2014-06-23
キャラクターの見た風景を視るということ、その心に触れるということ
私たち視聴者は大よそ物語や映像を客観視していることが多いわけですが、時折挟み込まれる主観のアングルやそれに準ずるカット・シーンを目の当たりにすることでその視線は一時飛躍し、それも彼らの見た風景・その視線へと重ねることが可能となるように思います。
またそれこそが俗に言う感情移入という現象でもあるのでしょうし、少なくとも私はそうすることで彼らの心に触れているのだと思い込むことが出来る。「ああ、だから彼 (彼女) はこの瞬間にそう想えたのだろう」 とか、言ってしまえばそんな視線の同化、登場人物たちの心情の読解。あるいはキャラクターと同じ立ち位置をもって風景を眺めていると錯覚することのできる希少な瞬間、その獲得。*1
それもその瞳に映り込む風景はどのようにして彼女たちにの心に広がっているのだろう?という疑問に対し、ある種応えてくれるかのように描かれるカットの連続性。表情のアップショットから風景を切り取ったミドルショット・フルショットへと繋げられた映像の妙。
時としてはそのまた逆も然りではありますが、そうして映像がキャラクターの心に触れていく瞬間ってやっぱり凄く良いもので、そういう一連のシークエンスを観る度にやっぱり物語って彼女たちが見た風景そのものの集積でもあるのだなと思い知らされるわけです。*2
例えば、主人公を迎え入れるように輝くカレイドスターのワンカットから紡がれるキャラクターへのアップショット。徐々に光が表情へと差していくその映像からは、彼女の目にどうその舞台が映り込んでいるのかというその心象風景そのものが雄弁に語られているようで、ついこちらの胸でさえ嬉しさに満たされてしまうよう。*3
また、こちらも1話にしてこういうシーンを入れてくるのだからほんと堪らないなと。それこそ物語ですらなにもまだ積み上がらない状態でありながら、その風景を一つ差し込んでしまうだけで彼女を (ともすれば視聴者でさえ) 納得させてしまうこの広大な情景の提示。
涙を流すヒロインの理由など推して量るべきだと云わんばかりの情景で心情を語るこのスタンスは、誇張した表現を描くことの出来るアニメならではの素晴らしさでもあるように思えます。キャラクターを通して風景を視るということ。風景を通して感情に触れるということ。その代名詞的なワンシーンだったなと。
*4 *5 *6
ようは、私はそういうシーンが堪らなく好きなのでしょう。その理由も前述したよう簡潔に述べてしまえば “彼女たちの心に触れることが出来たと思えるから” であり、その瞬間にこそ各々の作品の主体は登場人物たちの感情そのものになる。
彼女たちの心が震えた瞬間に同期してこちらの心も震えてしまうあの快感、胸の高鳴り。彼女たちの瞳を媒介にその世界を見通すことでよりその心にも近づいていけるし、だからこそその場所で生きる彼女たちの息遣いを耳元で感じることだってきっと可能になるのではないかと思うのです。
参考記事:野々原ゆずこという視点、その風景、そして憂鬱 / 『ゆゆ式』 5話*7
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視線の共有、感情の同化。そういう曖昧だけれど実直なものの積み重ねが、やがては一人一人のフィルターを通し “物語” そのものへと昇華される。
話の序盤であればその風景は物語の礎に。話の終盤であればそれは物語の集大成に。それも逆説的に考えれば、「このキャラクターからはこの風景がこういう風に見えているのだ」 と雄弁に語り掛けてくるような決めカットの数々には、きっとそれだけの意味が宿してあるのではないかとも思います。
それこそあの初日の出にれんちょんの成長を感じ取れたのは、あんなにも幼く子供然としていた彼女のその瞳に今、こうしてその朝陽の光が煌びやかに差し込んでいたからに他ならないでしょう。一人で立つこともままならなかった幼気 (いたいけ) な少女が自らの足でこの地まで辿り着き、その瞳にあの山頂からの風景を映し込んだ瞬間には彼女における “物語” も音を立てて書き換えられるのだから、もうほんとアニメって堪らないなと。
情感で語り掛ける視線の描写。言葉はなく、語り部もいない。けれど、確実に感情はそこに置いてあると寡黙に語り掛けるキャラクターのフィルターを通して描かれた広大な情景。これからもきっと私はそういうワンシーンに心を震わせるのだろうなぁと思います。
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