本能寺の変:直前の新資料…「四国攻め反対」が動機?
毎日新聞 2014年06月23日 23時33分(最終更新 06月24日 00時47分)
林原美術館(岡山市)と岡山県立博物館(同市)は23日、明智光秀の謀反で織田信長が自害した「本能寺の変」の動機について、土佐(高知)の武将だった長宗我部元親が関わっていた可能性を示す手紙が見つかったと発表した。四国支配を巡り、信長と元親が対立、譲歩するなどした内容を伝える書状。光秀は重臣が長宗我部家と婚姻関係にあったこともあり、専門家からは「信長の四国討伐から元親を守る狙いがあったのでは」という見方が出ている。【前本麻有、小林一彦】
手紙は、林原美術館が所蔵する、足利十三代将軍・足利義輝の側近「石谷(いしがい)家」の文書全3巻47点の中から見つかった。信長は1581年、元親に「土佐と阿波半国しか領有を認めない」と通達したが、翌年1月11日付で、明智の重臣・斎藤利三が実兄の義父で、元親の義父にもあたる石谷光政(空然)に宛てた手紙では、反発する元親をいさめるために使者を派遣することや、空然にも元親が御朱印(信長の指示)に従うように依頼する内容が記されていた。
また、本能寺の変の直前に、元親が利三に宛てた5月21日付の手紙は「阿波国の一部から撤退した。(信長が甲州征伐から)帰陣したら指示に従いたい」と伝え、元親が信長に対して態度を軟化させたことを示していた。元親が信長に「従う」と示した史料が見つかったのは初めてという。
ただ、5月7日には、信長は三男の神戸信孝を総大将に任命し、四国討伐に備えていたことが既に分かっている。本能寺の変は、信長と元親の仲介役だった光秀が、四国討伐の方針に納得していなかったのが原因の一つという「四国説」がある。内池英樹・県立博物館学芸課主幹は「光秀は態度を軟化させた元親をはじめ、重臣の利三らと婚姻関係があった長宗我部家を守るために、信長の四国討伐を止めようとしたのでは」と話している。見つかった史料の一部は林原美術館で7月19日から公開される。
◇本能寺の変◇
1582(天正10)年6月2日、織田信長が備中高松城包囲中の羽柴秀吉を救援しようと京都の本能寺に宿泊した時、明智光秀が信長を襲って自刃させた事変。光秀の動機は「怨恨(えんこん)説」や「野望説」など複数あり、明らかになっていない。