
バットはまず、トネリコやヤチダモなどの木を4カ月ほど、自然乾燥させる。さらに一カ月ほど、人工乾燥にうつる。最初の仕事はバットの乾
燥室への出し入れや、材料の積み替えなどだった。そんな下働きを3年、4年つづけた。
バット部門の他の同期入社組は、ひとりが繊維関係の会社に転職し、もうひとりは退社してタクシーの運転手となった。腰掛のつもりで入社し
た久保田だが、退社するタイミングをつかめなかった。
下積み時代を終えると、機械で荒削りしたバットの原型を、ろくろを使ってノミとカンナで仕上げていく職場に移った。機械の性能がよくないからか、ノギスで太さを確認しながら、プロパー(一般用)のバットを丁寧に製造していく。
この直しの仕事も2、3年、続けた。
「わたしがこの会社に残った理由は、この仕事に苦労したからです。なかなか先輩のように削れないので、もう自分はダメなのかなと思ったこ
ともあります。正直、何度も、仕事の夢をみましたよ」
腕のいい先輩たちが相次いで会社を辞めていった。国鉄(現JR)、消防署などに転職していく。久保田にリクルートの誘いもきたけれど、なかなか踏ん切りがつかなかった。20歳を超えた。先輩の退職もあって、入社9年目の1968(昭和43)年のころ、プロ野球の選手のバットを作る部署にまわされた。
「もし会社を変えたら、また1からやらないといけないじゃないですか。初心者からやり直すのが億劫だったんです」
父のアドバイスも心の隅にあった。父は、久保田の入社2年目に他界する。その父が言ったことがある。みんな、他人の仕事はよくみえる。極論だけど、仕事の職種など何でもいいのだ。周りをみる必要はない。なんでも日本一になれば、絶対に食っていけると。
久保田はしみじみと言う。
「おやじはいい言葉をくれたと思います。だから、ずっと一番になりたいと努力してきました。一番になれたのかどうかわからないけど、今でも一番になりたいと思っています」 |