柳田国男の「遠野物語」。
生死の狭間をさまよう話は遠野の暮らしが死と隣り合わせにある事を感じさせます。
そして津波で失われた人の魂が紡ぐ物語。
「遠野物語」が伝える魂の行方。
その意味を読み解きます。
(テーマ音楽)「100分de名著」司会の…さあ「遠野物語」今回はですね「生と死魂の行方」と題しまして「遠野物語」に書かれた死にまつわるお話に注目していきたいと思います。
指南役は東京学芸大学教授石井正己さんです。
今日もよろしくお願いいたします。
「死」というと私たちちょっと怖いものというか。
怪談お化けの類いの話なんじゃないかと思いがちですよね。
近代社会というのは老いとか死というのをできるだけ遠ざけよう見えないものにしようとしてきましたけれども…さあそれではまずはそんな遠野の死生観が分かるお話からご紹介しましょう。
遠野の民話を柳田国男に伝えた佐々木喜善。
喜善の家があった集落は60歳になった老人を追いやる場所と墓地に挟まれていました。
こちらご覧頂きましょうか。
こちらがその山口という集落の地図なんですけれどもこの集落を挟んで蓮台野と今言っていましたがデンデラ野老人が追いやられる場所がある。
蓮台野というのは京都にもある地名ですけれども墓地であったりあるいは亡くなった人を送る場所であったりするそういう地名ですから…この向こうにはダンノハナというまあお墓ですよね死者が葬られる場所がある。
ここが生きている人々の空間であるとするとここは年老いたら行く場所そして亡くなったら行く場所がここというこういう構造になっているんですね。
ちょっと位置関係面白いのはこういう風習ってあったんだと想像すると生き生きとした集落があってデンデラ野があってダンノハナな感じ。
違うんですね。
集落が真ん中ですね。
ですからここに循環していく構造というのがあって…生のすぐ隣に老いがあって山奥ではないそういう構造になってるわけです。
この話は「昔は追い遣るの習ありき」という「昔は」の「は」を強く読めば今はもうそういう事はなくなっているんだという。
真偽の程は明らかではありませんけれどもこの集落でこういう事があったんだというふうに本当らしく伝えている。
高齢化社会の問題って非常に現代的なように思いますけれどもこういう言い伝えの中に既に老いをどうするか死をどうするかという現代社会が直面してる問題が言い伝えの中にある。
それはとても意味がありますね。
さて「遠野物語」119のお話が入っているんですけどもその一つに「魂の行方」と題目を付けているお話が中に8つ入っているんですね。
先生はこの中のお話で実はとても好きなお話がおありだという事で。
この97話ですね。
「臨死体験をして死んだ父や子に会う話」。
それではその97話のお話ご覧頂きましょう。
これは飯豊に住む菊池松乃丞という人が腸チフスを患い死にかけていた時の体験談です。
松乃丞の魂は菩提寺を目指しふわりと飛んでいきました。
松乃丞が寺の門に近づくと大勢が集まっていました。
なぜだろうと首をかしげながら門をくぐると赤い芥子の花が一面に咲き乱れていました。
その光景にますます心地よくなった松乃丞。
懐かしき亡き父の姿を見つけます。
すると先ほどくぐった山門の方から松乃丞の名前を呼ぶ騒々しい声が聞こえてきました。
嫌々ながら戻ると意識を取り戻しました。
親戚が集まって水をかけて生き返らせたのです。
朗読して頂いた柄本佑さんの気持ちみたいなものがちょっと入ってくるのが「トッチャお前も来たか」というところに悲しくも楽しくもしないという読み方をなさってると思うんです。
これってこっちが勝手にとればいい事だから。
柄本さんの読み方にちょっと感心しちゃったりいろんな事を考えましたね。
そうですね。
「トッチャ」というのは片仮名で書かれていて柳田国男は遠野の土地の言葉というのを片仮名で表記したんですね。
会話文の中にはどうしてもその土地の言葉でなければ言えないようなそういう表現を残しているんですね。
菊池松乃丞はまあ呼吸困難になった時に魂がフッと出てしまってその菩提寺へ行く。
その時面白いのは魂が力を抜くと下がっていくけれども力を入れると…。
そうそう何か飛行機みたいにね。
あそこ変にリアルですよね。
飛び方のコツみたいなものをああそういう感じなんだ。
だんだん気持ちよくなっていくんですね。
だからある意味で…そうすると死んだ男の子が「今来てはいけない」というふうに制止するわけですね。
この世の方では水をかけて呼び生かしたという事ですからこの世の方からも戻ってこいというメッセージがあって…そういうお話なんですね。
こういう話を読むと何か死ぬのは怖くないというか死はとても親しいものだなというそういう感じを持ってこの話を読んでます。
