東方先代録 (パイマン)
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風神録編その六。



其の四十五「守矢」

 さとりが早苗に連れられるままに訪れた彼女の家は、何の変哲もない一軒家だった。
 現代建築について馴染みのないさとりだったが、これまで見てきた民家とさして違った印象を受けなかった。それが少し意外だったのだ。
 さとりが知り得る『東風谷早苗』の情報は、全て先代が持つ記憶やイメージから来たものである。
 いずれ二柱の神と共に幻想郷を訪れる彼女は、幾多の実力者が蔓延るあの地でも一角の存在として認められるほどになる。
 特別な人間――いや、神であり人でもある『現人神』なのだ。
 先代の視点で表現するならば『物語の主役』となる人間なのである。
 しかし、さとりが見る限り、早苗は多少変わった部分は目に付いても、外の世界に適応して生活している現代人にしか思えなかった。
 同じように、仙人でありながら社会に適応していた青娥とは、また違う。
 青娥は何処までも幻想の存在だった。現実と自身をすり合わせることは出来ても、決して相容れない。
 彼女は、この世界で生を全うすることはないだろう。自分達が現れなくても、いずれこの世界を去るか、その機会が来るまで人として死ぬことなく生き続けていた。
 そんな根拠のない確信が持てた。
 だが、目の前の少女は――。

「まあまあ、いらっしゃい」

 帰宅した早苗を迎えた彼女の母親は、さとりの方を見てにっこりと笑った。
 礼儀正しく頭を下げるさとりに、母親は好感を覚えたようだった。
 玄関で向かい合う彼女との距離はさとりの能力の範囲内だったが、心を読むまでもなく、この女性が普通の人間なのだと分かった。
 年齢は三十代後半から四十代前半で、外見も相応に歳を取って見える。髪の色は当然のように黒い。日本人なのだから当たり前だ。
 エプロンをつけた姿は、家庭的な普通の主婦だった。
 特別な力や雰囲気はもちろん感じず、第一印象だけ見るならば洩矢神の血筋や神事に関わる人間とも思えない。
 目の前で交わされる母娘の会話を聞き流しながら、さとりは本当にこの二人の血が繋がっているのかと驚きを感じていた。

「へえ、さとりちゃんっていうのね」

 とりあえず早苗は、小学生にしか見えないさとりについて母親に簡単な説明をしたらしい。
 そこに伴う当然の疑問をさとりは既に読み取っていた。

「でも、こんな時間にどうしてうちに連れてきたの?」

 彼女はさとりの訪問を迷惑に感じているのではなく、純粋に案じているのだと分かった。
 平日の高校が終わって、帰宅する時間帯である。
 既に夕方近かった。
 子供が出歩けないほど遅い時間ではないが、ここから更に帰宅することを考えると家に招くような時間でもない。
 その不自然さに、早苗もようやく気付いたらしかった。

「あ、え……と」
「早苗さんとは、ボランティアの時に友達になったんです」

 言葉に詰まる早苗をフォローする為に、さとりは口を挟んだ。
 目の前の女性が抱く『可愛げのある子供のイメージ』に沿うように、努力して笑顔を浮かべる。

「あら、そうだったの」
「今日は帰り道で偶然会って、お話しするのが楽しかったから、ついお家までお邪魔してしまいました。また、今度遊びに来る時の為に道を教えてもらったんです」
「ああ、そういうことだったのね」
「はい。遅くなる前においとまさせていただくつもりです。ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」
「ご迷惑だなんて、そんなことないのよ。しっかりしたお子さんねぇ、これなら安心かしら」

 呆気にとられる早苗を尻目に、さとりは心を読みながら淀みない的確な返答で相手の疑念や不安を晴らし、信頼を獲得していった。
 母親はどう見ても小学生である少女と高校生の娘との関係についても納得し、一時間程度ならば暗くなる前に帰せるかといった算段を立てている。場合によっては、相手の親御さんに連絡をしてもいい。
 その思考を読み取ったさとりは、まあ十分かと妥協した。
 早苗との話は一時間もあれば終わるだろうし、万が一親に連絡する事態になったら事前に教えられていた青娥の携帯に掛ければいいのだ。彼女ならば口裏を合わせてくれるだろう。
 ごく自然な流れで、さとりは家の中へあがることになった。

「さ、さとりさん凄いですね」

 自分で招いておきながら、早苗の方が戸惑っていた。

「そんなことよりも、貴女のお母さんの所へ行ってください。お茶とお菓子を用意しているようです」

 二階にある早苗の部屋の前に着いた段階で、さとりが言った。

「部屋まで持ってくるつもりみたいですよ。これからする会話は、普通の人には聞かれたくない内容ですからね」
「えっ! あ……な、なるほど。分かりました、私が持ってきます!」

 さとりの言いたいことを察した早苗が、慌てて階段を降りていく。
 それを見送ったさとりは、早苗の部屋のドアを開けた。
 子供だからと『どうぶつビスケット』なんて茶菓子を用意する母との数分間の格闘を経て、高級そうな和菓子と渋茶をお盆に乗せた早苗が部屋に入ってきた時、さとりは丁度棚の上に飾られていた物を手に取っていた。

「ああ、それは……っ!」
「すみません、触れてはいけないものでしたか?」
「いえ、そんなことは……ないんですけど」

 部屋の真ん中ににある小さなテーブルにお茶などを並べながら、早苗は口ごもった。
 さとりを招待することに興奮して、自分の部屋のことなどすっかり忘れていた。
 別に散らかっているわけではない。普段から整理整頓を習慣付けていたのは正解だったと、しみじみ思った。
 しかし、問題は自分が年頃の女子高生にはちょっと見られない変わった趣味を持っていることにある。

