日本人は人をEvernoteのノートブックに分けたがり、中国人はタグで分けたがる

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だから日本と中国が対極なのだ、というのが『タテ社会の人間関係』の主張なのだと考えた。

事実、日本人コミュニティの成員としても百パーセント認められ、一方、現地の外国人たちと密接な社会関係(友人関係)をもちつづけるということは、日本人にとってはたいへんむずかしいことである。多くの場合、現地の人々と親しく交わる日本人は、日本人コミュニティから遠ざかったり、脱落したりしている。

タテ社会の人間関係 (講談社現代新書 105)
タテ社会の人間関係 (講談社現代新書 105) 中根 千枝

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そうなのである。私は留学中にまさにこの通りの体験をした。この本が書かれたときからずいぶん、数十年の歳月が流れていて、「日本人コミュニティ」の平均年齢は私より若かったにもかかわらず、これに限りなく近い現象がちゃんと起こった。

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まさに日本人とはEvernoteの「ノートブック」に属するべきものなのである。私たちは「ノートブック」で分類される。あるところに属したら、他のところには属せない。他へ行くなら、元はあきらめるべきなのだ。私たちの集団に関する考え方は「タグ的」ではない。

もちろん個人として二つ以上の集団に属しているのが普通であるが、重要なことは、必ずそのいずれか一つ優先的に所属しているものが明確にあり、あとは第二義的な所属で、また、自他ともにそれが明瞭になっているということである。
 この第二義的な所属は、第一の所属と質的に異なるものである。たとえば、第一領域がダメになった場合は、個人にとって致命的であり、その場合、第二所属をもっていてもほとんど大した役にたちえないのが普通である。したがって構造的には集団所属はただ一つということになる。

この本において、この部分はとても大事で、自分のことを振り返ってもこの指摘は誠に正しいと脱帽せざるをえない。たとえば私は今会社に勤めていないが務めているとしたら、事実上の第1領域は勤め先であり、また自分の家族である。同時にたとえば東京ライフハック研究会などで精力的に活動して、そこの人たちから血縁者のように親しくしてもらったとしても、勤め先をクビになって妻に逃げられでもしたら「東京ライフハック研究会での精力的な活動」などは、大した役にたってくれないのである。それは彼らが冷淡だとかいったことではなくて、日本人の生活においては常識的な話である。

これに対照的なものとして中国人の場合が挙げられよう。彼らは、二つ以上(ときには相反するような集団)に属し、いずれがより重要かはきめられない。・・・それぞれ機能の異なるものであるから、中国人の頭の中では、二つ以上に同時に属していることは、少しも矛盾ではなく、当然という考えにたっている。
 日本人にとっては、「あいつ、あっちにも通じてやがるんだ」ということになり、それは道徳的な非難を帯びている。

まさに中国人の場合はEvernoteの「タグ的」である。そして直感的に、こうしておいた方が安全である。『タテ社会の人間関係』の著者の言を信じるなら「日本人的一方所属というのは、世界でも誠に珍しい」らしいのだ。「一本しか持たないなどということは、保身術としては最低」であるから。

今はさすがにだいぶ違ってきていると信じたいが、長年にわたり私たちが、第一の所属先に属し続けることに固執していたのは、こう考えると非常に理屈に合っていたのだ。Evernoteではどのノートブックも選ばないということはできない。「その他」のようなところに入るということは、社会的にはほとんど孤立無援になってしまうことを意味しているのだ。