沖縄慰霊の日:69年経て死の証明 戦没者礎に刻銘
毎日新聞 2014年06月22日 23時16分(最終更新 06月23日 09時01分)
沖縄戦の戦没者名を刻む沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の「平和の礎(いしじ)」には今年、54人が新たに刻銘された。その中の一人、仲村貞雄さんは戸籍上、行方不明扱いになっていたが、東京に住むおいの会社社長、仲村重信さん(39)が死亡証明に奔走。戦後69年たってようやく刻銘を果たした。重信さんは「慰霊の日」の23日、伯父の名を見届けに親戚と礎を訪れる。
貞雄さんは沖縄本島北西部の本部(もとぶ)町出身。親戚らによると、1945年4月、町内の自宅敷地内の壕(ごう)を出た後、米兵に見つかって銃殺されたという。16歳だった。
戸籍は戦火で消失。仲村家には貞雄さんの位牌(いはい)があるが、戦後戸籍を復元する際に貞雄さんが亡くなったという情報が伝えられず、行方不明扱いになっていたという。
2年前のお盆に帰省した際、そのことを知った重信さんは「亡くなったのに戸籍が残っているなんて本人も嫌なはず」と伯父の死亡の立証に乗り出した。2カ月に1回のペースで沖縄を訪れ、伯父の生家周辺の住民から貞雄さんが亡くなったという証言を得たり、親族の戸籍を取ったりして、昨年9月に死亡届が受理された。
重信さんは「ようやく伯父の供養ができた。天国で喜んでくれているでしょう」と話した。一方、資料集めの過程で他の親戚についても二重戸籍などの不備が見つかったといい「戦後の混乱で情報が錯綜(さくそう)し、伯父や親戚と同様のケースは少なくないと思う。その整理は我々の世代がするべき戦後処理だ」と話した。
沖縄戦戦没者を巡っては戦中戦後の混乱による戸籍焼失や死亡証明がないなどで平和の礎に刻銘されていない例があり、遺族の申請などがあれば追加で刻銘している。また、遺族の希望で削除される刻銘もある。【福永方人】
【ことば】沖縄慰霊の日
米軍の沖縄本島上陸(1945年4月1日)以降本格化した沖縄戦で、第32軍(沖縄守備軍)司令官、牛島満が同年6月23日に自決し、旧日本軍の組織的な戦闘が終わった。沖縄県はこの日を条例で「慰霊の日」とし、全戦没者追悼式を実施しているが、牛島の自決後も戦闘は続き、日本が降伏した8月15日以後も多くの犠牲者が出た。沖縄戦が公式に終結したのは翌9月7日で、戦没者総数は約20万人。うち一般住民は約9万4000人とされる。