「ロボット、というんでしたっけね。こういうの」

 さとりは丁寧な手つきで、棚にロボットの玩具を戻した。
 同じような物が幾つか並んでいる。
 女の子らしい内装の部屋の中で、それらは酷く浮いたインテリアだった。

「す、すみません。変ですよね、女子高生が子供の玩具なんか持って……」

 早苗は赤くなった顔を俯かせた。

「別に悪くはないんじゃないでしょうか?」
「えっ!?」
「悪いんですか?」
「いや、どうかな……」
「好きな物を飾って眺めるのは、悪いことじゃないと思いますよ。貴女らしいと思いますし」

 平然とした顔で答えながら、さとりは早苗を向かい合うように腰を降ろした。
 さとりにしてみれば、早苗の趣味など大して気にならないことだった。
 早苗が『ロボットを好き』だという情報は先代の知識から事前に得ている上に、幻想郷では全く馴染みのないロボットについてさとり自身が思うことなど大してないのだ。
 玩具の造りを見て、こんな精巧な人形が子供の玩具として手軽に買えるんだなぁと感心する程度である。
 逆に、早苗は自分の趣味に理解を示してくれたさとりに対して更なる好感を抱いていた。
 先程の羞恥心とはまた違う感情で頬を紅潮させたまま、恐る恐るお茶とお菓子を勧める。

「ど、どうぞ。粗茶ですが」
「気を遣わせてしまいましたね」
「いえ、そんな」
「私としては、そのどうぶつビスケットというのにも興味があるんですが――」
「えっ、あっちの方が良かったですか?」
「食べたことのない物ですからね、好奇心の方が勝ちますよ。あと、私動物が好きなんです。しかし、こちらもありがたくいただきます」

 さとりは和菓子とお茶を、一口ずつ口にした。
 どちらの味も悪くない。しかし、それを楽しむつもりはない。あくまで礼儀として口にしたに過ぎないのだ。
 早苗が本心からもてなそうとしていることは分かっていたが、談笑する為に彼女の誘いを受けたわけではない。

「さて」

 緊張した面持ちで相手の挙動を見守る早苗に、さとりは改めて顔を向けた。

「残念ですが、ここでくつろぎながらお喋りをするつもりはありません。私は貴女と交渉をする為に、誘いを受けたのです」
「――はい」
「とはいえ、私の方から一方的に話をしても納得はいかないでしょう。私は東風谷早苗という人間を一方的に知っていますが、貴女は私のことを全く知らないのですから」
「――」
「貴女の疑問に思っていることは、分かりますよ」
「分かるというのは、やはり……」
「そうです。私は、人の心を読むことが出来ます」
「では……!」

 興奮した早苗が、思わず身を乗り出した。

「やはり、貴女は神ですねっ!!」
「……いや、違いますけど」

 沈黙が流れた。
 互いに別の意味で肩透かしを食らった二人は、しばらくの間気まずげに黙っていた。

「え、えーと……それじゃあ貴女は一体何者なんでしょうか? 人間じゃないというのは、何となく分かるんですけど」

 気を取り直して、早苗が訊ねた。
 未だに、彼女の目にはさとりの持つ『第三の目』が映っている。
 早苗の母が、さとりの存在に驚きはしても奇異の視線を向けなかったことから、その部位が人に目には見えない非実体であることは理解出来た。
 身近にそういう存在がいるからだ。
 更に、そうして連想した早苗の思考から、さとりは二柱の神の姿を捉えていた。

 ――とりあえず、二柱の実在は確認出来た。ここまでは順調ね。

 内心で納得しつつ、早苗の質問に答える。

「私は妖怪ですよ。『覚』という心を読む妖怪です」

 現在進行形で早苗の心を読みながら会話の道筋を決めていることなど、おくびにも出さない。
 既に駆け引きは始まっているのだ。

「妖怪!」
「そうです。初めて見ましたか?」
「はい。神様なら知っているんですけど」
「そうですか」
「……信じてくれるんですか? 神様と知り合いだなんて」
「私は心が読めると言ったはずですが」
「あっ、そ……そうでした」
「それに、貴女が関わっている二柱の神についても知っています。八坂神奈子と洩矢諏訪子ですね」
「なっ!? 何故、それを知っているんですか!?」
「さあ、何故でしょうね。いずれ分かりますよ。いずれ、ね――」
「……なるほど。今は知るべき時ではない、ということですね」

 ごくりと生唾を呑み、早苗は神妙な顔で頷いた。
 あ、この娘扱いやすいな――と、さとりは思った。
 実は、先代にあやかって思わせぶりな台詞で適当に誤魔化しただけだった。
 それを早苗が勝手に勘違いしてくれたのである。

「さて、妖怪と言っても、私は現代社会で隠れて生きていたわけではありません。私は幻想郷からやって来たのです」
「ゲンソウキョウ……ですか?」

 早苗は聞き慣れない単語に首を傾げた。
 その仕草に不自然なところはない。
 そもそも、早苗が知っていて惚けているならば、能力で見抜けるのだ。

「ええ、幻想郷です。聞いたことはありませんか?」
「はい。それは、どういった所なんでしょうか?」

 早苗が発した問い掛けに対して、さとりは僅かな間沈黙した。

 ――嘘は言っていない。惚けてもいない。

 早苗は本当に幻想郷のことを知らないのだ。
 これは、さとりにとって少々予想外の事態だった。

「……巨大な結界に囲まれた秘境です。その結界の中では、人間と妖怪、果ては神までが古い時代そうであったように共存しているのです。現代で否定された幻想が残っている場所なのですよ」
「そ、そんな場所があるんですか!?」
「ええ。私は、とある事故によって幻想郷から、この結界の外の世界へと迷い込んでしまったんですよ」

