Induction 
作：黒服
・��
波の音が聞こえる。
磯臭い風が体を撫ぜている。
僕は砂浜にうつぶせで倒れている。
僕は、結局、亮兵や智宏を助けられなかった。所詮大学生の浅知恵では、国
や米帝のすることに対抗できるわけがなかったのかもしれない。けど、もう少
しなんとかなると思っていた。自分たちがここまで無力だとは思わなかった。
鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなってきた。涙が出そうになるのを、目を
瞑ってじっと堪えた。これでは、僕たちの絆など、無かったも同然だった。
あれは夏休みのあとだったか、体育の授業に出てきた亮兵がやたら日焼けし
ていて、どうしたのかと訊ねると、亮兵はボート部の合宿に行ってきたのだと
言って、僕に力こぶを作って見せた。チョコレートみたいに日焼けした腕は、
肩のところで色がはっきり変わって、それはレガッタの選手が着るあのパッツ
パッツのユニフォームの跡なんだけれど、白と黒の差の付き方が明瞭で、まる
でポッキーのように見えた。かなり実力がついたから秋季選手権では絶対に優
勝できると、亮兵は自信たっぷりに言っていた。
亮兵が漕艇なんかやっていなかったら、心身ともに健全ではなく屈託してい
てオタク気質な草食系男子だったら、あんなことにはならなかったのかもしれ
ない。目上の者に対する体育会系の従順さを徹底的に逆手に取り、機械のよう
に無私で忠実な兵士を作り上げる戦自のプログラムに、亮兵があそこまで染め
あげられることはなかったのかもしれない。
けど、そんなことはあまり意味のない仮定だった。亮兵は昔から体育会気質
で、部屋は汚いし行儀は悪いし不器用だけど、さっぱりしていて細かい事にこ
だわらない活発な男子だった。典型的な意味での"男子"だった。性格診断をし
たら、絶対に「戦士タイプ」などと出るような、「沈思黙考」とか「デリカシ
ー」といった言葉とは無縁のタイプだった。どのみち何かしらスポーツをして
いただろうし、体を鍛えていただろうし、結果的にやっぱり兵卒部に配属され
ていただろう。同じ体育大でも、僕みたいな栄養士コースにいる人間とはベー
スが違った。
けど、智宏までもが、スポーツ心理学専攻で、わりと内気で物事を冷静に、
批評的に見る智宏までもが、すっかり米帝の研究員に染まってしまったのは予
想外だった。開発・研究部に配属された直後から、智宏は英語ばかりが飛び交
う陰気なラボに嫌悪を隠さず、会うたびに「早く兵役が終わればいい」とこぼ
していた。
その智宏が、二年のプログラムを終える頃には、すっかり研究部の色に染ま
っていた。同年代の友人を、クラスメイトを、部活の仲間を、まるでモルモッ
トかプラモデルのように実験の材料として扱うようになっていた。実験体にな
った者が、たとえば智宏と仲が良かった、体育学科で兵卒部に配属された吉沢
が、呻きをあげ、全裸で磔にされた身を悶えさせて苦痛を訴え、ほとんど半狂
乱になって叫んでも、智宏はそこに人などいないかのように無視し、横にいる
同僚と「前頭前野のストレス反応が活性化している」「感情の抑制プログラム
を当ててみよう」などとフラットな英語でやり取りしていた。
国や米帝のプログラムは徹底していて、性格や気質なんて関係なくて、どん
な人間でも、徴兵が終わる頃には忠実なロボットのように変えてしまうのかも
しれなかった。
また涙が出そうになった。泣いている場合じゃない。起きなければ、と思っ
たけれど、僕は手に砂を掴んだきり、それ以上体を動かせなかった。食べてい
ないし、飲んでもいない。よしんば逃げきれたところで、そこからどうするの
か、ずっと隠れおおせることなどできるのか。何も考えていなかった。
僕たちは、「制度なんかに負けない」「二年の兵役を過ぎても、お互い変わ
らずにいよう」と強く誓い合っていた。米帝の要請の下、この国で急に始まっ
た徴兵制に同年代の誰もが反発を覚えたけれど、行かなければ犯罪者になって
しまうので皆仕方なく従った。20から27歳までの男子の間に通称「アカガミ」
は突然やってくる。徴兵検査で逃れるという裏技もネットで盛んに交わされた。
でも、そのどれもが筒抜けであまり意味がなかったし、僕らのような体育大
生は定期的な健康診断のデータがあるので、下手な小細工はなおさら通用しな
かった。兵役は単位として認められ、米帝サポートのもと就職氷河期にも有利
な資格を取ることが出来た。けど、つまるところそれは米帝に尽くす便利なロ
ボットに変えられるに過ぎなかった。皆それがわかっていても、自分だけはと
思っていても、プログラムが終わるとまるで別人のようになってしまうのだった。
だからこそ、そんなのは嫌だという気持ちが人一倍強いからこそ、僕たちは
お互いを励まし合い、軌道を修正し合うことで乗り切れると思っていた。僕と
亮兵と智宏は中学からの親友同士だった。家族よりもお互いのことを知ってい
るし、何でも通じ合う仲だった。たった二年の「教育」で、僕たちの絆が壊れ
てしまうなどとは到底思えなかった。僕たちは寄宿舎が別々になっても、なん
とかして定期的に会うことを約束し合った。「アカガミ」が三人同時に来て、
徴兵検査に臨んだその日のことだった。
あの徴兵検査、唾棄すべき、人格を無視した、まるで工場のラインに流れて
くる部品を調べるような非人間的な検査は、僕たちが通っていた中学校の体育
館で実施された。白衣にマスクを付けた医師のような連中が壁いっぱいに並ん
だブースのそばにいて、僕ら招集された被験者は順番にブースを周り、体のあ
ちこちを動かされたり、注射を打たれたり、肉体の機能を細かく計測された。
もちろん皆裸だった。体育館に入って整列させられると、すぐに中年の自衛
隊員に全員服を脱ぐように命じられた。パンツに手を掛けて逡巡している者に
は罵声が飛んだ。体育館の其処此処にライフルを構えた米帝のソルジャーがい
て、抵抗する者をいつでも射殺できるように威嚇していたから、結局、誰もが
従うよりほかなかった。
中年隊員の「はじめ！」「やめ！」の号令のもとに、僕らは全裸で気をつけ
をさせられたり、休めのポーズを取らされたり、警官のように敬礼のポーズを
取らされたりしていた。全員の動きが揃うまで、繰り返し繰り返し反復させら
れた。その場で駆けっこのように足踏みをさせられたり、スクワットや腕立て
伏せをさせられたり、輪になって兎跳びをさせられたりもした。そうやって全
身の動きをチェックするとともに、早速、主従関係を僕らに刻み込んでいるに
違いなかった。向こうがまともに文化的に服を着ているのに、こちらは一糸ま
とわぬ姿にさせられ、命令通り動かされているということが、いやがおうにも
お互いの力関係を意識させた。
斜に構えた智宏にとっては、これはとんでもない屈辱であるようだった。反
抗的な表情を隠そうともせず、ちっともやる気のない仕草で命令に従っていた。
亮兵は、やる気でもなければ反抗的でもない様子だったが、頭ごなしの隊員の
命令には時折微かに憤っているような表情を見せていた。だけど、先輩から扱
