? と呑気に首を捻っている。
千冬からの褒め言葉の意図を察する事の無いまま、褒め言葉は素直に受け取っておこうと考えを一区切りした翔は千冬の手を握り返し、翔自身も立ち上がり、伝票を持つ。
「そろそろ帰るか、千冬」
あの時とは違い、低くなった声で千冬の事を軽く呼び捨てる翔の姿に、無性に嬉しさのこみ上げてきた千冬は、珍しく柔らかい微笑を浮かべ、静かに翔の言葉に応える。
「あぁ……」
過去も振り返るが、それでも現在を、前を見続ける翔の姿に頬を綻ばせながら、千冬は内心、翔のその姿勢に同意を示す。
(あの頃もよかったが、今のお前はもっと魅力的だ)
妙に陶酔した様な表情のIS学園1年1組担任の織斑千冬は、クール、厳しい教官、等と言われており誰にも知られていないが、実はかなりの乙女である。
そんな乙女な彼女の心を魅了し続けているのは、昔も今も、そして恐らくこれからも、柏木翔と言う千冬の隣を静かに歩く黒の男だけである。
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