沖縄慰霊の日:「泣く子だめ」…戦場で別れた弟、妹よ
毎日新聞 2014年06月23日 13時25分(最終更新 06月23日 14時22分)
◇浦添市の喜屋武さん、かすかな望み消えない69年間
沖縄戦で命を奪われた家族や友人らに鎮魂の祈りをささげる「慰霊の日」。戦没者の名前が刻まれた沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の「平和の礎(いしじ)」には、23日早朝から遺族たちが訪れ、犠牲者の冥福を祈った。凄惨(せいさん)を極めた地上戦による傷は、戦後69年たった今も癒えない。【佐藤敬一】
沖縄県浦添市の喜屋武(きゃん)幸清(こうせい)さん(75)は、「鉄の暴風」下で生き別れたきょうだいを捜そうとしている。家族の間でさえタブーにしてきたあの時のこと。「ひょっとしたら弟と妹は誰かに拾われて助かったかもしれない」。69年間、かすかな望みが消えることはなかった。
沖縄戦の当時、6歳。父は移民先のマリアナ諸島テニアンに残り、祖父母とおなかに妹を宿していた母、弟2人と引き揚げ、那覇で暮らしていた。
戦火に追われ南へと逃げた。途中、祖父母は死亡。母良子さんが水や食料を探す間、壕(ごう)で0歳の妹洋子(ようこ)さんを負い、4歳の幸紀(こうき)さん、2〜3歳だった幸雄(ゆきお)さんの弟2人をあやして母の帰りを待った。
6月、たどりついた摩文仁の海岸で4人を連れた良子さんがガマ(壕)に入ろうとした時、避難民と一緒に潜んでいた日本兵が銃を突きつけて言った。「泣く子は入れない」
良子さんは「究極の決断」を迫られた。「上の2人は泣きませんので助けてください」。喜屋武さんと幸紀さんを壕に入れ、幸雄さんと洋子さんを連れて出て行った。
良子さんはしばらくして一人で戻り、再び出て行ってはまた一人で戻ってきた。置き去りにされて泣きながら追いかけてきた幸雄さんを、良子さんが言い聞かせるために出たのだった。
終戦後、父幸一さんとともに親子の暮らしが戻ったが、弟と妹のことを誰も口にはしなかった。良子さんは敗戦から9年後、心臓病で亡くなった。38歳だった。「母は長男の自分だけでも何としても生かそうと考えたのだと思うが、ずっと自分を責めていたのでしょう。病気も戦争の苦しみが原因と思う」
弟、妹の顔を今では思い出せないが、思いは巡る。「母は泣きながら追いかけてきた弟に、何と言い聞かせたのでしょう。考えただけで胸が張り裂けそうになる」