沖縄慰霊の日:「戦世」もう来ないで 両親が犠牲…文集に
毎日新聞 2014年06月23日 14時17分(最終更新 06月23日 14時30分)
「お父さんとお母さんは若い年齢で亡くなっていますが、私たちは頑張っています。子や孫もいつも元気であるように見守ってください」。沖縄県西原町の呉屋朝昌(ごや・ちょうしょう)さん(75)。沖縄の全戦没者の霊を慰める「慰霊の日」を迎えた23日、妻啓子さん(70)とともに、両親らの名前が刻まれた「平和の礎(いしじ)」を訪れ、心の中で語りかけた。
呉屋さんは今年、中学時代の同級生と出版した喜寿の記念文集に、「鉄の暴風」と呼ばれた沖縄戦で両親を失った経験を初めて詳細につづった。文集のタイトルは「戦世(いくさゆ)を生き延びて」。「あんな時代はもう来ないでほしい」。そんな願いを込めた。
沖縄戦が始まった1945年春、呉屋さんは5歳。住んでいた西原町から家族8人の逃避行が始まった。壕(ごう)や墓に避難しても日本兵から「ここは危ないから出て行け」と追い出され、激戦地の沖縄本島南部へと追いやられた。
米軍の艦砲射撃が降り注ぐ中、父三郎さん(当時32歳)が担ぐ荷物をつかんで必死に逃げた。至る所に遺体が転がっていたが「死んだ人より、負傷した人たちに(自分の手足を)つかまれて両親に置いていかれる方が怖かった」。
ある朝、三郎さんが尻を撃たれ、苦しみながら息を引き取った。母カメさん(当時26歳)が「父さんはもう帰ってこない」と泣いて呉屋さんを抱き寄せた。
翌日、母までも奪われた。近くの川に水をくみにいった帰り、カメさんは艦砲射撃で胸を負傷。「子供たちを頼む」と祖母に言い残して事切れた。
捕虜となった呉屋さんは戦後、祖父母に育てられた。暮らしは貧しかった。戦場で別れ孤児院に送られていた弟2人と再会したが、1人は間もなく栄養失調で亡くなった。小中学校は牛の世話や畑作業で休みがちで、中学卒業後は働いた。
結婚し、授かった4人の子も独立した9年前、啓子さんと県立泊高校通信制に通い始めた。子供のころに満足に通えなかった学校は楽しく「第2の青春」を過ごしているようだった。
だが、沖縄戦には向き合えなかった。教師から体験を作文にするよう勧められても、思い出すと涙が出て書けなかった。