匠道 SHODO MIZUNO
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ミズノ入社

 中学校に入ると、柔道をはじめた。柔道部にはいり、養老警察署の少年柔道クラブにも通った。その柔道の指導者が、じつは中学校の隣のミズノに勤務している人だった。
 1959(昭和34)年、中学を卒業し、そのミズノの工場に入社した。
 じつは料理人にあこがれていたけれど、長男だから、地元を離れることができなかった。そんな時代だった。同じ町の工場ということで親しみがあったし、柔道クラブの指導者の勧めもあった。
 15歳のときだった。養老工場では当時、野球のバットのほか、テニスラケット、ゴルフクラブ、スキー板などをつくっていた。同期入社が27人、うち3人が一週間の研修期間のあと、バット部門に配属された。
 プロ野球はブームを迎えようとしていた。前年には長嶋茂雄が立教大から巨人に入団し、その年には王貞治も早稲田実業高校から巨人にはいった。新聞やテレビではプロ野球のニュースが増えていく。とくに野球に関心がなくても、だれもが川上哲治、長嶋、王の名前は知っていた。


 もちろん巷の野球といっても、子どもたちは三角ベースが主流だった。グラブやバット、ユニフォームは質素なものだった。草野球のチームが雨後のタケノコのように生まれていた。道具をそろえることが目標だった。
「バットやグラブやスパイクなどを持っている人はそんなにいなかったですね。きちんと給料をもらえるようになったら、きちっとした正装で野球をやりたいというのがあこがれだったような気がします。そういう時代だったから、バットも売れたんです。最初のころはバットも増産、増産でした」
 国内の木製バット市場は300万本ともいわれ、職場では50人を超える従業員がバットづくりに携わっていた。

 
 

日本一を目指して

 
バットの自然乾燥バットの製造過程

 バットはまず、トネリコやヤチダモなどの木を4カ月ほど、自然乾燥させる。さらに一カ月ほど、人工乾燥にうつる。最初の仕事はバットの乾 燥室への出し入れや、材料の積み替えなどだった。そんな下働きを3年、4年つづけた。
 バット部門の他の同期入社組は、ひとりが繊維関係の会社に転職し、もうひとりは退社してタクシーの運転手となった。腰掛のつもりで入社し た久保田だが、退社するタイミングをつかめなかった。
 下積み時代を終えると、機械で荒削りしたバットの原型を、ろくろを使ってノミとカンナで仕上げていく職場に移った。機械の性能がよくないからか、ノギスで太さを確認しながら、プロパー(一般用)のバットを丁寧に製造していく。
 この直しの仕事も2、3年、続けた。
「わたしがこの会社に残った理由は、この仕事に苦労したからです。なかなか先輩のように削れないので、もう自分はダメなのかなと思ったこ ともあります。正直、何度も、仕事の夢をみましたよ」


 腕のいい先輩たちが相次いで会社を辞めていった。国鉄(現JR)、消防署などに転職していく。久保田にリクルートの誘いもきたけれど、なかなか踏ん切りがつかなかった。20歳を超えた。先輩の退職もあって、入社9年目の1968(昭和43)年のころ、プロ野球の選手のバットを作る部署にまわされた。
「もし会社を変えたら、また1からやらないといけないじゃないですか。初心者からやり直すのが億劫だったんです」
 父のアドバイスも心の隅にあった。父は、久保田の入社2年目に他界する。その父が言ったことがある。みんな、他人の仕事はよくみえる。極論だけど、仕事の職種など何でもいいのだ。周りをみる必要はない。なんでも日本一になれば、絶対に食っていけると。
 久保田はしみじみと言う。
「おやじはいい言葉をくれたと思います。だから、ずっと一番になりたいと努力してきました。一番になれたのかどうかわからないけど、今でも一番になりたいと思っています」

 
 

プロ野球選手のバット

 

 1964(昭和39)年。東京オリンピックが開催された。カラーテレビが始まり、白黒テレビが一気に全国に普及する。プロ野球のナイター放送も拡大していく。
 それまで高校野球のバットに力を入れていたミズノだが、テレビを通しプロ野球選手のバット使用でブランドイメージをアップしようという戦略を打ち出した。プロ選手とのアドバイザリースタッフ契約が増えていく。
 久保田が最初につくったのは、阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)のバルボン選手のバットだった。先輩の型どおりに削った記憶がある。
「先輩の指導を受けたし、影響も受けました。けれども、わたしの中のほんとうのマニュアルは玉澤バット商会の『玉澤バット』でした」
 玉澤バットは当時、赤バットの川上哲治ら、多くのプロ選手が使っていた。そのサンプルが工場にも届いていたのだった。
「非常に感銘を受ける削りがしてありました。自分もいずれ、こういうバットを作りたいと思ったものです。文字でいったら、こう、流れが非常にきれいなんです。グリップの形から、ずっと打球部のところにいく曲線がね、ほんとうにきれいなんです。つなぎ目がわからない。普通なら何ヵ所か微妙な削りのつなぎ目ができるのに、それが一切なかった。ひとつの線につながって見えました」


 不謹慎ながら、女性に例えると。
「小島明子さんでしょうか。八頭美人で、バランスがいい人です」
 1959(昭和34)年、ミス・ユニバースに選ばれた小島明子のことである。古くて、ピンとこない。他に例えると。
「ジェニー・フィンチですか。アメリカのソフトボールの美人ピッチャーです。彼女は最高やね。スタイルも抜群です」
 フィンチは米国スポーツ界でナンバーワンの人気選手である。野球のマイナーリーグの選手と結婚し、2008年北京五輪にも代表として活躍した。
 バットの何がよかったのだろうか。そう聞くと、ちょっぴり気色ばんだ。
「木のバットがいいか悪いかは使うお客さんが決めることなので。ただ削りの見本としては最高でした。そのバットを目指した削りをしようと思って、どういう刃物がいいのか、その刃物の砥ぎ方から、ああいう照りを出す削り方まで、勉強しました」

 
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