かれることには部活で慣れているし、男だけの空間で真っ裸になることも、
いわゆる「男子」である亮兵には恥ずかしくも何ともないことであるらしかっ
た。特にこだわりもない様子で、淡々と指示に従っていた。亮兵が裸になると、
逞しく日焼けした体に肩から太腿の先まで一続きになった漕艇のユニフォーム
の跡が、くっきりと目立って見えた。
白衣の男たちの検査は執拗だった。僕らはいろんな姿勢をとらされ、目鼻口
耳、そして尻の穴や性器にいたるまで、徹底的にいじりまわされた。こちらが
何を言っても、「痛い」とか、「きつい」とか訴えても、医師達はまるで聞い
ていなかった。突然、なんの前触れもなく乳首をぐりぐりと擦られ、僕らがた
じろぐのにもお構いなしにカルテに何事かを書き付けたりしていた。後ろから
一人に羽交い締めにされたかと思うと、もう一人にいきなり性器を力強く扱か
れ、無理矢理精液を採取されたりもした。まったく機械的に僕らは扱われてい
た。僕らがプログラムへの反抗心を強くし、その日のうちに徹底的に抵抗しよ
うと誓い合ったのも、無理からぬ話だった。
徴兵検査の結果、亮兵は兵卒部に、智宏は研究・開発部に、僕は兵站部に配
属された。
それについて、僕は二人に後ろめたい気持ちを持っている。たくさん部署が
ある中で、たとえどこに配属されても、兵役は基本的にきつい訓練と教育を受
けなければならなかった。けど、僕が配属された兵站部は実戦的なトレーニン
グは何もなく、隊員たちの栄養を考えた料理を作ったり、各施設の足りない備
品を調達したり、諸々の雑用をしていればそれで良いというセクションだった。
これは明らかに僕の親父が関係していた。表立って言われなかったけれど、
僕の親父は政府の要人のため、特別な配慮で僕は厳しい訓練を受けなくても良
いように根回しされたに違いなかった。物資供給の名目で基本的にどの部署に
も出入りできたし、キャンプを比較的自由に行動できた。
僕の特別扱いに薄々気づいていながら、亮兵と智宏はそんな素振りをつゆほ
ども見せず、いつも変わらず屈託無く接してくれた。
ハードな訓練のあった日、夕食後、自由時間にいつものように寄宿舎の裏で
落ち合った時、二人は全身の筋肉痛を本当にしんどそうにしながら、どこも疲
れていなくて気後れしている僕に、
「お前も大丈夫か」「負けるなよ」「頑張ろうな」
などと優しい言葉を掛けてくれた。
日ごとに二人の体つきは逞しく、顔つきは精悍になっていった。僕だけが変
わらず、ほとんど入隊前のままだった。
「お前の変わらなさを見ていると勇気づけられるよ」
皮肉じゃなく、感謝の調子でそう言った亮兵の言葉が胸に刺さって、ひとり
のときに思い出すたび、僕は罪悪感に打たれていた。
だめだ。涙がこぼれてしまった。一度流れてしまった涙は止まらなくて、宵
闇に包まれた浜辺にうつぶせで倒れたまま、僕は嗚咽をあげて泣いていた。
僕たちはほんとうによく頑張った。定期的に欠かさず会っていたし、あのプ
ログラムには気をつけろとか、こういうことをイメージすれば折れないでやり
過ごせるとか、訓練に関するあらゆる情報を可能な限り交換し合った。お互い
を精一杯おもいやってのことだった。それだけで、僕たちの絆は前よりもずっ
と深まったような気がした。
一年目が過ぎたとき、亮兵がぽつりと言った。
「おれがおれじゃなくなっても、お前らおれのことを忘れないでくれるか？」
僕と智宏はうろたえて、一瞬言葉に詰まった。何を言っているんだろう。亮
兵の言葉の真意をはかりかねた。どんなときでも快活さを失ったことのない、
激しく疲れていてもポジティブな調子を崩さなかった亮兵が、ひどく真面目に
そう言ったのに戸惑いを覚えていた。
「なんだよ、当たり前じゃんか」
「らしくねえな。どうした？」
取り繕うように明るい調子で、僕らは亮兵を励ました。亮兵は一拍おいて、
「ありがとう」
と言った。微かに笑っていたけれど、その目は冗談を言っている様子ではなかった。
亮兵が弱音のようなことを言ったのはその時かぎりで、すぐにいつもの調子
に戻り、それからしばらくは変わった様子を見せなかった。ジョークを飛ばし
たりお互いを励まし合ったりしているうち、僕も智宏もそんなことがあったの
は忘れてしまったけれど、いま思うと、やっぱりあれは何かの、亮兵なりの覚
悟だったのかもしれない。
それから三ヶ月ほどして、僕らに対する亮兵の態度が急によそよそしくなった。
定期的な集会にも、亮兵は顔を出さなくなった。自由時間は常に兵卒部の連
中と行動するようになった。いつもはどこかで出会うと必ず立ち止まって一言
二言でも言葉を交わした。訓練中で話ができないときでも、僕の姿を見つける
とこっそり親指を立てて合図を送ったりしてくれた。それが急に、どこで会っ
ても無視されるようになった。通りがかりに手をあげても、声を掛けても、僕
など存在していないかのように無視されてしまうのだった。
「おい、亮兵」
廊下を歩いているとき、僕は堪えかねて、正面から来てそのまま通り過ぎよ
うとする亮兵の腕を掴んで呼び止めた。
「どうしたんだよお前、最近冷たいじゃんか」
「ああ」
亮兵は目を合わせようともせず、顎先だけちょっとこちらへ動かし、そのま
ま立ち去ろうとした。
僕は「待てよ」と言いながら、両腕を掴んで亮兵の体を揺さぶった。
次の瞬間、僕は亮兵に跳ね飛ばされていた。筋肉の塊のような亮兵の肉体に、
トレーニングをしていない僕の貧弱な体は無力だった。僕は放り投げられるよ
うに宙に浮き、壁に叩きつけられていた。
その場に情けなく転がり、痛みに呻く僕に目もくれず、亮兵は僕の視界から
消えていった。
悔しくてやりきれなくて、思い出すと、涙がいっそう強く溢れる。
亮兵は、それからも僕らを無視し続けた。季節が変わり、プログラムが一年
半を過ぎるころになると、自由時間に亮兵の姿を見ることもなくなった。僕た
ちはなすすべもなく、ただ亮兵が戻ってきてくれるのを待つしかなかった。た
まに資材を届けるふりをして、兵卒部の訓練を見に行き、顔や体に泥を塗って
沼地を走りまわる訓練生の中に、すっかり溶け込んだ様子で亮兵がいるのを、
僕は遠目に見守ることぐらいしかできなかった。
・��
波の音が高くなっていた。
風も強くなって雨粒を含みはじめていた。
あたりは殆ど真っ暗で、遠く湾の先から視界の半分を覆う怪物の影のような
岩山の上に、ぽつんと針のように小さく白い人工の光が見えていた。
あそこはたぶん、兵卒部の重点強化施設のあたりだ。
ロック・クライミングのような険しい岩肌をのぼり、何十キロも歩かされた
挙げ句、兵卒部の男子たちは、たどり着いたその要塞のような施設で半年間こ
もりきりになって、徹底的に、肉体の強化と兵士としての教育を受ける。兵役
の中で特に厳しい兵卒部の、二年間の総仕上げにあたるプログラムを行なう場
所だった。
僕はその後、その施設で、亮兵が米帝の教官のロボットのようになっている
姿を見た。
例によって、僕ら兵站部の者は、重点強化施設へ行くのにも特別扱いだった。
厳しいコースをたどらずとも大型ヘリに搭乗し、ものの数十分で現場に到着
