田中久稔 岩崎生之助、田中久稔
2014年6月24日05時09分
沖縄では、慰霊の日の23日、県内各地で祈る遺族の姿があった。戦争で奪われた家族、友人を思い、今なお米軍基地が集中する沖縄の現状に、遺族たちは憤る。一方、安倍政権が進める集団的自衛権の行使容認の動きについては、遺族の間でも温度差がある。
■「生き延びた母がいたから」
西原町の玉城敏子さん(74)は23日、長女と孫2人を連れて糸満市の平和祈念公園を訪れた。犠牲者名を刻む「平和の礎(いしじ)」に、父と祖父母、そして末の弟だった光昇(みつのり)さんの名がある。
父が兵隊に取られた後、沖縄戦のさなか、敏子さんら6人きょうだいは母に連れられ、歩いて本島北部をめざした。
原生林の広がる北部で、ガマと呼ばれる自然壕(ごう)を何カ所か訪ねた。1歳になるかならないかの光昇さんを連れた一家。先にいた住民には「子どもが泣いたら敵に見つかる」と歓迎されなかったが、ある壕で、見知らぬ老婆が招き入れてくれた。
昼間は壕内で息を殺し、日没後に近くの畑で芋の切れ端などを拾って食べた。光昇さんはやせ細っていった。母におんぶされ、やがて泣くこともなくなった。逃避行のなか、いつの間にか光昇さんの姿が消えていた。「栄養失調で亡くなり葬った」。敏子さんは、のちにそう聞いた。
戦後、母は米軍基地の土木工事現場などで働き、女手一つで5人の子を育てた。父は戦死。「あんた、自分だけ逝って。私一人残して苦しめるの」。母が泣きながら、仏壇の父の位牌(いはい)を庭に投げる姿を、敏子さんは覚えている。
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朝日新聞社会部
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