 早苗が心の底から驚いているのを確認して、さとりは探りを入れた。

「貴女は、二柱の神様から幻想郷について教えられていないのですか?」

 さとりの質問に、早苗は首を横に振った。

「そもそも、お言葉を交わすのも恐れ多い方々ですから。お話をすることも、あまりありません」

 そう答える早苗の表情には陰があった。

 ――子供の頃はよく話をしたのに、高校に入ってから、神奈子様と、特に諏訪子様は私の声に応えてくれなくなった。

 言葉にしなかった早苗の内心を、返答の補足としてさとりは読み取っていた。
 早苗が幻想郷について知らないのは、単なる偶然ではなく、二柱との意思疎通そのものが滞っている為らしい。
 関係が疎遠になっているのだ。
 これもまた、さとりの当初の予定を覆す新たな事実だった。
 まずは事情を知る早苗を通して、二柱の神と交渉する――その前提が崩れたのだ。
 更にしばらく思案した後、さとりは再び口を開いた。

「実のところ、私が本当に用があるのは早苗さん本人ではなく、貴女を通じた二柱の神なんです」
「神奈子様と諏訪子様に、ですか? それは、一体どういった用件なんでしょう?」
「この際、単刀直入に言いましょう。貴女は知らないでしょうが、二柱の神は幻想郷への移住を予定しているはずです。私は、幻想郷に戻る為、それに便乗をさせてもらいたいのですよ」
「……え?」

 度を越えた驚愕は、人から反応さえ奪う。
 何の表情も浮かべられずに、早苗はただ呆けた声を上げることしか出来なかった。
 幻想郷について。
 二柱の神の移住について。
 何もかもが、早苗にとって初耳の話だった。





 さとり達三人が泊まっているのは、諏訪湖を一望出来るホテルの上階だった。
 かなり大きなホテルで、サービスも設備も充実している。部屋に備え付けられた浴室の他に温泉まであった。
 当然、宿泊費も相応な値段だったが、三人分の料金を青娥はあっさりと笑顔で支払った。
『どうせ泊まるなら、いいホテルを』と、ここを選んだのも青娥自身である。
 その青娥が、さとりを迎えにいって戻ってきたのは、もうすっかり日が沈んだ時間帯だった。

「ただいま戻りました――って、何してるんですか?」
「鍛錬だ」

 広々とした部屋を見渡したさとりは、先代の姿を見てため息を吐いた。
 並んだ二つのベッドの間で、先代は両足を広げて、股割り開脚の状態で身体を宙に浮かせていた。左右のベッド端に踵の部分を乗せ、股関節とその筋肉だけで体重を支えているのだ。
 十分な柔軟さと筋力がなければ出来ない芸当である。
 鍛錬と言われれば、確かにそうなのだろう。
 傍らの青娥は、先代のしなやかな肢体を見てうっとりとした表情を浮かべている。
 しかし、さとりには先代の本心がよく分かっていた。

 ――範馬勇次郎ごっこ、超楽しい。

 能力の範囲内まで近づいたさとりは、予想通りの先代の内心を読み取って脱力した。
 まあ、こういった能天気な部分が、本来ならば苦痛と忍耐を伴う過酷な修行を乗り越えさせてきたのだから、一概に馬鹿にも出来ない。そこだけはちょっと尊敬出来る。馬鹿だけど。
 さとりは疲れたような仕草で、窓際の椅子に腰を降ろした。
 大きな窓からは、諏訪湖の綺麗な夜景が見えた。

「何か問題があったのか?」

 さとりの様子に気付いた先代が、鍛錬をやめて問い掛けた。
 青娥が甲斐甲斐しくタオルを渡す。

「いえ、問題はありませんでしたよ。無事に東風谷早苗と接触出来ました。少々、予想外のことがありましたがね」
「予想外とは?」
「どうやら、彼女は守矢の二柱とは最近疎遠になっているようです。幻想郷のことも、移住の計画のことも全く知りませんでした」
「……本当か?」
「ええ。彼女を通して二柱と交渉するというのは、少し無理がありそうだと判断したので、こちらの事情を簡単に説明だけして退散してきました。
 彼女がこれからどうするつもりかは、私にも分かりませんね。去り際に心を読んだ限りでは、本人もかなり混乱しているようでした」
「そうか」
「案外、貴女の考える通りに物事は進まないかもしれませんよ」

 さとりは先代にだけ分かる意味を含んで言った。
 二人の想定する『物事』とは、二柱の神の力を借りて幻想郷へ帰還することではなく、原作通りに早苗を含めた守矢神社が幻想郷へやって来ることだった。
 先代の持つ知識は、あくまでゲームのシナリオであって、この世界の未来を定めるものではない。
 何か気付かない部分で誤差が生じて、原作とは違う結末に至る可能性も十分にあるのだ。
 さとりの言葉はそれを指しているのだった。
 同じくこの場にいる青娥には分からない、隠された意味だ。
 しかし、彼女が二人の間だけで密通している事柄に勘付きながら、あえてその部分に触れようとしていないことにさとりは気付いていた。
 守矢の二柱や、幻想郷への帰還方法――何処が出所なのか分からない幾多の重要な情報に対して、青娥は深く追求する素振りすら見せず、ただ惜しみない助力をしてくれる。
 そして、それは何らかの意図を隠し持った行為ではなく、本心から楽しんで行っている。
 心が読めるさとりからすれば、青娥の無償の奉仕は、ありがたさよりも不気味さが感じられるものだった。
 今も、ニコニコと微笑みながら二人のやりとりを傍目で見守っている青娥を一瞥して、さとりはため息を吐いた。
 酷く疲れていた。

「まあ、要するにこちらは空振りに近かったといことです。そちらはどうでしたか?」

 さとりは、先代ではなくあえて青娥に訊ねた。
 交渉事という点に関しては、先代ほど期待の出来ないものはない。
 何処に行っても揉め事にだけは確実に好かれる人間なのだ。期待出来る部分といったら、彼女自身が交渉のダシになることくらいである。
 逆に青娥については、限りなく胡散臭くは感じているものの、それ故に交渉力については信頼していた。

「無事、二柱の協力を得ることに成功しました」

 果たして青娥は、呆気ないほど軽い口調で最良の報告をしてくれた。
 難しいと予想された神との交渉の場で、一体何が起こったのか。
 さとりは先代の方へ視線を移した。
 わざわざ訊くまでもない。説明は、彼女が勝手にやってくれる。

 ――話をしよう。あれは今から三十六万……いや、一万四千年前だったか。

 予想通り、先代は無駄に鮮明な回想を始めたのだった。





 ――本当に、こんな所で、こんな時に、あの八坂神奈子と戦うのか!?