して資材や食料の配給を行った。
この格差が、僕には苦痛だった。、あからさまな差別を隠そうとしない業務
のありかたが、僕を息苦しくさせた。
これまでも、現場で兵站部の業務と亮兵や智宏のプログラムがかち合うと、
僕は彼らに申し訳なく思ってきた。僕と違って普通の家庭に生まれ普通に育っ
たがために、奴隷同然の扱いになり、兵卒部にいたっては、殆ど道具、モノ扱
いであるのに、僕は複雑な気持ちを抱いていた。
「確かにイヤではあるよ」
そのことを間接的に訊いたとき、亮兵は言った。まだ僕らが定期的に会って
いたころのことだった。
「でも、しょうがないじゃん。あと一年ちょっとだし、おれはおれだし、ダイ
ジョブだって」
「何もミスしてないのに、ほとんど言いがかりで、赤ん坊の真似して走らされ
たり、教官のストレス解消に夜中にたたき起こされて、整列させられて張り手
食らったり･･････」
「あー･･････、けどみんな割り切ってるよ。スイッチ切ってるっていうか、表
向き従ってるけど心じゃ従ってないっていうか。お前みたいに考え込んじゃう
タイプだと大変かもしれないけど。それよりさ、兵役が終わったらまた三人で
後楽軒のラーメン食いに行こうぜ。おれ最近そればっか考えてて、腹減ってし
ょうがねえんだ」
亮兵はどこまでもお気楽だった。僕は憤っていた。兵站部の恩恵に浴してい
ながら、どこに向けたらいいかわからない憤りを噛みしめていた。
強化施設での業務三日目の夜、教官棟の廊下で、僕は亮兵とすれ違った。
やっぱり僕には目もくれず、少しも歩みを緩めず、まっすぐ堂々と横を過ぎ
ていった。
無駄だと思っても、僕は亮兵に声をかけざるを得なかった。
「後楽軒のラーメン、ぜったい食いに行こうな！」
その時、錯覚かもしれないけど、去っていく亮兵の背中が僅かに揺れたよう
な気がした。
僕は何かに賭けるような気持ちで亮兵に走り寄った。
「俺と智宏はいつでも待ってるからな。強化訓練終わったら、好きなときに戻
って来いよ！」
彼の肩を叩いて言った。
うざがられても殴られても、別に良いと思った。
「なんなんだよ！ クソ！」
亮兵は急に立ち止まって、吐き捨てるように言った。心底苛立たしいという
様子で溜め息をついた。
「たく面倒くせえな。･･････ああもう！ 面倒くせえ面倒くせえ面倒くせえ！！」
そう言って、亮兵は頭を掻きむしった。
「･･････もういいから行けよ。早く行けよ！」
「亮兵、あとでちょっとだけ話せないか？ なあ頼むよ」
「うるせえなあ、行けっつってんだよ！ ついてくんじゃねえ！！」
それ以上はこたえず、亮兵はどんどん廊下を行ってしまった。僕は僅かなり
とも亮兵がこたえてくれたことに希望を見出していた。まだ何か、彼が完全に
壊されてしまったわけではないということが救いだった。この機会を逃しては
ならないと、去っていく亮兵の後を、僕は必死でついて行った。亮兵は階段を
のぼり、どうやら三階の、米帝の教官室があるフロアに向かっていた。
「Ok, come in」
教官室のドアの電子パネルから野太い声がして、錠の外れる金属音が廊下に
鳴り響いた。
「Thank you, sir！」
亮平が言った。足を揃え体を真っ直ぐに伸ばし、片手を額の前にあげ、電子
パネルに向かって敬礼していた。
先ほどまで僕に向けていた苛立つ青年の声とは打って変わり、亮兵の声は凛
とした軍人のものになっていた。顔つきは凛々しく真面目だが、見開き気味の
眼の焦点が、なぜだか真っ直ぐ固定されたまま動かなくて、なにやら異様な、
妙な違和感を僕は感じていた。
亮兵はきびきびした動作で扉を開け、中に入った。
僕も一緒について入った。僕の首から提げたパスがあれば、たとえ閉め出さ
れたとしてもそれほど咎められることはないはずだった。亮兵はもはや僕が横
にいることに、一切の注意を向けていないようだった。
中に入ると、そこは、壁に棚式のロッカーがひとつ置いてあるきりの狭い空
間になっていた。入ってきたドアの正面にさらに木製の大きなドアがある。な
んだここは、と僕が思うそばで、亮兵は腕をクロスさせ、裾を持ち上げてミリ
タリーシャツを脱ぎはじめた。
腕が上がると黒々と茂る脇毛、盛り上がった肩、分厚い胸板が露わになる。
シャツを首から抜き、亮兵はそれを横のロッカーへと放り込んだ。ボート部の
頃に見たよりも筋肉は一段と大きく、戦闘的に鍛えられていた。胸元には、首
から提げたドッグタグが、銀色の鈍い光を放っていた。ユニフォームの跡は消
え、上半身はまんべんなく日焼けしていた。
亮兵はさらにブーツを脱ぎ、ベルトを外してカーゴパンツを脚から抜いた。
発達した筋繊維そのものといった脚で、右太腿のつけ根あたりに、薄くピンク
色に沈着した点状の跡があった。昔、中学の頃、僕と亮兵と智宏の三人でサッ
カーをしていて、誤って僕が亮兵の太ももに付けてしまったスパイクの跡だ。
たくさん謝ったし、たくさん何とかしようと試みた。そのたび亮兵は「良いっ
て気にすんな」と笑って許してくれた。あの傷に違いなかった。
いま僕の目の前にいるのは間違いなく中学からの親友の亮兵なんだ。僕は唐
突にそう思った。どうしてそんなことを思ったのか、なぜそんなことを思う必
要があるのか、僕はわからなかった。あまりわかりたいとも思わなかった。
いまだにその傷が残っていたことも驚きだったけれど、それよりももっと驚
くべきことだったのは、亮兵が穿いている下着だった。僕はそれをはじめ下着
だとは思わなかった。何か別の、訓練のための実用的な補助装備か何かと思っ
た。それはまるで白いナイロンの紐であり、下着と言うより腰回りから股下を
縛っているだけという感じで、バックは尻の割れ目を避けるように両尻の脇へ
食い込んでいた。正面は僅かに紐が太くなってはいるが、股間をほとんど覆い
きれておらず、性器をかろうじて固定しているだけの形だった。陰毛などは全
く隠されておらず、ほぼ全てがはみ出していた。
裸同然の後ろ姿は堂々として逞しく、無駄な贅肉もなく引き締まり、とりわ
け目を惹く尻の両脇はきゅっと窄まって、男から見ても見事なものだったが、
そこに纏われているものが補助装備でもなんでもなく明らかにエロ下着である
ことがわかるにつれ、僕は亮兵がなぜそんなものを身につけているのか理解で
きず、徐々に心臓が凍っていくような感覚を覚えた。亮兵が自ら好んでそんな
ものを履いているとは思えない。何かとても恐ろしいことが亮兵の身に起きて
いるような気がした。
「Excuse me, sir！（失礼します！）」
そんな僕を無視して亮兵は一通り服を脱ぐと、正面のドアに進み、直立不動
の姿勢で声を張り上げた。兵卒部の訓練生は日常会話から上官に対する言葉遣
いまで、徹底的に軍隊英語をたたき込まれている。入隊前は全く英語が喋れな
かったのに、今や亮兵は仕込まれた米帝の言葉をすっかり使いこなしていた。
滑らかに英語を喋る亮兵はどこか僕の知っている亮兵とは別の世界の人間であ
るような感じがして、僕は微かな戸惑いを覚えずにはいられなかった。
扉が開くと、理事長室然とした部屋が目の前に広がった。すぐ向かいで、軍