「遠野物語」の世界では生と死の間をさまようちょっと神隠しの話もいくつかあるんですね。
ここにも遠野ならではの死生観というのが先生表れていると。
まあ「神隠し」というのは生きたまま姿を消すわけです。
現代ですとこれが「行方不明」とか「失踪」という言葉になるわけですけれどもかつてはそういう異界があったり神様がある事によって…神隠しっていい言葉というとちょっと語弊はあるんだけど曖昧にしておかなきゃいけないもしくは曖昧にしておく方が心のダメージが少なかったりとかそういうものを全部入れて「神隠し」って呼んでる気がしてとても優しい気がちょっとするんですよね。
そうですよね。
行方不明とか失踪って非常にさめた言葉である意味で言えば情報化社会の一つの原理がその言葉に強く生きてますけれども…さあそれではその「遠野物語」の中の神隠しのお話を一つお聴き頂きましょう。
何でしょうね「遠野物語」の中のこういうエピソードを聴いたあとの感想に適切な言葉を作ってくれないかなと思いますね。
怖いでもないんですすごみにも似てるんだけど優しさもあったりねえ。
ねえ本当に。
こちらに今出ました8話の全文があるんですけれども若き娘草履を脱ぎ置きてどっか行っちゃう…。
異界に行く時に履物を脱いでいくというそれが後へ残した人へのメッセージだというここでもそれが見えますね。
若い娘が老いさらぼいて老女になって帰ってくる。
ただまあこの女性実は生きているのかあるいは死んでいるのか…だけれども逢いたかったから帰ってきたというこれは仏教なんかで言う…そういうドラマですね。
これみんながいろんな解釈をできる気がするんだけど学校やめた事ないでしょ。
ない。
僕やめた事あるんですよ。
そうでしたね。
それと何かありますか?やめた学校にねフラッと夜行きたくなったりするんですよ。
サムトの婆みたいな事だ。
…って事だと思いますよ。
例えば運動会やってんなとかそういう日に声はかけないけどちょっと近くまで行ってみたくなるんですよ。
誰かに見つかりたくないような見つかりたいような気持ちがしたまま結局別に声はかけないで帰っていったりするんですよ。
風が強かったかどうかは忘れましたけど。
やだ何かちょっと泣かせますね。
本当はサムトの婆というのはみんなの思い出の姿であって別段本当に来た人じゃないという考え方も全部できるのが僕はすごいって思うんですよね。
このまた風がポイントですよね。
激しく風の吹いた日風に何かこう誘われて帰ってくるというか。
「今でも」というんですからこのサムトの婆の話は過去ではなくて遠野の人々の中に生き続けていて風が激しく吹くと今日はサムトの婆が帰ってきそうな日だとみんなで語り合ったわけですよね。
ですからそこには風とそういう魂というかそういう問題が重なって見えてきて…例えばすぐに思い浮かぶのは「千の風になって」という歌が随分はやっていますけれども私どもがあの歌を聴いて「いいな」と思うのは多分心の中にこういうサムトの婆を受け入れるような魂が生きていてそれに触れるからだとそう思うんですね。
巨大地震が引き起こした津波は2万人を超す犠牲者を出しました。
「遠野物語」にも被災者の語った話が収録されています。
主人公の名前は福二。
今回の震災でも大きな被害を受けた田の浜の人です。
大津波で妻と子を失った福二は生き残った2人の子供と浜の小屋で暮らしていました。
これは津波から1年後の話です。
夏の夜に用を足すために起きた福二。
便所は遠く離れた場所にあるため海岸沿いの波打ち際を通らねばなりませんでした。
そこで彼が見たのは亡き妻と彼女に寄り添う元恋人だった男の姿。
夫に責められ泣きだす妻。
福二も死者との会話に動揺し足元を見つめます。
もう泣いてしまうねこれは。
すごいね。
ねえ…何とも複雑な福二さんの気持ちがこう伝わってくるようですけれども。
分かります。
自分がすごく好きな例えば彼女だったりとかの前つきあってた男の事すごい気になるって分かります。
でも気になるけど言っちゃいけないというような了見の狭さみたいのやその彼女に対する疑いを持っちゃいけないなという意識を男が持つのって分かります?これって福二もそうですよね。
そうでしょうね。
ですから福二は婿に入ってまあ当時は家を継ぐというために恋愛関係にあった人と別れさせて娘に婿をとるという。
この家も多分そうだったと思うんですね。
そういうケース今よりずっとあるわけですもんね。
それで結局お婿さんに来ると「実はあなたの奥さんがつきあっていた元彼はこの人だよ」というふうにささやくのが村社会ですね。
絶対聞こえてきますよね。