 戦いたくはない。
 戦ってる場合じゃない。
 大体、場所と時間が問題だ。
 ここは諏訪大社でも一般公開されている敷地内。人気が完全になくなるような時間帯でもない。
 いつ、誰が来るのか分からないのだ。
 こんな状況で、神奈子と戦うというのか。
 しかし、私の頭の中では理性的な部分とは別に、長年の戦闘経験によって培ってきた部分が既に動いていた。
 目の前の神奈子が、一体どんな戦い方をするのか考え始めてしまっている。
 向かい合う私と彼女との距離は十分に開いている。拳や蹴りの間合いではない。
 神奈子自身の体勢も最初の時のまま、空中で胡坐をかいた状態だった。
 少なくとも、格闘戦に持ち込んだ場合私の方が有利な状況だ。
 しかし、相手は神である。
 これまで相手にしてきた、どの敵ともタイプが違う。
 人間でも妖怪でもない。
 幽香とも勇儀とも違う。 
 あの神奈子が拳を握って私に殴りかかってくるとは、とても想像出来なかった。
 じゃあ、どんな風に襲い掛かってくるのか。
 武器か? 弾幕か?
 ……クソッ、駄目だ。全くイメージ出来ない。
 ただ漠然とした強大さだけが肌に伝わってくる。
 相手は神だ。
 あの八坂神奈子だ。
 ただの人間である私など、及びもつかない偉大な存在だ。
 そもそも、私は『敵』だと言ったが、正確には間違いだ。
 仮に戦うことになってとしても、私は敵意や怒りといったものはきっと抱かないだろう。
 ただ強大な力に襲われ、それに抗うという意志だけがある。
 人間である私が、神である彼女と戦う時に抱くものがあるとすれば、それだけだ。
 妙な話だが、私はこんな状況でも八坂神奈子という存在への畏怖と信仰を消し去ることが出来なかった。
 やられるつもりはない。
 だが、彼女は途方もない存在だ。
 自分がどんな風に攻撃をされるのか分からないのに、緊迫感だけは増していく。
 来るぞ。
 神奈子は戦う気だ。今にも襲い掛かってくる。
 どう来る?
 どう――!?

「どうやって戦うつもりなのさ、この馬鹿」

 今にも何らかの攻撃を交えそうな私達の間に、声が割り込んだ。
 僅かに舌足らずな、幼い声だった。

「諏訪子!?」

 えっ、諏訪子様!?
 声に出す出さないの違いこそあったものの、私と神奈子の驚愕は全く同じだった。
 横合いから、洩矢諏訪子と守矢資料館に行っているはずの青娥が、姿を現したのである。
 私は諏訪子様とは初対面だが、あの特徴的な帽子や格好は知識にあるとおりだ。
 間違いない。二柱の神様が、この場に集ったのだ。

「何しに来た?」

 神奈子様が、すぐに視線を私に戻して、諏訪子様の方を見ずに訊ねる。
 しかし、この時既に私は大きく後ろに下がって更に間合いを離していた。
 思わぬ乱入だったが、おかげで頭が冷えた。
 神奈子様と戦うとか、全身全霊を懸けて避けるべき事態じゃないか。
 逃がしてくれなかったら、土下座だってしよう。
 何、神様相手ならば土下座だって正当な作法だ。恥じるところなど全くない!
 先程とは全く別の覚悟を決めた私は、無意識に身構えていた体勢を解いた。

「どうした、何故警戒を解く!?」
「だから、何であんたはそんなにやる気なんだって」

 私の代わりに、諏訪子様が言ってくれた。
 へへへっ、そうですよ。神様に刃向かおうなんて、大それたことあっしはこれっぽっちも考えていませんや。
 内心で揉み手すり手しながら、神奈子様の様子を伺いつつ、静かに二人の方へ移動する。
 う……っ、だからそんなに睨まないでよ。
 私ってば、そんなに神奈子様の気に障るようなことしたかしら?

「先代様、ご無事で何よりです」

 諏訪子のすぐ隣に立つ青娥が言った。
 この立ち位置。少なくとも、青娥の方は諏訪子様と上手く話し合いまで持っていけたようだ。
 色んな意味で助かった。

「ああ、助かった」
「でも、惜しかったですね」
「何?」
「先代様が『神殺し』という偉業を成し遂げる機を、邪魔してしまいました」

 ……なにそれこわい。
 いや、私はそんなことやるつもり全くなかったから。
 笑顔の青娥が本気で言っているのか、私には分からなかった。

「あんたが先代巫女って呼ばれてる人間? 知っていると思うけど、わたしは洩矢諏訪子だよ」
「はい」
「お仲間の仙人から、幾らか話は聞いたよ。話の通り、寡黙な人間だね」
「無礼をお許し下さい」
「それは別にいいんだけどね。神様から一つ忠告」
「はい」
「付き合う相手は選びなよ」

 諏訪子様が青娥の方を睨みながら、そう言った。
 うん、この二人がどんな関係を形成したのか何となく分かった。

「……どういうつもりだ、諏訪子?」

 並ぶ形になった私達三人を睨みながら、神奈子様が言った。
 私に向けていた敵意が、青娥と諏訪子様さえ含んだ範囲にまで広がっている。

「それはこっちの質問だよ。何をするつもりだったのさ?」
「名前も名乗らない無礼な人間を罰しようとしたんだよ」
「罰する? どうやって? 雷でも落として黒焦げにするのか、風を吹かせて山の彼方へでも吹き飛ばすのか」