服を着た白人の男が、革張りの安楽椅子に深く身を沈め、デスクの上にブーツ
の脚を投げ出していた。
「You wanted to see me, Sir！ （お呼びでしょうか、上官殿！）」
亮兵は上官のデスクの前にさっと歩み出ると、ほとんど全裸といっていい格
好で、ビシっと気をつけをして声を張り上げた。腹筋からの力強い声だった。
「What's up？ Took you long enough （どうした、遅かったじゃないか）」
男は威圧感たっぷりにそう言って立ち上がると、亮兵の前に歩み出た。ゆう
に身長190センチはある大男で、背が高いだけでなく体つきも熊のように逞し
かった。ニッポン人の体型とは比べるべくもない。米帝の教官は皆、その風体
だけで周りを圧倒していた。
教官は亮兵の前に立ったまま僕のほうを見やった。おまえはなんだという表
情で睨みをきかせていたが、僕の首から提げたパスに目をやると、すぐに興味
を失ったように僕から目を逸らした。僕は、米帝の教官からはどこへ行っても
まるで相手にされなかった。いつも眼中にないといった扱いだった。
「Forgive me, sir！ （申し訳ありません、上官殿！）」
亮兵が姿勢を正したまま叫んだ。男の胸が至近距離で、まるで壁に向かって
叫んでいるみたいだった。教官はキャッチャーミットのような大きな手で亮兵
の後頭部をいきなり掴むと、彼の頭をグッと上向かせた。そのまま吸血鬼が喉
に食いかかるように、教官は亮兵の太い頸にかぶりついた。
じゅばっ、じゅばっと唾の音を立てて、厚く異様に長い教官の舌が亮兵の首
筋を絡みつくようにねぶっていた。鎖骨の窪みから「うっ」「ぐっ」と震える
亮兵の喉仏を這い、独立した生き物のような唇で吸う。顎の裏をべろべろと伝
ってうなじ、そして頸の後ろのぼんのくびまで、亮兵のかいた汗を舐め取るよ
うに繰り返し往復していた。亮兵の頸まわりは、怪物のような男の唾液でねち
ゃねちゃになっていた。亮兵は男に身動きがとれないよう頭と肩を掴まれてい
る。けど、亮兵自身抵抗を示すことはなかった。時折刺激にびくりと震えなが
ら、亮兵は手を体の横につけた気をつけの姿勢を保ったまま、人形のようにさ
れるがままになっていた。亮兵のペニスは勃起し、下着を押し上げ、布の隙間
からのぞいていた。血管が浮くほど怒張し、張り上げた白い布の先に濡れたシ
ミを作っていた。
「Now, what are you boy？ （おまえは何だ？）」
「I am slave, sir！ （奴隷です、上官殿！）」
「and who is your master？ （おまえのご主人様は誰だ？）」
「You, sir！ （あなたです、上官殿！）」
「Good boy. Your destiny is to be my toy. You have no choice （いい子
だ。おまえは一生わたしのオモチャになる運命だ。いやがおうにもな）」
「as you wish, sir！ （仰せのままに、上官殿！）」
亮兵は股間を揉まれ、耳たぶを執拗に吸われながら男の問いかけに答えてい
た。表情は相変わらず真面目で、焦点の動かぬ見開き気味の眼のまま声を張り
上げていた。教官は「That's ok, my pet」と言うと、亮兵の見開いた眼の前
でパチンと指を鳴らした。
「Sleep！」
その瞬間、亮兵の目蓋が落ち、頭ががくっと前に傾いた。膝が折れ、崩れそ
うになった亮兵を、男は片腕で抱き留めた。
「Deeper and deeper……」
男は腕の中で眠る亮兵の頭に手をやり、ゆっくりと撫で廻していた。凛々し
く真剣な表情だった亮兵は、すっかり安心しきった寝顔になり、逞しい肉体を
預けたまま、男の腕の中でスヤスヤと穏やかな寝息を立てていた。
「Your mind is blank Ryohei. Empty of all thought. From now on you must
obey my commands. Do you understand？ （亮兵、おまえの心はからっぽ
だ。すっかり空白になった。いまからおまえに、従わなければいけない絶対の
命令を与える。いいな？）
「Yes sir …… （了解しました、上官殿……）」
教官は亮兵を抱いたまま揺りかごのように体を揺らし、ゆっくりとした穏や
かな声で、亮兵の耳に言葉を囁きかけていた。声はだんだん小さくなり、ほと
んど息だけで囁いているほど静かになった。米帝の教官が何を囁いているか、
僕のいる場所からはよく聞こえなかったけれど、時折教官が言う、
「Repeat your instructions （繰り返してみろ）」という指示に、
「I am an obedient puppet…… （おれは従順な人形です……）」
「I must serve you…… （おれはあなたに従わなければなりません……）」
と、亮兵は眼を瞑ったままうつろな声で答えていた。
僕はその時どのような顔をしていたか、何を考えていたか、殆ど覚えていな
い。僕はどうすることもできなかった。ただその光景を見守る視線になっていた。
・��
遠くで警報のようなものが聞こえる。
風に乗って、不気味なサイレンの音が響いてくる。
天候は完全な嵐になっていた。波濤が荒々しく岩にぶつかってしぶきを上げ
る音や、風と雨の音が闇に渦巻いていた。僕は自分の身体の輪郭が見えないほ
ど、闇と一体化していた。自分の姿が、真っ暗な部屋の中にいるように、いく
ら眼を凝らしても見えなくなっていた。もしかしたら僕はもう死んでいるのか
も知れない、そんな気さえしていた。
亮兵の声が蘇る。
「おれらも行くっきゃないっしょ！！」「腹減ったー！！」
「よっしゃー！！」「山とか登りてー！！」
なぜそんな言葉が蘇ってきたのかわからなかった。ただ徴兵前の、無邪気な
亮兵の言葉の断片が脈略もなく耳に蘇ってきた。子どもっぽくて素直で、悪く
言えばガキっぽくって、たとえるなら体だけ大きくなった子犬、そんな、いつ
も機嫌の良い伸びやかな亮兵の声が、風と波の音に混じって僕の耳に響いていた。
あの後の光景が目蓋の裏に蘇った。教官の合図で起こされた亮兵が、下着も
取り払われた真っ裸の姿で直立し、正面の教官に向かって敬礼しながら勇まし
い声で叫ぶその姿が蘇ってきた。
「You are my master！ I am your slave！ I live to serve you and only
you！ My body and mind are yours to do with as you please！
（あなたはおれのご主人様です！ おれはあなたの奴隷です！ おれはあなたに
お仕えし、全てを捧げます！ おれの体と心はあなたのものです！ おれをお好
きなようにお使いください！」
亮兵は勃起していた。見開らいた眼は何かに取り憑かれたような妖しい熱を
帯びていた。 ニヤニヤと薄笑いを浮かべる白人の大男を前に、体の全てを晒
した亮兵は、そればかりか心や魂といったものまでをも男に捧げようとしてい
