<2014年3月=東スポ携帯サイトより>
ソチ五輪で金メダルを獲得した羽生結弦選手は、3年前の東日本大
震災で練習拠点のスケートリンク(仙台)を失い、震災後の約8か月間
にわたって恩師の都築章一郎コーチがいる横浜市神奈川区の「神奈川
スケートリンク」に拠点を移していた。
東京方面から東海道線や横須賀線、京浜東北線に乗車し東神奈川駅
を過ぎてすぐ、横浜駅に差し掛かる手前で車窓の進行方向右側に見える
建物が、この国内最古(昭和26年開業)の室内スケートリンクと言われる
神奈川スケートリンク(写真)だ。目下、施設の老朽化により建て替えが
検討中だ。
このスケートリンク。実は日本のプロレス史上、とても重要な場所である
ことはあまり知られていない。と言うのもこのリンクは現在でも正式名称
は「財団法人神奈川体育館」であり、もともとは普通の体育館だったが、
いつしかスケートリンク専門の施設となっていった歴史がある。朝から夕方
はスケート選手の練習やスケート教室で賑わい、深夜から朝方にかけては
アイスホッケーの選手が練習に励むなど24時間営業で、まさに不夜城の如
き施設なのだ。
現在は反町公園の一角をスケートリンクが占める形となっているが、歴史
を紐解くと、戦前までこの一帯は遊郭街だった。戦災で焼けた後、一帯は大
きな広場と化し、戦後間もない昭和24年3月から3か月間にわたって、「日本
貿易博覧会」が開催され、その第二会場として広場が使用(第一会場は野毛
山)されることに。戦災により廃止されていた東急東横線の新太田町駅(現在
の東白楽~反町間に存在していた)が「博覧会場前駅」として臨時復活した
ほどの、大きなイベントだったという。
博覧会終了後、会場で「演芸館」として使用された建物が、ほぼそのまま
流用され、約1500人を収容できる「神奈川体育館」が開館。昭和26年からは
スケートリンクとしても使用され始め、リンク拡大のために茨城・霞ヶ浦の旧
日本海軍航空隊の格納庫の屋根を移設し、建物同士を合体させるという荒
業で、現在の神奈川スケートリンクの形が整うのであった(航空写真等で見
ると、本当に強引に合体させた建築物であることが分かる)。
昭和20年代中期には「トーゴー・ブラザーズ」として米国でプロレス修行を
体験後に帰国した遠藤幸吉や後に極真空手を世界的組織に育て上げた
〝ゴッドハンド〟大山倍達らが、何やら異種格闘技のような興行を行ったこ
ともあるそうだし、大相撲の巡業にも使用。力道山も黎明期の日本プロレス
で何度となく試合をしている。で、何がプロレス界にとって重要かというと、
事件は昭和25年9月10日に起きる。
大相撲の東神奈川巡業がこの地で行われ、取組後に関脇力道山が二所
ノ関親方(元小結玉ノ海)と口論から大喧嘩(原因は現在も諸説ある)。東
神奈川巡業後、大相撲一行は翌日の愛知・蒲郡巡業に向けて夜汽車に乗
る予定だったが、怒りの収まらない力道山は巡業を離れ、東神奈川から日
本橋浜町の自宅へと戻り、夜中未明に自ら髷を切り落とし大相撲廃業を決
意。後にプロレス転向を果たすことになる。
寒暖が微妙な9月だけに、大相撲巡業が神奈川体育館の中で行われたの
か? それとも屋外の広場で行われたのか? は不明だが、とにかく関脇力
道山が最後に相撲を取ったのはこの地。プロレスラー・力道山が誕生するき
っかけとなった重要な場所なのだ。
力道山がプロレスラーとして最期に戦った(昭和38年12月7日)浜松市体
育館は老朽化のため2008年に閉鎖。現在は浜松城公園の駐車場となってい
るが、力道山が力士として最後に土俵に上がったかも知れぬ体育館がスケ
ートリンクとして現存し、そのリンクを羽生選手が練習拠点としていたのだ。
力道山が実際に試合をした会場は、もはや全国でも数少ない。だが横浜市
内には横浜文化体育館と神奈川体育館と2つも現存している。