 冷ややかな口調だった。

「今の私達じゃあ、もうそういった曖昧な方法でしか世界に干渉出来ない。自分の手で、直接人間を罰するなんて出来やしないんだよ」
「私は、まだ力を失ってはいない」
「なけなしの信仰を使って、人間一人に何をしようって訊いてるんだよ。八つ当たりかい? 頭冷やしな、馬鹿」
「……そいつらは、一体何なんだ?」
「大切な客人だよ。幻想郷へ行く為に、私達と交渉したいんだってさ」

 ゆっくりと神奈子様の様子が変わっていった。
 相変わらず剣呑な表情なのだが、幾らか雰囲気が和らいだのだ。
 私もまたこれまで維持していた緊張感を、ようやく少しだけ緩めることが出来た。
 なんとか話し合いをする段階までは持っていけそうだ。
 しかも、こちらの目的まで知っているのなら、話は早い。
 話を円滑に進める為の下準備は万全ってわけだ。さすが青娥娘々、マジにゃんにゃん。

「じゃあ、そいつらは……」
「うん。わたし達の計画を知っているみたいだね」
「お前ら、本当に何者だ?」
「それは――」

 答えようとした私を、青娥が制した。表情は相変わらず笑顔のまま。
 友好的と言えばそうかもしれないが、この笑顔が相手に自分の考えを悟らせない為の仮面であると私は今更気付いた。
 う……っ、やっぱり事前にさとりに指示された通りにしておいた方がいいんだろうか。

 ――私達が、本来知り得ない様々な情報を持っている理由については、明かさない方がいい。

 三手に分かれる前に、さとりはそう言った。
 こういった秘密が、交渉事ではこちらのアドバンテージとなるらしい。
 その辺の駆け引きについては、私は全く分からない。個人的には、協力してもらうのだから、正直に話せることは話すのが誠意だと思う。隠し事をしてちゃ、相手に悪い印象を与えちゃうしね。
 しかし、さとりはそんな私の考えを『甘い』と戒めた。
 ただ素直さだけを全面に出して、相手の善意に期待するだけの行為は交渉とは言わない――と。
 そうなのかもしれない。失敗例として、永遠亭の時のことを持ち出されたら、私としては何も言えない。実際に、あれでさとりに迷惑を掛けてしまったのだから。
 私達が持つ情報は絶対に出所が分からない。追求されれば答えることの出来ないこの後ろ暗さは、見方を変えれば利点になるとさとりは考えているらしい。
 どれだけ探ろうとしても、相手にはこちらの正体が見切れない。情報源が、この世界には存在しないからだ。
 それは交渉において非常に有効なアドバンテージであり、武器だ。
 その武器を、相手に向けて交渉しろ、とさとりは言ったのである。
 正直、気は進まない。
 このやり方では、友好的に話を進めるなんて出来ないだろう。
 話が上手く纏まっても、少なからず警戒され、それは今後の関係にも後を引くことになる。
 でも、相手に嫌われたくないようにやり方を選んでいる余裕だってないのだ。
 私達は、出来るだけ早く幻想郷へ帰らなければならないのだから。
 さとりの言うとおり、私は考えが甘いのだろう。
 こんなことじゃ駄目だ。気を引き締めなきゃ。

「青娥、任せる」
「はい。お任せ下さい」

 私はわざと大仰に、傍らの青娥へ話を振った。
 これで私が今回の件を指示している有力者なのだと相手に認識されれば儲けものだ。
 交渉は、上手い青娥に任せればいい。私の役割は、相手へのプレッシャーとなって牽制することだ。
 意識を切り替えた私は、真っ直ぐに神奈子様の瞳を見据えた。
 ……こええ。なんという神の眼光。

「――さて、じゃあ仙人。神奈子とも合流したことだし、交渉の続きといこうか?」

 私達から離れ、神奈子様の傍に位置を変えた諏訪子様が言った。

「神奈子、説明が要る?」
「……簡単にまとめろ」
「あの仙人が突然わたしの所に現れて、言った。幻想郷に行きたいから、わたし達が幻想郷へ移住する方法に便乗させてくれ。
 もちろん、その時わたしはこっちの事情も情報も一つも口にしてない。でも、あいつはいきなりそう言ってきた。だから、なんかもう色々無駄だと思って、ここへ連れてきたんだよ」
「ああ、なるほど。無駄だ」
「そう、無駄」
「勝手に話をしろ」
「分かった」

 なんだか酷く投げやりな二人のやりとりだった。
 うーむ、会話の内容からして、交渉の余地がないってわけではなさそうだ。
 むしろ、こちらの話を受け入れるような流れになってきている。
 何故、こんなに簡単に話が進むんだろう?
 まさか、本当にさとりの言われた通りに話を運んだからか?

「それで、交渉って言うからには、そっちにも何か取引する材料みたいなもんがあるんでしょ?」

 諏訪子様の問い掛けに、青娥が答える。

「こちらの先代巫女様ともう一人の古明地さとり様という妖怪は、幻想郷でも高い地位に就いています」
「なんだ、元々幻想郷の住人だったのかい。何を間違って、現代社会に迷い込んだのやら」
「それは、今は関係ありませんわ」
「ああ、いいよいいよ。興味ないし。それで、あんたらを助けたら幻想郷でコネが出来るってわけ?」
「貴女方の目的が『移住』である以上、移り住む地の有力者に貸しを作っておくことは決して損にはならないと思いますが――」
「ふんっ、小賢しい駆け引きなんてやめるんだね。相手の提示する条件だけに目が行ってるようじゃあ、交渉とは言わないんだよ。利点は、こっちで勝手に探らせてもらうさ」
「あら、左様でございますか」