た。全存在を委ねるように、真剣な面持ちで、荒げた息に胸や肩を震わせていた。
これが同じ亮兵だろうか。無邪気な亮兵の姿と、米帝の忠実な奴隷になった
亮兵の姿の両方が、交互に脳裏に蘇った。太腿のスパイクの跡を見られて「気
にすんなって」と言っている亮兵の姿。太腿のスパイクの跡をつけたまま裸で
反り返ったペニスを晒け出し、「Yes sir！」と敬礼している亮兵の姿。それ
らが二重写しのように僕の頭に蘇っていた。
亮兵はその後、教官に横の小部屋へ連れて行かれた。僕はその場に取り残さ
れた。開かれたドアの向こうにベッドのようなものがちらりと見え、小部屋の
ドアはばたりと閉められた。ほどなくして、ベッドが軋む音や、亮兵の喘ぎ声、
教官の罵声がドアの奥から聞こえてきた。僕はその場にしばらく立っていた。
いつその場を立ち去ったのかは思い出せなかった。
強化施設のプログラムが一ヶ月を過ぎた頃、兵卒部の訓練生は、朝晩の点呼、
朝礼、日中のトレーニング、教官への報告などを全裸でするようになっていた。
いつそれが決まったのかわからなかったが、たとえば朝の点呼に教官が訓練生
の部屋にやって来ると、教官の「Check！」の掛け声とともに、並んだ二段ベッ
ドに各々寝ていた訓練生たちは、たちまち飛び起き、一斉に着ていた就寝用の
シャツとパンツを脱ぎ、即座に部屋の中央に整列した。
「Kouta Aida, condition A, sir！！ （相田浩太、健康状態Aです！！）」
「Yusuke Ishikawa, condition A, sir！！ （石川雄助、健康状態Aです！！）」
「Ryuichi Ezawa, condition A, sir！！ （江澤隆一、健康状態Aです！！）」
「Ryohei Kawase, condition A, sir！！ （川瀬亮兵、健康状態Aです！！）」
素っ裸の訓練生たちが横一列に並び、順番に気をつけの姿勢で教官に叫ぶ。
それはたとえニッポン人の教官の前であっても同じだった。何か報告がある
ときはたとえどんなに急ぎの用件だとしても、訓練生は教官室に入る前に身に
つけている服をすべて脱ぎ、すべてを晒した直立不動の姿勢で報告しなければ
ならなかった。身分の違いをはっきりさせ、見た目からどちらが上でどちらが
下であるかを刻み込むための執拗な作法だった。体育会系の部活で、新入生の
儀式として先輩が後輩に全裸自己紹介などをさせたりするが、あれと同じよう
な意味合いを持っている、いや、それ以上にたちが悪いと、僕は思った。
二ヶ月を過ぎる頃になると、兵卒部の男子は施設でのすべての時間を真っ裸
で過ごさねばならなくなった。
黄色い猿の子に服など必要ない、というのが米帝側の考えだった。誰も逆ら
うものはないし、訓練生はむしろそれが当然であるかのように自然に受け入れ、
よりいっそう米帝への忠誠心を強めた。体格的にも文化的にも到底敵いようの
ない米帝の教官と同じ恰好、同じ生活をすることなど恐れ多いことだ、という
心理が、兵卒部の男子たちに深く染み渡っていた。大柄の白人に並ぶと、真っ
裸の男子はほんとうに猿のようだった。運動場に整列し、米帝の教官の合図に
従って動く真っ裸の男子たちは、よく躾けられた軍用犬かなにかのようにしか
見えなかった。僕は僕自身のこうした感覚の変化に危機感を覚えていた。
同じ頃、智宏の様子もよそよそしくなりはじめていた。はじめは兵站部の業
務で僕が強化施設に移動することが多くなり、定期集会に顔を出せない日が続
いたため、少しいつものようでなくなっているだけかと思っていた。けど、そ
れは楽観的すぎる見方だった。やがて智宏は約束の時間に来なくなり、たちま
ちのうちに亮兵と同じく僕を完全に無視するようになった。
ラボで吉沢を実験材料に利用する姿を見るまで、それから一ヶ月もかからな
かった。智宏だけではない、ここにきて、僕ら兵站部の一部を除く、すべての
訓練生の様子が急に変わりはじめていた。だんだん個性を欠いてきて画一的に
なった。自由時間に外に出る者もいなければ、風呂や食事の時に私語をする者
もいない。トレーニングでの動きは皆が皆、機械のように一律になっていた。
催眠？ 洗脳？ ありえる話だった。あの時の亮兵が教官にされていたのは、
明らかに催眠術的なものであったし、米帝がもつ軍事技術であれば、人間を
思いのままに操るような強力な催眠、洗脳をすることだって不可能とは思えな
かった。
プログラムも終わりに近づいてきた頃、僕は大きな賭けに出た。業務のふり
をして中央管理棟に忍び込み、昼休み中、誰もいない長官室の端末から、ある
官僚のIDを使って、徴兵プログラムのサーバにアクセスした。このIDは以前、
親父のパソコンからこっそりいただいたものだった。
サーバーにアクセスすると、各部署の名前が一覧で表示された。あまり時間
がないので、全体のことを探っている余裕はなかった。僕は兵卒部のフォルダ
を選択すると、ずらりと並んだ番号の中から「ID:252539」をクリックした。
それは亮兵のドッグタグに刻まれている番号だった。
「ニコニコサンキューだぜ。おれにぴったりじゃね？」
ドッグタグが支給された日、亮兵が僕らに自慢げに語っていた番号だった。
住所、氏名、年齢、出身地、出身校、家族構成、健康状態、といった基礎情
報が書かれた書類や、プログラム期間中の健康データなどが、画面いっぱいに
表示された。それらを適当に流し、フォルダをスクロールしていくと、さらに
暗号鍵のかかったフォルダを僕は見つけた。開こうとするとパスを求められた。
いちかばちか、先ほどのIDを入力すると、難なく鍵は解除された。盗んだと
きはあまり確認していなかったけど、かなり上の権限を持った官僚のIDだった
ようだ。遊びだったが盗んでおいて本当によかったと、僕は思った。
『SD Project』と題されたそのフォルダには、大量の書類、画像、動画デー
タが保存されていた。
ファイル名はすべて意味のわからない番号と記号になっていた。どこから手
をつけたらいいかわからず適当に書類を開いてみたが、中身は化学記号のよう
なものや極めて専門的な学術用語らしき難解な英語の羅列で、読んでみてもさ
っぱり内容がわからなかった。ただ、やたらに「Sex」とか「Sexaroid」とか
「Automaton」と言った単語が目につき、人間のためのセックスに特化したロ
ボット＝セクサロイドについての研究報告だろうかと、僕はなんとなく思った。
けど、なんで亮兵のフォルダにそんなものがあるのか、つながりが想像できな
いから全くの当てずっぽうかもしれなかった。
次に画像ファイルを開いてみると、徴兵前に撮られた亮兵の写真が表示され
た。ふだんの生活の様子に続いて、誰がいつどうやって撮ったのか、亮兵が自
宅で筋トレをしている姿やベッドで寝ている姿、さらに驚くべきことには浴室
でシャワーを浴びている姿や、脱衣所の鏡の前で体を拭いている姿などが表示
された。
ぼくは息を飲んで画像を開き進めた。
そのあとに出てきたのは兵役が始まってからの亮兵の写真だった。ふだんの
