図書館発、キュレーション行き

元図書館職員(司書)の怠惰な日常

「エクリチュール」と野次事件のはなし

某女子大のとある講義では、初老の女性講師が最初の5分か10分ほど世間話を..

 

ブコメしたのだが、おそらくなかなか通じないだろうなと思うので、こちらで補足。

 

思慮深いみなさんの事ですから間違える事は無いと思いますが、念のために助言しておきます。
この件でネット上で当事者を批判するのはおやめなさい。
赤の他人の失言をあげつらって公然と批判するというのは、実は非常に難しい事なのです。私よりも年齢を重ねた人でさえも、きちんと出来ない人は少なくありません。その割に、得るものはあまり多くありません。
批判自体は簡単です。ただし、自身の品位や人間性を損なわずに批判するというのは、これは極めて高度な技術に加えて、強い精神力も求められるのです。

 

案の定、ブコメは叩きコメであふれているのだが、

上に対する自分のブコメは以下である。

 

エクリチュール(文脈、発言者、状況による意味の変化)と言うものがあってね。同じ言葉でもネット空間に移した途端にメタ批判を誘引してしまう。こういう意見を引受けられる人がエスタブリッシュメントなんだろうな…

 

エクリチュールという言葉に対し、これほど適切な例示はまたとないだろうと思う。

おそらく、この先生が某女子大のとある講義でこの話をしたときには、学生たちは内心はともかく、神妙に耳を傾けていたんだろうと思う。

 

それが同じ言葉をネットに移したとたんに、叩かれるというのは、この講話で、ネット書き込みを批判しているからというのももちろんあるが、それだけではないだろう。

女子大の授業は、その後の学生たちのリアルの人生―就職してOLになったり、結婚して専業主婦になる人もいるだろう―に線でつながっていく。リアルの文脈の中での言葉である。

 

一方、ネットの書き込みは匿名で発信され広く拡散するが、対象者も責任もない。その代わりに「自由」がある。

 

エクリチュールとは、要は発信されるときの文脈(状況)が変わると、ことばの意味も変わるという現象のことだ。

 

人生において、責任というものを背負っていくことを踏まえた時に安易に人を批判するなというのは、至言だと思う。

 

上記講師はリアルではなく、ネットで批判するなと言っているのだが、リアルとネットででペルソナ(人格)を使い分けるとしても、ネットでの行為が内心に及ぼす影響を心配しているのだろう。

 

しかし、一方で自分は2ちゃんでもブコメでも他者を批判する人に対し、メタ批判をする気にもなれない。

 

自分のブコメを見てもらえればわかるとおり、他者への批判のオンパレードである。

ネットで書き込みする人は、生まれながらに息をするように批判を書き込みたいと思ってしているわけではない(と自分は信じている)。

 

ネットでの書き込みは自分の場合、ルサンチマン(弱者の強者への怨念)の発露の手段である。

ニーチェルサンチマンを噛み切らなければならないと言った。
しかし、一方でルサンチマンはどうしても生じるものであり、うまく付き合っていかなくてはならないとも言った。

 

現代社会は、ルサンチマンを溜め込みやすい社会である。
なぜそうなるかという理解は当然あるが、それは長くなるので今回は措く。

 

後段の「こういう意見を引受けられる人がエスタブリッシュメントなんだろうな…」
というのの意味は、講師の言は正論ではあるが、弱者からは「正義のふりかざし」に見えるし、ネットという場で、ルサンチマンを吐き出すのはやむを得ないと思う。

 

しかし、正論を正論としてきちんと我が身に引き受けられる人は、家庭での幸福か、社会での成功か、それはわからないが、いずれにしても「リア充」「エスタブリッシュメント」になるだろうな、と思う。


そういう意味である。