 鼻で笑う祟り神様に対して、いつもニコニコ這い寄る邪仙。
 二人の間に、何か黒いものが渦巻いているような気がしてならなかった。
 ヤバイ、おなかいたい。
 なんか分かりやすい敵意を向けてくる神奈子様が、むしろ癒しに見えてきた……。

「――いいよ」

 諏訪子様が思案していた時間は、一分にも満たなかった。

「わたしは、いいよ。わたし達の船に便乗したいっていうんなら、あんたらの勝手にすればいい」
「そちらの神様は、よろしいのですか?」

 神奈子様は答えなかった。
 ただ、黙って眼を伏せただけだった。

「いいってさ」
「分かりました。ご協力ありがとうございます」

 私は複雑な気持ちで話が終わるのを眺めていた。
 あっけない。
 これで、本当に終わりなのか?
 あの二人は、これでいいのか?
 分からない。
 幻想郷への移住というのは、自分達や早苗の将来を賭けた、もっと重要な計画じゃないのか。
 こんなに簡単にイレギュラーを抱えて、実行してもいいような内容なのか。
 重大な決断が、あまりにもあっさりとしすぎているように私は感じた。
 神奈子様と諏訪子様は、一体何を考えているんだろう。
 私のような、ちっぽけな人間では到底至らない考えを、頭の中で巡らせているのだろうか。
 その偉大な意志が、この結論を出させたのだろうか。
 分からない――。

「おい」

 不意に神奈子様に呼ばれ、私は視線を向けた。

「私を見るな」

 まるで吐き捨てるように言って、神奈子様は文字通り姿を消した。
 呼んでおいて『見るな』とか、ちょっと理不尽すぎでしょ。
 でも、神奈子様に完全に嫌われたことだけは理解出来た。
 理由は全然理解できないけど。
 割と本気で死にたい……。

「何があったか知らないけど、神奈子はあんたがよほど気になるみたいだね」

 諏訪子様、それ皮肉ですか。

「ひょっとしたら、そこの仙人よりもあんたの方が厄介な種かもね。あんたのこと嫌いだな」

 そして、諏訪子様にまで嫌われた件について。
 どうしよう。今すぐにでも、さとりに泣きつきたいんですけど。

「じゃあ、具体的な話をしようか。
 ――と言っても、幻想郷へ行く手段なんか事細かに説明しても、興味ないよね?」
「時間があれば、是非詳しく聞いておきたいところです」
「その時間がないんだなぁ。幻想郷への移住は、明日の夜にする予定だったからね」
「……早いな」

 私は思わず声に出して呟いていた。
 いや、リアクションこそ小さかったが、内心ではかなり意表を突かれて、驚いている。
 そりゃあ、期限も含めて、諏訪子様達がどういった幻想郷移住計画を立てているのかまでは分からなかった。
 最悪、交渉が上手くいっても、長い時間待つことになるかもしれないと思っていた。それによっては、また別の手段を探そうとも。しかし、まさか明日なんて急な話になるとは思わなかった。
 つまり、行動を起こすのが一日遅れていたら、私達は幻想郷へ帰る貴重な手段を一つ失っていたのである。
 やべー……まさにタッチの差ってやつか。危なかった。
 しかし、驚きはしたが、これは好都合だ。
 幻想郷から外の世界へやって来て、今日で二日目が過ぎたことになる。
 向こうでも、もう大分騒ぎになってしまっているかもしれない。
 現場を見ていた霊夢や紫が上手くフォローしてくれているとは思うが、限界だってある。
 それに、当初さとりは博麗神社に一泊二日で過ごす予定だった。つまり、本来ならば今頃は地霊殿に帰っているはずなのだ。
 それが帰ってこないとなれば、明日にでも異常事態であることが地霊殿の関係者には知れ渡ることだろう。
 幻想郷へ帰還するのに、早いに越したことはない。

「明日の夜、この辺一帯でかなりでかい嵐が起こる」

 諏訪子様は断言した。

「天気予報では、ここ数日は快晴が続くそうですが」
「その予報が見事に外れて、風と雨が荒れ狂うのさ。そして、朝には嘘のように治まる。
 たまにね、そういうことが起こるんだよ。科学とか、そういった人間の技術と認識では予想も出来ないことを自然が起こす。そいつに、わたし達は便乗する予定なのさ」
「嵐に便乗する、ということですか?」
「正確には『人間が理解出来ない現象』に便乗するんだよ。理屈で説明出来ない事態を前にした時、人間は妖怪や神の仕業だと思うんだ。今じゃあ、そういった考えも随分少なくなったけど、疑うくらいはするんだよ。常識じゃ測れない事態を『まさか』って考えるんだ。その瞬間に、乗っかるのさ」
「『幻想を否定する力』が薄れる瞬間を狙う、ということですね」
「その通り。まあ、人間よりも仙人の方が分かりやすいか」

 イマイチ上手く話を呑み込めない私を見て、諏訪子様は笑った。

「とにかく、明日だ。明日の夜、嵐の中でわたし達は計画を決行する。そいつに便乗したけりゃ、好きにしな。別に人数が増えても、負担は変わらないしね。場所は同じ、この場所だ」

 最後に確かめるように言って、諏訪子様は私達に背を向けた。
 踵を返す間に、その姿が消えて、見えなくなってしまう。
 気配も感じない。
 二人とも、この場から去ったのだ。
 私は、大きくため息を吐いた。
 交渉はビックリするぐらい上手くいったが、色々と疑問や不安の残る終わり方だった。
 神奈子様が、私に何を感じていたのか分からないままだった。
 何故、急に私を敵と見なしたのか。
 そして、何処か真剣味の抜けていているように感じた交渉の最中、裏では何を考え、算段していたのか――。
 私は、ふと頭上を見上げた。
 今にも雨が降りそうだった空は、いつの間にか雲一つない夕焼け空へと変わっていた。
 降水確率ゼロ%の天気予報通りだった。