訓練の様子がしばらく続いたあと、やはり就寝中や入浴中の写真が出てきた。
やがて出てくる写真がすべて全裸の亮兵を写したものになった。カメラに対
して正面を向き、気をつけをしている写真、横を向いた写真、背を向いた写真
などがあらわれるようになった。
日焼けしている亮兵の体にはくっきりとボート部のユニフォームの跡がつい
ている。ということは、おそらくこれは、徴兵後間もなくに撮られた写真だろ
う。亮兵は真っ裸で気をつけをしながら、眠たげに小首をわずかに傾げ、うつ
ろな表情をしていた。「ベル現象」と言うのだろうか、瞑っている目を無理矢
理こじあけた時のように、亮兵の眼球がやや上向いて中央に寄っていた。ボー
ト部で鍛えられた腕を上げ、ユニフォームのかたちの日焼けしていない肌の内
側に、茂る脇毛や、漕ぐ力のため盛り上がった胸板、腹筋、そして堂々と陰毛
の生え揃った男らしいペニスを晒して、亮兵がまっすぐ万歳をしている。その
表情は、薄く口を開き、もはや完全に白目を剥いてしまっていた。次の写真も
同様だった。腕を組んで勇ましく仁王立ちしながら、頭は後ろに傾いて反り返
りそうになるのを、画面の横から伸びた何者かの手によって支えられていた。
次の写真では腰に手を当てて、胸を反らしてペニスをカメラにやや突き出すよ
うにしていた。やはり顔はうつろで、亮兵の背後に首から下までしか写ってい
ない白衣の者が立ち、無理矢理正面を向かせるように両手で亮兵の頭を固定し
ていた。
まだ日焼けの跡が残るころから亮兵の身にこんなことが起こっていたなんて、
僕は想像だにしなかった。そんな素振りを亮兵はいっさい見せなかった。もっ
とも、催眠術か何かで記憶を消されていた可能性はある。いったいどうやって
亮兵をこんな状態にさせたのだろう、そんな僕の疑問に答えるように、注射を
打たれ意識を奪われている亮兵の写真が映った。
連続で写したものらしく、カメラに背を向けた白衣の男に向かって、椅子に
座った亮兵が何かを喋っている姿からはじまっていた。亮兵は明るい表情をし
ている。その後ろにやはり白衣の男が手に小さな注射器を持って忍び寄るよう
に立っている。次に、亮兵が後ろの男に首筋へ注射を打ち込まれ、顔をしかめ
ている姿が映った。そこへ手をやろうとして、亮兵は腕をわずかに持ち上げて
いる。そして次に映った写真では、既に亮兵は薬が回ってうつろな顔をしてい
た。椅子に座ったまま崩れそうになる体を、後ろの男に脇の下から手を入れて
支えられている。亮兵の正面にいた男は亮兵の前に屈み込み、亮兵のベルトを
外してカーゴパンツの前をはだけさせ、いまはミリタリーシャツを裾から剥ご
うとしているといった様子で、亮兵の腹筋から胸板の下までが晒け出されてい
た。次の写真では白いシーツの簡易ベッドに亮兵が全裸で寝かされていた。横
で白衣の男が手に持った小瓶に注射針を刺して、中の赤い液体を吸い上げてい
た。あの薬物を亮兵に注射したのだ。おそらく、強制的に催眠状態に落とすよ
うな特殊な薬品だろうと、僕は思った。
次から次に現れる写真は、どうやら亮兵の肉体の発達状態を記録しているも
のであるようだった。手指、腕、肩、胸、乳首、腹、太腿、ふくらはぎ、足先、
そして尻やペニスにいたるまで、肉体の部位ごとに年月と発達の具合が詳細に
記録されている。やつらは亮兵のペニスにまで何かしたらしく、平常時、勃起
時とそれぞれ記録されていた亮兵のペニスは、後半になるに従ってあきらかに
その大きさを肥大させていた。床面に数値の書かれた部屋に亮兵が立ち、片腕
でペニスを握りながら凛々しくカメラに敬礼をしている写真が映った。もちろ
ん表情は尋常ではなく、見開いた眼の視線はカメラではなくずっと遠くの虚空
を凝視しているように膠着していた。次の写真では床が写っていて、「2m05cm」
と書かれた数字の上に白い液体が掛かっていた。
狂ってる！
僕は思わずマウスを画面に叩きつけそうになった。僕らの知らないところで、
何度も何度も亮兵がこんなことになっていたと思うと、悲しくて憤ろしくて、
吐きそうになった。昼休みはもう半分を過ぎていた。もうこれ以上見たくない
という気持が湧き上がるのに反して、僕は次の資料をクリックしていた。何が
起こっているのか、ちゃんと知るのは義務であるような気がしていた。
・��
クリックしたのは動画ファイルだった。標準の動画再生ソフトが立ち上がり、
画面いっぱいに「introduction （導入）」とタイトルが表示された。
亮兵が映っている。どこか小さな部屋で、ベンチのような長椅子に腰掛けて
いる。亮兵は寄宿舎での部屋着である黒いタンクトップにカーゴパンツを穿い
ている。亮兵の隣に、メガネを掛けた黒人の男が座っている。ものすごく発達
した筋肉をして、白いポロシャツを着ている。僕はこの男には見覚えがあった。
医療部のメンタルトレーニング課にいるトレーナーだ。訓練生のメンタル面に
ついてチェックしたり、指導を行ったりしている。その男がカメラに向かって
手を振り、「それではカウンセリングをはじめよう」と言った。もちろん英語
だ。亮兵もカメラに向かって笑顔で手を振った。和やかな雰囲気。
最近調子はどうだい、と男が亮兵に尋ねる。特に問題ないですよ、と亮兵が
言う。男は亮兵の訓練の様子、何か引っかかっていることはないか、食べ物の
味はどうか、などの話題についてフランクに尋ねていく。「ここのミソスープ
は不味いだろう」と男が言って、「ああ、確かに不味いっすねえ」と亮兵が笑
う。亮兵の英語が今よりもたどたどしい。大分前に撮られた映像のようだ。
「そうだろう、ミソスープだけは兵站部ではなくうちのソルジャーが作ってる
から味付けがひどい」と男が笑い、「きみの家のミソスープはどんなだ。ニッ
ポンの家庭はそれぞれの家でミソスープに特徴が出るんだろう」と振る。
「そうっすね、特に特徴的ってわけじゃないですけど、白味噌で豆腐とか若布
を入れることが多くて、たまにそう麺なんかを具にすることもあります。毎日
食べてると何にも感じなくなるけど、どこか外に出掛けていってみそ汁飲んだ
りすると……」
「Freeze！！」と男が言って、亮兵の前で指を鳴らした。亮兵は喋っている途
中の笑顔のまま、時間が止まったように固まってしまった。男は黒い大きな手
の平を亮兵の顔に当て、幕を下ろすように額から顎先へと撫で下ろし、「Slee
p」と言った。亮兵の頭は前に落ち、男に誘導されるまま両腕をだらりと垂ら
して椅子に項垂れる形になった。「Deeper and deeper……」と畳みかける男
の声に合わせて、垂れた亮兵の腕が、びくっ、びくっ、と断続的に痙攣していた。
「既にここまでは処置しています。これからこの被験体をさらに深い催眠に落
とし、たっぷり一年の期間をかけて主人に忠実な性奴隷へと仕立てていきます。
クライアント様の満足を得るセクサロイドを完成させるには長い長い期間が
必要です。あらゆるニーズに応えるため、非常にたくさんのコマンドを仕込ん
でいきます」
急にカメラのほうに向き直った男は、淡々とそのように説明をはじめた。に
