―他国の安全に思いが至らない日本人の恥ずかしさ
法律に関する常識を知らない
安倍晋三総理は、5月15日に有識者懇談会(安保法制懇)から提出された報告書を踏まえて、政府としての検討の進め方の基本的方向性を示した。この方針に対して、護憲派のマスコミは反発している。『毎日新聞』は、16日付の社説で「集団的自衛権 根拠なき憲法の破壊だ」としている。また、『朝日新聞』は5月3日付社説で日本近海での米艦防護を例に挙げ、「個別的自衛権や警察権で対応できる」「ことさら集団的自衛権という憲法の問題にしなくても、解決できるということだ。日本の個別的自衛権を認めたに過ぎない砂川判決を、ねじ曲げて援用する必要もない」と記した。
だが、「個別的」「集団的」の違いを言挙げして自衛権の問題を論じているのはこの日本だけである。前記の社説をもし英訳して海外に配信したら、世界中の笑い物になるだろう。なぜか。根本的に、法律に関する国際常識を知らないからだ。
その常識とは何か。欧米において自衛権が、刑法にある「正当防衛」との類推(アナロジー)で語られているということである。実際に以下、日本の刑法で正当防衛を定めた条文を見てみよう。
*****************正当防衛の条文であるにもかかわらず、「他人の権利を防衛する」という箇所があるのに驚かれた読者がいるかもしれない。しかし、これが社会の常識というものである。自分を取り巻く近しい友人や知人、同僚が「急迫不正の侵害」に遭っていたら、できるかぎり助けてあげよう、と思うのが人間である。そうでない人は非常識な人と見なされ、世間から疎まれるだけである。少なくとも建前としてはそうだ。もちろん実際の場合には、「他人」と「自己」との関係、本人がどこまでできるかどうか、などで助けられる場合も、そうでない場合もあるが。
第36条
1、急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。
2、防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。
*****************
国際社会の論理も、何ら変わらない。「自己」や「他人」を「自国」「他国」と言い換えれば、つまるところ国際社会では「急迫不正の侵害に対して、自国又は他国の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない」。そのまま自衛権の解釈として成立することがわかるだろう。英語でいえば、自衛権も正当防衛も同じ言葉(self-defense)である。
繰り返すが、正当防衛をめぐる条文は、万国問わず「自己または他人」への適用が原則である。したがって自衛権の定義において「個別的か集団的か」という問いが国際的に通じないことはもはや明らかであろう。
冒頭に引用した社説のような「個別的自衛権や警察権で対応できる」という意見は、他国が攻撃されても、自国が攻撃されたと見なして個別的自衛権で対応できるので、集団的自衛権は不要という意味だ。一見もっともらしいが、国際社会では通じない。というのは、正当防衛でも、「他人」の権利侵害を防ぐために行なう行為を、「自己」の権利侵害と見なす、と定義するからだ。
つまり、他国への攻撃を自国への攻撃と見なして行なうことを集団的自衛権と定義するのであるから、冒頭の社説を英訳すれば、集団的自衛権の必要性を認めているという文章になってしまう。そのあとで、集団的自衛権を認めないと明記すれば「私は自分の身しか守らない。隣で女性が暴漢に襲われていようと、警官がいなければ見て見ぬふりをして放置します」と天下に宣言しているのと同じである。
いくら自分勝手な人間でも、世間の手前、上のような発言は表立っては控えるのが節度であろう。よく恥ずかしげもなく、とは思うが、しかし戦後の日本政府は、無言のうちにこの社説と同じ態度を海外に示しつづけていたと思うと、憲法前文にある「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」を恥ずかしく思ってしまう。
ついでにいえば、憲法前文で「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とも書かれている。個別的自衛権のみを主張するのは、この理念からも反している。
集団的自衛権の反対論者がいう「巻き込まれ論」は、国際的に日本だけが「見て見ぬふり」を公言していることになるのをわかっていない。地球の裏側まで行くのか、という議論も極論である。正当防衛論から見れば、「緊迫性」「必要性」「相当性」が求められているので、地球の裏側というのは、そうした要件に該当するものとはなりにくいから、極論といえるわけだ。
内閣法制局の掌握事項ではない
このように正当防衛とのアナロジーで見ると、自衛権に対する批判は利己的なものであり、論理的にも、倫理的にも破綻していることがわかる。もちろん正当防衛と同じように、国際法のなかでは自衛権の行使にあたって歯止めとなる条件が存在する。正当防衛の条文が示している「緊迫性」があることに加えて、その防衛行為がやむをえないといえるために、「必要性」と同時に、限度内のものである「相当性」が求められている。防衛の範囲を超えた攻撃すなわち「過剰防衛」になってはいけない。さらに、他国の「要請」があることが条件となる。民家で襲われている人が隣人の助けを拒否するとは考えにくいが、それでも最低必要限度にしなければならない。
国内法や国際法はそれ自体で漫然と存在しているわけではない。互いに厳密な整合性と連関をもっている。個人の正当防衛が認められるにもかかわらず、国家の自衛権が認められないとすれば、日本の刑法36条が憲法違反ということになってしまう。国内法における個人の正当防衛という延長線上に、国際法における国家の自衛権がある。この当たり前の常識を理解している人が日本ではきわめて少ない。
加えて日本特有の事情として、内閣法制局という政府の一部局にすぎない組織が権威をもっている点が挙げられる。内閣法制局の役割は総理に意見具申をするところまでであって、「集団的自衛権をめぐる憲法解釈の変更」などという大それた権限を掌握できるポストではないのだ。ところが、東大法学部出身の霞が関官僚があたかも自らを立法(国会)と司法(裁判所)の上位に立つかのように、法案づくりと国会の通過、さらに法律の解釈に至るまで関与しようとする。そのこと自体が異常な現象なのである。
にもかかわらず、霞が関官僚の仕事ぶりの基本は「庭先掃除」だから、国内を向いた仕事しかできない。自衛権や正当防衛の国際的理解などは一顧だにせず、ひたすら立法府を形骸化させている。官僚は、表向き立法を司る国会を否定はできないので、内閣に法案を持ち込んで閣法(内閣提案立法)をつくらせ、実質的に立法府の権限を簒奪していく。これは国会議員が仕事をしないからで、議員立法をしない政治家の怠慢が問題である。
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