「神奈子様!」

 その日の夜、早苗は家からこっそりと抜け出した。

「諏訪子様!」

 難しいことではなかった。
 ここしばらくはご無沙汰だったが、子供の頃はこうして何度も自室の窓から外へ文字通り飛び出していたのだ。
 家の二階から地面までの高さは、全く問題にはならなかった。
 窓から家の塀の外までの短い距離を飛ぶ程度ならば、小学生の頃から出来たのだ。
 早苗は自転車に乗って、人気のない夜の帳へと漕ぎ出していった。
 年頃の娘が夜間外出など、両親が知れば卒倒しそうなものだが、早苗に不安はなかった。
 いや、正確にはこの時は忘れていた。
 自らの激情に急き立てられるように、早苗は諏訪大社へと走った。

「私の声にお応え下さい! お願いします!!」

 子供の頃。
 まだ、二柱の神が自分と笑いながら言葉を交わしてくれていた頃、諏訪子達に訊ねた。

 ――かみさまは、いつもどこにいるんですか? おはなししたいときは、どこをおたずねすればよいですか?

 神奈子と諏訪子は笑いながら答えてくれた。

 ――神社さ。何も心配することはないよ。私達は、お前の呼び掛けにいつでも応えるからね。
 ――わたし達神様の居場所は、もう神社と近場の駄菓子屋くらいしかないよ。隠居した婆さんと同じさ。

 そんな二柱の神が、呼び掛けに応えず、偶然見かけてもこちらに気付くとすぐに姿を消してしまうようになったのは、いつ頃からだったか。
 迷惑なのかもしれないと考え、心の何処かでは嫌われたのではないかと不安を抱え、自ら訪ねることもなくなったのはいつ頃からだったか。
 早苗は、諏訪大社の上社に来ていた。
 家から近かったこともあるが、根拠もなく、今夜はここに二柱が留まっていると感じていた。
 深夜である。
 既に完全に人気のなくなった境内に、早苗の声だけがしばらくの間空しく響いていた。
 早苗は根気強く呼び掛け続けた。
 声は聞こえているはずだ。
 ただ、応えてくれないだけなのだ。
 早苗は、かつて自分に答えてくれた神の言葉を今でも信じていた。

「諏訪子様ぁ!!」
「――いい加減にしないと、警察を呼ばれちゃうよ」

 早苗の瞳に涙が溜まり始めた時、神の声が応えていた。
 いつの間にか、本宮まで来ていたらしい。
 潜った鳥居の上から聞こえた声を辿ると、そこには諏訪子がしゃがんだ状態で早苗を見下ろしていた。

「諏訪子様!」
「警察のお世話になって、両親呼ばれて……次の日、学校で『深夜に神社で徘徊するオカルト女学生』って噂が立つんだよ。中学時代の奇行とか掘り返されてさ」
「お話があります」
「さっさと家に帰って寝な。明日も学校でしょ」
「神奈子様と共に、幻想郷という所に移住するというのは本当ですか!?」

 皮肉るように吊り上っていた諏訪子の口元が落ちた。
 早苗の眼つきが真剣そのものであることを確認して、大きくため息を吐いた。

「そうだよ。大分前から、神奈子と話し合ってたんだ。明日の夜、わたし達は幻想郷へ行く」
「どうして、教えてくれなかったんですか!?」
「どうしてって、ねぇ」
「もし、相談してくれたら――」

 早苗は自らの決意を最後まで言い切ることが出来なかった。
 鳥居の上にいた諏訪子が、音もなく目の前に舞い降りた。
 見た目は小さな女の子の姿をした諏訪子が、顔を近づけて早苗の瞳を覗き込む。
 諏訪子の瞳は、人のそれとはかけ離れた濁った眼球だった。

「相談してくれたら――なに?」

 早苗は息を呑み、しかし意を決してハッキリと答えた。

「ご一緒に、幻想郷へ往きます」

 早苗の決意を、諏訪子は冷笑した。

「早苗よ。お前が子供の時分は、わたしも神奈子も領分を弁えずに色々と無駄なことを教え与えてきた。風祝の技や、知識や、力について。将来、何の役にも立たないことを長々とさ」
「……はい。様々なありがたい教えをいただきました」
「戯れだよ。今じゃ後悔してる。とにかく、そんなお前なら多少は分かるだろう。
 幻想郷に移住する――これは、言葉通りの意味だけじゃないよ。向こうに行けば、戻って来れないのは当たり前だ。そもそもわたし達は戻る気もないしね」
「覚悟の上です」
「外の世界での居場所もなくなる。失踪扱いとか行方不明になるって話じゃないんだ。
 いいかい? わたし達は『幻想』になるんだ。具体的にはね、こっちの世界で生きてきた痕跡とかそういったものが全部なくなる。記録も記憶も消えるんだよ」
「分かっています、覚悟はしているんです!」
「分かってねぇよ、馬鹿! もっと想像しろっ!」

 幼い見た目からは想像も出来ない、烈火のような怒りで諏訪子は怒鳴りつけた。
 早苗にとって、これほど感情をあらわにした諏訪子を見たのは初めてだった。

「自分の決意一つ、みたいな顔すんな。親はどうするんだい?」
「え……」
「親だよ。お前を生んで、今日まで育ててくれた両親だ。
 早苗が幻想郷へ行けば、親はお前の記憶を失う。早苗の両親って今何歳だ? 四十くらいか。そんな歳で、自分も知らぬ間に子供を失った孤独な夫婦が現代に残されるわけだ」
「――」
「お前が、今の生活の中で孤立していることは知っているよ。でもね、自分がいなくなっても悲しむ人なんかいないとか、ガキの甘ったれなんだよ! それでも早苗は、神様なんてあやふやなもんに付き合って、この世から姿を消そうっていうのかい!?」