こやかな表情だったのが嘘のように、冷たい科学者みたいな顔つきになっていた。
「声の調子やいくつかのサインによって、被験体の意識に言葉が届いたり届か
なかったりするように調整してあります。いま私が喋っているこの声は、被験
体の耳には入っても意識には届いていません。命令のための調子、キーワード、
サインなど、簡単ないくつかの要素は、被験体をコントロールするためにクライ
アント様に覚えてもらう必要があります」
男はそこまで語ると亮兵のほうを向き、「起きろ」と低く言って、亮兵の肩
を叩いた。すぐに亮兵は体を起こした。重たげな目蓋を何度かしばたいて、
「あれ？」などと言っている。「あれ？」は日本語だった。
「それで、外で食べるとやっぱり家のミソスープと味が違うわけだ。食べ物は
何が好きなんだい？」
「え……、えっと。カレーとか、ハンバーグとか。肉とかは何でも好きですね」
亮兵はいきなり振られた男の言葉に、どこか腑に落ちない顔をしながらも、
ちょっとぼーっとしていたのかもしれないくらいに納得したらく、すぐに元の
調子に戻って答えた。
「ああ、ハンバーグは私も大好きだ。うちの国のハンバーグを食べたことがあ
るかい？ でっかいプレートにのった何キロもあるハンバーグだ。＜話しなが
ら万歳しろ＞、ニッポン人には大きすぎるかもしれないが」
男は「話しながら万歳しろ」の部分のトーンを低く落として言った。
「食ったことあります。ベガスに旅行いったとき、レストランでハンバーグ頼
んだらすごいでかいのが出てきて」
そう話しながら、亮兵の両腕が引っ張られるように真上に上がった。やがて
指の先までピンと伸ばして両腕の脇毛を堂々と晒した万歳の恰好になった。亮
兵は何事もなかったように笑って話し続けている。
「いや、さすがにおれもあれは食うのが大変でした。胃が破裂するかと思いま
したよ」
「どうして両腕を上げているんだい？」
「？」
亮兵は何を言われているかわからないというふうに、きょとんとした笑みを
浮かべていた。男がカメラのほうに向いて言った。
「このように被験体は、入力された命令に対して通常は意識を向けることがで
きません。これは自分の行為と意識の間で無為な葛藤が起こらないようにする
ためで、基本的には無自覚のまま行動し、それらについて考えたり、話を向け
られても理解できないようにしてあります。もしクライアント様がこの被験体
にその行為を意識させたい場合、たとえば恥ずかしいプレイに対してその恥辱
を感じさせたいといった時は、簡単にその切り替えが出来るようにもしてあり
ます」
冷たい表情でカメラに語っていた男は、再び亮兵のほうに向き直って笑顔を
作った。亮兵は高々と両腕を上げたままにっこりと笑ってそれにこたえた。唐
突な話の中断も、目の前で自分について語られる恐ろしい説明も、まったく亮
兵の意識に引っかかっていないようだった。
男はいきなり亮兵のタンクトップの裾を持ち上げて脱がしはじめた。顔にタ
ンクトップが被り、そのまま万歳した腕を抜かれていく。突然脱がされたにも
関わらず、亮兵は笑顔を浮かべたままにこにこしていた。上半身にボート部の
ユニの跡がついている。やはりこの映像も、徴兵後間もないものに撮られたも
のだ。
「Yoshi、Yoshi、Iikoda！」
男はたどたどしい日本語でそう言いながら、亮兵の頭を犬を撫でるようにく
しゃくしゃっと掻いた。腕を上げた上半身裸の亮兵は、頭を揺らしながら、よ
りいっそう笑みを強めていた。
さらに男は、亮兵の喉元に手を入れると、まるで猫にするように指先で撫で
はじめた。亮兵は気持ちよさそうに目を細め、顔を上向けて喉を鳴らした。完
全にペットのように扱われている亮兵の姿に僕は唖然とした。両腕を上げて喉
を鳴らしている亮兵は幸せそうな表情をしていた。男の行動にまったく疑問を
持たず、その扱いを喜んで受け入れている亮兵の姿に、僕の背筋は凍りついて
いった。
「ご覧のように、被験体はペットとして愛撫されると、大変心地よく感じるよ
うに刷り込んであります。支配者が服を脱がすことに関しても、まったく無抵
抗に疑問を感じることがないように刷り込んでいます。躾はとても簡単です。
ご褒美として愛撫を暗示に組み合わせると、さらに複雑で深い刷り込みも可能
でしょう。性欲や性衝動と結びつければ人格の深い部分にまで届く支配も可能
ですが、それは少しだけ調教にコツが要ります。その件に関しては、映像の後
半で説明しましょう」
男は亮兵の喉をあやしながらカメラに向かって言った。そして反対の手で亮
兵の頭を掴むと、
「Sleep！」
と言ってレバーのように前に引いた。途端に亮兵は腕を落とし、頭を下げて
前屈みになった。
「Deeper and deeper……」
男は言いながら亮兵の頭を撫で、カメラに向かってにっこりと微笑んだ。
カメラの前で、真っ裸になった亮兵が、項垂れて両腕をだらんと前に下げ、
ゆらゆらとゆっくり揺れて立っていた。ユニの日焼け跡は消えていた。いくら
か時間が経った後らしい。体つきも先の映像に比べて、より逞しくなっていた。
亮兵はすでにかなり深い催眠状態に落ちているようだった。
画面に黒人の男が入って来た。「それでははじめましょう」とカメラに向か
って言うと、亮兵の耳元で指を鳴らし、「起きろ」とドスのきいた声で言った。
亮兵はハッと顔を上げたが、ものすごくうつろな眠そうな表情をしていて、まる
で深い眠りの中を無理矢理たたき起こされたように茫然としていた。眉間に皺を
寄せて眼をしばたきながら、肩を上下させてしんどそうに息をしている。
「今日は被験体にたっぷり時間をかけて、大変深い部分に暗示を刷り込みまし
た。このレベルに刷り込んだ暗示は、被験体の非随意の防衛反応をすり抜けて、
肉体の生理反応までに及ぶ支配が可能です。クライアント様の完全な操り人形と
するために、好みや趣向に合わせ、より細かい改変をこのレベルの暗示で刷り込
んでいきます。主に引取先が決まってからの仕上げの処理で行いますが、あらか
じめいくつかの趣向はサービスとして仕込んであります。クライアント様が隠し
コマンドを探す愉しみとして、大変ユニークな趣向を多数ご用意しております。
今回はそのひとつをご紹介しましょう」
男はうつろに揺れる裸の亮兵の腕をさすりながら、まるで自慢の商品を説明
するようにカメラに語った。亮兵は次第に落ち着いてきたようで、まだ眠そう
にしながらも、ぼんやりした視線を床に落としてゆっくりと深呼吸していた。
「亮兵、気分はどうだい？」
「ん……、なんか、すごく眠いっす。あの」
男は和やかな調子で話し掛けると、亮兵がこたえている途中で、彼のヘソを
指でチョンと押した。
「あふ……。ふふっ、はははっ。いや、なんか、愉しいっす」
茫漠としていた亮兵は急に嬉しそうな顔になり、笑い出した。
「ほんと？ それは良かったねえ」
男は笑顔で言いながら、また亮兵のヘソをちょんと押した。
「あはっ、あはははははっ！ や、うはははは！」
亮兵は肩を揺すり、腹筋をびくびくさせながら、真っ裸で大笑いしはじめた。
男はそれを見ながら作り笑顔のような嘘くさい微笑みを浮かべている。