ですから伊集院さんが言うように福二の心にはずっと自分の奥さんは一体心がどこにあるんだろうというのは気にかかり続けていたけどそれはなかなか言えない。
気にしていたという深層心理が見せた幻だというふうに考える事もできるわけですけれどもこの話は微妙なところがあって。
今東日本大震災でもそうですけれども亡くなってその行方が分からないままにある。
この奥さんも実は…私たちは死んだ者幽霊の話のように読みますけれども実はあの東日本大震災を経験してみるとこの話はもっと生きているか死んでいるか分からないそういう戸惑いの中で起こっている事。
「足元を見た」と出てくるのも多分生きているか死んでいるか確かめたかったんだと思いますね。
なるほど。
津波の悲劇を語る話というよりはそのあとの心の復興をどのようにしていくか心の復興のありようを考える非常に大切なお話のように思うんです。
柳田国男は大正9年1920年に三陸海岸を旅しているんですね。
その時新聞に寄せた紀行文がこちらにあるんです。
「廿五箇年前」というタイトルなんですけれどもこの題名をですね昭和3年後に刊行した「雪国の春」という本の中では「二十五箇年後」と書き直しているんです。
改題してるんです。
ここに先生はすごく意味を見いだしている。
たった一字ですけれどもこの変更は柳田国男の心の大きな動きを示すと思っているわけです。
そういう変更だろうと思います。
現在でも被災地が忘れられていくという事はありますけれどもその記憶が薄らいでいくという事があり話が消えていくという事を柳田国男は言っています。
この話は後半で25年後の復興の話も述べていましてそこには一つは今も問題になっている高台移転をするわけですね。
それでまあ高台移転した事を後悔していると。
なぜかといいますと浜にどんどん出ていった者は漁業にも商売にも非常に便宜を得ている。
そういう復興の現実があるんだという事を書いていますね。
この三陸海岸というのはやはり海と一緒に生きてきたそしてその恵みを受けながら生きてきた地域で。
ですから復興というのが科学的な部分と一方で精神的な部分とがきちっと向き合う形で進まないとなかなかうまくいかないんだろうという印象をこの柳田国男の文章を読むと感じるわけです。
大事ですよね。
昔っから人間ってこういう思いなんですこういう複雑な事なんですというのが分かると何か新しいいいシステムが出来たりするんじゃないかなとちょっと思いますね。
やはり「遠野物語」へ戻りますと魂の行方という日本人の信仰の一番基層にある問題に「遠野物語」はきちっと触れていてその魂の行方を見ると…私たちはかつてどう考えて生きてきたのかという事の一つのメッセージがここにある。
ですから強烈な現代への言葉を投げかけているそう思うんです。
何か不思議とスッと入ってくるところが多いですものね。
ありますね。
次回はいよいよ最終回でございます。
「遠野物語」を育んだ大自然と人々の関係に迫ります。
石井先生今日はどうもありがとうございました。
(テーマ音楽)2014/06/18(水) 23:00〜23:25
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100分de名著 遠野物語 第3回「生と死 魂の行方」[解][字]
日本民俗学の祖・柳田国男の遠野物語を読み解く。遠野物語には、幽霊なのかそれとも生きているのか、生と死の境界が曖昧な登場人物が多い。第3回では、遠野の死生観に迫る
詳細情報
番組内容
遠野では、生と死の境界はあいまいで、行ったり来たりできるものだった。大きな病気をして死にかけ、亡くなったはずの父や息子に出会った男や、行方不明になった娘が戻ってきた物語には、そうした死生観が凝縮されている。また遠野物語には、明治時代の大津波の話も収められている。そこでは、生き残った男が亡くなったはずの妻に出会う。男は妻に何を語ったのか? 第3回では、日常の中にあった死と、鎮魂への思いを見つめる。
出演者
【ゲスト】東京学芸大学教授…石井正己,【司会】伊集院光,武内陶子,【朗読】柄本佑,【語り】小山茉美
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
趣味/教育 – 生涯教育・資格
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
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日本語(解説)
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