「透明な批評(transparent criticism)」とライトノベル
先日の記事『「フランケンシュタイン」メアリー・シェリー著』で紹介した『批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)』で紹介されている批評理論の一つに「透明な批評(transparent criticism)」というのがあった。批評理論などは全く詳しくないのでへぇと思ったというメモ的な記事なのだが、同書によると、透明な批評とは『作品世界と読者の世界との間に仕切りが存在しないかのように、テクストのなかに入り込んで論じるような方法』(P231)なのだという。
この「透明な批評」を巡ってはL・C・ナイツが『劇の登場人物が現実の人間であるかのように、テクストから逸脱した憶測に踏み込んでゆくようなやり方を批判し、客観的な批評を推奨』(P231)したのに対し、A・D・ナトールが『芸術と現実とを厳密に切り離すことは困難であり、それを突き詰めると、読者と作者を際限なく隔てて文学の喜びを粉砕するような結果となり、かえって批評を痩せ細らせる危険があると述べて、透明な批評を弁護している』(P231)という。
透明な批評の具体例として、本書はフランケンシュタインをテクストにしているから、フランケンシュタイン一族の生き残りで、作中でもほとんど本筋に関らないままフェードアウトする弟アーネストはどこへいったのかという論考や、欧米の批評家(サザーランド、メロア、グロスマンら)による「怪物はなぜ黄色いのか」の議論などが紹介されている。
読みながら「透明な批評」の手法は批評理論としてよりも、文学作品の楽しみ方の一つとして大きな比重を占めている、というかほぼ主流的な受け止め方になっているよなぁと思った。むしろ、多くのベストセラー小説はいかにして『作品世界と読者の世界との間に仕切りが存在しないかのように、テクストのなかに入り込んで』もらうような技巧を洗練させあるいは設定を組み立ててきているんじゃなかろうか。一般的に小説に限らず物語の評価基準として「感情移入」という言葉でひとまとめにされるそれは、その現実世界と作品世界の間の仕切りの薄さ、あるいは読者が作品世界へと没入する道程の歩きやすさのことなんじゃないか、すなわち物語のtransparency(透明性)のことなんじゃないかと読みながら思った。
そういえば、小説は一人称にしろ三人称にしろ語り手が物語を語るという構成だが、ただ語るのではなく、語り手が物語世界の外にいる読者に向けて語りかける作品というのもよく見かける。もしかするとライトノベルに多いのかもしれない――確か「涼宮ハルヒの憂鬱」はそんな構成だった――が、これも一つ間違うとメタフィクション的に読者との距離を離れさせかねないが、敢えてそうすることで、語り手=主人公自身の目線にではなく、主人公の横に、すなわち作品世界の中に立たせることが出来るから、仕切りを取り払って作品に入り込んでもらう技巧として生み出されてきたのかもしれない。ああ、この透明さはいわゆる聖地巡礼の興隆の要因とも密接なのだろうな。
そう考えると、特にライトノベルのライトとはtransparentとほぼ同義なのかもしれない。まぁ、前述の通りライトノベルに限らず小説全般にいえるのだろうが、その、作品世界と読者の世界との間に仕切りが存在しないかのように描くことに最も重点を置いた作品群としてのライトノベル(あるいはアニメ)、と言えるのではないか。いや、作品世界を現実世界に近づけるのではなくむしろ突拍子もないほど現実世界と隔絶した世界の方が圧倒的多数なのだろうから、その隔絶した世界との仕切りすら容易に乗り越えさせる技巧をどう凝らすかというところへの徹底的な集中によって読者を惹きつけようとしている作品群、という位置づけか・・・などとつらつらと考えていたが、数えるほどしかライトノベルを読んでいないのでよくわからない。アニメーションについてはここ数年見続けてきた限りこの傾向はある程度当てはまりそうだと思うのだが。まぁ、同書を呼んでのちょっとした思い付きのメモランダムということで。
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