「なにがそんなにおかしいんだい？」
男はまた亮兵のヘソに触れる。
「ははっ！あはははははっ！！ あっはっはっはっは！！」
亮兵はこれまで僕が見たことがないぐらい爆笑していた。あまりにも楽しげ
な笑いぶりで、思わずつられて笑ってしまいそうになる。しかし、素っ裸で操
り人形にされているのだということを思い出して、途端にその気持が引っ込んだ。
「このように、被験体はヘソに指で触れられると大変愉しい気持になるように
刷り込んであります。意味もなく笑いがこみ上げてきて、とてもハッピーにな
ります。このレベルの感情のコントロールはそれほど深いものではありません
が、たとえば次のような支配はとても複雑です」
そう言って、男はいまだ痙攣的に笑っている亮兵の乳首を二度、ダブルクリ
ックするように押した。
「うっ」
びくっと亮兵は震えると、急に真顔になり、シャキッと姿勢を正して気をつ
けをした。そして鼻息荒く肩を上下させはじめ、やがて亮兵のペニスがギンと
鎌首をもたげた。
「オナニー開始！！」
突然勇ましく叫んで、亮兵は烈しくペニスを扱きはじめた。
「ふっうっ、ふっうっ、おれはっオナニーっロボットですっ！ ふっうっ、
ふっうっ、いつでもっご命令のままに射精するっ、変態オナニーっロボットですっ！
うっ、ふっ、うっ！ ぐうううっああっ！！」
声を張り上げながらたちまちのうちに亮兵は果て、射精しながら白目を剥い
てびくびくと痙攣した。
「はあ、はあ、はあ……」
「いかがでしょうか。およそ30秒以内に射精するように刷り込んであり、また、
それが可能なように性的な衝動をいつでも最大のパフォーマンスで解放できる
ように調整してあります」
そう言って、男は再び亮兵の乳首を二度押した。
「ぁぐっ！」
亮兵はぐったりと膝を折って傾きそうになっていた姿勢から、シャキッと気
をつけし、額から汗の粒を滴らせながら真顔で叫んだ。
「オナニー開始！！」
先ほどの射精で濡れたペニスを握って、音を立てながら烈しく扱きはじめる。
「ふっうっ、ふっうっ、おれはっオナニーっロボットですっ！ オナニー大好
きっ！ オナニー大好きっ！ うっ！ あっ！ うううっああっ！！」
再び亮兵は射精しながら白目を剥いてびくびくと痙攣した。大量の汗をかい
ていた。真夏にハードな運動をした直後のように亮兵の筋肉は熱くわなないて
いた。
「はあっ、はあっ、うっ……、はあっ」
「どうでしょうか。いくらタガをはずしてやっているとは言え、被験体の肉体
の限界がありますから、あまり高い負荷をかけるのは推奨できません。肉体の
防衛反応よりも強い暗示ですので、ヘタをすれば完全に壊れてしまう可能性が
あります。このあたりはクライアント様と相談の上で、細かい調整が可能です」
言いながら男は、再び亮兵の乳首を二度押した。
「オナニー開始！！」
注意を喚起しておきながら、男はそれから二度までも、亮兵をオナニーロボ
ットにして弄んだ。
「さて、次は記憶と認識を操作して、亮兵をクライアント様の理想の恋人に作
り替えるプログラムです」
僕は動画を最後まで観ることなく画面を閉じた。もう限界だった。涙が出そ
うで、一滴も湧いてこなかった。あまりに悲しみが深いと、泣くことさえまま
ならないようだった。頭の奥が痺れるような感覚を感じながら、何もまとまっ
た思考をできないまま、操作履歴などの証拠をぬかりなく消去すると、僕は長
官室を後にした。
サイレンの音が、よりいっそう大きくなった気がした。
気がしただけで、やっぱり違うかもしれなかった。
風の向きで音の届き方が変わるのかもしれない。
ほんとうか？ 音はどういうふうに伝わるんだっけ。
そんなことはどうでもいいのに、僕は脈略もなくめぐる思考を抑えられなかった。
なぜ亮兵なのか。亮兵が何をしたというのか。そんなことじゃない、なぜ亮
兵があそこまで狙われたのか。ほかの訓練生と違って、亮兵だけが。容姿健康
状態が平均より優れているから？ 体育会系だから？ 『SD計画』って何？
そうだ、亮兵は狙われていた。最初から、その優れた肉体を狙われていた。
Japは最高だ、栄養のあるものを食べて発達が良く肌が滑らか、体臭は濃くな
いし、従順だし、一度躾ければよく懐いて主人にとても忠誠を尽くす。ハイソ
サエティの一員たる者、やはり一体はJapを所有しなければ。などという、反
吐が出るような腐った米帝の好事家に売るために、優良な亮兵は最初から狙わ
れていた。『Sex-Doll計画』なんてふざけた名前。徴兵なんて建前だ。戦争は
起こらないし、人身売買その他、社会の黒い部分を支えるリソースを集めるた
めに、そんなものが施行されたにすぎない。ほんとうか？ これじゃまるで中
二病の妄想じゃないか。
けどほんとうなんだ。
僕は自問自答を繰り返していた。
逃げる前に僕は見た。開発・研究部のラボで、智宏がオペレーションを行う
実験室で、引取先が決定した亮兵が最終調整されている姿を、僕は見ていた。
ただ見ていただけじゃなくて僕は智宏に泣きながら叫んでいた。
「やめろ！ 智宏！ 亮兵だぞ！！ 頼む！ やめてくれ！ お願い、お願い
します……！！」
智宏はやめなかった。まったく表情を変えず、「電位上昇」だの「人格書き
換え処理、96％完了」だのと英語で言いながら、強化ガラスの向こうで操作パ
ネルを動かしていた。僕の声や叩くガラスの音が聞こえないはずないのに、い
や、本当に聞こえていないのか？ そこに磔になっている者が亮兵だと思って
いないかのように、無表情な数人のオペレーターと一緒に最終調整を行っていた。
X字に裸で固定された亮兵は、自ら進んで改造されようとしていた。智宏が
冷たい声で、
「これからおまえの頭に新しいものを埋め込む。少し頭の中が振動して心地よ
くないかもしれないが、心配はいらない」
などと呼びかけると、
「大丈夫です。お願いします」
と言って、亮兵はうつろな笑顔を浮かべていた。
「ううううああああがあああっ！！」
電流が流れると亮兵は全身を痙攣させ、身を反り上げて白目を剥いた。電流
が止まると、ぐったりしながら、びくっびくっと断続的に震えていた。
「まだ自意識につながる回路が消えていないようだ。10％負荷を上げてもう一
度実行する」
智宏が冷たく言い放つと、
「はい、もちろんです。お願いします」
と、亮兵はグロッキーな声で、朦朧と微笑んだ。
「があああああああああああああっ！！！」
次の電流が止まると、亮兵は白目を剥き、笑顔を浮かべたまま気絶していた。
あの光景を、僕は、本当に見たのだろうか。
人の声が聞こえる。
ちらちらと、闇に点のような光がいくつも見える。人の声はいくつもあった。
光はたぶん、懐中電灯だ。筋を作った光の点が、いくつも交錯して、だんだん
近づいてくる。
僕を捜しに来たんだろう。
僕は身動きせず、やっぱりうつぶせに倒れていた。ひどく眠かった。でも今
眠ってしまったら、僕はもう二度と僕として目を覚ますことはないような気が
していた。
＜完＞
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