 早苗は、顔を青褪めさせた状態で黙り込んでしまった。
 軽い気持ちで決意したのではない。
 しかし、諏訪子の叱責を受けて、ここに来るまで自分を突き動かしていた激情が消えてしまったことは間違いなかった。
 両親のことなど、言われるまで考えもしていなかった。
 父も、母も、愛している。
 自分を育ててくれて、感謝もしている。
 同時に、朝目が覚めて母が朝食を作ってくれることや、父が仕事に出掛ける姿を、当たり前のように捉えていた。
 今夜、家から抜け出す時も、同じ屋根の下で両親が眠っているから、起こさないようにと気をつけた。
 諏訪子達と共に幻想郷へ行けば、その当たり前の生活が次の日から失われるのだと、今更のように気付かされたのだ。

「早苗。もしも、お前が巫女として自分の祭る神を助けようという意志で幻想郷へ行こうとしているなら――やめた方がいい。いや、やめろ」
「……何故ですか? 私は、諏訪子様と神奈子様を信仰する風祝です。それを誇りに思っています」
「神に自分の人生を捧げるな。もう、そんな時代じゃないんだよ」
「――」
「仮にわたしや神奈子が消えた時、それでも幻想郷で生きる意味を失わないだけの意志がなければ、お前はわたし達と共に来るべきじゃない」
「私は……私は、諏訪子様達にとって不要な存在ですか?」
「誰もお前を選んじゃいないよ」

 その言葉が、トドメとなった。
 早苗は嗚咽を噛み殺し、涙を流しながら走り去っていった。
 何度も足がもつれそうになった。
 何度も振り返りたくなった。
 しかし、結局一度も振り返ることは出来なかった。
 早苗の後ろ姿が見えなくなるまで、諏訪子はじっとその場に佇んでいた。





「よろしかったのですか? 先代様に話さなくて――」

 深夜。
 窓際の椅子に座って夜景を眺めていたさとりは、突然青娥に話を振られても驚かなかった。
 先日の夜と同じである。
 さとりは心を読むことで青娥に気付き、青娥も気付かれていることに気付いているのだ。
 青娥が何を言いたいかも分かっていた。

「上手く事が運んだとしても、幻想郷の帰還は明日の夜。貴女のタイムリミットは明日。どう転ぶか、分かりませんよ?」

 さとりが消滅するまで後三日――青娥が立てた予測に、明日追いつくのだ。
 予測ゆえに、確定ではない。
 しかし、幻想郷へ帰ることが出来たとしても時間は深夜であり、厳密には設けられた期限を越えることになる。
 果たして間に合うのか、間に合わないのか――。

「文字通り、神のみぞ知るといったところですかね」

 さとりは自身の危機について不安や恐怖を何も感じていないかのような、冗談めかした口調で呟いた。

「これまで黙っていたことも不思議でしたが、やはり先代様に教えておくべきでは?」
「もしも完全に間に合わないと分かった時には、諦めてそうしていましたよ」
「どうなるか分からないからこそ、伝えておくべきではないでしょうか。事情を知っておけば、先代様もまた取るべき行動が変わるかもしれません」
「切羽詰った事態を知って、本気を出すとでも言うんですか? 何の為の本気を?」

 さとりは苦笑した。

「出来るだけのことはしました。あとは、神様の力を信じて待つ以外にありません。それにね、彼女はこれまで十分に本気でしたよ」

 青娥から、自分に残された猶予について詳しい説明を受けた時のことを思い出していた。
 存在の維持が二日しかもたない危険な状態でありながら、能力は完全に失われていなかった。
 また、幻想郷と外の世界との環境の違いから、体が訴えるはずの不調も、最初の内は全く感じていなかったのだ。
 何かがさとりの受ける負担を緩和しているのだ――と、青娥は分析した。
 外の世界に来て、何らかの処置を施さなかったか。
 その疑問の答えに、さとりは思い当たっていた。

 ――あの時口にしたおにぎりだ。

 それ以外、考えられない。
 幻想の力を宿した食物を口にしたことで、ほんの少しだけだが自分に猶予が出来た。
 その結論に至った時、さとりは思わず笑い出しそうになった。
 もちろん、偶然だ。
 あのおにぎりがそんな効果を発揮するなんてこと事前には知り得なかったし、先代も分かっていて自分に食べさせたわけではない。
 全て結果論。
 しかし、あの時先代は間違いなく自分を案じておにぎりを勧めてくれた。
 まさかの結果を予想は出来なくとも、その行為に至る動機はきっと同じだっただろう。
 自分を案じてくれた。
 そして、その後も案じ続けてくれた。
 出来るだけ早く、幻想郷へ帰そうと尽力してくれた。
 確かに、命が懸かっていると知れば、彼女はもっと必死になってくれたかもしれない。
 だが、これまでの行動で必死になっていなかったかというと、全くそんなことはないのだ。

「これ以上は、ただ焦りを生むだけです」

 そして、彼女を意味もなく追い詰めるだけだ。

「私が助かるかどうかは、明日嫌でも分かりますよ」

 ――仮に間に合わなかったとしても。

 さとりは思考を途中で振り払うように、軽く首を振った。
 楽観をしているわけではない。
 しかし、最悪の事態を想定して準備をしておくというのも、何だか諦めを許容しているようで嫌だった。
 二つの考えの間で悩み、やがてさとりは『まあいいか』という投げやりな気持ちになった。
 考えても仕方がない。それは、さっきも自分で言ったことだ。
 打開策まではこぎ着けた。あとは、神様と運次第。
 全ては、明日分かるのだ。
 万事上手く事が運ぶのか。
 失敗して、最悪の結果になるのか。
 あるいは、何か別の事態が起こるのか。
 何処からともなく第三の選択肢が出てきてしまう点が、先代巫女と関わって以来常に自分を悩ませてくれる。
 さとりは諦めたように苦笑を浮かべた。


 ――全ては、明日。

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